「貧乏人には水だけで十分でしょう」
義母になるはずだった女性は、私の前に置かれたグラスを指差し、声を上げて笑った。
「どうせ年金だけで暮らしているんでしょ。三万円のコース料理なんて、食べ慣れていないわよね」
私の隣で、娘の彩佳が唇を噛み、俯いた。
ところが次の瞬間、向かい側に座っていた義姉が、私の顔をじっと見つめ、みるみる青ざめていった。
「まさか、あなたは……川島社長」
私は静かにグラスを置いた。
「ようやくお気づきになったようですね」
私の名前は川島さ子。六十七歳になる。
三十五年前、私は三歳の娘を連れて夫と離婚した。夫は定職に就かず、家の金まで勝手に持ち出すような男だった。それでも夫は、女一人でどうやって子供を育てるつもりだと笑った。
離婚後、私は昼は縫製工場で働き、夜は自宅で内職をした。給料日前になると金が尽き、私は夕食を抜いて、娘にだけ食べさせた夜もある。
そんな生活の中で、余った布を使って小さなバッグを作り始めた。近所の人に頼まれたのがきっかけだったが、使いやすいと評判になり、注文が少しずつ増えていった。
やがて小さな工場を構え、二十年かけて自分のブランドを育てた。今では百貨店にも商品を置いていただき、複数の会社と共同開発も行っている。
何より私は派手な暮らしが好きではない。六十五歳からは年金も受け取っている。今も仕事は続けているが、年金は長年働き、保険料を納めてきた結果として、ありがたく受け取っているものだ。
娘の彩佳も三十八歳になり、会社員として真面目に働いていた。
そんなある日、彩佳が緊張した顔で言った。
「お母さん、結婚したい人がいるの」
相手は木下優一さん。彩佳と同じ会社で働く、五歳年上の上司だった。
その週の日曜日、優一さんは手土産を持って挨拶に来た。姿勢が良く、受け答えも丁寧な男性だった。
「彩佳さんを生涯、大切にします」
私は少し安心した。
けれど話の途中、優一さんが尋ねた。
「お父様にもご挨拶したいのですが」
彩佳の表情が固まった。
私は正直に伝えた。
「彩佳が三歳の時に離婚しました。私一人で育ててきたんです」
その瞬間、優一さんの顔から笑みが消えた。ほんの一瞬だった。
帰り際、彼は私に深く頭を下げた。
「僕の家族のことで、彩佳さんを不安にさせるかもしれません。でも、僕が必ず守ります」
その意味を知ったのは、数日後のことだった。
彩佳が帰宅するなり、鞄を置いてうつむいた。
「優一さんのお母さんに、結婚を反対されたの」
「理由は?」
「……お母さんが離婚しているから」
義母になるはずの女性は、彩佳にこう言ったのだという。
「片親の家はお金に困っている。結婚したら、母親の老後まで優一に背負わせるつもりでしょう」
さらに、優一さんの姉からも責められたらしい。
「お母さん、もう年金をもらう年齢でしょ? 足りない分を弟に出させるつもりじゃないでしょうね」
年金を受け取っているというだけで、なぜ人に見下される理由になるのだろう。
それでも私は彩佳に尋ねた。
「優一さんは何と言ったの?」
「……私を選んでくれた。母さんの考え方がおかしいって」
その言葉に、少し救われた。
ところが数日後、義母から顔合わせの連絡が来た。
場所は、一人三万円もする高級レストラン。しかも義母は「店を決めてあげたんだから、あなたのお母さんが全員分を払うのが礼儀でしょ」と言ったそうだ。
「断ってもいいんだよ」
彩佳は言ったが、私は首を横に振った。
「一度会いましょう。会わないままだと、何も分からないから」
当日、私は地味なワンピースを選んだ。娘の結婚相手の家族に会うだけだ。仕事上の肩書きを持ち出すつもりはなかった。
レストランの個室に入ると、優一さんと両親、そして姉のみかさんが座っていた。
「彩佳の母です。川島さ子です。本日はありがとうございます」
私が頭を下げると、義母は挨拶も返さず、私の服を上から下まで眺めた。
「随分、質素なのね」
義父も鼻で笑った。
「年金暮らしなら、仕方ないだろう」
「父さん、やめてくれ」
優一さんが止めたが、義父は続けた。
「俺は優先繊維で営業部長をしている。老後の面倒まで息子に押し付けられては困るんだ」
優先繊維。
その会社は、私の会社が新商品の共同開発を検討している相手だった。先週、先方の社長と最終打ち合わせをしたばかりだ。
ただ、私は直接会って話をしたことがなかった。だから、先方も私の顔を知らないようだった。
やがて料理が運ばれてきた。
義家族の前には、色鮮やかな前菜が並べられた。優一さんと彩佳の前にも料理がある。けれど私の前に置かれたのは、水の入ったグラスだけだった。
「私の料理は?」
すると義母が笑い出した。
「頼んでいないわよ」
「どういうことですか」
「貧乏人には水で十分でしょ?」
義母は声を上げて笑った。
「どうせ年金だけで暮らしているんでしょ? 三万円の料理を食べたら、今月の生活費がなくなっちゃうんじゃない?」
みかさんも口元を押さえた。
「彩佳さんも大変ね。結婚したら、お母さんの年金の不足分まで払うことになるんでしょ?」
「違います」
彩佳が立ち上がった。
「母は私にお金を求めたことなんて、一度もありません」
すると義父がテーブルを叩いた。
「親の前で声を荒げるな。片親の娘を嫁にもらってやると言っているんだ。身の程をわきまえなさい」
彩佳の目に涙が浮かんだ。
私はそれを見て、ようやく我慢をやめることにした。
「『嫁にもらってやる』ですか」
「何よ、事実でしょ?」
「娘は物ではありません」
「それに、年金を受け取っている人間には、料理を出す価値もないのよ」
義母が肩をすくめた。
「身の程を知りなさいってことよ」
その時だった。
先ほどまで笑っていたみかさんが、私の顔をじっと見つめ始めた。
「お母さん、少し黙って」
「何よ、急に」
みかさんの顔から血の気が引いていく。
「私、この人を見たことがある」
義父が笑った。
「どこでだ? 年金事務所か」
みかさんは優先繊維で、父親の紹介により契約社員として働いている。
「先週の打ち合わせで、私たちにお茶を出していたのです」
「まさか」
「川島社長」
個室が静まり返った。
私はバッグから名刺を取り出し、テーブルの上に置いた。
「株式会社川島クラフト 代表取締役 川島さ子」
義父の顔が引きつった。
「川島クラフト?」
義母も、私と名刺を交互に見る。
「百貨店に入っている、あのバッグの会社?」
「はい」
義母は慌てて、椅子の横に置いていたバッグを抱えた。
「私、このブランドを使っているのよ」
私は一目見て答えた。
「それは三年前、雑誌の付録用に監修した商品ですね。大切に使っていただき、ありがとうございます」
義母の顔が真っ赤になった。
「では、うちの会社との共同開発は……」
義父は震える声で尋ねた。
「私が最終判断をします」
「そんな……」
「あなたの会社は、先方の社長が誰かも確認せずに、失礼な対応を続けたのですよ」
私は立ち上がった。
「私は、あなた方が思っているような『貧乏な年金暮らしの女』です。けれど、それは何も恥ずべきことではありません」
「お母さん……」
彩佳の顔を見て、私は微笑んだ。
「優一さん。あなたは彩佳を守ると言いましたね」
「はい」
「では、迎えに来てください。私は、娘の幸せを誰よりも願っている人間として、あなたの家族が彩佳を、そして私を、人として尊重できるかどうかを見届けます」
「……すみません」
「それを知らない人に、家族を名乗る資格はありませんから」
