私は竹中えみ、五十七歳。その夜は夫の大輔の定年祝いを兼ねて、駅前の料亭で三人で食事をしていた。長女も駆けつけ、テーブルにはいつもより彩りの良い料理が並んでいた。三十四年間の会社員生活を終えた大輔は、上機嫌で酒を注がせ、これから始まる第二の人生について延々と語っていた。定年とは言っても、翌月からは嘱託社員として同じ会社に残ることが決まっている。勤務時間は短くなり、責任も軽くなる。それでも大輔は、自分だけが長年の重荷から解放されるのだと思っていた。
乾杯を済ませ、グラスを置いた大輔は、当然のように私を見た。
「明日から俺は家にいる時間が増える。朝昼夜の飯はきちんと用意しろよ」
娘の箸が止まった。私は大輔の顔を見た。私だって三十四年間、ずっと家のことを回してきた。その言葉が気に触ったのか、大輔は鼻で笑った。
「まさかお前まで言うんじゃないだろうな。主婦は二十四時間休みがないだの、年収に換算すれば一千万円以上だの、本気で思ってるんじゃないだろうな」
酒で赤くなった顔を私に向け、大輔は続けた。
「勘違いすんなよ。飯を作って、掃除して、洗濯するだけだろう。外で頭を下げて、汗を垂らして、責任を背負って金を稼いできた俺と、同じだけ働いたつもりか」
娘が何か言おうと口を開きかけたが、大輔は止まらなかった。
「三十四年間、誰の金で暮らしてこられたと思ってる。俺が定年になったからって、お前まで仕事を終えた顔をするな。今まで楽をしてきた分、これからは俺に尽くすのが当たり前だ」
私は膝の上に置いていたバッグを開けた。この言葉を聞けば、もう迷う理由はなかった。
「分かった」
勝ち誇った大輔の前に、白い封筒を置いた。
「だったら、明日から自分でやれば」
封筒から離婚届を取り出すと、大輔の笑みが消えた。
「今日で、あなたの妻をやめるから」
娘が息を飲んだ。数秒の沈黙の後、大輔は乱暴に笑った。
「脅しのつもりか。五十七にもなって、一人で生きていけると思ってるのか」
「そのために準備してきたの」
離婚届には、私の署名と押印が揃っていた。あとは大輔が名前を書くだけだった。
「いいだろう。後悔して泣きついても、俺は知らんぞ」
大輔はペンを取り、ためらうことなく署名した。最後まで、私が本当に離婚するとは思っていなかったのだろう。それに大輔には、私が知らないと思っている霧があった。
この後のことは、後に公開されたLINEや、娘が大輔から聞き出した話で知った。
私と娘が店を出た直後、大輔はスマートフォンを取り出していた。送信先には、ハートの絵文字と共に「エリたん」と登録されていた。
「えりたん、とうとう自由になったよ。これで堂々と会えるね」
エリカは二十六歳。娘と同い年だった。大輔は半年ほど前からエリカと食事をするたびに現金を渡し、バッグやアクセサリーを買い与えていた。エリカが「大輔さん、頼りになる」「一緒にいると落ち着く」と言うたび、大輔は本気で愛されていると思い込んでいた。
その夜、私は娘とすでに契約していた小さな部屋へ向かった。家具は最低限しかなかった。それでも玄関の鍵を閉めた瞬間、肩に入っていた力が抜けた。娘は部屋の中を見回し、不安そうに私を見た。
「お母さん、本当に一人で生活できるの?」
私は棚の上に置いた書類を指さした。
「家賃も生活費も計算した。仕事の研修も決まってる。何も考えずに出てきたわけじゃないから」
「いつから準備してたの?」
「半年前から」
娘は驚いた顔をした後、ようやく小さく頷いた。
同じ頃、大輔の元にはエリカから短い返信が届いていた。
「自由ってどういうこと?」
その一言を、大輔は都合よく受け取った。
翌日、大輔はエリカを高級レストランへ呼び出した。テーブルには駅前の新築マンションの資料が広げられていた。上着を脱ぎながら、大輔は角部屋を指さした。
「じゃあ、エリたんはこっちがいいかな。退職金も入るし、家具も全部新しくしようね」
エリカは資料と大輔の顔を見比べた。
「何の話?」
「俺たちの新居だよ。エリたんのために妻と別れたんだ。これでもう隠れる必要はないよ。落ち着いたら籍も入れようね」
冗談だと思ったように、エリカは小さく笑った。
「待って、私たち付き合ってないよね」
大輔の笑顔が固まった。
「えりたん、何を言ってるの? 好きだって言ってくれたじゃん」
「いやいや、そう言った方が大輔さんも楽しかったでしょ?」
「俺はエリたんのために離婚したんだぞ」
エリカの表情から笑みが消えた。
「私のせいにしないで。奥さんと別れてなんて、一度も言ってないんだけど」
「じゃあ、今までの金は何だったんだよ」
「ご飯を食べて、その対価としてお金をもらってた。それだけだけど」
エリカはバッグを取った。
「普通にパパ活じゃん。結婚なんて無理」
追いすがる大輔を残し、エリカは店を出た。その直後、大輔のLINEはブロックされた。
妻を失っても若い恋人がいる。そう信じて署名した離婚届は、翌朝、私の手で提出された。
数日後、大輔の元へ私が相談していた弁護士から書面が届いた。財産分与だけではない。不貞行為に対する慰謝料の請求も記されていた。
私は半年前から、夫婦の貯金、保険、住宅に関する資料を揃えていた。その中には大輔が家族の口座からエリカへ送った金や、高額な食事、プレゼントの記録も含まれていた。さらに、大輔が予約したホテルの利用履歴と、同じ夜に交わされたLINEも保存していた。二人が食事だけの関係ではないことは、その内容を見れば明らかだった。
書面を読んだ大輔は、すぐに弁護士へ電話をかけたという。
「エリカとはそんな関係じゃない」
だが、ホテルを利用した日付と、その直後のメッセージまで提示されると、大輔は何も言えなくなった。大輔は退職金を全て自分の金だと思っていたけれど、三十四年間の結婚生活で築いた財産を、何もなかったように独り占めすることはできない。その上、私に支払う慰謝料もある。退職金でエリカとのマンションを買うどころか、思い描いていた優雅な老後まで崩れ始めた。
「あいつにこんなことができるはずがない」
大輔は書類を握りつぶしたという。何も分からない主婦。大輔がそう決めつけていた間も、私は毎月の収支を記録し、必要な証拠を残していた。
追い詰められた大輔は、別の電話番号を使ってエリカへ連絡した。
「えりたん、話し合おう。俺の金を返してくれ。お前のために妻と別れたんだ。どうして返事をくれない?」
一通も返事がないと、今度はエリカがよく立ち寄る店の近くまで出向いた。
その頃、私は家事代行会社の研修を受けていた。三十四年間「価値がない」と言われ続けた家事に、初めて時給がついた。研修担当の女性は、私が整えたキッチンを見回した。
「手際がいいですね。以前もこの仕事を?」
「仕事としては初めてです」
女性は感心したように頷いた。帰り道、私は小さなマグカップを買った。大輔の好みでも、家族用でもない。私が自分で選んだ食器だった。
同じ夜、エリカはSNSへ注意喚起を投稿した。
「食事をしていた五十九歳の男性が勝手に奥さんと離婚し、一緒に住もうと言い出しました。交際も結婚の約束もしていません。断っても別の番号から連絡が来ます」
投稿にはLINEのスクリーンショットが添えられていた。「エリたんのために自由になったよ」「退職金で二人のマンションを買おう」「俺たちは愛し合ってるだろう」
エリカは名前を隠したつもりだった。だが、表示の一部と、退職祝いでもらった花束を抱える大輔のLINEアイコンが残っていた。投稿は「勘違いが怖すぎる」と拡散された。
そして翌日、娘のおすすめ欄にも流れてきた。娘はアイコンを見た瞬間、私へ画像を送ってきた。
「お母さん、これお父さんだよね」
しばらくして、娘が私の部屋へ来た。画面をスクロールしていた指が「エリたん」の文字で止まる。
「エリたん?」
数秒黙った後、娘は顔をしかめた。
「え、キモ」
エリカが自分と同じ二十六歳だと知ると、娘はその場で大輔に電話した。
「私が五十九歳の既婚者からお金をもらってたら、お父さんはなんて言った?」
電話の向こうで大輔は声を荒げた。
「俺は騙されたんだ。あの女が俺をその気にさせた」
娘は呆れたように息を吐いた。
「でも、エリカさんは離婚してなんて言ってないんでしょ」
大輔は黙った。
「離婚届けに名前を書いたのはお父さんじゃん。それを今更全部エリカさんのせいにするの?」
「ガキが家族のことに口を出すな」
怒鳴り声にも、娘はひるまなかった。
「もう家族じゃないよ。自分で離婚届けに名前を書いたんだから」
娘はそのまま電話を切った。
娘にまで拒絶された大輔は、エリカへ投稿の削除を迫った。メッセージを無視されると、今度はエリカの勤務先付近で待ち伏せした。
「投稿を消せ。俺の人生を壊す気か」
大輔に腕を掴まれそうになり、エリカは近くの店へ逃げ込んだ。その夜、二度目の注意喚起が投稿された。今度は、大輔が自分から送っていた顔写真も載っていた。
「何度断っても連絡が続き、今日は勤務先付近まで来ました。この男性と交際した事実はありません。近づかれた場合は注意してください」
顔が公開されると、元同僚が気づくまで時間はかからなかった。大輔は会社にいた頃、何度も「二十代の恋人」がいると自慢していた。その相手が娘と同い年で、実際にはパパ活だった。しかも、妻と離婚した途端に拒絶され、勤務先付近まで追いかけた。噂は元部下だけでなく、かつての取引先まで広がった。会社にも問い合わせが入るようになり、大輔は取引先と接する仕事から外された。
それでも大輔は自分の行動を反省しなかった。
数日後、大輔が私の部屋を尋ねてきた。痩せたというより、しぼんで見えた。だが、口から出たのは謝罪ではなかった。
「お前から娘に説明してくれ。エリたんとは、SNSに書かれているような関係じゃない」
「どんな関係だったの?」
大輔は答えず、早口で続けた。
「俺たちがやり直すことになったといえば、みんな誤解だったと分かる。会社や元同僚にも、お前から説明してくれ」
私はようやく、大輔がここへ来た理由を理解した。
「私が戻れば、あなたはまともな夫だったことにできるのね」
大輔は目をそらした。
「今は誰が悪いかなんて、どうでもいいだろう。こういう時こそ家族が助け合うもんだろ」
私は玄関のドアに手をかけた。
「娘には、私が知っていることをそのまま話す。あなたをかばう気はない。話はそれだけ」
大輔は何も言えなかった。私は静かにドアを閉めた。
その後も大輔は嘱託社員として会社へ通い続けた。だが、顔写真付きの注意喚起は社内中に広まっていた。ある日の昼休み、休憩室へ向かっていた大輔は、扉の向こうから聞こえた声に足を止めた。
「キモいな。娘と同い年の子をエリたんって呼んでた人でしょ?」
押し殺した笑い声が続いた。大輔が勢いよく扉を開けると、社員たちは何事もなかったように目をそらした。かつては部下から頭を下げられ、「大輔さん」と呼ばれていた。今では、本人のいないところで呼ばれる名前は一つだけだった。
「キモじじい」
怒りに震えた大輔は上司の席へ乗り込み、「噂を流した社員を処分しろ」と訴えた。だが、上司は冷静に答えた。
「あなた自身の顔とメッセージが公開されている。会社にできることはない」
「どうして俺が取引先から外されるんだ? 悪いのは、俺を晒した女だろ」
大輔の怒鳴り声は部署中に響いた。それ以降、仕事の連絡以外で大輔に近づく社員はいなくなった。昼食も一人。休憩室へ入れれば会話が止まり、廊下を歩けば背後から笑い声が聞こえた。
そして一ヶ月後、大輔は耐え切れず退職届を提出した。
若い妻と旅行を楽しみながら、嘱託社員として気楽に働く。大輔が思い描いていた老後は、あとかたもなく消えていた。
それから三ヶ月後、財産分与と慰謝料についての話し合いがまとまった。大輔は退職金を自分一人で使うどころか、私へまとまった金を支払うことになった。エリカには拒絶され、娘からの連絡も途絶え、会社までやめた。職場で最後につけられたあだ名は「キモじじい」。
一方、私は家事代行会社に正式採用されていた。ある日、仕事を終えると、依頼主の女性が玄関まで見送りに来た。
「次回もえみさんにお願いできますか?」
「もちろんです」
自然に笑みがこぼれた。大輔からは「飯を作って、掃除して、洗濯するだけだ」と言われ続けてきた。その仕事で必要とされ、給料を受け取り、私は自分の家賃を払っていた。
初めての給料日。娘から電話がかかってきた。
「お母さん、初任給入ったんでしょ? 今日は私がお祝いする」
「初任給をもらったのは私なんだから、私が出すわよ」
「じゃあ、半分ずつね」
娘と笑いながら、私は部屋を出た。
飯を作って、掃除して、洗濯するだけ。大輔がそう笑った仕事で、私は今、自分の生活を支えている。
