息子の妻が産んだ孫。その知らせを受けたとき、胸の内に複雑なものが渦巻いた。嬉しい。それはもちろん本心だ。けれど、その喜びを素直に伝えていいものか、一瞬だけ迷ってしまった自分がいた。
「大きくなったね。おめでとう。ミさんにもお疲れ様って伝えてくれない?」
電話越しの息子、大機の声は、どこかよそよそしかった。それでも私が「顔を見たいのだけど」と続けようとすると、彼は遮るように言った。
「出産直後で大変だろうから、できれば日程を調整したいの。私が直接話すと断りづらいでしょうから、話しておいてくれない?」
言い方は丁寧だった。でも、そこに私が入り込む余地など、初めから存在しないかのような、そんな冷たさを感じた。
「ちょっと待って。ミに先に相談するから」
大機はそう言って、話を終わらせようとした。私の気遣いよりも、妻の都合が最優先。当たり前のことなのに、胸がチクリと痛む。
「そうね。ちゃんとお嫁さんへの気遣いができてて安心したわ」
精一杯の言葉を絞り出すと、彼は「俺だってちゃんとしてるよ。もう父親なんだし」と答えた。昔、仕事で家を空けがちだった私に「母さんはいつもいない」と繰り返していた幼い日の記憶が、頭をよぎる。
「また連絡するから」
そう言って、電話は一方的に切られた。
翌日、再び大機から電話があった。用件を聞くと、彼は少し間を置いて、思い詰めたような声で言った。
「お母さん、話は聞きました。直接言ってくれたらいいのに。出産で疲れてるのに義母の相手なんて嫌でしょ。でも、連絡してくれて嬉しいわ」
「いや、ちゃんと言っとかないとなって。え、はっきり言いますけど」
一瞬の沈黙。次の瞬間、彼の口から出た言葉に、私は総毛立った。
「孫に会いに来たって言われても、いい迷惑。金が映ったら困るし。赤ん坊に絶対近寄るな」
「え? 金? 金ってどういうこと?」
声が震えた。理解が追いつかない。孫に会いに来てほしいと言っているのではなく、金を持って来てほしいと言っているのか。
「お母さんって大機の子育て失敗したじゃないですか。聞きましたよ。家庭で結構苦労したって」
私は自分の耳を疑った。確かに、あの時代、仕事と育児の板挟みで、彼に寂しい思いをさせたことは事実だ。夜中に泣き出した息子を抱きながら、「今日は母さん、遅くなるから」と電話で宥めたことの何度あったか。
「それは確かに、たくさん苦労をかけたわ。でも大機はちゃんと育ったでしょ。立派に働いて、家庭も持って」
「でも、育った過去は変えられないし。大機、言ってましたよ。幼少期は不幸だったって」
「あの子が、そんなことを…」
「そういう風に考えてる時点で幸せじゃないですし、子育て失敗の金が映ったら困るんですよ。ダメ親の育児なんて参考にならないし、赤ちゃんには空教でしょ」
失敗。その言葉が、針のように突き刺さる。私は弁解を試みた。
「失敗って言うけど、私なりに一生懸命育てたのよ」
「一生懸命? それで大機が寂しい子供時代送ったって、散々愚痴化されましたけど。仕事ばっかりで放置されてたって。かわいそうですね」
「それは生活のために仕方なく」
「言い訳やっぱお母さんの育児方針って完全に時代遅れじゃないですか? 時代遅れ? 今は科学的な育児が主流なんですよ。お母さんみたいな感覚だけの育児は、むしろ外悪です」
「確かに私は胸を張って立派な子育てをしたとは言えないわ。でも、あなたはまだ母親になったばかりでしょ? そんな風に言われたくないのだけど」
「私は私なりに勉強してます。育児書20冊読んで、専門家のアドバイスも受けてますから。お母さんに教わることなんて、1つもありません」
「本と実際の育児は違うのよ。それに、私には経験があるわ」
「経験? 失敗した経験ですよね。むしろ、お母さんの常識って昭和で止まってると思うんですよ。今和ですよ」
「時代は変わっても、子供を愛する親の気持ちは変わらないわ」
「愛する気持ち? それで放置してたんですか? 矛盾してますよね。家庭ってやっぱりどこか歪んでるじゃないですか」
「ちょっと待って。それは言いすぎじゃない?」
「とにかく、私はお母さんみたいな失敗を繰り返したくないんで。私の母は完璧な育児をしてくれました。だから私も完璧な母親になれるんです」
息子の妻、ミさんは、そう言い放った。私は冷静さを保とうと、ゆっくりと息を吐いた。
「完璧な親なんていないのよ。みんな手探りで育てるの」
「お母さんみたいな中途半端な親とはレベルが違うんですよ。分かりますか?」
「このさ、ああ、分からないか。だって失敗した人には成功が分からないんですもんね」
「分かったわ。もう何も言わない」
その言葉が、ようやく口から出た。3日後、私はその件を大機にLINEで送った。
「本人が気が立ってるのに、こちらも配慮が足りなかったわ」
しかし、返ってきた返信は、私の想像をはるかに超えるものだった。
「お母さん、ミさんにこんなことを言われたのだけど、私、気に触ることを言ってしまったかしら」
送信後、私はスマホを握りしめたまま彼の返信を待った。しばらくして届いたメッセージ。
「母さんって無理に人を傷つけるから、なんか言ったんだろ」
「え? えって何? 俺が味方すると思ったのか?」
「俺が寂しがっても、母さんは仕事ばっかりだったじゃん。そうやって人との関わり合いから逃げてたツけだろ」
「なら、どうしたらいいの?」
「だから今は金出すくらいしか母さんの役割はないんだよ」
「なんですって」
「だって俺からも信頼度ゼロなんだぜ。そんな状態で子供に合わせられるはずないじゃん」
私は震える指で、反論した。
「でも、私、あなたのために必死で働いて…」
「必死で働いた。その結果が俺の寂しい子供時代ですけど。母さんが仕事優先したせいで、俺どれだけ我慢したと思ってるの」
「大機、そんな風に思ってたのね」
「今更気づいたのかよ。俺、結構伝えてたはずだけど。ああ、母さん忙しくて、俺の話なんて覚えてないか」
「そんなことないわ」
「でも結果的にそうなってるじゃん。本当鈍いよな、そういうとこ。昔のことを反省しても、過去の出来事がなくなることなんてないんだよ」
その瞬間、別の着信が入った。ミさんからだった。繋ぐと、彼女は冒頭から噛みつくように言った。
「お母さん、ちょっと大機に泣きつかないでくださいよ。いい大人が恥ずかしくないんですか?」
「どうしてやり取りよ」
「今、大機が病院にいるんで、全部見てますよ」
「それじゃあ、あの子が私をATM扱いしているのも見たわよね?」
「ATM? 違いますよ」
「え? 大儀が言ってるんだよ。お母さんは、私たちにとって投資家なんですって」
「投資家? まあ、正確にはATMで間違いはないですけど。だって、人として尊敬できないので」
「投資家ATM。そんな風に私を見てたの?」
「そうですよ。お母さんの存在価値って、お金を出すことだけじゃないですか? 他に何ができるんですか? 育児は失敗してるし、人間関係も下手だし」
衝撃で、私は言葉を失った。そんな私に畳みかけるように、彼女は言う。
「ああ、今隣で大機が『母さん、俺たちに金出すのが親としての責任でしょ。昔できなかったこと、今取り戻してるだけじゃん』って言ってます。打つのめんどくさいみたいで」
「それが、あなたたちの意見なのね」
「今まで大機に寂しい思いをさせた分、お金で償うべきですよね。それが親の義務ってもんでしょ。お母さん自身が、そういう立場に自分を追い込んだんですから。地合自得です」
「ああ、そろそろ赤ちゃんのお世話あるので、失礼します。お金の準備はしててくださいね」
通話は一方的に切られた。スマホを握ったまま、私はしばらく立ち尽くしていた。目頭が熱くなり、涙が滲む。しかし、次の瞬間、私は決意した。これほどまでに侮辱されて、黙って泣き寝入りするつもりはない。彼らの要求通りに動く方が、むしろバカを見ると分かっていた。
1週間後、私は一度だけ、静かな声で夫にこう言った。
「もう、この家のことはいい。私は、私のやり方で通す」
私は孤児院に寄付を始め、役所に相談して、自分の年金を細々と管理することを決めた。そして何よりも、私は私らしい生き方を取り戻しつつあった。
最初のひ孫からの電話には、一切出ないことを選んだ。
あの時、玄関先でこう言ったまま、電話を切った。
「お母さんの育て方は確かに完璧ではなかったかもしれないね。でも、それでも私は、自分を否定的に言わせるために、19歳で家を出たわけじゃないんだよ」
それから数年が経ち、病院の待合室で、私は見知らぬ老婦人と長話をした。
「おばあちゃん、息子さん、お元気?」
「ああ、あの子はね、今は認めてもらえなくても、いつか分かってくれる日が来ると思うんだよね」
「おばあちゃん、寂しい?」
「寂しさ? そんなの、昔からよ。私は、長い間、育て方で『ひとりぼっちの寂しさ』を知って育ったからね」
そう言うと、老婦人は優しく微笑んだ。
「おばあちゃん、ずっと孤児院の手伝いをしてたんだろ? 大人の役割が『全て』じゃないよ。きっと、あなたの生きた証は、ちゃんとあの子達の中にあるよ」
30年後、私は認知症と診断された。施設に預けられ、誰も訪ねてこない日々。
「おばあちゃん、お金は十分あるから、全部あなたにあげるね。使ってね」
しかし、私は首を振った。
「もう十分いただいたわ。お金の重みは、みんなの優しさで十分知ってる。別に受け取らなくても、私は私よ」
その言い方が、どこか彼女の亡き妻ミさんを思わせて、老婦人は深く息をついた。
「まあ、人生って、結局、最後に誰とどう歯を食いしばって生きたかってことかもしれないね。貯金や子供の面影に頼るんじゃなくて、今日を、ただ今日を丁寧に生きて、周りに見送られるだけの人生。その、教科書通りにいかない、穴だらけの物語を、精一杯なぞるしかないんだと思うよ」
そう言って笑う老婦人の目は、澄んでいた。
「娘さん、って言っていいのかしら。私には、本当の娘は増えなかったけど、昔知っていたお嫁さんが教えてくれたことがあるのよ。『子どもは、自分を薄っぺらに扱う親の顔を見て育つ』ってね」
私は、深く頷いた。
「私は、自分の人生を『失敗』と呼ばない。あの時、もし彼らの言う通りに支配されていたら、今頃私は、孫の教育費のために、毎晩泣いてたかもしれない。そう思うと、縁を切ってよかったと思ってるわ」
老婦人は、手に握った干し柿を差し出した。
「縁を切って、後悔はないの?」
「今は、あるわね。あの子に、何の不満がないと言ったら嘘になる。でも、縁を切らなかったことを後悔してるんじゃない。『線を引かざるを得なかった自分』を、もう責めるのはやめたの。昔の私には、精一杯の選択だったよ」
老婦人は、質素な服の裾を直しながら、ぽつりと言った。
「私もね、義母には厳しくされたから。だから、息子の嫁には優しくするのが、唯一の復讐なんじゃないかと思うことにしてるんだよ」
そう言うと、老婦人は席を立った。
「おばあちゃん、元気でね。お金を何に使うかより、目の前の一日一日をどう生きるか、だよ」
私は病室の窓から、枝に残った葉が風に耐えているのを見つめていた。あの日、玄関先で払ったあの封筒よりも、もっと大事なことを学んだ気がした。
「成功した結果、私がこの孤独を選んだんだ。正当な罰だよ」
独り言を漏らすと、まるで昔の私の声が聞こえたような気がした。
「お母さんは、私のかわりに、ちゃんと悲しんでるの?」
声の主を探すと、若い看護師が、孤児院からの書類を手に立っていた。
「おばあさま、お便りです。あの時のお金の件、お返ししますね、だそうです」
封を開けると、そこには使い込まれた一万円札が一枚。添えられたメモには、こう書かれていた。
『お母さんがくれた一番の投資は投資じゃなく、生きる力だった。ごめんね。今まで。』
私は涙が止まらなかった。あの日、投げつけた言葉も、受け取れなかった報酬も、全部、誰のものでもなく自分に返ってくる。
生きづらかったのは、私の方ばかりじゃないはずだ。やっと、そう思えた気がした。
私の人生は、ここでようやく、一つの答えを出したのだった。
