母さん、結婚式の費用、六百万円も出してくれて本当にありがとう。
いいのよ、少しでもいい式になればね。
これで本当に素敵な式ができそうです。
でも、家族の意向で母さんは式に呼びません。
え?何を言ってるの?
母さんもいい式にしたいと思ってるんですよね。
もちろんよ、そのためにあなたに頼んだんだから。
でしたら、式には来ないでください。母さんが来ると式が台無しになるんで。
ちょっと待ってよ、私が参加できないなんてありえないわ。私は弘樹の晴れ姿を心から楽しみにしてるんだから。
申し訳ないですけど、あなたに参加する資格はありませんよ。
そもそも、弘樹の親を名乗ること自体おこがましいんですから。
どういうこと?
あなたは離婚して、弘樹とは別々に暮らしてたんですよね。
そうね。
弘樹のお父さんは、そこからずっと一人で育ててきたんです。だからお父さんは式に出てもいいですけど、あなたにその資格はないですよ。
もしかして、お金を払えば参加できると思ってました?そんなわけないですよね。
親としての責任を、あなたは全部放棄してたんです。そんな人を親とは呼べませんよ。
離婚したのは確かに私が悪かったわ。それは認める。でも、放棄したわけじゃない。私だって弘樹のそばにいたかったんだから。
今さらそんなことを言っても意味ないですよ。あなたは実際に弘樹を見捨てて、一人で暮らしてたんだから。
結婚式の費用の六百万を用意したのは立派だと思いますよ。でも、だからって参加させるわけにはいきません。
どうやってその金を集めたのかは、あえて聞きませんけどね。でも、どうせ借金しまくって集めたんでしょ。
そんな貧乏人に、私たちの式に来てほしくないんです。どうかご遠慮ください。
待ってよ、それって弘樹も知ってるの?
弘樹には俺から説明しておきます。あなたも弘樹のことを思うなら、不参加でお願いしますね。
五時間後。
弘、さっき由美さんから連絡があったの。
もしかして、お金のことかな?本当にありがとうな。こんな時に親を頼るなんて、社会人として情けないよ。
そんなのいいのよ。私としては、あなたの力になれて嬉しかったんだから。
それでも、あんな大金を払わせるなんて申し訳ない。
それは別にいいんだけどね。由美さんから、式には参加してほしくないって言われて。
え、なんで?
俺には、お前の親を名乗る資格はないって言われたんだ。
そんなバカな。あいつは何を言ってるんだ?
最初は私も反発したわ。だって、あなたの晴れ姿を見られるのを心から楽しみにしてたからね。
でも、冷静になって考えたら、由美さんの言ってることも分かる気がしたの。
確かに、どんな顔して参加すればいいのかって。
母さん、何をバカなこと言ってるんだよ。
父さんと離婚したのは、確かに残念だったよ。でも、俺は今でも父さんも母さんも、どっちも大好きなんだ。
父さんには感謝してるし、母さんのことは尊敬してるんだよ。
今の俺があるのは、母さんがいたからだってのは、すごく大きいんだ。
俺にとって母さんは目標でもあるし、そんな母さんには、俺が結婚した姿をちゃんと見てほしいんだ。
嬉しいわ。そう言ってくれるなら、私もやっぱり式には参加したい。
あなたの一生に一度の晴れ舞台だからね。
それに、六百万なんて大金を出してもらっておいて、そんなことを言うなんてどうかしてるよ。
向こうからすると、六百万なんて大した額じゃないんじゃない?だって、向こうのお父さん、会社を経営してるんでしょ?
それはそうかもしれないけどさ。
分かったよ。式のことは俺に任せて。
本当にいいの?
もちろんさ。母さんには絶対に参加してもらう。だから、そのつもりで準備しててくれよ。招待状も必ず送るからさ。
ありがとう。そう言ってくれて、本当に嬉しいわ。
翌日。
突然のご連絡、申し訳ありません。夕紀の母の秋子と申します。夕紀から連絡先を教えてもらいました。初めまして。いつも息子がお世話になっております。
こちらこそ、いつもお世話になっております。それで、今日はどういったご要件で?
それが、ちょっと困った事態になっておりましてね。
弘樹君が今、喧嘩をしてるんですよ。その原因が、あなたであることはもちろん分かってますよね。
私が式に参加することでしょうか?
そうです。本当に困ったことになりました。
私としては、どうしても式に参加したくて。
そのお気持ちは分かりますけど、あなたにその資格はないんです。
確かに、私は長らく弘樹とは別々に暮らしてました。でも、親子の絆は今でもしっかりあるんです。ですから、どうか認めてもらえないでしょうか?
いえいえ、私たちが言ってるのはそういうことじゃないんです。
私たちの夫は会社の社長をやってるんですよ。それはもちろん聞いております。
そして、結婚式にはいろいろな業界のVIPたちが参列してくれることになってるんです。だからこそ、参列できる人間は選ばないといけません。
選ばないといけない、ね。随分感じが悪いですね。
ええ、あなたのような底辺には来てほしくないと言ってるんです。
底辺ですって?
だってそうでしょ。今だってバーで一人で暮らしてるんですよね。どうせパートか、小さな会社で働いてるだけの底辺に決まってる。
そんな人間を、娘の晴れ舞台に呼ぶわけにはいきません。
どうしてそんなひどいことを言うんですか?私がどんな仕事をしていようと、関係ないでしょ。参列する人たちだって、そんなことは気にしませんよ。
あなたは何も知らないんですよ。私たちのような上流階級の人間は、そういう肩書きをとにかく気にするんです。
だから、私はあなたに来てほしくないと言ってるんです。何のリスクもないのなら、わざわざこんなことは言いませんからね。
あなただけが気にしすぎてるんじゃないですか?
そんなことないと言ってるでしょ。
一応、今回の式のために六百万を援助したんですよ。それでも、底辺だなんて言うんですか?
どうやってお金を集めたかなんて、知ってますよ。こつこつ貯金してたらしいじゃないですか。
それはそうですけど、涙ぐましい努力で貯めたお金でしょ。
私たちだったら、この程度のお金は一日で稼ぎますよ。だから、そんなことで偉そうにしないでください。
だったら、全額そちらが出せばよかったじゃないですか。
結婚式で新郎側が全額出すなんて、恥ずかしくてできることですか?こっちが結婚に前のめりみたいで、格好がつかないわ。
そうならないように、新郎側に多めに出してもらっただけのことよ。お金を出すのが嫌だったとか、そういうことじゃないんだから。
それは分かりましたよ。でも、私はどうしても式に出たいんです。
あなたのわがままで、どれだけ迷惑がかかってるか分かりますか?
迷惑?あなたのせいで、娘と弘樹君が喧嘩してるんですよ。もしかしたら、このまま式も上げずに、婚約解消なんてことだってありえますよ。
え、そこまでしてあなたはわがままを言うんですか?息子を不幸にしてまで、やるべきことなんですか?
私は、私のせいで婚約解消なんてしてほしくないです。
だったら、どうすべきか分かりますよね。
ええ、欠席でそう言ってくれると思ってましたよ。
代わりに、式の写真や動画は送ります。それでどうか納得してください。
何度も言いますが、あなたと私たちとでは、住む世界が違うんです。ですから、こちらに近づくようなことは絶対にしないでくださいね。
三時間後。
母さん、欠席を受け入れてくれてありがとう。
ええ、これで何とか円満にいきそうね。
もちろんですよ。これで俺たちは、幸せな結婚式を挙げられますからね。
そう、それは良かったわ。
ついでに、絶縁でいいですか?
は?どういうことだよ、弘樹?何を言ってるんだ?
母さんには、俺の出身大学を知ってるよな?
ええ、もちろん。あなたが卒業した、あの名門大学でしょ?
そうだよ。じゃあ、その大学の学費がいくらか、知ってるか?
え?それは…まあ、私立だから高いとは聞いてるわよ。
うちは父子家庭だった。父さんは、パートと小さな会社の給料をやりくりしながら、必死に俺を大学に行かせてくれたんだ。
それを、こっちの人間は見下すのか?
ちょっと待ってよ、弘樹。私はそんなつもりじゃ…。
母さんはさっき、バーで働いてることを底辺だって言ったな。でも、実際に俺を育ててくれたのは、母さんじゃなくて父さんだ。
母さんには、金もないし、肩書きもない。それでも俺のために貯金をして、六百万も用意してくれた。
それを、一日で稼げるお金だの、底辺だの、よくも言えたもんだよ。
弘樹、さっきのは言い過ぎだったわ。私が間違ってた。
もういい。俺は、母さんを侮辱するような人間とは、これ以上付き合うつもりはない。
式にも来ないでほしい。いや、来ないでくれ。もう顔も見たくない。
そんな…。弘樹、そんなこと言わないで。お願い、私が悪かったから。謝るから。
遅いよ。母さんは、自分がどれだけひどいことを言ったのか、分かってないんだろう?
金がないことと、人間の価値は関係ない。それは、昔、母さんが俺に教えてくれたことじゃなかったか?
え?それをどうして…。
母さんが父さんと離婚した時、俺に言ったんだよ。「弘樹、お金がなくても、人として恥ずかしくない生き方をしなさい」って。あの言葉を、俺は今でも覚えてる。
なのに、今の母さんはどうだよ。金がないだけで、人を底辺扱いしてる。
違うの、あれは…。
もういい。自分で言ってて、本当に恥ずかしくならないのか?
俺は、金がなくても、胸を張って生きてきた父さんを尊敬してる。
そして、コツコツと貯金して、俺のために六百万も用意してくれた母さんも、本当は尊敬してるんだ。
じゃあ、なんで…。
でも、今日の母さんは違った。自分の価値観を押し付けて、他人を傷つけることを言った。
それは、俺が知ってる母さんじゃない。
弘樹…。
すまない、母さん。俺は、やっぱり母さんの方が間違ってると思う。
今日は帰ってくれ。俺も、少し頭を冷やしたい。
わかったわ。弘樹、本当にごめんなさい。私は、間違ってた。
母さん。
何かしら。
俺からも、母さんに謝るよ。言い過ぎた部分は、確かにあった。でも、俺はどうしても、母さんのああいう言い方は許せない。
うん…。分かってるわ。
やっぱり、式には来てほしい。父さんもいるけど、母さんも来るのが当然だ。
でも、由美さんが…。
由美には、俺が何とか言う。母さんが式に来るなら、由美の家族も招待する。それが公平ってもんだろ。
弘樹、ありがとう。本当にありがとう。
その日から、弘樹と母は、ゆっくりとだが、距離を縮めていった。
式の準備は、少しギクシャクしたが、何とか進められた。由美の家族は、母のことをやはり快く思っていなかったが、弘樹の強い意志もあり、式の当日を迎えた。
結婚式当日。
母は、披露宴の一番後ろの席で、そっと涙をぬぐっていた。
弘樹の姿を見るのは、これが本当に久しぶりだった。
スーツに身を包んだ息子は、想像以上にたくましく見えた。
新郎の父である、弘樹の父も、隣の席で目頭を押さえていた。
母は、あの日、父に電話をした。
「本当にごめんなさい。私、何もできなくて」と。
父は言った。
「いや、気にするな。弘樹は、お前の息子でもあるんだ。お前が貯金してくれたおかげで、いい式ができたんだ。ありがとう」と。
母は、それだけで、泣きそうになった。
もう、恥ずかしがることはない。
自分は、この式を仕上げるために、貯金をしてきたんだと、そう胸を張れるようになった。
披露宴の中盤。
弘樹が、マイクを持って立ち上がった。
「みなさん、少しよろしいですか。」
会場が静かになる。
母は、背筋を伸ばした。
「今日は、僕のために集まってくれてありがとうございます。
そして、父さん、本当に長い間、僕を育ててくれてありがとう。
これからは、父さんにもちゃんと恩返しをしていきます。」
会場から、拍手が起こる。
母も、涙を流しながら拍手を送った。
「それから、もう一人。」
弘樹は、ゆっくりと母の方を見た。
「僕には、離婚して離れて暮らしている母がいます。今日は欠席ですが、本当は来たがっていました。
でも、いろいろあって、来られなくなってしまいました。
急にこんな話をして、驚かせてしまったらすみません。
ですが、今日の僕があるのは、二人の両親のおかげです。しっかりと、僕を育ててくれて、ありがとう。」
母は、もう、涙が止まらなかった。
隣で、父が優しく、母の背中をさすった。
「ありがとう、弘樹…。私の方こそ、ありがとう。」
披露宴が終わり、三々九席を済ませた二人が、出口に立った。
母は、最後に弘樹と由美のところに行き、言った。
「弘樹、由美さん。本当におめでとう。そして、呼んでくれてありがとう。」
由美は、気まずそうな顔をした。
「ええ…。こちらこそ、来ていただいて、ありがとうございます。」
「由美さん、嫌な思いをさせてしまって、本当にごめんね。私が、余計なことを言ったばっかりに…。」
由美は、うつむいた。
「いえ…。私の方こそ、ひどいことを言ってしまって。あなたがお金をためてくれてなかったら、この式は挙げられませんでした。ありがとうございます。」
母は、嬉しそうに微笑んだ。
「二人とも、本当にお幸せにね。」
そう言って、母は、一人で式場を後にした。
背中を見せて歩く母の足取りは、何だか、とても軽やかに見えた。
帰りの道すがら、母は、空を見上げて思った。
「あの子が、ちゃんと育ってくれて、本当によかった。
そして、数ヶ月後。
弘樹から、一本の電話がかかってきた。
「母さん、元気?」
「ええ、元気よ。どうしたの、改まって。」
「なあ、母さん。本当に、俺たち親子のままでいいのか?」
母は、一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「どういうこと?」
「いや、俺さ、最近考えてたんだ。母さんだってもう年だし、一人ぼっちじゃ寂しいだろ?俺の近くに住んだりしないか?って。」
母は、思わず、声を詰まらせた。
「そんなこと、したらお前の嫁さんに悪いでしょ。」
「由美も了承してるよ。ていうか、むしろ、ぜひ来てほしいって言ってたんだ。その代わり、家事を手伝ってほしいってうるさいけどね。まあ、それでもいいかって思ったんだ。」
母は、涙をこらえながら答えた。
「弘樹…。ありがとう。でも、もう少しだけ、このままがいいわ。いつでも、お前の顔を見に行ける距離でいさせて。それで、いい?」
電話の向こうで、弘樹が笑っているのが分かった。
「ああ、分かった。じゃあ、たまには、飯でも食いに行こうな。」
「ええ、そうね。楽しみにしてるわ。」
そう言って、電話を切った後、母は、しばらくの間、受信機を握ったまま、動けずにいた。
それから十年後。
母は、今日も、小さな喫茶店で、コーヒーを淹れている。
70歳を過ぎて、体力はだいぶ落ちたけど、こうやって店を続けられているのは、あの日、息子から「母さんは、すごいよ」って言ってもらえたから、かもしれない。
「ごちそうさま。美味しかったよ。」
常連客の言葉に、母は、「ありがとうございます。また、お待ちしてますね」と、笑顔で答えた。
店の隅に、古びた写真立てがひとつ。
そこには、結婚式の写真が飾ってある。
欠席のはずだった、母の姿が、一枚だけ、写っていた。
それは、あの日、父がこっそり撮ってくれた、家族の記念写真だった。
「しっかし、息子に『底辺』って言われた日には、笑うしかないわね。」
母は、優しく写真立てを拭きながら、そっと微笑んだ。
その日も、穏やかな時間が、静かに流れていく。
