「月収10万の貧乏人は帰った方が身のためよ。」
銀座の高級フレンチの個室で、シャンパングラスを掲げた女がそう言い放った。隣の女がケタケタと耳障りな笑い声を響かせる。
「マジ受ける。派遣営業さんに高級レストランは早かったかな。」
吊るしのスーツを着た男は、反論もため息もなく、ただ静かにグラスを置いた。2人はその沈黙を負け犬の諦めだと思っていた。勘定を押し付け、挨拶もなく去っていくその背中を、嘲笑の目で見送った。
――だが、翌日。
「皆様、ご紹介します。こちら、宮本誠一様。この病院の新しいオーナーでございます。」
「え、嘘だって。月収10万って……」
崩れ落ちる2人を前に、男は静かに告げた。
「ええ、いました。嘘はついてませんよ。ドルですけどね。」
見下されていたのは、彼女たちの頂点に立つ男だった。
朝の通用口を抜ける男の胸元で、ネームプレートの身分表示が揺れていた。色褪せた吊るしのスーツに、傷だらけの黒い営業鞄。手首の腕時計は量販店の安物だった。
男の名は宮本誠一。42歳。今日も医療機器メーカーの派遣営業として、武蔵の中央病院に超音波装置の納品を運んでいた。
「神聖メディテックさん、いつも早くから助かります。」
「いえ、配線まで含めてこちらでセッティングしておきますね。」
柔らかい受け答えに、若い看護師が表情を緩めて去っていった。誠一は納品の合間、廊下を歩く患者や看護師をさりげなく観察していた。誰がどんな顔で診察を待ち、どの医師がどんな声で患者に接するのか。ただの納品では決して見えてこないものがあった。
その時、ポケットでスマートフォンが震えた。同じ会社の営業課長で、高校からの親友、渡辺拓也だった。
「午後の呼吸器モニターの搬入、予定通りで頼む。それと、無理してないか?」
「無理も何も、納品してるだけだ。気楽なもんさ。」
「気楽ね。お前ほどの男がわざわざ派遣に潜り込んで、見たいものが本当にあるのか?」
「あるさ。外からしか見えないものが必ずある。親父の口癖でな。」
半年前に亡くなった父の声が、まだ耳の奥に残っている。
「人を肩書きで判断する奴は、患者のことも肩書きで判断する。」
医師だった父の遺言を守るため、誠一は堂々たる立場を離れ、派遣の職人まで頭を下げていた。
「お前のそういう生真面目なところ、昔から変わらないよ。まあ、もう少しの辛抱だ。せいぜい気楽な派遣さんでいろ。」
「ああ、今の俺はただの神聖メディテックの派遣社員、宮本だ。」
通話を切り、誠一は納品車のハンドルを握り直した。地味な派遣営業の顔の下に何があるのかを、この病院の誰もまだ知らなかった。
午前の検査が一段落した3階の廊下を、誠一は搬入を終えた台車を押しながら歩いていた。長椅子には診察を待つ患者が並び、消毒液の匂いとお茶の湯気が一緒に天井へ立ちのぼっている。ふと、長椅子の端で初老の男が一人、背を丸めて腹の辺りを押さえていた。油汗をかき、浅い呼吸を繰り返している。
「失礼します。加減が悪いんじゃありませんか?」
「いや、受付は済ませたんだが、呼ばれるまで待っててと言われてね。さっきから腹が痛くて。彼これ1時間かな。だんだん油汗が出てきてね。」
誠一は窓際から車椅子を一つ引き寄せると、男の傍に静かに寄せた。
「立てますか? 無理はなさらず。これに腰かけてください。背中、支えますから。」
「すまないね。あんた、ここの人かい?」
「ええ、ただの納品の業者です。でも、辛い時に身分は関係ありませんよ。」
男をそっと車椅子に座らせると、誠一は通りかかった看護師を呼び止め、痛みの強さと続いている時間を手短に伝えた。看護師は一瞬決まり悪そうな顔をして、男を診察室の方へ運んでいった。
患者を順番でしか見ない受付。気づいても足を止めない看護師。この病院の冷たさはどこから来ているんだろう――胸の内でその疑問が小さくくすぶった。
その時、廊下の奥からハイヒールの硬い音が二つ近づいてくる。誠一はさりげなく台車を壁際に寄せ、柱の影に身を引いた。白衣をなびかせて歩いてくるのは、二人の女医だった。先を行く長い髪の女が、高級腕時計を見せつけるように腕を組んでいる。
「ねえ、由香、今月の学会、また私が座長ですって。困っちゃう。優秀すぎるのも罪ね。」
後ろの茶髪の女が、新品のバッグを揺らして追従した。
「さすが沙織、呼吸器内科のエースだもの。私なんてまだまだ。」
呼吸器内科の医局長、北条沙織。33歳。名門医大卒であることを何より誇る女だった。隣で機嫌を取るのは、消化器内科の篠崎由香、31歳。院内では二人とも優秀な医師で通っていた。
そこへ、患者の付き添いらしい中年女性がおずおずと声をかけた。
「あの、北条先生。先ほどの母の検査結果のことでもう少し詳しいご説明をいただけませんか?」
「予約は取ってある? 私たち医者の時間がどれだけ貴重だと思ってるのかしら? いちいち噛み砕く暇はないの。」
「そこを、ほんの少しだけでも……」
「先生は午後もお忙しいんです。ご家族の方はもう少し湧きまえてくださらないと。」
二人は女性を置き去りにして、硬い靴音を響かせながら廊下の角を曲がっていった。残された女性が、行き場のない手を胸の前で握りしめている。柱の影から見ていた誠一は、ゆっくりと息を吐いた。
説明を求める家族を簡単に切り捨てるか。あれがこの病院の医師の顔とはな。声に出せない言葉が、口の中で苦く溶けた。父の言葉がまた胸をかすめる――人を肩書きで判断する奴は、患者のことも肩書きで判断する。
納品を片付け終えた頃、拓也からメールがあった。
『お疲れ。今夜急で悪いんだが、会合に付き合ってくれないか? 女が2人来るんだ。上位ね。』
『どこの病院の?』
『うちが担当してる武蔵の中央病院の先生方でな。前から付き合いのある先生に頼まれて組んだ席なんだ。』
『ほう。お前も結構大変だな。断るか? お前、こういう場は苦手だろう。』
『いや、行くよ。顔だけ出す。』
『おお、珍しいな。お前が即答とは。』
『ただの付き合いさ。期待はするなよ。』
通話を切り、誠一は窓の外へ目をやった。女医というのを聞いて、思わず見てみたくなった。今夜会う相手が、自分のことを何も知らないままで、どんな顔をさらすのかを。
その夜、銀座の路地裏にある高級フレンチの個室で、誠一と拓也は先に席について二人を待っていた。柔らかな照明が白いクロスを照らし、グラスの縁が光を弾いている。やがて、ハイヒールの軽い足音と濃い香水の匂いが廊下の向こうから近づいてきた。
「お、来たみたいだぞ。」
扉が開く。入ってきたのは、昼間の廊下で患者の家族を切り捨てたあの女医の二人だった。だが向こうは、あの一部始終を見ていた男が今ここに座っているとは、まるで気づいていない。
「初めまして。消化器内科の篠崎由香です。」
「同じく、呼吸器内科の北条沙織。よろしくお願いします。」
「わあ、素敵なお店。お二人とも、こういうところ慣れてらっしゃるのね。」
「いえ、普段は立ち食いそばですよ。今日は奮発しました。」
「あら、ご謙遜。営業の方って接待でいいお店ご存じでしょう。で、お仕事は医療機器と伺ったけれど、神聖メディテック日本で営業課長しております。渡辺です。」
「営業課長さん。じゃあ、お医者様とのお付き合いも多いんですね。いいじゃない。ねえ、沙織。」
「ええ、うちの病院にもよく出入りしてらっしゃるわね。」
拓也の挨拶が済むと、その視線が隣の誠一へと移った。安物の腕時計の辺りで沙織の目が一度、わずかに止まった。
「で、お隣の方は。課長さんのお連れだから、やっぱり同じような立場の方?」
「同じく神聖メディテック日本で、派遣営業しております。宮本です。」
「派遣? 派遣の営業さんが会合に来るって聞いてないんだけど。」
「やだ。てっきり課長さんと同席の方かと思っちゃった。紛らわしい。」
「ふーん。派遣ね。」
長い髪を掻き上げ、沙織は隠そうともしないため息をついた。
「ねえ、渡辺さんのところってボーナス凄いんでしょ? ぶっちゃけ年収どれくらい?」
「いや、普通ですよ。お二人のような先生方にはとても及びません。」
「またご謙遜。ねえ、先生って呼ばれると悪い気しないわよね。」
「当然でしょ。私たちそれなりに勉強してきたもの。庶民とはかけてきた時間が違うの。」
二人の笑い声が個室にこもる。話を振られなくなった誠一は、同じ卓にいながらまるで一脚の空き椅子のように扱われていた。グラスが空いても、誰も気を払わない。やがて、沙織の目が退屈しのぎのカモでも見つけたように誠一へと向いた。
「そういえば宮本さんは。派遣の営業さんのお給料って私知らなくて。差し支えなければ参考までに……」
「やめなさいよ、沙織。聞いて気まずくなったら宮本さんに悪いじゃない。」
「あら、フォローのつもり? 篠崎先生、それはさすがに……」
「ええ、構いませんよ。そうですね……計算しますと。」
場の視線がふっと誠一に集まった。誠一はグラスを置き、ほんの少し間を取る。
「月収、10万くらいでしょうか?」
一瞬、個室が静まり返った。沙織が自分の耳を疑うように首をかしげる。
「え、ごめんなさい。聞き間違いかしら。今、いくらって?」
「月に10万ほどです。」
「10万? ええ、月収で?」
「嘘でしょ?」
二人は一瞬顔を見合わせ、それから堪えきれないというように同時に吹き出した。
「やだ、本気で言ってるの? 月収10万って、私の研修時代より少ないんですけど。」
「本当。それっていうか、それで生活できるの? 家賃とかどうしてらっしゃるの?」
「まあ、質素にやっていますよ。」
「質素にですって。聞いた、沙織。質素にだって。アルバイトの学生さんでももう少し稼ぐでしょうに。40を過ぎて月収10万ねえ。」
「それってお小遣いとかじゃなくて、本当にそれが全部?」
「ええ、それが全部です。」
「信じられない。暇なコンビニの方がまだ時給いいわよ。」
沙織はもはや嘲りを隠そうともしなかった。ワイングラスの脚を指先で弄びながら、品定めするような目で誠一を上から下まで眺め回した。
「通りでその吊るしのスーツも、その時計も、全部納得だわ。最初に見た時からなんとなくそうじゃないかなと思ってたのよね。」
「やだ、沙織ったら。でも分かる。匂いで分かるもの。そういうの。」
シャンパンを抜こうとした店員の手が、気まずさにわずかに止まった。拓也が何か言いかけたが、誠一の視線に止められる。それでも沙織は止まらず、笑いながらとどめのように身を乗り出した。
「ねえ、沙織。はっきり言ってあげたら? こういうの、お互いのためよ。」
沙織はグラスをそっと置いた。そして、これ以上ないほど涼しい顔で言い放った。
「月収10万の貧乏人は、帰った方が身のためよ。」
由香がケタケタと耳障りな笑い声を響かせる。誠一は表情を一つ変えず、グラスの水を口に運んだ。怒りは不思議なほど湧いてこない。ただ、この二人が半年後に自分が背負う系列病院の現役の医師なのだという事実だけが、鉛のように胸の底へ沈んでいった。
メインの皿が下げられた頃、沙織と由香は申し合わせたように席を立ち、化粧室へと向かった。鏡の前で口紅を直しながら、二人は声を潜めて笑い合う。
「ねえ、会計どうする?」
「決まってるでしょう。当然、無効。」
「でもさ、本当に払えるのかしら。月収10万でこのフレンチ。」
「それよ、ちょっと試してみたくない? 払えなかったら、それこそいい笑い話だわ。」
「由香って本当に性格悪い。」
席に戻った二人は、一口食べるとわざとらしく腕時計に目をやった。
「ああ、お腹いっぱい。私、明日も早いから。医者の時間は貴重なの。お会計、そちらでお願いできる?」
誠一が口を開く前に、二人はバッグを肩にかけ、フロアスタッフの案内すら素通りして出ていった。残されたのは、五桁の伝票と、リップの跡が薄く残ったグラスだけだった。
「悪い、宮本。俺が誘ったばかりに……」
「気にするな。お前のせいじゃない。」
「しかし、ひどいもんだな。仮にも医者が、人様に対して言う言葉か。」
「いや、財布の中身で人を試す、試合のちょうどいい見本を見られた。」
その日も誠一は、派遣営業として武蔵の中央病院に納品を運んでいた。午前の検査で、待合室の長椅子は患者で埋まっている。配線を整えていた誠一は、ふと待合いの隅で若い母親に気づいた。腕の中の幼い子がぐったりと泣きじゃくっている。
「失礼します。お子さん、随分辛そうですね。」
「すみません。熱が高くて。さっき受付で聞いたら、まだ30分は待ってって。この子、じっとしていられなくて。」
「そうですか。少しこちらへ。窓際なら風が通って、いくらか楽かもしれません。」
誠一はベンチを示し、母親が腰を下ろすのを待って、自分の上着を畳んで子どもに当ててやった。泣き声が少しずつ収まっていく。そこへ、廊下の奥からハイヒールの硬い音が二つ近づいてきた。沙織と由香である。二人は誠一の顔を見るなり、足を止めた。
「あら、昨日の派遣さんじゃない。こんなところで何してるの?」
「やだ、本当だ。月収10万の。まさかうちの病院に出入りしてたわけ?」
「ええ。神聖メディテック日本の派遣で、こちらに機器を納めさせていただいてます。」
「ふうん。世間って狭いのね。昨日の今日で顔を合わせるなんて。」
由香はクスクス笑いながら、母親の腕の中の子どもに目を映した。その目がすっと冷たくなる。
「ところで、その子、さっきからうるさいんだけど。ここ、具合の悪い人ばっかりなの。もう少し静かにしてもらえる?」
「すみません。熱が高くて、ぐずってしまって。」
「お母さん、お気持ちは分かるけど、診察には順番があるの。皆さん同じように具合が悪くて待っていらっしゃる。あなたのお子さんだけ特別というわけにはいかないのよ。」
「特別になんて、そんなつもりは……」
「なら、静かに。それがここのルールですから。」
冷たく言い置いて、沙織は背を向けようとする。さも当然の正論を述べたという涼しい顔だった。だが、この子どもを抱き上げ、額に手を当てた誠一が静かにその背に声をかけた。
「先生。順番より先に、この子を見てあげていただけませんか? 額がかなり熱い。微熱という温度ではありません。」
「なんですって?」
「ぐったりして、反応も鈍くなってきています。順番を待っている場合ではないように見えます。」
「派遣の営業さんが医療に口出し。ネットの知識が何か知らないけど、迷惑なのよね。」
「そうよ。判断で不安を煽らないでくれる? 順番は順番、規則は規則なの。」
その時、母親の腕の中で子どもがびくっと、不自然に痙攣した。誠一の表情が変わる。
「お母さん、すぐ看護師さんへ。急いで。」
「あ、あい……」
ただならぬ声に、母親が処置室へ駆け出した。ほどなく看護師が駆け足で子どもを運び込み、廊下が一気に慌ただしくなる。規則を盾にした手前、沙織と由香は引っ込みがつかないまま、その場に立ち尽くしていた。
やがて戻ってきた母親が、誠一に深く頭を下げた。
「あなたが気づいてくださらなかったら、痙攣を起こしかけていたって先生が。本当にありがとうございました。」
「お子さんが無事で何よりです。大事になさってください。」
廊下の角でその様子を見ていた看護師長が、誠一に歩み寄り声を落とした。
「神聖メディテックさん。さっきの判断、本当に的確でした。お恥ずかしい話です。」
「いえ、ただ、端で見ていただけです。」
その言葉を、沙織と由香は離れた場所で冷ややかに聞いていた。
「何あれ? 派遣のくせに看護師長に取り入っちゃって。点数稼ぎか。ああいうの、一番醜いのよ。」
聞こえよがしの嫌味を残し、二人は去っていった。だが誠一は振り返らない。胸に残ったのは怒りではなく、規則の一言で切り捨てられかけた子どもの、熱い額の感触だった。あの子どもの異変に、医師である二人は規則を盾に順番を優先した。足りないのは肩書きでも学歴でもない。目の前の患者を一人の人間として見る目だ。
胸のうちに苦いものが広がっていく。台車のハンドルを握り直した誠一の横顔は、いつもの派遣営業のものに戻っていた。だが、その胸の底では、これまでとは違う熱が静かに燃え始めていた。
その日の午後、業務の合間を縫って、誠一は人のいない院長室へと招かれた。重厚な木製のデスクの向こうで、田所院長が静かに指を組んでいる。武蔵の中央病院の院長であり、誠一の亡き父が生前最も信頼を置いていた男だった。
「現場はいかがですか?」
「想像していた以上でしたよ、院長。今日も、熱を出した子が危うく見過ごされるところでした。」
「そうですか。もしかして、北条先生と篠崎先生ですか?」
「ええ。患者からのクレームも、院長の耳には届いてはいないでしょう。」
田所は静かに引き出しを開け、苦情の集計表を滑らせた。二人の医師の名の横に、抗議の件数が綺麗に並んでいる。誠一はその数字を黙って目に焼き付けた。
「私の前では、よくできた医師なのです。だからこそ、質が悪い。」
「外からしか見えないものが必ずある。親父の言葉の意味が、ようやく腹に落ちました。」
窓の外へ視線を移した誠一の脳裏に、半年前の病室が蘇える。骨と皮ばかりの手を握ったあの夜、父は掠れた声で繰り返した。人を肩書きで判断する奴は、患者のことも肩書きで判断する。患者にとって本当に必要な医療とは何か。自分の目で見極めろ。
「親父。あんたが言い残した言葉の意味が、今なら分かるよ。自分で現場に潜り込んでみて初めて、腹に落ちた。診察室の中だけ見ていたら、一生気づけなかった。」
胸の奥で、亡き父にだけ届く声でそう呟いた。やがて誠一はゆっくりと田所に向き直った。
「院長。見ているだけなのは、もう終わりにします。」
「よろしいのですか?」
「ええ。十分すぎるほど見せてもらいました。あの二人だけの問題じゃない。患者を順番でしか見ない受付も、痛みに気づかない現場も、クレームが握りつぶされる仕組みも。この病院全体が、どこかで患者の顔を見失っている。」
「おっしゃる通りです。私の目も行き届かず、申し訳ございません。」
「いえ、体裁は整えてるようですから、院長も動きにくいでしょう。しかし、次は私の立場で、この病院そのものと向き合います。そのために親父は、俺に現場を見ろと言ったんでしょうから。」
田所は深く頷いた。前任から後を託された日のことを思い出しているようだった。
「お父上もきっと、同じ選択をなさったでしょう。あなたという方を残してくださったことに、私は今、心から感謝しております。」
「買いかぶりですよ。俺は俺にできることをやるだけです。」
静かに席を立った誠一の横顔には、一つの覚悟が静かに座っていた。
その頃、沙織と由香の関心は思わぬ方向へと向いていた。きっかけはあの会合である。
「ねえ、由香。考えてみたら腹が立たない? あの月収10万の派遣を私たちの前に連れてきたの。あの渡辺とかいう営業課長でしょ。」
「本当、それ。医者との会合の場に、よりによって派遣を混ぜるなんて。私たちの格を何だと思ってるのかしら。」
「神聖メディテックの渡辺ね。ちょうどいいわ。うちの病院、あの会社から機器をたくさん入れてるもの。」
「沙織、何か思いついた顔してる。」
「うふふ。営業マンの評価なんて、取引先の一言でどうにでもなるのよ。」
二人の意図はすぐ行動となって現れた。拓也が定例の機器説明に訪れる度、申し合わせたように冷ややかな態度を浴びせるようになった。沙織は神聖メディテック社にレポートを送り付けた。
『提案内容が的外れ。患者ニーズを理解していない。対応能力が著しく低い。担当の即時交代を求める。』
武蔵の医療グループという大口取引先の名を背負ったその書面は、本社の役員フロアをたやすく動かした。数日後、拓也は本社の会議室へ呼び出された。向かいには、腕を組んだ営業本部長と人事担当が険しい顔で座っている。
「渡辺。武蔵の中央病院から君に対する正式な抗議文書が届いている。読みなさい。」
「拝見します。」
「どうだ?」
「心当たりはありません。納入記録もプレゼン資料も、全て本部の承認を得たものです。先方の主張を裏付ける事実が一つも……」
「だが向こうは取引停止までちらつかせている。武蔵のグループはうちの売上の柱だ。組織として対応せざるを得ない。営業課長から営業へ。一階級の降格。武蔵の中央病院の担当からは外れてもらう。これは決定事項だ。」
拓也はしばらく何も言えなかった。指先で書面の角を整え、ゆっくりと息を吐いた。
「……わかりました。」
抗議も釈明も、それ以上は口にしなかった。会議室を出て、誰もいない非常階段の踊り場で、拓也は壁に寄りかかって長く息を吐いた。ポケットのスマートフォンには、誠一からの何でもないメッセージが一件届いている。何度か指をかけて、結局開かずにしまった。
「宮本には言えないな。あいつはもうすぐ、あの病院のトップに立つ男だ。親友のこれで降格を覆してもらうなんて、平の営業としてはできない。これは俺が、自分の力で晴らす。」
胸のうちでそう自分に言い聞かせた。二十年積み上げてきたものが、ペラペラの紙切れ一枚で覆る。その理不尽を、拓也はたった一人でその胸に飲み下した。窓の外では、夕暮れの空がゆっくりと色を失っていった。
その頃、病院では――
「ねえ、本社から連絡来たって。渡辺さん、降格ですって。」
「あら、そう。当然の結果よね。実力のない営業マンなんていくらでもいるもの。」
「沙織って、本当に怖い。ちょっとやりすぎじゃない?」
「やりすぎ? 向こうが私たちを見くびったのが悪いの。派遣を連れてくるような無神経な男に、お灸を据えてあげただけよ。」
二人は何の罪悪感もなく笑い合った。自分たちが踏みにじった相手が、半年後に自分たちの運命を握る男の、たった一人の親友だとは、まだ知るよしもなかった。
数日後の朝。武蔵の中央病院の大会議室には、内科部長から若手医師、看護師長、事務までが顔を揃えていた。半年前から空席だった理事長の座。その新理事長を、今日この場で全職員に披露するという。最前列には、当然の権利のように沙織と由香が並んでいた。
「噂の新理事長、いよいよご紹介ね。最初の挨拶でしっかり点数を稼いでおきましょう。」
「どんな大物かしらね。やっと私たちの実力に見合った上司が来てくれるってわけ。」
「派手すぎず、でも印象に残る一言がいいわ。考えてあるの。」
会議室の隅には、広告の引き継ぎのために呼ばれた拓也が、誰とも目を合わせず端の席で背を丸めていた。やがて、司会が立った。
「皆様、本日はご紹介申し上げたい大切な方をお招きしております。前理事長がお亡くなりになって以来、ご心配をおかけしてまいりました。後継者の件です。では、新理事長、お入りください。」
会議室の後方の扉が、内側から静かに開いた。一斉に振り返った視線の先に立っていたのは、仕立ての良いスーツに身を包んだ男。だがその顔は、院内の廊下で何度も見かけた、あの男だった。
「……あの方は、廊下で顔を合わせた神聖メディテックの宮本さんですか?」
事務と看護師たちのざわめきが、波紋のように前から後ろへと広がる。
「皆様、ご紹介申し上げます。こちらは宮本誠一様。武蔵の医療グループの新理事長でいらっしゃいます。つまり、この病院のオーナーでいらっしゃいます。」
「え、ええ、嘘でしょ?」
「宮本理事長は、前理事長の遺志に基づき、就任に先立つこの二週間、あえて医療機器の派遣営業として現場をその目でご覧になってこられました。ご挨拶させていただきます。ご無沙汰しております……というほど皆様とは面識もありませんが。改めまして、宮本誠一です。」
その瞬間、事務が真っ先に席を立った。
「これは大変なご無礼を申し上げました。理事長。廊下で大人げない対応がございましたら、どうかお許しください。」
「私までご挨拶が遅れまして、申し訳ございません。」
階段を一段ずつ下りるように、地位の高い順から頭が下がっていった。その中で、最前列の二人だけがまだ立てずにいた。沙織は腰を半分浮かせ、白くなった指で机の縁を掴んだまま、震える声を絞り出した。
「そんな、嘘よ。だってあいつは派遣営業よ。月収10万って、自分でそう言ったじゃない。」
「ああ、お二人ともこちらにいらしたんですね。」
ゆっくりと最前列の前まで歩み出た誠一が、二人の顔を順に見据えた。
「ええ、確かに言いました。月収10万だと。嘘はついていませんよ。ドルですけどね。」
「ド、ドル? 嘘。月収10万ドルって……そんな……」
「随分驚いているようですね。そんなに収入が重要ですか? 父が残した言葉でしてね。人を肩書きで判断する奴は、患者のことも肩書きで判断する。あの夜の会合も、廊下でのあの子の一件も、よく見せていただきました。」
膝の上で、由香の手が小刻みに震えた。
「どうしよう、沙織。私たち、なんてことを……」
「あれは、この人が悪いんじゃ……。」
「ハロー効果というそうです。肩書きが立派なら中身も立派。軽ければ中身も軽い。お二人の物差しは、見事にその典型でした。」
「何を言って。私たちは実力でこの地位にいて、ちゃんと自分の物差しで……」
「ええ、お二人とも優秀な医師だと聞いています。だからこそ、一番見過ごせないのは、その物差しを患者にまで当てていたことです。とても重要なことなので、お伝えしておきます。患者と同じ目線に立てない医師は、これから先、何も築き上げることはできません。」
崩れかけた由香の肩を、沙織が反射的に掴もうとして、自分の手までも震えているのに気づき、慌てて袖の中へ隠した。プライドだけで築いてきた城が、あっという間に崩れていく様子を、一部始終の全てが息を殺して見守っていた。誠一は、隅の席でうつむいている拓也へちらりと視線を送った。
『待っていろ。お前の件は聞いている。これからきっちり晴らす。』
「お二人はこの後、院長室へ。理事長から直接お話があります。」
窓の外を救急車のサイレンが通り過ぎていく。その音が遠ざかった頃、二人はようやく震える足で立ち上がった。
院長室の重い扉が閉まると、室内の空気がぐっと張り詰めた。デスクの向こうに腰を下ろした誠一の傍らには、田所院長と事務、そして人事部長が控えている。その正面に立たされた沙織と由香は、先ほどまでの傲慢さをすっかり失い、強張った顔で身を寄せ合っていた。
誠一は一冊の書面を静かに机の上に滑らせた。
「まず一つ目。お二人が連名で神聖メディテック日本へ送られた、この評価レポートについてです。」
「それは、正当な業務上の評価で……」
「提案が的外れ。患者ニーズを理解していない。対応能力が著しく低い。この内容を裏付ける具体的な事実を、一つでも示せますか?」
「それは……」
「示せませんね。当然です。渡辺課長の納入記録も提案資料も、全て本社の承認を得たものだ。私が一つ一つ確認しました。このレポートは、虚偽の内容に基づくものと認定されました。」
「そんな、勝手に……」
「グループ理事長室から神聖メディテック日本へ、正式な抗議文書を送付済みです。渡辺課長の降格処分は即時、撤回されます。お二人が会合の仕返しで一人の営業マンの二十年を踏みにじろうとした件は、これで終わりです。」
その一言に、由香の肩がびくっと震えた。自分たちの放った悪意が、目の前の男の親友に向けられていたのだと、ようやく気づいたのだ。誠一はわずかに声を落として続けた。
「彼は、私の高校からの友人でしてね。心配をかけまいと、降格のことを私には一言も言わなかった。お二人はそういう人間を、紙切れ一枚で落とし入れようとした。」
「知らなかったんです。あの人が理事長の知り合いだなんて……」
「知り合いかどうかで、やっていいことと悪いことが変わるんですか? それがお二人の物差しなんですよ。」
返す言葉を失った二人に、誠一は二枚目の書面を差し出した。
「二つ目。お二人の院内での処遇です。給与体系の見直し、学会出張手当ての精査、ご担当いただく患者数の再配分を行います。合わせて、院内での指導役は外れていただく。人事部長、よろしいですね。」
「処分内容、承知しました。即日、勤務に反映いたします。」
「待ってください。私は医局長の何かけて……こんな、こんな屈辱、受け入れられません。」
「屈辱、ですか? 私がどれだけの努力をしてここまで来たと。」
「その努力は本物でしょう。私もそこは疑っていません。ただ、その努力は一体誰のためのものでしたか? ご自分のプライドのためですか? それとも、あなたを頼って病院へ来る患者さんのためですか? お二人の今の医療は、自分にしか向いていない。私にはそう見えました。」
沙織は唇を噛んでうつむいた。反論の言葉を探すように視線を泳がせるが、何も出てこない。その沈黙を誠一は静かに見つめてから、ふと声の調子を柔らげた。
「ですが――医師として、やり直す機会をもう一度だけ差し上げます。患者目線を一から学び直していただく研修プログラムを受けてもらう。それを終えた時、お二人がどんな医師になっているか、私はそれを見たい。」
「私はこんなところで、信念を曲げたりしませんよ。」
「それはこのプログラムを受けてからおっしゃってください。学ぶか、ご自分で別の道を選ぶか。決めるのはお二人自身です。私は強制しません。」
冷たく突き離すものでもなく、無理に許すものでもない。ただ選択肢だけを差し出して、誠一は口を閉じた。沙織は最後のプライドにすがるように顔を背けたまま動かない。だが、それまでずっと俯いていた由香が、ふいに肩を震わせて顔を上げた。
「私は……私はどうすればいいですか? 教えてください、理事長。」
その声に、沙織が驚いたように隣を見た。誠一は初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「あなたの目には、まだ何かが残っているようだ。」
「私、ずっと本当はちゃんと患者さんと向き合いたかったのに。いつの間にか、沙織の隣にいることばかり考えてて……」
「篠崎先生。明日からあなたには、別のメンターについていただきます。篠崎先生の担当には、神聖メディテック日本の渡辺課長を予定しています。医療機器の販売現場から、患者ニーズというものの基本を学び直していただきましょう。」
「渡辺さん……あの、私が傷つけた……」
「ええ、あなたが頭を下げるべき相手の一人です。学びはそこから始めるのが一番早い。」
由香は涙を拭いながら、何度も深く頷いた。その隣で、沙織はまだ硬く口を結んだまま、誰とも目を合わせようとしない。プライドという名の最後の壁が、彼女の中でまだ崩れずに残っていた。
研修プログラムが始まって一ヶ月が過ぎた。由香は、メンターとなった拓也について、医療機器の納入現場を回る日々を送っていた。最初の日、由香は会議室で深く頭を下げることから始めた。
「渡辺さん、本当に申し訳ありませんでした。私たちが流した嘘の評価であなたの二十年を踏みにじってしまいました。」
「頭を上げてください、篠崎先生。降格は撤回されました。もう過ぎたことです。」
「でも、私……」
「謝罪は受け取ります。その上で、一つだけ。これからは、患者さんに向き合うチームとして一緒に学びましょう。私もまだまだ学ぶ側ですから。」
その日から、由香の目に映る景色は少しずつ変わっていった。拓也が機器を一台納める度に、その先にどんな患者がいて、どんな不安を抱えているかを丁寧に語って聞かせる。営業という仕事が、ただ物を売るのではなく、患者の暮らしを支えるためにあるのだと、由香はこの時初めて知った。
『私、医者なのに。機械を売る人より、患者さんのことを考えていなかった。』
胸のうちに、苦い後悔が滲んだ。ある日の回診で、由香は受け持ちの高齢患者の前に、これまでとは違ってゆっくりと腰を下ろした。
「加減はいかがですか? 眠れていますか? 不安なこと、何でも聞かせてください。」
「先生、今日は随分優しいんですね。前は忙しそうで、声もかけられなかったのに。」
「すみませんでした。これからは、ちゃんとお話を聞かせてください。」
患者のしわだらけの手が、由香の手をそっと握り返した。
「ありがとう。」
と小さくこぼれたその一言が、由香の胸の奥でずっと固まっていた何かを溶かしていく。
一方、沙織は研修初日から、誰とも目を合わせようとしなかった。プライドという最後の壁が、彼女を不機嫌にさせていた。ある日の昼下がり、誰もいない病棟で、沙織は一人、退職届の用紙を前に座っていた。そこへ、由香が静かに入ってくる。
「何の用? 私を笑いに来たの?」
「沙織。私、思い出したの。自分たちがどうして医者になりたかったのか。」
「やめてよ、今さら青臭いこと。」
「青臭くて何が悪いの? 私、ずっと忘れてた。人を助けたくてこの道を選んだはずなのに。いつの間にか、肩書きとお金とプライドのことしか考えてなかった。あなたは私よりずっと優秀よ。だからこそもったいない。その腕を、患者さんのために使って欲しいの。」
沙織は何も答えず、ただ握りしめた退職届の角が、くしゃりと折れた。
その夜、一人病院に残った沙織は、自分の受け持ち患者のカルテを初めて一枚ずつ丁寧に読み返していた。検査の数字の向こうに、生身の人間の暮らしがあることに、今頃になって気づかされながら。
季節が改まり始めた頃、誠一は理事長室で田所から一枚の報告を受けていた。
「篠崎先生、変わりましたな。患者さんからの評判も見違えるようです。」
「ええ。あの人は元々いいものを持っていた。それを思い出しただけです。」
「北条先生は、まだ時間がかかりそうですが……」
「いいですよ。それで、プライドの高い人ほど、本当に変わった時は根が深い。焦らせる必要はありません。」
それから数週間が経ったある朝、理事長室の扉が控えめにノックされた。入ってきたのは沙織だった。少し痩せた顔で、しかし以前のような怖さはもうそこになかった。
「理事長。一つだけ、お話ししたいことがあって参りました。」
「どうぞ。」
「あの夜、月収10万だとおっしゃった。嘘ではないにしても……どうして、わざわざあんなことを?」
「それは、人がどう変わるか、それが見たかった。学歴や肩書きを語った時、相手が自分にどう接するか。それで、その人の本当の姿が見えるものですから。」
「私は……最低の姿をお見せしました。申し訳ございませんでした。」
「ええ。ですから、こうして謝罪に来られた。それは、あなたの心が変わったからだと思います。」
沙織は長く俯いたまま、やがて絞り出すように頭を下げた。プライドの城を、自らの手で崩した瞬間だった。
「でもまあ……少しはですけどね。人は、すぐ変われない。」
「相変わらず、意地悪ですね。」
「でも、私なりに改めて患者さんたちと向き合って、色々と気づけることはありました。おかげ様で。」
「そうですか。それは何よりです。」
「渡辺さんにも、謝らせてください。それから、私が冷たくした患者さんたちにも、一からやり直したいんです。」
「いつでもどうぞ。やり直すのに遅すぎるということはありません。これからに期待していますよ。」
窓の外では、季節外れの温かな日差しが白い廊下にゆっくりと差し込んでいた。月収10万円というたった一つの嘘が暴いたのは、二人の女医の本性だった。だが今、その同じ言葉が、二人が自分自身を見つめ直す最初の鏡になっていた。
季節が一巡りした春の朝。武蔵の中央病院の理事長室で、誠一は襟元の桜のピンバッジにそっと指を触れた。亡き父が好んでいた、ささやかな印だった。正面の田所が、笑みを浮かべて頭を下げた。
「理事長就任、改めておめでとうございます。」
「ありがとうございます。父の残した言葉を、できる範囲で形にしていくだけですよ。」
エントランス脇に新しく設けられたブースの前で、休憩中の拓也がコーヒーを二つ抱えて誠一の隣に並んだ。名盤には『宮本誠一郎 患者支援基金』と彫られている。
「お前、本当に基金まで作ったんだな。立派なもんだ。」
「経済的な事情で必要な医療を受けられない患者さんたちを、グループの判断で支える仕組みだ。肩書きや収入で医療を測らない。そういう病院にしたかった。」
「親父さんの遺言を、お前なりに形にしたってわけか。」
「ああ。多分、これが俺なりの答えだ。」
しばらく無言でコーヒーを飲んでから、拓也が少し照れたように声を落とした。
「あのさ、宮本。俺、篠崎さんと付き合うことになった。先週、向こうから言ってきてくれてな。」
「おいおい、マジかよ。」
「やっぱ驚くよな。いや、あの一件以来、彼女と一緒に仕事してたらさ。なんか、いいところもたくさん見えてきちゃってな。」
「いい話じゃないか。あの人は、ちゃんと自分の足で立ち直ったからな。お前が支えてやってくれ。」
「ああ。あの時、お前が動いてくれなかったら、俺も腐ってたし、彼女も気づけなかった。本当に、感謝してる。」
由香は今、患者の声に耳を傾ける医師として現場に立っている。そして沙織もまた、あの日を境に一枚ずつカルテを読み込み、患者の名前を覚え、ゆっくりとだが確かに変わり始めていた。プライドではなく、目の前の一人のために手を動かす。その当たり前を、彼女は今学び直している。
午後の回診で三階の廊下を歩く誠一に、長椅子の年配の患者たちが嬉しそうに挨拶を返してくる。あの冷たかった廊下に、今は穏やかな空気が流れていた。窓辺で足を止めた誠一は外の桜を見上げ、誰にも聞こえない声でそっと語りかけた。
「親父。あんたの言いたかったこと、俺なりに守れたと思うよ。人を肩書きで測らない。それだけのことが、こんなにも難しくて、こんなにも大事だった。」
桜の花びらが一枚、窓の外を静かに横切っていった。人の値打ちは、月収でも肩書きでも学歴でもない。目の前の相手を、ただ一人の人間として見られるか。その一点に、全ては宿るのかもしれない。



