その電話が鳴ったのは、深夜の2時を回った頃だった。「あんた、何やってるの?今すぐ荷物まとめて出て行って」。寝ぼけまなこでスマホを見ると、画面には妻の名前。リビングの時計は午前2時13分。仕事帰りに飲んでいただけなのに、家に帰ったら玄関の鍵が開かなくなっていた。ドア越しに聞こえたのは、「浮気したでしょ。写真、全部見たから」。頭が真っ白になった。違う、あれは元同僚で、ただの相談相手で。でも写真に…

その電話が鳴ったのは、深夜の2時を回った頃だった。「あんた、何やってるの?今すぐ荷物まとめて出て行って」。寝ぼけまなこでスマホを見ると、画面には妻の名前。リビングの時計は午前2時13分。仕事帰りに飲んでいただけなのに、家に帰ったら玄関の鍵が開かなくなっていた。ドア越しに聞こえたのは、「浮気したでしょ。写真、全部見たから」。頭が真っ白になった。違う、あれは元同僚で、ただの相談相手で。でも写真に...

二人のテーブルを挟んで、俺の言葉はカトの顔に落ちた。ちょうど一週間前、上司から伝えられた海外出張。十日後のニューヨーク行きは、俺にとって光でもあり、重荷でもあった。

「ねえ、本当に大丈夫なの? あんた一人で暮らしてけるの? 」
カトが何度も確かめるように言う。テーブルの上で組んだ指に力が入っているのが分かる。

「大丈夫だって。俺もう三十だしな。飯だって作れるし、洗濯だって自分でやるよ」
「そうだよね。ごめんね、心配性で」
「心配しなくていいよ。それに、ちゃんと夢だってあるし」
俺は軽く笑って見せた。

「そうだね。ミュージシャンになるんだもんね。あんたのギター、私が大事にしとくから」
「ああ、それはありがたい……って、ちょっと待って。そのことなんだけどさ」
言葉を止めて、俺はカップのコーヒーを見つめた。カトが首を傾げる。

「なに? 急に改まって」
「実は、な。俺、ミュージシャンの夢、諦めることにしたんだ」
「……え?

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その言葉を聞いた瞬間、カトの顔から表情が消えた。いや、驚きと困惑で固まったという方が正しいかもしれない。

「あんた、何言ってるの? どれだけ練習してきたと思ってるの? あのバンドだって、もうすぐライブ決まってたじゃない。私、絶対見に行くって言ったでしょ」
「分かってる。でもな、周りにも現実見ろって言われてさ。もう三十だぞ。そろそろ真面目に働かないと、と思うようになったんだ」
「カイトらしくないよ。あんなに楽しそうにギター弾いてたのに」
「夢だけじゃ食っていけないんだよ。それに、カトにも迷惑かけてるし」
「私は迷惑だと思ったことなんて一度も――」
「カトはよくやってくれてるよ。俺が身勝手なだけだ。だから、正社員になれるように就活する。もう決めたことなんだ」

そう言うと、カトはしばらく沈黙した。十分に長い沈黙だった。やがて、彼女は深く息を吐いて、静かに頷いた。

「……分かった。カイトがそう決めたなら、私は何も言わない。でもね、私にできることがあったら何でも言って。応援するから」
「ありがとう。じゃあ、さっそくなんだけど……スーツ、買ってくれないか? 就活用に必要でさ。俺、一枚も持ってないんだ」
「それは確かに必要だね。いくらくらい貸せば足りる?

貸す、じゃないけど、協力するって意味で」
「とりあえず五万。いや、五万あればスーツくらいは買えるだろ」
「分かった。帰ったら渡すね」
「悪いな。必ず返すから。出世したら十倍にして返すからさ」
「あはは、楽しみにしてるよ」

カトはそう笑った。その笑顔が、なんだか少し寂しく見えたのは、気のせいだろうか。それとも、もうこの時点で何かがずれ始めていたのだろうか。

それから一週間。俺は毎日のように就活に明け暮れていた。スーツを新調し、履き慣れない革靴を痛めないように歩き、何社も何社も会社を回った。そんなある日の夜、携帯が鳴った。カトからだ。

「もしもし、どうした? 今面接終わったばかりで、今から帰るところだ」
「……カイト、嘘ついてない? 」

電話の向こうから聞こえてきた声は、想像以上に低く、冷たかった。何を言われたのか、最初は理解できなかった。

「は? 何言ってんだよ、急に」
「今日、仕事中に大きな声で言ってやったじゃない。私、あんたの写真見たんだよ。昼間から知らない女性と、外で飲んでるところを」
「……何の写真だよ。俺は今日一日中、面接だったんだぞ」
「嘘だよね?

慰謝料、これで終わりにしてもらうから。いや、終わりにしたくなくて嘘ついてるんでしょ? 面接に行ったご褒美だって、ふざけたこと言って」
「ああ、あの写真か! あれはな、受かったら祝ってもらおうと思ってな。就活力って金がかかるだろ。電車代だって高いし、スーツ着て汗かくから制汗シートだって必要だし、タバコの匂いがつくから消臭スプレーも、場所によっては香水が必要なこともあるんだ。わかってくれよ」
「そんなこと言ってないでしょ! 私はあんたが昼間から女の子と飲んでたってことと、ホテルに入ったところまで見たって言ってるの!


「それはただの友人だよ、同僚っていうか、元同僚? そんなの、誰だって女と二人で飲みに行くことくらいあるだろ! それで稼いだ金を、何に使おうが俺の自由だろ! 」
「俺の金じゃない!

私が二人で助け合って暮らしていくための金でしょ! 」
「うるさいな、だるいな。って、なんでお前が俺の金の使い方に文句つけてくるんだよ。ていうか、あの一万円、どうせ飲みとホテルに使ったんだろ! 」
「行ったよ、行きましたよ。面接に行くための交通費だって言ったのに、お前が勝手に俺を疑うからだろ! 」
「嘘ばっかり!

だったら、その浮気相手から黙ってろってことなら、あの日帰ってこなかったのを説明しなさいよ! 」

――長い沈黙があった。互いの荒い息遣いだけが聞こえる。

「……もういい。俺とモネの結婚生活、お前にはもううんざりだって伝えておいてくれ。つうか、お前こそ、もっと分かってくれて当然だろ。お前は俺の上司か」
「あ、そ。なら、こっちからも言うわ。私が働いて得たお金で、あんたが遊んでるのが許せないの! 」
「浮気なんかしてねえよ! 」
「じゃあ、その女は何なの?


「同じバンド仲間だよ! ったく、ほんとに面倒くせえな」

電話は、それ以上続かなかった。俺は舌打ちをしながら受話器を下ろした。なんでこんなに拗れるんだろうな。ただの男同士の付き合いだってのに。

……いや、男同士じゃなかったか。あの日、飲んでたのは女だった。俺の昔馴染みで、就活の相談に乗ってもらってただけだ。浮気なんて、ただの一目もしてない。本当だ。ホテルに入ったっていうのも、トイレを借りただけの用があるのは、あれは、その、飲みすぎてふらふらになって、ちょっと横になっただけだ。それで、彼女は隣の席で介抱してくれてただけで――

――だが、説明しようと思えば思うほど、言い訳がましくなる。ことは、もう怒りと泥沼の様相を呈し始めていた。この電話だけでは、まだ終わらなかった。火に油を注ぐようなLINEのやり取りが、さらに数日続いた。そして、その騒動はあっけなく頂点に達する。

「カイト。今月中に荷物をまとめて、家を出て行ってくれない? 」
玄関に立つカトは、そう言った。手に一枚の紙――いや、封筒を持って。

「……は? どういうことだよ」
「離婚届。もう書いたわ。あとは私が役所に出すだけ。カイトの荷物は、あっちでまとめて送ってくれればいいから」
「ちょっと待てよ、カト。俺は離婚するなんて一言も――」
「一言も言わなかった?

言ったでしょ。三日以内に書けって、あれほどハッキリ言ったでしょ。カイトが全部、台無しにしたんだよ」
「何が、だよ。別に浮気したって決まったわけでもねえのに」
「カイトの言い分と、あの写真、どっちを信じると思う? 私が自分の目で見て、友人から聞いたことを私は信じる。それと、怪しいと思ったことは全部、私ずっと黙ってたけどね。もう本当に出て行って。今なら、慰謝料だとか、色々もつれずに済むから。指になった判子もいるから、サインして」
「……カト。まさか、本気で俺を追い出す気か? 」

「本気も本気、大真面目よ。私は出張だからって、夫に留守番させてるだけの女じゃないの。家の名義は、請求書も、全部、私の名前になってるでしょ? つまり、出て行くのはあっち、カイトの方。当たり前でしょ」

何を言っても通じない。いや、通じさせる気もない。彼女は、もはや完全に俺を見定めていた。この結婚は、ずっと前から、カトの中では終わっていたのかもしれない。俺が気づいてなかっただけで。そう思うと、怒りよりも、情けなさがこみ上げてきた。

「……分かった。出て行くよ」
「え?

素直に承諾したのが意外だったのか、カトは目を見開いた。

「だから、出ていくって言ったんだ。ただし、いくら何でも即日では荷物もまとまらないし、就職先も決まってない。せめて、仕事と住むところが見つかるまでの猶予が欲しい。そうでなきゃ、俺は納得できない」
「……どれくらい? 」
「二ヶ月。いや、三ヶ月。いや、本当に申し訳ないと思ってるんだ。ただ、この通り、スーツ買う金すら借りてる状態で、家もない奴が明日から放り出されたら、詰むんだよ。わかるだろ」
「……ふう。分かった。二ヶ月。それだけ猶予をあげる。私は出張から帰ってきたら、すぐ出て行ってよ。離婚届は三ヶ月以内には出せるから。この件に関しては、もう何も言わないで」
「……助かる。恩に着るよ」

俺はそう言って、差し出された封筒を受け取った。中身は離婚届だ。届出用紙には、署名欄が二つ。カトの名前は、もう書いてあった。俺は、震える手でその欄に自分の名前を書くことは、しなかった。

――それから、一週間後。カトは予定通りニューヨークへ飛び立った。見送りの際、彼女は俺にこう言った。

「ちゃんと面接受けてよ。本当に、真面目にね」
「分かってるよ。心配すんなって」
「心配するよ。だって、あんた、私がいないと、本当に何にもできないから。冷蔵庫の中に、カレー作っておいたから。電子レンジで三分。卵を欠けたらご飯の上にのせて、カレーをかけて食べなさい。分かった? 」
「分かった、分かった。モネからも、何かあったら電話してやるから。って、モネが電話してくるか。まあ、そっちこそ元気でな」
「うん。カイトも、体に気を付けて」

笑って送り出した。そして、見えなくなるまで手を振って。ドアのところに、カトが置いていった置き手紙。そこには、一言。「あなたのことは、一生忘れない。最後に、私を選んでくれてありがとう。」

……バカか、俺は。

それから、一週間。カトは朝、新宿の事務所で荷物をまとめていた。日本を発つ前のフライトまでの時間。ちょうどいい機会だから、と思い立って、俺は一件、老舗のスナックを訪れていた。いや、あくまでも就活用の情報収集のためだ。景気のいい話でも聞けたらと思ってな。カウンターに腰を下ろし、常連らしき男たちに混ざって、水割りを一口。

「おい、今日の面接、どうだった? 」

ふと聞こえた声に、振り返ると、そこにカトがいた。いや、カト違い。モネの母、つまり義母がいた。

「……お、お義母さん。どうしてこんなところに」
「いやね、あんたがこの頃、昼間からスナックで女の子と飲んでるって、同業者の間で噂になってるもんだからね。ちょうど買い物ついでに見てやろうかと思ってね。あのバカ娘も、どうせあんたの立場が分からないんだ。夫ってのは、こうでなくちゃな」
「お義母さん、何言ってるんですか。俺は就活してるんです。スーツだって、これから買いに行くところですよ。うわ、またクソお袋が余計なことを……」
「あら、何か言ったかしら?

それより、その首元、ボールペンの跡が付いてるけど。女の子に教えてもらって、あんた、書類に書いたのかい? 」
「え? 」――一気に血の気が引いた。まさか。

「ち、違います! これは、その、何ですか?

ボールペンなんて、俺、持ってないし」
「嘘おっしゃい。スーツを立てたんだろう。ボールペンでスーツに線が入らないように、ってシワになってるよ。よく見せなさい。これは染み抜きしたところだろ。第一、時計も指輪も外して、腕時計の跡がくっきり付いてる。これは……まさか、質に入れたな? 」

カトの母は、鋭い目で、にらみつけた。

「こ、これ、何を根拠に」
「結婚式の引き出物のお金は? カイトが生活費を入れないから、モネが前から貯金が心配で、実家に金の無心ばかりしてきたんだ。並の亭主じゃないって分かってるさ、そんなことくらい。ああ、あんた、まさか、モネのネックレスまで質に入れたのか? あれはモネの母の形見だぞ、おい!


「違う! それは、ただの迷信の類だ! 」

もう終わりだった。全てが剥き出しにされた。言い訳を重ねれば重ねるほど、どんどんと穴が深くなっていく。なけなしの金を握りしめ、俺は店を飛び出した。スーツも買えず、満足な食事もできないまま、あてどもなく街を彷躇う。

あの人を、失った。本物の幸せを、手放した。

そう確信したのは、カトの送ってきた最後のLINE。「この前の件で、もう心が折れました。役所に離婚届を出してきました。銀行口座の引き落としは、全部止めておいてください。さようなら。あなたのことは、決して忘れません」

俺はスマホを握りしめたまま、しばらく、その場に立ち尽くしていた。これがオレの、人生最大のツケ。ただ、今はその事実を受け止めることしかできなかった。