新居が完成した日、玄関に立った私は思わず涙をこぼしました。二十年以上働き続けて、ようやく手に入れた自分の家。小さな和室に、使いやすいキッチン。この和室でいつか着付けの教室を開くのが夢でした。夫のかずやも、その時は「良かったな」と笑ってくれたものです。
あれから数年。私は六十二歳になり、今も着付けの講師として働いています。夫は六十五歳で、もう仕事を辞めていました。幸い蓄えはありましたが、生活費の多くは私の収入で支えていました。それでも、この家があれば頑張れると思っていました。
長男の直樹は四十歳。仕事が長続きせず、今は妻のみさが働いて家計を支えています。次男の優太は三十七歳で、妻のさおりと穏やかに暮らしています。子供たちが独立した後、私はずっと夢見ていた家を建てたのです。小さな和室に、使いやすいキッチン。いつかここで着付けの教室を開きたい。何度も業者と話し合い、ようやく完成した日、私は玄関で泣きました。夫もその時は喜んでくれました。
新居での生活は、最初は穏やかでした。朝起きて庭の花を見る。仕事から帰って、お気に入りの椅子でお茶を飲む。夫と夕食を囲み、「この年になってやっと落ち着けたわね」と話す。そんな日々がありました。
長男夫婦が初めて遊びに来た日、みさは家の中を見回して大喜びしました。
「お母さん、この家本当に素敵ですね。キッチンも広いし、この部屋もいいな。私もこんな家に住みたいです」
私はただ褒めてくれているのだと思っていました。むしろ、以前よりみさと話しやすくなったことが嬉しかったのです。別の日には、みさが「今日は私がやります」と言って食事の準備まで手伝ってくれました。四人で食卓を囲み、直樹がくだらない冗談を言って夫が笑う。みさも「お母さん、この煮物美味しいです」と笑ってくれました。家族ってこういうものなのかもしれない。そう思っていました。
でも、少しずつ違和感が増えていきました。みさは、私が仕事で留守の日に限って家に来るのです。夫に聞くと、「ああ、来てたよ」としか答えません。私のいないところで、みさは夫にこんな話をしていたのです。
「お父さん、将来私たちと一緒に暮らしませんか?」
「俺が?」
「もちろんですよ。お父さんを一人にしたくないですし。私、お父さんのお世話なら全然嫌じゃないです。そもそも長男の嫁なら介護だってしないと」
夫は嬉しそうだったそうです。そしてみさは続けました。
「家って、後になればなるほど手続きも面倒らしいですよ。相続とか名義とか、役所にも行かないといけないし大変です」
夫は昔から面倒なことが大嫌いです。
「じゃあどうすればいいんだ?」
「元気なうちに整理しておけばいいんですよ。面倒なことは私たちが全部やりますから」
「本当か?」
「本当です。だって家族ですもん」
その言葉で、夫は完全にみさを信用してしまったのでしょう。直樹も「みさに任せとけばいいって」と夫を後押ししました。私の知らないところで、三人だけの話が進んでいったのです。
ある夜、突然夫が言いました。
「直樹と一緒に暮らすのもいいと思わないか?」
「ここで?」
「そう、ここでだ。みさも俺たちの老後のことを心配してくれてる」
私は少し考えて答えました。
「もっと先なら、そういうこともあるかもしれないわね」
すると夫は言いました。
「先じゃなくてもいいだろう。二階を直樹たちに使わせる。台所はみさに任せる。お前は和室があれば十分だろう」
私は首を横に振りました。
「いやよ」
「なんでだ?」
「この家は私がずっと夢見て建てた家なの。今すぐ全部譲るなんて考えられないわ」
夫は不機嫌そうに口を閉じました。その頃、みさは電話で夫にこんなことを言っていたそうです。
「やっぱりお母さん嫌なんですね」
「何が?」
「私たちと暮らすこと。家は絶対渡したくないって」
そして、少し寂しそうな声を作って言ったそうです。
「お父さんより家の方が大切なんでしょうね」
それから、夫の態度が少しずつ変わっていきました。
「お前は考えが古いし頑固なんだよ。若い人間に譲る気持ちはないのか?いつまで家にしがみつくつもりだ?」
私は驚きました。ほんの少し前まで、二人でこの家を眺めて笑っていた人とは思えません。
そして数日後、仕事から帰ると、家の前で夫と長男夫婦が私を待っていました。夫が言いました。
「まり子、お前にはこの家は似合わない」
「似合わない?」
「そうだ。これからは若い奴らの時代だ。この家は直樹たちに譲ることにした。家は長男が受け継ぐものだしな」
みさは腕を組んで続けました。
「あと、お母さんには広すぎますから、早めに出ていってくださいね」
そして直樹まで言いました。
「母さん、親父の言う通りにしろよ」
私は三人の顔を見ました。そして言いました。
「分かったわ。そこまで言うなら出ていくわ」
三人の顔が一気に明るくなりました。でも、三人はまだ知らなかった。自分たちが欲しがったこの家に、何がついてくるのかを。
私は荷物をまとめ始めました。みさは我が者顔で家の中を歩き始めました。
「直樹、この棚私が使うね。この部屋私たちの寝室にしよう。あ、家具は置いて行ってもいいですよ」
私は振り返りました。
「そんなにこの家が好き?」
「もちろん」
私は笑いました。
「それなら大事に使ってね」
そのまま私は次男の優太の家へ向かいました。玄関を開けた優太は、大きな荷物を持つ私を見ても何も聞きませんでした。
「母さん、入って」
さおりもすぐに来て、「お母さん、お腹空いてません?」と言ってくれました。その日の夕食は、三人で囲む鍋でした。豪華なものではありません。でも、不思議なくらい温かかった。
「母さん」優太が言いました。「とりあえずここにいればいいよ」
「でも、迷惑でしょ」
「家族に迷惑とか言うなよ」
私は次男夫婦の前で、涙を流しながら笑いました。
それから二ヶ月。私は着付けの仕事を続けながら、少しずつ新しい生活に慣れていきました。もちろんあの家を思い出すことはありました。でも、戻りたいとは思いませんでした。
そんなある日の夕方、スマホが鳴りました。かけてきたのは直樹でした。電話に出た瞬間、怒鳴り声が聞こえてきました。
「母さん、毎月十八万円ってどういうことだよ!」
私は一瞬考えました。住宅ローンのことです。
「住宅ローンだって。ええ、まだ残ってるもの。聞いてないぞ」
「聞かれなかったわよ」
「俺たちが払うのかよ!」
私は首をかしげました。
「その家を引き継いだんでしょ」
「十八万なんて払えるわけないだろう!」
少し間を置いて、私は言いました。
「だったら、売ればいいんじゃない?」
そして、そのまま電話を切りました。
翌日、仕事から優太の家へ戻ると、玄関には見覚えのある靴が並んでいました。リビングには、夫のかずやと長男の直樹、そして嫁のみさの三人が座っていました。私と目が合った夫が口を開きました。
「まり子、助けてくれ」
「みさも、こんな高いローン聞いてません」
私はみさを見ました。
「それがひどいじゃないですか。私たち、騙されたようなものですよ」
「騙した?」
「私は聞き返しました」「みささん、最初にあの家を見た時、何て言ったか覚えてる?『私も住みたいです』『私もこんな家に住みたいです』って言ってたわよね。それは願いが叶って住めたでしょ?」
みさの顔が引きつりました。夫が声を荒げます。
「とりあえず家族なんだから、助けるのが普通だ」
私は静かに返しました。
「助けるって何?あと、家族については、私を追い出した日にあなたたちが終わらせたでしょう」
慌てた直樹は言いました。
「俺は親父に言われただけだよ」
私は直樹を見ました。
「早く出ていけって言ったのは、あなたよね」
夫も言いました。
「俺だってみさに言われたから」
私は首を横に振りました。
「『お前にはこの家は似合わない』。そう言ったのは、あなたでしょう」
直樹もかずやも、何も言えなくなりました。私はみさを見ました。
「家は欲しい。でも支払いは要らない。そんな都合のいい話があると思ったの?」
誰も答えることはできませんでした。
その後、私は夫と正式に離婚しました。家は結局三人では維持できず、手放したそうです。ただし、ローンの支払いでお金は残らなかったらしい。私はしばらく優太夫婦の家で暮らした後、小さな家を借りました。一部屋を着物の着付け教室にしています。前の家よりずっと小さい。素敵な庭もなければ、豪華なキッチンもありません。でも、朝から怒鳴る人もいなければ、私の人生を勝手に決める人もいません。
ある日、優太とさおりが遊びに来ました。優太が家の中を見回して笑いました。
「いい家じゃん」
「前の家よりずっと小さいわよ」
優太は首を振りました。
「別に大きさじゃないだろう」
私は笑いました。家が広ければ幸せというものではありません。豪華であれば豊かというものでもありません。大切なのは、安心して帰れること。そして、そこにいる自分が自分らしくいられること。あの人たちは私には似合わないと言いました。でも今なら分かります。本当に私に似合わなかったのは、あの家ではなく、私を大切にしない人たちと暮らす生活だったのだと。



