みほのスマホが震えたのは、夕食の皿を洗い終えたばかりの静かな時間だった。見覚えのない番号。出なければよかったのに、何かの弾みで指がスワイプしてしまった。
「ヤッホー、みほ。あんたの旦那の子、妊娠しちゃった」
低く澄んだ声。聞き覚えがあるような、ないような。こめかみが一瞬で熱くなった。
「あの、どちら様ですか」
「私だよ、ゆき。覚えてないの?婚約者奪った次は、旦那まで奪ってごめんね」
ゆき。その名前で、5年前の記憶が一気によみがえった。かつての親友。みほの婚約者だった男を、ゆったりと奪っていった女。連絡先はとっくに消したし、住所も変えた。なのに、なぜ。
「ゆきが、何の用よ。あんた、私から交際相手を奪ったくせに、今度は何の用」
「あの時はごめんごめん。でも今回は妊娠までしちゃったから、あんたも文句は言えないよね」
「妊娠って、何の話よ」
「そのままの意味だよ。あんたの旦那の子供が、お腹にいるの」
洗いかけの皿をシンクに置いた。指が少し震えている。
「意味、わかんないんだけど」
「あーあ、ショック受けちゃって現実が見えないんだ。まあ仕方ないか。大体、あんたには彼がいたでしょ。ほら、5年前に奪った、あんたの婚約者」
「そんなの、もうとっくに捨てたわよ。稼ぎが悪かったからね。恋人には良かったけど、夫には無理。でも今回は大手企業のエースだから大満足。あんたの旦那、優秀だもんね」
「どうして私の旦那のことを知ってるの」
「SNSで見たのよ。結婚報告してたじゃん。すっごいイケメンだし、会社でもエース級なんでしょ。将来安泰。今度こそ勝ち組になれるわ」
みほは息を整えた。動揺を声に出したくなかった。
「あのさ、もしあなたの言うことが本当なら、浮気してるって今、自分で暴露してるのよ。それって証拠になるって理解してる?」
「証拠?そんなの残してないわよ」
「いや、だから、その発言が証拠になるって言ってるの」
「あー、そういうこと。残念だけど、そんなの後で消せるし、捏造できるわ。ちゃんとした証拠がないと意味ないでしょ。5年前もそれで逃げ切ったじゃない。あんた、慰謝料請求しようとしたけど、証拠不十分で訴えられなかったよね。あの時のこと、もう忘れたの?」
ゆきの声がスピーカー越しに楽しげに弾む。
「それはね、私が賢いから証拠なんて残さないのよ。LINEも全部消してるし、ホテルも現金払い。写真も一切撮ってないから完璧。5年前に学んだのよ、証拠がなければ訴えられないって。弁護士にも相談したけど、結局、慰謝料すら満足に請求できなかったくせに。あの時のみほの顔、今でも覚えてるわ。悔しそうだったよね。本当、最高」
「…今回も同じよ。証拠がないから、あんたは何もできない。泣き寝入りするしかないのよ、残念でした」
みほは台所の壁に手をついた。冷たいタイルの感触が、妙に生々しかった。
「それを言いに、わざわざLINEしてきたの?あんた、こっちが連絡してもずっと無視してたくせに」
「あんたの連絡とかキモいから無視するに決まってるじゃん。ていうか、あんたって本当に鈍感よね。5年前も気づかなかったし、今回も気づかなかったんでしょ。旦那が浮気してるって、もっと早く気づけばよかったのに。まあ、もう手遅れだけど。彼、私のこと本気で愛してるから。前回と同じとは思わないで」
「うわ、怖。でも、あんたは私に慰謝料請求しないでしょ」
「何ですって?」
「あのさ、私、妊娠してるの。子供が生まれて、これからお金が必要になるわけ。私、母子家庭で育ったのよ。お金がない辛さ、わかるわ。母親が苦労してるのをずっと見てきたの。だからこの子には同じ思いをさせたくないの。みほは保育士でしょ?お金がない子供の大変さは分かるでしょ。貧しい家庭の子供をたくさん見てきたんじゃない?そういう子供って、かわいそうよね。同じ服でずっと遊んで、いっぱいご飯も食べられない。そういう辛さ、みほなら分かるわよね」
「…だから、何が言いたいの」
「だから、私から慰謝料とか請求しないでね。私から取ったら、子供が貧しくなるの。結果的に子供が苦しむのよ。そんなひどい人間じゃないわよね?保育士のあんたが、子供を貧しくしたいの?不幸にしたいわけ?あーあ、そういう人だったの?あんた、本当にクズね」
「ひどい。事実を言っただけじゃん。子供に罪はないのよ。子供のためにも、慰謝料請求とかやめてね」
みほは目を閉じた。時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「…分かった。離婚するね」
向こう側で、一瞬の沈黙があった。そして、挑発的な笑い声。
「あ、マジで?意外とあっさりしてるじゃん。もっと泣いたり怒ったりすると思ったのに。けど、ありがとう。話が早くて助かるわ」
「…もしあなたが本当に浮気してるなら、離婚しかないもの。悔しいけれど」
「じゃあ、彼は私が幸せにするから安心して。今度こそ本物の愛を手に入れたわ。みほはまあ、頑張って。新しい人見つけなよ」
「大きなお世話よ」
「なんで私の大切な人を奪うの?そう恨まれるようなこと、してないでしょ。みほは恵まれてるんだから、いいじゃない」
「…へ?私が恵まれてる?身も蓋もないけど、実家も普通で、好きな仕事して。確かに、幸せよ。でも、あんたに奪われる理由にはならないわ」
「それはね、私が賢く生きてるからよ。私は母子家庭で育ったの。母親が男の人に苦労させられるのを、ずっと見てきたのよ。愛想を尽かされて、捨てられて、泣いてる母を見て、私は思ったの。絶対に自分は繰り返さないって。だから私は賢く生きるって決めたの。お金と安定を手に入れるために、何だってするのよ。ねえ、みほ。また私に譲ってよ。5年前もそうだったじゃない。あんた、いい人だから許してくれるでしょ?」
みほは通話を切った。逃げるように、パジャマ姿のままリビングのソファに座り込んだ。数時間前まで、この時間が当たり前だった。今日も一日、熱を出した園児の世話をして、へとへとになって帰ってきて、夫のたくと食べた夕食を思い出す。あの何気ない時間が、もう壊れてしまう。胸の奥が、じくりと痛んだ。
その夜のことは、ずっと考えていた。
翌日、リビングでコーヒーを飲んでいると、たくが仕事に行く支度をしながら、話があると言った。
「みほ、あのさ。俺、お前に話したいことがあるんだ」
「何、急に」
「昨日、ゆきって人から連絡があったんだ。お前の元親友だって」
みほは手に持っていたマグカップをテーブルに置いた。音がやけに響いた。
「彼女、妊娠したって言ってた。俺の子供だって」
「…うん、私も言われた」
「信じるの?」
「信じたくないよ。でも、どうしてあの人があなたの名前を知ってるの?私の携帯に入ってる連絡先も知らないはずなのに」
たくは息を吐いた。少し間を置いて、口を開いた。
「俺は絶対に浮気なんてしてない。でも、一つだけ思い当たることがあるんだ」
「思い当たる節?」
「うん。実は君には話してなかったんだけど、俺には顔がそっくりな兄がいるんだ」
「…え?」
「俺の兄で、双子なんだ。身長も顔も声も全部同じ。昔はよく間違われたよ。でも、この兄が、まあ…正直まともじゃないんだ」
「どういうこと?」
「兄はギャンブル依存症で、酒癖が悪くて、性格も荒れてて、実家からも勘当されてるんだ。昔から問題ばかり起こしてた。俺とは真逆の人生を歩んでる」
ゆきの不敵な笑みが脳裏に浮かぶ。気持ちの悪いほど、自信に満ちた声。
「私、あの人の言葉がずっと引っかかってたの。『浮気してないって言えば言うほど、あなたは疑われる素振りをしないから、こちらとしては助かる』って、そう言われたのよ。それって、あなたが浮気するはずがないと思ってるからこそ、私があなたを信じてないと困るって言ってるようなものじゃない?」
「俺、その兄とトラブルがあってな。過去に、俺の名前を使って女性と付き合ったことがあるんだ。実際に会えば俺と勘違いされるって分かってて利用したんだろうな。それを何度か繰り返して、今回もそうなんだと思う。お前の元親友とやらも、俺と間違えてるんじゃないか」
「間違えてる?いや、たとえ外見がそっくりでも、あの人があなたの名前を名乗ってるんだよ?」
「それが、兄は昔から、俺のふりをして女性に近づくことがあったんだ。女性に『実はお前、みほと知り合いだろ』って探りを入れたり、『俺、もうすぐ結婚するんだ』って俺の話を出したりして、相手の反応を見てたんだ」
みほは頭を抱えた。あまりに突飛な話だが、一方で、はっきり気づいたことがある。
「…ねえ、たく。あの人の話を聞いてて、変だと思わなかった?『離婚する』って言ったら、あれだけあっさり引き下がったのよ。本当にあなたの子を妊娠してるなら、慰謝料を請求するからねって、もっと脅してくるはずじゃない?それなのに、あの人は『子供のためにお金を請求しないで』ってこっちを責めてきたのよ」
「それってどういうことだ?」
「つまり、あの人は私に慰謝料を請求するつもりがないだけじゃなくて、自分の方が慰謝料を取られる立場になることを、ずっと気にしてたんだよ。あの人があなたの子を妊娠してるのなら、私が慰謝料を請求する出来かどうかよりも、あの人の方が先に申し開きをするはずでしょ」
「……じゃあ、どうしてあんな自信満々だったんだ?」
「私をビビらせるのが目的だったんだと思う。私が取り乱して、怒鳴ったり泣いたりすれば、あの人の勝ちでしょ?でも、私があっさり『離婚する』って言ったから、拍子抜けしてたよ。もし本当に浮気してるなら、離婚されても構わないはずなのに、あの人はあの人は、私が慰謝料を請求しないって確認したがってた」
「ちょっと待って。じゃあ、妊娠ってのも偽物なのか?」
「もう一回、彼女に連絡してみる。今度は、私の方から」
みほはLINEを開いた。既読はついているが、ブロックはされていない。通話ボタンを押した。数秒の呼び出し音の後、あの聞き慣れた挑発的な声が、スピーカーから流れた。
「あら、みほ。どうしたの?昨日の話、もう飲み込めた?」
「ええ、もう飲み込んだわ。で、あなたの言う『浮気』のことなんだけど、これから最低でも月に一度は、私とあなた、そして旦那の三人で話し合いの場を設けたいの」
「は?何言ってるの?」
「だって、あなたは私の旦那の子を妊娠してるんでしょ?であれば、私がこの家を出て行った後も、あなたの子供と私の元夫は顔を合わせることになるでしょ?でも私はうんざりなのよ。あの人は浮気症だから。あなたみたいな女を次々に作りそうで、私がいなくなった後に別の女を作られても困るわ。だから、相手を間違えないように、あなたたちの関係を私もちゃんと監視するの。嫌わないでおいてよ。だって、私、慰謝料はあなたのために請求しないって言ったでしょ?」
沈黙が流れた。みほは続けた。
「それとも、何?もしあなたが妊娠してるのが旦那じゃないなら、私に慰謝料を取られるのが怖くて、『妊娠した』って嘘をついてるの?」
「な、何で…そんなこと…」
「だって、あなた、私に慰済料を請求しないでって言ったでしょう?あれって、あなたの方が悪いって自白してるようなものよ。私が慰謝料を取る権利があれば、あなたはすごく困るでしょ。でも、あなたが妊娠してるのが事実なら、私が慰謝料を請求してもおかしくないし、あなたはそれくらい理解してるはずでしょ。それなのに、なぜ『請求しないで』って言うの?」
面白いくらいに、相手が動揺しているのが伝わってきた。
「…別に。私はみほに同情しただけよ。初めから、そういう人なのよ、私は。忘れたの?」
「そう。それならいいんだけど。じゃあ、今度の日曜日、三人で会いましょう。場所は指定してあげる」
「いや、私は会わないわよ」
「あら、どうして?あなたは何も怖がることないでしょ。旦那の子供がいるんだから。私、あなたが言った通り、慰謝料は請求しないって決めてるし、離婚もする。むしろ、向こうの方から逃げてきた謝ってきたら、手のひらを返す男にありがちでしょ。ほら、来るわよ、きっと」
「……めんどくさいわね。分かった。じゃあ、その日に行くから。相手をしてあげるわ、特別に」
その日の夜、みほは旦那に全てを話した。すると旦那のたくは、驚いた顔の後、ゆっくりとうなずいた。
「それで、あいつを呼び出すのか?」
「ええ。向こうから、もう連絡してこないように仕向けるのよ。あの人はきっと、何か隠してる。それが分かれば、こっちのものよ」
「……分かった。俺も協力する。でも、もし、あいつが本当のことを言ってるなら、俺はお前を愛してるから、離れないでほしい」
「言ったでしょ。私はあの人の話を一言も信じてないって」
日曜日、指定した喫茶店に、ゆきは現れた。顔色が悪い。座るなり、ふん、と鼻で笑った。
「で、何の用よ。わざわざ呼びつけて」
「あなたが私の旦那と浮気したって言う証拠を見せてほしいの。妊娠してるんでしょ?病院の診断書でも、エコー写真でも何でもいいわ。あったら見せて」
「…だから、証拠なんてないって言ってるでしょ。私がちゃんと賢くやってるから」
「賢いね。なら、どうしてあなたはあんなに慌てて私に電話してきたの?私が『離婚する』って言ったのに、どうしてもっと反論しなかったの?」
「は?何言って…」
「あなたは言ったでしょ。『慰謝料を請求しないで』って。では、何で私に『私を責めないで』って懇願する必要があったのよ。本当に私の旦那と浮気してて、私から奪った相手を愛してるなら、堂々としてればいいじゃない。でもあなたは、私が慰謝料を請求することを何よりも怖がってた。つまりあなたは、私に非がある、あなたの側に非があるって、自分で分かってるんでしょ」
ゆきの顔がさっと強張った。
「じゃあ、言うけど」
みほはポケットからスマホを取り出して、ゆきに画面を見せた。
「あなたが私の旦那に送ったLINEのスクリーンショットよ。消したつもりでも、ね」
画面には、こんな短文が映っていた。
「来週、いつでもいいよ。愛してる」
送信元の表示は、まぎれもなく「たく」の名前になっていたが、みほは続けた。
「あなたが送ったこのLINE、軽く見返りができたわ。このアカウントのIDを調べたら、昔、あなたが私に送ってきたIDと一緒だった。これは浮気の証拠になってなくても、嘘をついてるって証明するには十分よ」
「…!それ、私のスマホ…あんた、盗んだな!」
「盗んでないわ。あなたが今、『私のスマホ』って言ったから、それは認めたも同然でしょ?あなたが自分のスマホのLINEを見せろって言ってきたら、あんたの浮気の証拠になるって思ってたんだけどね。残念。どうやら私は、あなたの思っていた通り、完璧なお人好しじゃなかったみたいよ」
ゆきの顔がみるみる赤くなった。
「覚えてなさいよ。みほ!後悔させてやるから!」
「どうぞご自由に。でも、こちらからも、もう十分証は集めたから。今度あなたが私にちょっかいを出してきたら、慰謝料請求も視野に入れてるって、どうか覚えていてちょうだい」
ゆきは財布を掴むと、何も言わずに喫茶店を出て行った。ぽつんと残されたテーブルに、コップの水だけが置いてあった。
帰り道、みほはすぐにたくにLINEを送った。
「終わったよ。やっぱりあの人の嘘だった」
「さすがだ。でも、どうして分かったんだ?」
「だって、あの人、私たちの結婚式に招待したでしょ?その時、たくにビンタしたのよ、酔った勢いで。それがきっかけで、知り合いだってバレるのを怖がってたの」
「…そうだったのか」
「うん。あの人はあなたを奪う気なんて、元々なかったのよ。最初から、私を陥れることしか考えてなかったの。5年前に私が幸せになるのが許せなくって、今回、私に復讐するために、あなたに嘘の浮気話を持ち込んだんだ」
「じゃあ、妊娠も偽物なのか?」
「あの人は、私にそう言って知らせたがってたの。『私が妊娠したのは、あなたのせいだ』って。でも、あの人の妊娠は多分、関係ない男の子供よ。本当にあなたの子供だったら、もっと簡単に別れてくれないわ」
「大丈夫か?まだ、何か企んでくるかもしれないぞ」
「大丈夫。今度こそ、あの人は何もできないよ。だって、あの人が嘘をついてたって、言いふらせるからね」
数週間後、みほの元に一通の封書が届いた。中には、ぎっしりと詰まった一万円札と、短い手紙が入っていた。
「みほさん、この度は大変な思いをさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした。お金は私と旦那との間で話し合って、有効に使わせてもらいます。あなたは私が思っていたよりも、ずっと強い人ですね。また、いつの日か、どこかで。 佐藤ゆき」
みほとたくは、その手紙を何度も読み返した。呆気にとられるような結末だった。そして、ほんの少しだけ、あの意地悪だった元親友のことを哀れだと思った。
それからみほは、それまで通り保育園で子どもたちと遊ぶ日々に戻った。慰謝料もない代わりに、大きな傷もなかった。ただ、一つ言えるのは、これからは誰かを疑うとき、もっと話を聞くことを覚えたし、何より誰かの話を鵜呑みにしないということを、心に刻んだということだった。たくも、ますます大切に思えた。
