会議室に、嘲笑が満ちていた。
アゼリア・キャピタルとの2兆7千億円の契約を前に、帝王銀行本部の幹部たちが、後方でうつむく派遣社員の篠原結衣を笑っていた。今まさに、幹部の一人が彼女に言い放ったのだ。「英語で喋ってみなよ。マジ無理っしょ。マイネームズから一緒に行ってあげよっか?」
中卒の派遣に英語が話せるはずがないという嘲り。だが結衣は逃げなかった。ゆっくりと息を吸い、立ち上がった。「承知しました」
次の瞬間、流れ出したのは、一分の隙もない完璧な英語だった。幹部たちの顔が、見る見る青ざめていく。しかし、彼女が本当に告げ落としたのは、挨拶などではなかった。この契約に仕込まれた、ある男の裏切りだった。振り込まれる報酬は1億8千万円。会社の口座ではなく、部長個人の口座へ。
「な、何を出たらめを言うんだ!この中卒の派遣が!私を嵌めようとしているのか!」
その時だった。会議室の隅で、誰も名前を覚えようとしない掃除の老人が、静かに壁から背を離した。丸めていた背筋が、すっと伸びる。
「その子の言う通りだ」
「なんだ、掃除の爺さんは引っ込んでろ!」
だが、それに答えたのは、重要顧客であるアゼリアのトップだった。
「…お父さんだそうです」
会議室が割れた。中卒と見下した全てを暴かれた男は、愕然と床に崩れ落ちた。全ての縁は、たった一つの青い花のブローチの中にあった。
――
派遣社員の東誠一郎が、この本部に来てまだ一週間も経っていない。仕事は雑務だ。書類の整理、備品の補充、会議室の片付け。頼まれれば、掃除もする。朝は一番に出て、夜は一番遅い。
「ああ、そこの掃除のじいさん、これ会議室に運んどいて。それとシュレッダーのゴミもな」
「承知しました」
誰も彼の名前を呼ばない。「掃除の人」、「派遣のじいさん」。それで通っている。磨り減った革靴は、歩いても音がしない。張り詰めた法人営業部のフロアで、誠一郎の動きだけが音を持たず、誰の視線にも入らない。ただ、朝のフロアには、一つだけ違う声があった。
「東さん、おはようございます」
篠原結衣。同じく雑務を押し付けられている、若い派遣の女性だ。この職場で誠一郎を名前で呼ぶのは、彼女だけだった。その朝も、結衣は湯気の立つカップを運んできた。
「よかったらどうぞ。今日は朝から冷えますね」
「ああ、すまないね。いただくよ」
両手で差し出されたカップを受け取ると、指先にじわりと温かさが移った。結衣が身をかがめた時、カーディガンの襟の内側に、青い花のブローチが止めてあるのが見えた。彼女は時々、服の上からそこに手を当てる。大切な何かを確かめるように。亡くなった妻も、小さな青い花のブローチを一つ、肌身離さず持っていた。それが、いつの頃からか見えなくなっていた。人にあげたのか、なくしたのか。品を整理した時も、とうとう見つからなかった。
午後、会議室の片付けに入った誠一郎の手が、置き忘れられた書類の束の前で止まった。表紙には「共同ファンド案件控え」。綴じ順が、一つだけ入れ替わっている。誰かが急いでめくり、慌てて戻したように。誠一郎はしばらくその書類に目を通した。それから順を直し、何事もなかったように机を拭き始めた。
調礼が始まる頃、フロアの空気が一段と張り詰めた。部長の神田正幸が出社してきたのだ。仕立てのいい濃紺のスーツに、磨かれた靴。神田は誰とも目を合わさず、まっすぐ歩いてくる。結衣のデスクの前を通りかかると、一束の書類を投げるように置いた。後ろを歩く霧山に向かって、結衣などそこにいないかのように言った。
「これ、午前中に『中卒君』にやらせといて」
「あ、了解っす」
神田はもう背を向けて歩いていく。霧山は書類を結衣の目の前に置いた。
「てわけで、来週のアゼリアの会議の資料整理よろしく。アゼリアってさ、海外のくっそでかい都市ファンドなの。今回のは神田さんが仕切る特大案件なわけ。あ、でも先方とのやり取り全部英語なんだよな。ま、分かるとこだけでいいや。神田さんに迷惑かかることだけはマジでやめてね」
近くの若手が2人、顔を見合わせて小さく笑った。結衣は言い返せなかった。ただ、目を伏せ、置かれた書類を黙って引き寄せる。その指先が、ほんの少し冷たくなっていた。そこへ誠一郎がコピー用紙の箱を抱えて通りかかった。霧山の目が、今度はそちらへ動く。
「ちょっとじいさん、掃除なら後にしてくんない?今この部署、神田さんの王将で超忙しいの。ちょっとは空気読もうよ」
「失礼しました。後で伺います」
誠一郎が下がろうとすると、霧山は声を落として隣の若手に耳打ちした。
「使えない派遣が、若いのと年寄りで2人だよ。『お荷物コンビ』だな」
その声は思ったより、フロアに響いた。霧山は弾かれたように背を伸ばし、愛想笑いを貼り付けて席へ戻っていく。誠一郎は聞こえなかったふりをして、箱を抱え直した。なるほど。この職場は、そういう場所か。結衣の机の脇を通り過ぎようとした時、彼女が顔を伏せたまま、誠一郎にだけ聞こえる声で言った。
「東さん、さっきのこと、気にしないでくださいね」
自分が笑われた直後だというのに、誠一郎の方を気遣っていた。
「いや、あんたこそ、根を詰めなさんな」
「はい、ありがとうございます」
――
アゼリアとの共同ファンド設立契約。その調印が来週に迫っていた。総額は2兆7千億円。銀行が総力を上げる、今期最大の取引だ。現場を仕切るのが、部長の神田だった。昼過ぎ、霧山が大きなダンボール箱を抱えて結衣の机の脇へ運んできた。契約関係のファイルが詰まっている。
「それ全部スキャンして、番号順に綴じ直しておけ。お前が全責任を持って確認しろよ」と、神田が言った。
「承知しました」
その日の夕方、神田が本部長の黒木に報告する声が響いた。
「契約周りは私の方で全て詰めております。資料も滞りなく。ご安心ください」
「そうか。君に任せておけば間違いないな」
結衣が夜まで残って整えたことには、一言も触れなかった。結衣は顔を上げず、ひたすら書類を確認し続けた。1枚、また1枚。番号を照らし合わせ、抜けを拾い、綴じ直していく。何時間も同じ作業をしていると、契約書の第7条「代理署名の権限」という項目で、手が止まった。あるはずの決済の控えが、どこにも綴じられていない。そして、第12条「成功報酬の振込先」。ずらりと並んだ口座の中に、一つだけ明らかに毛色の違うものが紛れている。読み違いであってほしい。祈るような気持ちで何度見ても、それは変わらなかった。見てはいけないものを見てしまった。
どうしよう。これ、言った方がいい。でも、言った後はどうなる?前の職場でも、間違っていることを間違っていると言ったのに、正義であるはずだったのに、悪者にされ、居場所ごと失った。出る杭は打たれる。これまでもずっと、そうだった。でも、こんなひどいことを、このまま黙ってるなんて。
相談できる相手は、このフロアに一人もいない。連日深夜までの作業で体は疲れ果て、考えるほど出口が塞がっていく。そこへ、遅くまで清掃していた誠一郎が歩み寄った。
「まだやってたのかい?」
「う、東さん、すみません。ゴミを集める時間でしたね。ちょっと集中してたので。あの、もう終わります。すぐ終わりますから」
無理をしているように見えるな。誠一郎がそう言うと、結衣は無理に笑って見せたが、目はうつろだった。
「変ですかね。私、昔からこうなんです。中学を出てすぐ働きに出た時から、ずっと」
「中学を出てすぐかい?」
「はい。両親を早くになくしてしまって、高校へ行くお金もなくて。学歴は中卒のままで、ずっと派遣で。さっき桐山さんが言ってたの、本当のことなんですよ。この会社の荷物だって」
張り詰めていた何かが解けていくようだった。結衣の目から、涙がこぼれ始めた。
「学校をどれだけ出たかと、目の前のことをちゃんとやれるかは、別の話だ。私は長く生きて、いろんな人間を見てきた。立派な肩書きの人ほど、一番大事なことを平気で見ようとする。嫌というほど見てきたよ。だからね、正しいと思う心まで小さくしてはいけない。そこだけは」
誠一郎はゴミ袋を下げ直した。
「決して、なさいませんな。じゃあ、お先に」
音のしない靴で、老人は夜のフロアへ消えていく。結衣は涙を拭いながら、鞄から一冊のノートを取り出した。辛い時、いつも開くお守りの一冊。表紙をめくると、書き込みがあった。
「正しいと思う心まで小さくしてはだめ」
たった今、あの老人が口にした言葉と、一句そのまま同じだった。遠い記憶が結衣の胸に蘇る。まだ十歳になるかならないかの頃、結衣は親の仕事で言葉も通じない異国の町にいた。土地の言葉だけはすぐに覚えたが、それが帰って、幼い結衣を孤立させた。ある日の夕暮れの公園。一人の女性が鞄の中身をこぼし、しゃがみ込んでいた。足を止める人はいない。結衣は迷った末に駆け寄り、拾い集めた。
「これ、拾いました。大丈夫ですか?」
淀みのない、その土地の言葉だった。女性は目を見張り、その子の顔立ちに気づいて声を上げた。
「まあ、ありがとう。あなた、日本の子?随分、言葉が上手なのね」
異国で聞く母国の言葉が嬉しくて、結衣はベンチに並んでポツポツと話した。女性は言った。
「あなた、自分だって辛いのに、人にこんなに優しくできるのね」
「目立つと、意地悪されるから」
女性は少し悲しそうな顔をして、襟元から青い忘れ草の花の小さなブローチを外した。
「これ、あなたにあげる。自分を小さく見せてもいいの。それも生きていくための知恵だから。でもね、正しいと思う心まで小さくしてはだめよ」
小さな手のひらに、青い花と、その人のぬくもりが乗せられた。名前も、結局聞かずじまいだった。あの優しい女性なら、こんな時、どうしただろう。結衣は胸のブローチに服の上から触れた。今日、全く同じ言葉を口にしたあの老人の顔が、ふと重なった。
――
会議の日が来た。大会議室の長いテーブルに、両者が向かい合う。アゼリア・キャピタル現CEOのケントと、後ろに通訳と幹部が続く。日本側は黒木本部長を上座に、各部の部長級がずらりと列席し、末席に霧山ら職員が並ぶ。結衣は、一番後方の壁際でノートパソコンを前にしていた。誠一郎は、部屋の脇に控えていた。入室の際、ケントの視線が隅の老人の上で一瞬だけ止まる。だが、ケントは何も言わずに着席した。
神田がマイクを取り、流れるような英語で応じた。
「こちらこそ。この日を心よりお待ちしておりました」
得意げに案件の意義を語り、テーブルを順に各人が英語で一言ずつ挨拶を述べていく。
「時に日本には『縁の下の力持ち』という言葉がございましてね。今日の準備も後ろの彼女が支えてくれました。せっかくです。本人からも一言、英語でご挨拶を」
神田は結衣に手を向ける。列席者の視線が彼女へ集まった。キーボードの上の結衣の手が止まる。だが神田はマイクを離すと、声を落として日本側だけに言い添えた。
「まあ、無理だろうがな」
霧山が待ってましたとばかりに食いついた。
「マジ無理っしょ。だって篠原さん、中卒っすよ。あ、でも中学でも英語は習ってるか。じゃあさ、緊張しなくていいから、ハローだけでもいいよ。なんならマイネイムズから一緒に行ってあげよっか?」
近くの若手が、こらえきれずに笑い声をもらす。神田も薄く笑って後ろへ言った。
「せっかくだ。何か言ってみろ」
さらし物だった。結衣は俯き、膝の上で手を握りしめている。喉元までかかった言葉を飲み込む。それでも口を開かない結衣に、神田は小さくため息をつき、また下手な英語で話始めた。
「お見苦しいところを。彼女もいずれ弊社のお役に立てますよ。語学の初歩から学んでまいります」
マイクを離し、余裕の薄笑いを浮かべた。
「ハローすら言えない中卒とか、やば」
劣勢の何人かが追従して笑った。結衣の頬が屈辱で熱くなる。ただ一人だけ、笑っていない者がいた。ケントだ。小声の遣り取りは訳されず、言葉の意味は分からない。それでも、後方の女性がさらし者にされ、皆が笑った。その気配は言葉の壁を超えて伝わる。ケントは冷ややかな目で神田を見ていたが、神田は気づかなかった。会議室の隅で、誠一郎がその一部始終を見ていた。その姿を神田が捉えた。
「なんだ、じいさん、いたのか。掃除の爺さんが何の用だ?邪魔だぞ、隅でおとなしくしていろ」
どちらかと言えば、物を見るような目だった。テーブルの向こうで、ケントの組んだ手に力がこもる。誰も気づかない。
――
挨拶が済み、また英語で議事を進めていく。結衣は立ったままだった。どうしよう。このまま黙ったら、後悔する。でも、また前みたいになるのは怖い。心臓が胸の奥で鳴っている。服の上から胸を押さえる。襟の内側の青い花。あの言葉が蘇る。
「正しいと思う心まで小さくしてはだめ」
結衣は立ち上がった。椅子の足が床をこする音が、大きく響いた。テーブルの全員が一斉に振り返った。
「一言、よろしいでしょうか?」
日本語だった。神田の眉が釣り上がる。
「なんだ?」
霧山が待ってましたと畳みかける。
「やっとハローの発音を思い出した?そんなに喋りたいなら、いっそ全部英語でどうぞ」
神田も、とどめの一言を放つ。
「そうだな。君、英語で喋ってみな」
会議室に、こらえきれない嘲笑が漏れた。結衣はゆっくりと息を吸った。
「承知しました」
神田がふんと鼻を鳴らす。しかし、しばらく経っても結衣は喋り始めようとしない。やっぱり無理か、と口元が緩んだ次の瞬間だった。
「本日のご契約は、両者にとって大切なものと存じます。だからこそ、一点だけ確認させてください」
流れるような英語だった。ネイティブと寸分違わぬ響き。マイクもないのに、その声は会議室の隅々まではっきりと通った。その一瞬、場が静まり返った。霧山の口が、半開きのまま固まった。神田の動きも一瞬止まり、ずらりと並んだ部長たちの顔が一斉に引きつる。中卒に英語なんて、たった今の嘲笑が、音を立てて砕けていく。ケントが初めて結衣に正面から目を向け、続きを促すように小さく頷いた。
「契約書の第7条についてですが」
神田が弾かれたように口を挟む。
「待て!下がりなさい!契約内容については、君の出る場じゃない!」
「代理署名の権限です。これを正式に通した決済の記録が、どこにもない」
「いいから座れと言っている!」
声が跳ねた。場を仕切っていたはずの落ち着きが、そこだけ崩れる。通訳も戸惑いながらケントに伺うと、ケントはむしろ身を乗り出して促した。
「構いません。全て訳してください」
その時だった。会議室の隅で、ずっと控えていた誠一郎が口を開いた。
「娘さんの言う通りだ。一つ確かめられた方がよろしい」
一瞬の間。そして霧山が吹き出した。
「いきなり掃除のじいさんが何言ってんの?関係ないでしょ。黙ってろ、じじい!」
誠一郎は何も言い返さない。ただ、頭を下げた。また小さな嘲笑が漏れる。名前も覚えられない派遣の女性と、掃除の老人。一番下に見られた二人が、何を言い出すのか。だが、一人だけ笑っていない者がいた。ケントだ。その老人から目が離せないようだ。
「あちらは清掃の係りの方のようです」
通訳に耳打ちされても、ケントはその老人から目を離さない。結衣は立ったまま、胸のブローチを強く握りしめた。
「もう一つだけ、確認させてください」
手にした書類を、結衣はテーブルの中央へそっと置いた。
「契約書の第7条、代理署名の権限に関する条項です。本来は本部長の決済がなければ認められません。ですが、今回その権限は神田部長お一人に与えられています。これが権限を通すための議書です。過去4ヶ月分、全て確認しました。ですが、この署名を承認した記録だけが、どこにも綴じられていません。一枚も」
会議室が、ざわりと揺れた。
「決裁なしで署名が?そんなの通るわけが」
座長の黒木が静かに口を開いた。
「神田君、これはどういうことかね?」
「お恥ずかしい。事務処理上の手違いでしょう。書類なら後で出てきますよ。そこの派遣が見落としているだけです」
「ありません」
「何?」
「4ヶ月分を三度、確認しました。あるべきものがない。それは見落としではありません」
神田の方が慌てた。それでも、後方の結衣を指差す。
「そもそも、これらの書類を全部確認したのは、そこの派遣ですよ!私は任せていただけだ!不備があったと言うなら、それは確認を怠った彼女の…」
「はい、確認したのは私です。だからこそ、気づきました」
会議室が静まる。神田が仕掛けた責任転嫁は、その相手が証拠を握っていたことで、そっくり自分へ跳ね返った。神田は一瞬言葉に詰まり、今度は隣の霧山を睨んだ。
「霧山!確認はお前も一緒にやっていたな!リンギのチェックはお前の担当だったはずだ。お前の見落としだろう!」
「へ、そうだな…あ、いや、ちょ、部長!それは僕は部長に言われた通りに動いただけっすよ!リンギのことなんて、押し付けないでくださいよ!」
さっきまで神田に媚びていた腰巾着が、必死にその手を振り払おうとしている。
「見苦しいぞ、神田君」
低い声だった。黒木はゆっくりと結衣に向き直った。
「続けてください。篠原さん。あなたの話を聞かせてもらいたい」
初めて、この銀行の人間が結衣を名前で呼んだ。神田の額に汗が滲む。だが、これで終わりではなかった。結衣の手元には、まだ開いていない書類がもう一枚ある。神田が、一番触れられたくないもの。
「契約書の第12条、成功報酬の振込先です」
「おい、もういい!黙れ!」
「並んでいるのは、取引に関わる会社の口座です。ですが、この一つだけ、会社ではなく個人名義になっています。名義は、神田正幸。部長、ご本人です。会社にではなく、あなた個人の口座へ。振り込まれる報酬は、1億8千万円」
ざわめきが、爆発した。
「個人の口座に報酬を…え、やべえじゃん」
神田が椅子を蹴って立ち上がった。
「誤解だ!出たらめを言うな!そんなもの、この派遣が私を嵌めるために書いたんだ!」
声が裏返っていた。その時だった。会議室の隅でずっと控えていた誠一郎が、壁から背を離した。丸めていた背筋が、すっと伸びる。そして、まっすぐ神田の正面へと歩き出した。
「なんだ貴様!掃除のじいさんが、この席に及んで何のつもりだ!邪魔だ!」
その言葉を遮る声があった。テーブルの向こう。それまで一言も発しなかったアゼリア側のトップ、ケントが静かに立ち上がっていた。
「…お父さんだそうです」
「誰が誰の…」
「CEOの父親です。あの清掃の老人が」
会議室が割れた。誰もまともな言葉を発せない。黒木でさえ、口を開いたまま老人とCEOを何度も見比べていた。アゼリア・キャピタル現CEO、東ケント。2兆7千億の契約を背負って来日した男が、掃除の老人を父と呼んだ。神田が名前も覚えず「じいさん」と顎で使ってきた、あの男を。
「東誠一郎と申します。アゼリア・キャピタルを立ち上げたものです」
静かな声だった。だが、その一言が会議室の空気を塗り替えた。
「今回の契約に不審な点があると耳にしましてね。調印の前に、この目で確かめておきたかった。それだけのために、この一週間、この姿をお借りしておりました」
神田は震え上がった。この一週間、自分が「じいさん」と顎で使ってきた老人が、ずっと全てを見ていたのだ。
「神田さん、あなたにお伝えすることがあります。この契約は白紙とします。合わせて、アゼリアが御行に預けている運用資産、6800億円を、本日付けで全て引き上げます」
誠一郎がケントへ小さく頷く。ケントは携帯を取り出し、短い英語で一言告げた。それが合図だった。数十秒後、会議室の端末が一斉に警報音を鳴らし始めた。運用管理の画面に、アゼリア名義の資産の欄に解約処理の赤い文字が上から順に灯っていく。6800億あった残高の桁が、一つ消え、また一つ消える。
「解約が始まってる!アゼリアの全ファンド、本国から一斉に!」
会議室の外でも電話が鳴り始めた。窓の外、向かいのビルの大型ビジョンで、経済ニュースの速報テロップが流れ始めている。黒木の顔が、みるみる青ざめていく。6800億。この銀行の屋台骨の一つが、一人の男の裏切りのせいで抜けようとしている。
「脅しでも、支援でもありません。信用を裏切った者とは、取引ができないというだけのことです。それにね、神田さん。あなたは今日、この2兆7千億の正念場の席で、それよりずっと尊いものを笑ったんですよ。肩書きで人を測る者は、一番見なきゃならんものを見落とす」
神田の膝が、かくんと折れた。椅子の背をつかもうとした手が空をかく。そのまま、ずるずると床へ崩れ落ちていく。
「ま、待ってください!東さん!東様!私は、ほんの出来心で…」
さっきまで「じいさん」と呼んでいた口が、今は床に額を擦りつけ、必死にその名を呼んでいる。誰も助け起こそうとはしない。誠一郎はもう振り返らず、黒木へ向き直った。
「黒木さん。アゼリアは御行の事実上の筆頭株主でもあります。株式を手放すかどうかは、御行がこの件にどうけじめをつけるか。それを見てから、決めさせていただきます」
黒木は立ち上がり、深く頭を下げた。それから床に崩れた神田を見下ろした。
「神田君。君の件は懲戒委員会にかける。横領の件は所轄の期間へ告発する。今日で、君の仕事は終わりだ」
――
会議室の一番後方で、結衣は立ったままその光景を見ていた。胸の奥でまだ心臓は高鳴っている。だが、青い花を握りしめたその手に、もう震えはなかった。ざわめきの残る会議室から人が引いていく中、誠一郎は後方の壁際、結衣の前へ歩み寄った。
「篠原さん、よく声を上げてくれましたね」
「あ、東さん…いえ、東様!あの、私…」
「あなたは、なぜ今日まで黙っていたんですか?あれだけのものに気づいていて」
「怖かったんです」結衣は俯いて言った。「また居場所を失うんじゃないかって。正しいことを言って、疎まれて弾き出される。前も、そうだったから」
「それでも今日は、何かが背中を押してくれた。前にちょっとお話ししたんですが、昔外国で暮らしていた頃に、一人の優しい女性の方からいただいた言葉です。『自分を小さく見せてもいい。でも、正しいと思う心まで小さくしてはだめ』って」
その瞬間、誠一郎の動きが止まった。
「今、なんと?」
「正しいと思う心まで小さくしてはだめ、って」
誠一郎の目が大きく見開かれた。
「まさか…よし子が…」
結衣は胸元の青い花に、指を添えた。
「その言葉も、この花も、その方がくださったんです。裏に小さな字が掘ってあって…女性の方と旦那様のお名前かな?二つ並んで」
「もしかすると、それには『誠一郎』と『よし子』と、そう掘ってありませんか?」
「え?どうしてそれを…裏も見ていないのに、この老人の口からその二つの名前が正確にこぼれた。結衣は息を飲んだ。
「その忘れ草は、私の妻のものです」
声が、かすかに震えていた。結衣が留め具を外して差し出すと、節くれだった指が裏側を返した。止め具の裏の名前と、贈った日。それをなぞる指が、小さく震えた。
「これはね、若い頃に私が妻へ送ったものなんです。仕事にかまけて家を開けてばかりで。異国の町でこのブローチを見つけてね。この花が『忘れ草』という名前で、花言葉が『私を忘れないで』ということを教えてもらって、妻への身勝手な願いを込めました」
「それを、ある時見なくなってね。聞いたら妻は笑ってこう言ったんです。『確か、困っていたかにそっと手を貸してくれた女の子がいてね。自分だって辛いはずなのに、人に優しくできるいい子だった。あの子はきっといつか、自分の弱さに負けないで、正しいことのために立てる子になる。だから、自分の一番大事なものを、あの子に渡したの』ってね」
誠一郎の口元が、ほろりと緩んだ。
「そうか。そうか。あの時よし子が話していたのは…あなたのことだったのか」
結衣は、じっとその顔を見ていた。あの日、名前も聞けなかったあの女性は、自分を覚えていてくれた。いつか正しいことのために立てる人間になると、信じてさえいてくれた。
「奥様は、そんな風に私のことを…」
「ええ、それはもう嬉しそうに話してましたよ。やれやれ。このことを忘れていた私を、天国の妻は誇っているだろうな。間違いを見て見ぬふりをするのは、間違いに加担するのと同じことです。あなたは今日、それをしなかった。妻の見込みは、正しかった」
――
一週間後。法人営業部のフロアの一番奥、神田の席だけがポツンと空いていた。懲戒委員会の結論は一週間で出た。第7条も第12条も、仕込んだのは神田一人。決裁そのものが存在しない以上、「事務処理上の手違い」は通らなかった。銀行は横領を所轄の機関へ告発した。神田は最後まで「派遣に嵌められた」と言い張ったが、証拠は全て揃っていた。かつて頭を下げさせてきた取引先に電話をかけても、誰も出ない。呼び出し音が切れる。次は留守番電話。噂は狭い業界の水面を渡り切り、彼の名前はどの銀行の扉の前でも、彼を門前払いする一枚の札になっていた。人を名前で呼ばず、肩書きで使ってきた男の、その名前だけが、これから行く先々に先回りして立ちふさがる。磨いた靴音だけが、空になったフロアに大きく響いた。
――
会議のあった日の夕暮れ、あの後、事情を聞かれていた結衣が会議室へ戻ると、人の引いた部屋で誠一郎が待っていた。その手のひらには、預かったままの青い花。忘れ草のブローチ。
「篠原さん。これを、あなたに」
「そんな、それは奥様の大切な…私がいただくわけには」
「いいえ。これは、妻が自分で選んで、あなたに渡したものです。妻が選んだ相手だ。私が取り上げるわけにはいきません」
そして、節くれだった手で結衣の手を取り、青い花をその指の中へ包ませた。
「持っていてください。あなたが」
結衣の目に涙が滲んだ。今度は、こらえられなかった。
「はい。ずっと大切にします。ありがとうございます」
――
それから一ヶ月。アゼリアとの契約は、条件を改めて結び直された。身内の不正を自分で断って告発したそのけじめを、買ってくれたのだという。引き上げられた6800億も、少しずつ戻ってきているらしい。法人営業部のフロアで、結衣の胸元には、あの日と同じ青い花。ただ一つ違うのは、もう襟の内側に隠していないことだ。誰の目にも見えるところで、その花は咲いていた。「中卒君」と呼ばれ、雑務を回されていた頃の彼女はもういない。結衣は今、コンプライアンス部門の正社員として、この本部に立っていた。おかしいものを、おかしいと言える場所。それを、自分の仕事にしていた。
フロアの隅で、新しく入ったばかりの派遣の青年が、所在なげに立っている。誰も彼に目を向けない。あの日の自分と同じだった。結衣はカップに温かいお茶を入れ、まっすぐにその青年の元へ歩いていった。
「お疲れ様です。お名前、伺ってもいいですか?」
「あ、はい。田中と言います」
「田中さん、これ、よかったら。困ったことがあったら、いつでも言ってくださいね」
驚いたように顔を上げた青年に、結衣は微笑んだ。かつて誰も名前を覚えてくれないこの場所で、自分の入れた一杯を両手で受け取り、「あなたはちゃんと見えてる人だ」と言ってくれた人がいた。あの人と、あの人の奥さんから受け取ったものを、今度は自分が渡す番だった。守られる側だった結衣は、いつの間にか守る側に立っていた。
同じ日。あの大会議室に、誠一郎の姿があった。結び直した契約の調印の日。今日は正面玄関から迎え入れられ、隣にはケントが並ぶ。すれ違う行員が慌てて深々と頭を下げていく。一週間前まで誰も名前を覚えなかった「掃除のじいさん」は、もうどこにもいない。調印を終えると、誠一郎は一人で法人営業部のフロアへ立ち寄った。見たかったのは、肩書きでも契約の額でもない。ここで一人の女性が、自分の真心を小さくしなかった。妻が信じていたその通りに、その後の景色を一目だけ。
フロアの中ほどで、胸に青い花を止めた結衣と目があった。誠一郎は小さく頷きを一つ。結衣も深く頭を下げた。言葉はなかったけれど、二人の間には確かに通じ合うものがあった。遠い国から始まった縁。青い花が、それを繋いでいた。正しいことは、小高く叫ばなくても、ちゃんと誰かの胸に残る。あの日、誰にも名前を呼ばれなかった彼女が上げた、小さな声のように。



