「全部で30円です。」
東洋精神銀行丸の内本店のロビー。若い行員が通帳の画面を客側へくるりと回した。
「ご確認ください。30円です。」
「もう一度、確認をお願いできますか?」
「数え間違いはございません。当行の規定通りの計算結果でございます。」
「40年の退職金が、これですか?」
「40年分のご勤務、誠にお疲れ様でございました。」
行員の声には、わずかに笑いが滲んでいた。
老人は答えなかった。内ポケットの万年筆をそっと押さえる。亡き妻との約束と、師匠が残した一言を、40年抱いてきた男だった。
「いいでしょう。その規定とやらが、法の前でも通用するか確かめさせていただきます。」
「規定ですか? 失礼ですが、ご不満を申し立てられるのは過剰反応というものですよ。40年で30円。それがお客様の値打ちでございますね。」
この時、若い行員はまだ知らない。自分が誰を怒らせたのかを。そして、この30円の裏に隠された罠が、やがて仕掛けた者たち自身を飲み込んでいくことを。
40年の意地をかけた、老技師の静かな反撃が、今始まる。
***
退職届に最後の一筆を置いた男がいた。男の名は、江崎健一郎。62歳。紅葉正規株式会社で勤続40年、技術部の一級技師として現場一筋に歩んできた。同期100名のうち、平社員のまま定年を迎えるのは健一郎ただ一人だった。
今日は、健一郎の最終出勤日である。
「40年、お世話になりました。」
声は小さかったが、はっきりとした口調だった。
「静さん、つけたよ。最後の一筆、お前にも見て欲しかったな。」
書斎の窓辺、銀色の遺影に向かって、健一郎は深く頭を下げた。5年前に胃がんで逝った妻。去年、57歳で亡くなった。
ペン先の感触が、指先から肘へ抜けていく。40年前、東京大学法学部の研究室で師匠から手渡された、パーカー製の万年筆である。直筆の剣詞が、軸の裏側に細かく刻まれていた。
書斎の壁一面には古びた書棚が立っていた。労働基準法解説の合本、判例集の閉じ込み、退職金制度に関する役所の切り抜き。社長退職金制度の合理性論争をまとめた必殺の一冊には、細かい付箋が貼られている。
書棚の下段、引き出しの中には寄付金の領収書が束ねられていた。発行者は東京大学医学部胃がん研究室。寄付者は、江崎静。その全てが、亡き妻の名で寄付されたものだった。
「お前の名前で医学部に届けておいたよ。お前との約束、守るからな。」
「俺はこの一本の万年筆と、この一着の作業着で40年勤めてきた。それで十分だった。」
机の引き出しから、健一郎は古びた便箋を一通取り出した。静が逝く一週間前に書き残した、最後の手紙である。健一郎は一人で読み返していた。
「派手に使わないでね。静かにお願い。」
三行目に書かれた、かすれた文字。労働法と退職金制度の最高権威である健一郎が、数々の法的な委員を歴任しながらも実質無償の活動を続けているのを、妻は知っていた。
「わかったよ、静。」
健一郎は便箋を畳み、元の引き出しに戻した。そこへ机の脇の固定電話が鳴り始めたので、受話器を取る。
「もしもし。」
「けんちゃん、いるか。大野だ。」
紅葉正規営業部で勤続40年。健一郎が「イさん」と呼び、大野が「けんちゃん」と呼び合う、同期の親友だ。
「で、退職金、いよいよ振り込み日だな。あんた、いつもの東洋精神銀行か。俺も明日午後一に丸の内本店に下ろしに行く。一緒にどうだ?」
「うちのふさ子のこと、改めて相談したいことがあってな。」
大野の妻ふさ子は、手帳持ちの透析患者だ。ふさ子についての相談に乗ること自体は何のためらいもないが、退職金についてはそうもいかない。
「悪いな、イさん。明日は俺一人で午前中に行く。一人で、勤続40年の退職金に、偽りがないか確かめておきたいから。」
「さすが労働法のプロだな。分かった。けんちゃんに任せる。ふさ子さんのことも、ちゃんと考えてある。」
「ありがとな、げんちゃん。」
「いや、俺の方こそ、イさん。40年付き合ってくれてありがとな。明日、午後一にロビーで会おう。」
「ああ、来てくれ。」
師匠の口癖が不意に蘇る。人の値打ちは勤続年数じゃ測れねえ。東京大学法学部の退職金制度論ゼミで、師匠の子高坂哲太郎が講義の最後に必ず口にしていた言葉だった。健一郎はその台詞を40年、胸の内側に抱いて生きてきた。
健一郎は万年筆をそっと内ポケットに納めて立ち上がった。妻の待つ家へ。「達してくる、会社へ。」
マンションを出ると、空はよく晴れていた。健一郎は胸ポケットの万年筆の感触を一度だけ指先で確かめた。
***
翌朝、東洋精神銀行の丸の内本店ロビーに、健一郎は一人で立っていた。法人窓口カウンターの一角で、行員の霧山が事務的な口調で挨拶をする。紅葉正規株式会社で勤続40年、技術部一級技師として定年退職を迎えた初日のことだった。
「お振り込み済みの退職金、手数料差し引き後の残高がこちらでございます。ご確認ください。30円。」
霧山は通帳の画面を客側へくるりと回した。画面の数字は確かに「30」と表示されていた。昨夜の振り込み履歴の右側に、桁を間違えたかのような数字が一つだけ残っている。
健一郎は数秒、その数字を見つめ、ゆっくりと顔を上げた。
「もう一度、確認をお願いできますか?」 声は静かで、問い詰める色はなかった。
「もちろんです。何度確認いたしましても、数え間違いはございませんでした。」
霧山はタッチペンを指の腹で弄びながら、通帳の振り込み履歴をなぞって見せた。
「紅葉正規様より、勤続40年退職金。改定後支給率適用、3万円。手数料2万9970円。残高30円。規定通りでございますね。」
「40年の退職金が、3万円ですか?」
「失礼ですが、改定後の規定に基づく算定です。紅葉正規様より、正式な振り込み指示を頂戴しております。」
「振り込み元は、紅葉正規株式会社で間違いありませんか?」
「もちろんです。紅葉正規様の法人口座から、昨夜21時に正確な振り込みを頂戴しております。失礼ですが、何かご不明な点でもございますか?」
「いえ、振り込み日の正式な記録を、控えに記載していただけますか?」
「もちろん、窓口マニュアル通りに発行いたします。ご存知ないようですが、振り込み指示は雇用主様のご判断で、銀行は機械的に処理を執行するに過ぎません。規定外の額に修正せよとおっしゃるのであれば、それは過剰反応というものでございますね。」
健一郎は答えなかった。ただ、霧山の指先のタッチペンを静かに見つめている。
「失礼ですが、退職所得に関する申告書のご提出は、まだお済みでございませんね。」
「提出は、まだです。」
「では、40年勤務のご苦労様でございました。心ばかりの3万円、規定の範囲内のお取り扱いでございます。」
「規定の改定は、いつ行われたのでしょうか?」
「残念ながら、紅葉正規様の社内事情までは、銀行の管轄ではございません。雇用主様にお問い合わせください。お客様のように規定にこだわる方をしばしばお見受けしますが、失礼を承知で言わせていただきますと、規定は規定でございますね。」
「わかりました。」
「江崎様、ご存知ないようですが、全て規定通りの処理です。ご不満を申し立てられるのは、過剰反応かと存じます。前例ですが、ご要望を全てお受けすれば、銀行は一日で破綻いたしますね。」
待合席に座っている数人の客が、ちらりと顔を上げる。
「失礼ながら。」
霧山は一拍置いた。それは、陰湿な笑みだった。
「30円分の働きしかしてないってことですよ。」
カウンターの周囲の空気が一瞬、停止する。隣の窓口の係員が目を伏せる。後ろの待合室で、新聞を畳む音がした。
健一郎は答えなかった。深く一度息を吸い、ゆっくりと頭を下げる。
「わかりました。一度、確認します。失礼いたします。」
その一言だけだった。健一郎は通帳を内ポケットに納め、振り込み履歴の控えを丁寧に畳んで、ジャケットの内側に滑り込ませた。
「マニュアル通りの計算結果でございますね。」 霧山の声には、わずかに笑いが滲んでいた。
健一郎は何も言わず、霧山に向けてもう一度深く頭を下げ、ロビーの隅の待合席へ歩いていく。
***
待合席に腰を下ろした健一郎は、通帳をそっと膝の上に置いた。30円の表示は、画面の中で動かない。師匠の口癖が不意に蘇る。人の値打ちは勤続年数じゃ測れねえ。40年、その言葉を内側に抱いて生きてきた。今日、その値打ちが「30円」という数字で測られた。
それでも、人の値打ちは、勤続年数じゃ測れねえ。
健一郎は内ポケットから古びた折りたたみ携帯を取り出した。連絡先の中でも数少ないお気に入り登録。画面に表示されたその名は「手河原」。40年来の友人だ。健一郎は発信ボタンに触れず、電話帳の一覧を一度だけ撫でて、また内ポケットに収めた。
「先に、もう一つ確かめておくことがある。」
声は、誰にも聞こえないほど小さかった。健一郎は通帳と振り込み履歴の控えを胸ポケットの奥にしまい、静かに立ち上がる。
霧山は次の仕事のためにロビーの奥へと歩いていたが、その視線は健一郎の背中には届かなかった。
***
午後1時、紅葉正規本社から徒歩で10分の路地裏に、レンガ作りの喫茶店「相和」があった。その二階に、十数人の老人たちがぽつりぽつりと座っている。紅葉正規の退職者の会の定例の集まりで、今月は退職予定者の最後の打ち合わせを兼ねていた。
健一郎は二階の隅、窓際の席に静かに腰を下ろした。誰とも目を合わさず、卓上の湯飲みからは薄い湯気が立ちのぼっている。
長机の上座には、やや年配の女性が座っていた。藍色のスーツに銀の眼鏡。紅葉正規の社外取締役、桐君子である。年は56、労働法専門の弁護士で、東京大学法学部の講師を兼ねていた。健一郎とは30年来の労働法学会の同志である。
退職者の会の幹事の老人が、桐に小さく頷きを送った。
「皆様、本日はお集まりありがとうございます。」 桐の声は低く、揺らがなかった。「紅葉正規の社外取締役として、皆様にご報告すべき事案がございます。」
老人たちが、湯飲みから手を離した。
「ご退職予定の皆様、本日午前中に、各自指定の金融機関で退職金の残高をご確認いただけたかと存じます。ご支給額は、過去の慣行を著しく下回る金額であると承知しております。」
長机の端で、白髪の老人がゆっくりと頷いた。
「うちは、30円だった。手数料後。」
「より正確には、就業規則の不利益な変更が、適切な手続きを得ずに行われた疑いがございます。労働法の決まりでは、規定の変更には、変更すべき理由の合理性、皆様への周知、そして労使協議が要件となっております。本年3月、紅葉正規の退職金規定は、社内告知なく改定されました。労働組合への意見聴取はなく、過半数労働者代表への意見書も出されておりません。」
健一郎は湯飲みに視線を落としたまま、桐の声に耳を傾けている。やはり、と言うべきか。確認を取ろうと思っていた事柄が、次々と言い渡された。
「私は社外取締役の善管注意義務に基づき、取締役会で本件の調査と是正措置を求める所存です。皆様へのご報告は、社外取締役の正規の情報収集の一環でございます。」
長机で、別の老人が声を上げた。
「うちは、80円だった。さっき息子が振り込み履歴を確かめてくれた。同じだ。同期で銀行回ってきた連中は、みんな似たような額だ。」
老人たちのざわめきが、薄く広がった。
「本年3月の改定以降のご退職者は、ほぼ全員が同様の不利益処分を受けておられます。私の試算では、退職予定者100名の本来額は、お一人当たり2100万円から2500万円規模でございます。ご家族を含めれば、被害規模はおよそ400名。皆様のご決断は、ご家族の将来をも左右します。」
長机の中ほどで、誰かが息を飲む音がした。
「本件は、社外取締役として臨時取締役会への付議を検討する段階に入っております。皆様のご意向を伺うのは、株主としてのお立場と、退職者集団としてのお立場の両面で、重要な根拠となります。」
「桐先生、お任せします。私たちは40年、筋を通してきた。30円で値打ちを測られるのは、勘弁してほしい。」
「右に同じだ。」
桐はゆっくりと頷き、健一郎の方を一度だけ見た。視線の交差は一瞬だった。
「江崎先生、ご意向はいかがでしょうか?」
老人たちが健一郎の方を一斉に向く。健一郎は湯飲みを置き、静かに顔を上げた。
「私も、皆様と同じです。」
短く、淡々とした一言だった。
「ただ、私の方でもう一つ確かめておきたい筋がございます。明日まで、お時間をいただけますか?」
「もちろん結構です。明後日10時に取締役会を予定しておりますので、その点のみご留意くださいませ。」
「承知いたしました。本日のご報告、ありがとうございます。」
健一郎は深く頭を下げた。退職者の会の老人たちの間に、静かな安堵の声が薄く広がっていく。健一郎は再び湯飲みに視線を落とした。湯気は、もう立ちのぼっていなかった。
「俺は、明日まず一本の電話を入れる。」
師匠の口癖が、また内側で響いた。人の値打ちは、勤続年数じゃ測れねえ。
***
翌朝、社宅マンションの一室、小さな茶の間に湯飲みが二つ、向かい合わせに置かれていた。健一郎の前に座っているのは、同期入社の大野、42歳である。大野は朝早くから訪ねてきていた。
「けんちゃん、昨日の桐先生の話、空耳じゃないよな。」
「もちろん、あれは本当だ。」
「うちは、振り込み履歴を見て、ふさ子が声を飲んだ。80円だった。退職金、40年務めて80円だ。」
大野は湯飲みを両手で包み、視線を落とした。
「イさん。いや、なあ、けんちゃん。俺は自分の分はいい。どうにかなる。問題は、ふさ子のことだ。」
健一郎は黙って頷いた。
「お前も知っての通り、ふさ子は週3回、透析に通っている。新体障害者手帳一級と特定疾患の両方を受給しててな。治療費自体は月1万円で済んでる。だがな、けんちゃん、問題はそれじゃないんだ。」
「介護タクシーか。」
「ああ。透析はな、立ち上がるのも一苦労なんだ。もうタクシーも捕まえるのは難しい。」
「俺が車を出す。家から透析施設まで片道30分。それを週3回、送り迎えする。」
「それはありがたいが、俺の体力はもう若い頃のようじゃない。」
大野は湯飲みに口をつけ、ふっと息を吐いた。
「退職金が出れば、専用の介護車両を一台、リースで借りられる予定だった。月12万。バリアフリー改修も、玄関と廊下と風呂場、見積もりは取ってあった。それが、80円じゃ、月1回分のリース料にもならねえ。」
健一郎は湯飲みを置き、静かに大野の顔を見た。大野は、40年前と比べると随分と痩せていた。
「イさん。」
「いいんだ、けんちゃん。お前に泣き言を聞かせに来たんじゃない。ただな、けんちゃん、一つだけ聞いておきたいことがあってな。」
「なんだ。」
「あの会社、もう40年勤めた俺たちのことを、たった80円で測ってきたってことだろう。」
健一郎は答えなかった。湯飲みの中の茶葉が、ゆっくりと底に沈んでいく。
「俺は思うんだよ、けんちゃん。人の値打ちは、勤続年数じゃ測れねえ。」
健一郎の指が、わずかにぴくりと動いた。
「あいつらにそれを言われちゃあ、おしまいなんだ。『80円分の働きしかしてねえ』なんて、誰にも言わせちゃならねえ。」
大野はそう言って、湯飲みを置いた。健一郎は内ポケットの万年筆を、ジャケットの上からそっと押さえた。指先の感触で、ペン軸の細い剣詞の刻みが、わずかに伝わってくる。
「俺は何も教えていない。教えてないのに、イさんは同じ場所にたどり着いた。」
ペン軸の細い剣詞は、40年前、東京大学法学部の研究室で師匠が刻んでくれたものだった。今日、その文字の上に、イさんの言葉が重なって見える。師匠、あなたの言葉は、40年経ってイさんの口から出てきました。
健一郎の喉が、一度小さく動いた。
「けんちゃん、明日、俺、丸の内本店にもう一度行こうと思う。お前と一緒でいいか?」
「いや、その必要はない。俺は今日、一本電話を入れる。」
「電話? 40年前の同期に、この件について話しておきたいんだ。」
多くを語らない健一郎だが、何に精通していて、どんな人脈があるのかは承知の上だ。大野は健一郎の顔をしばらく見ていた。それから、ゆっくりと頷く。
「わかった。任せる。」
朝の光が、茶の間の窓から差し込んでいた。
***
午後2時、大野が帰った後、健一郎は書斎の机に戻っていた。机の上には、退職届の控えと、振り込み履歴の写しと、40年使い続けた固定電話が静かに置かれている。
健一郎は受話器を取り、番号をゆっくりと押した。携帯電話にも入れていた番号だが、40年来の友人相手には、40年ものの固定電話が似つかわしい。呼び出し音が3度。
「もしもし。手河原です。」
落ち着いた、低い声だった。中央労働委員会の事務局長、手河原修。67歳。健一郎の元厚労省研究会の同期である。
「手河原先生、紅葉正規の江崎です。」
「江崎先生、お電話久しぶりです。ご退職、おめでとうございます。」
「ご記憶でしたか? 40年勤続のご定年。」
「先月のお手紙で伺いました。」
短い間。健一郎は卓上の振り込み履歴の写しに目を落とした。
「実は、本日ご相談が一つ。」
「どうぞ、お話しください。」
「紅葉正規の退職金規定が本年3月に改定されておりまして、労働組合への意見聴取がなく、過半数労働者代表への意見書も提出されておりません。」
手河原の声に、わずかに緊張の色が混じった。
「労働法違反の疑いですか?」
「はい。改定後の支給率に基づく退職金が、私のところは先日、30円で振り込みが確定いたしました。」
「30円? … ご事案の被害規模は、どの程度に及んでおりますか?」
「本年3月以降にご退職になられた100名。ご家族を含めれば、400名規模と見ております。」
「400名規模… 」
手河原の息を飲む音が聞こえた。
「江崎先生、中央労働委員会の事務局として、本件は看過できる規模ではございません。本件は、本年から類似事案の申し立てが複数、委員会へ寄せられておりました。紅葉正規様の事案も、本格的なご審査の対象となるかと存じます。」
歯切れ良く言い切る手河原に、健一郎は身を委ねることにした。
「明日の午前10時、東洋精神銀行本店ロビーへご足労いただけますでしょうか? 本件の紹介書を発行して頂けますか。」
「はい。中央労働委員会事務局長の、ご同行委員を立てて、正式な紹介を。」
「承知いたしました。午前10時に、間に合うようご準備いたします。」
「ありがとうございます。」
受話器を抱えながら、健一郎は頭を下げる。手河原からは、事務局長としての毅然とした声が返ってきた。
「江崎先生、お任せください。」
電話が静かに切れた。健一郎は受話器を戻し、もう一度卓上の振り込み履歴の写しを見る。「30円」の数字は、紙の上で動かなかった。
続いて、健一郎は二つ目の番号を押した。
「もしもし。桐でございます。」
「桐先生。江崎です。」
「江崎先生、先日の昼間はありがとうございました。」
「明朝の取締役会について、ご相談がございます。」
「どうぞ。」
「社外取締役会から、臨時取締役会の招集を同議だく段取りで、お進めいただけますでしょうか? 本件の事実関係調査と、代表取締役解任決議の議題ですね。」
「さすがは、30年来の労働法学会の同志だ。一を聞いて十を知るといったところか。」
「はい。社外取締役、社内取締役3名の賛成確保について、本日中にご見通しを立てていただければと存じます。」
「明朝の臨時取締役会の開催時刻は、いかがいたしましょうか?」
「明日午後1時でお願いできますでしょうか?」
「承知いたしました。事前の根回しは、本日中に進めます。」
「感謝いたします。」
受話器を置こうとしたところを、桐の声に遮られる。
「江崎先生、お礼ではございません。社外取締役としての善管注意義務でございます。それともう一点。明朝の社長の解職決議は、特別利害関係人として、代表取締役にご退席を求めるところから入ります。」
「承知しております。お任せいたします。」
健一郎はかすかに口元を緩めた。30年来の同志の声は、40年前の研究室の頃と変わらなかった。電話が再び静かに切れる。健一郎は受話器を戻し、書斎の窓辺の遺影に目を向けた。
「俺は明日、銀行へもう一度行く。師匠の万年筆と、イさんの言葉と、桐先生と手河原先生の手を、抱えていく。」
健一郎は内ポケットの万年筆をもう一度、そっと押さえた。指先の感触は、40年前と寸分変わらなかった。書斎の窓の外で、夕方の風が軽く木々を揺らしている。
***
翌朝、午前10時。東洋精神銀行の丸の内本店ロビーに、健一郎は再び立っていた。法人窓口カウンターの前で、大野は一歩離れた位置から健一郎の背中を見守っている。カウンターの中には、霧山が昨日と同じ位置に立っていた。
「ああ、江崎様。本日もありがとうございます。先例ですが、ご納得いただけなかったということでしょうか? お取引は全部で30円です。先日も申し上げましたが、失礼ながら、何度お越しいただいても、30円分の働きしかないってことは変わりません。規定通りでございますね。」
カウンターの上、監視カメラが赤いランプを灯している。録画は本店監査の自動システムへ転送されていく。霧山はタッチペンを指の腹で弄び、卓を軽く叩いた。
健一郎は答えなかった。ただ、右手をゆっくりと胸ポケットの中に滑り込ませる。指が40年ものの万年筆の感触を捉えた。ペン軸の細い剣詞が、指の腹に伝わってくる。健一郎は一度、静かに息を吸い、ゆっくりと顔を上げた。
「労働法、ご存知ですよね。」
短く、低い声だった。カウンター周囲の空気が一瞬、停止し、隣の窓口の係員が目を上げた。霧山の口元が、ほんのわずかにぴくりと動く。
「労働法ですか? お客様はご存知ないようですが、労働法の判断は、私どもの管轄外でございますね。」
霧山の声には、わずかに笑いが滲んでいた。
「失礼ですが、お客様は何か、ご専門の立場で過剰反応ではございませんか?」
そこへ、ロビーの自動ドアがゆっくりと開いた。紺のスーツの白髪の紳士が、秘書を従えて入ってくる。紳士はカウンターの前まで歩み寄り、霧山の真正面に立った。
「恐れますが、ご依頼の件のため、お時間を頂戴してもよろしいでしょうか?」
紳士は答えず、内ポケットから「手河原」と書かれた一枚の名刺を取り出した。秘書がフォルダーから挟まれた正式な紹介書を、霧山の目の前にそっと差し出す。
「中央労働委員会の事務局より参りました。紅葉正規様の退職金規定改定について、労働法違反の疑いに関する正式な紹介でございます。主任調査員は、こちらの江崎健一郎先生でいらっしゃいます。」
霧山の手が、空中で止まった。タッチペンが指の間から滑り、リノリウムの床の上に乾いた音を立てて転がる。霧山の膝が一度震え、喉仏が大きく上下した。
「労働法ですか? お客様、いえ、えっと、先生とお呼びすれば… 」
隣の窓口の係員が目を伏せ、書類を自分の側へそっと引き寄せた。健一郎は深く息を吸い、霧山に向けて静かに口を開く。
「『30円分の働きしかしてないってことですよ』と、昨日、言いましたね。『全部で30円です』ですか? 失礼ですが。」
霧山の声は、もう笑っていなかった。霧山は床に深く頭を下げる。
「師匠、あなたの言葉が、イさんの口から出ました。俺はその言葉を、イさんの口からもう一度確かめた。人の値打ちは、勤続年数じゃ測れねえ。」
健一郎の指先で、胸ポケットの万年筆がもう一度、その重みを増したように感じられた。
***
午後1時、紅葉正規本社の17階の役員会議室。長机の左右に、12名の取締役が緊張した面持ちで腰を下ろしていた。社内取締役4名、社外取締役3名。最奥の議長席には、代表取締役の木戸孝志、53歳がシルバーのネクタイをして座っている。
会議室の左側、社外取締役の席に桐君子の姿があった。藍色のスーツに銀縁の眼鏡。手元には白い封筒が一通、置かれている。
議長席の木戸が、形式的に口を開く。
「臨時取締役会を開会する。本日の議題は、社外取締役からの付議だ。」
企業買収のプロとして数々の場を切り抜けてきた木戸だが、その声にはわずかに苛立ちが滲んでいた。昨夜から、本社の役員ラウンジで桐との打ち合わせが続いていた。
「社外取締役の桐でございます。」
桐は静かに立ち上がる。
「本年3月、当社の退職金規定は、社内告知なく改定されました。労働組合への意見聴取はなく、過半数労働者代表への意見書も出されておりません。労働法の手続き要件を欠いた当該改定は無効です。本日、中央労働委員会より正式な紹介書を頂戴しました。」
桐は封筒から挟まれた一枚の紹介書を取り出し、長机の中央に置いた。
「規定の改定は、無効です。」
会議室の空気が、一瞬、停止する。社外取締役の2名が、それぞれ黙って頷いた。社内取締役の3名は、視線を桐の手元に向けたまま動かない。
「桐先生、改定は経営判断だ。判断に取締役会が口を挟むのは、ガバナンスの一環として控えられたい。」
「議長、ご退席をお願いいたします。当該議題、代表取締役は特別な利害関係をお持ちになります。会社のルールに基づき、ご退席をお願い申し上げます。」
会議室の右側、社内取締役の一人の老人が静かに口を開いた。
「議長、社外取締役会のご付議の、特別利害関係人退席手続きに賛成いたします。他の社内取締役、社外取締役3名にも、事前にご了承をいただいております。」
木戸の喉仏が一度、大きく上下した。眼鏡が鼻先までずり落ちる。
「何の権限で? いや、待て。話し合いを。まずは、話し合いを。」
「議長、ご退席ください。」
社内取締役の一人が長机の脇に立ち、木戸の椅子の背を軽く引いた。
「お、お願いだ。話し合おう。」
木戸は立ち上がる際に、一度、椅子の縁に手をついた。隣に座っていた取締役が、自分の席を静かに受け取った。木戸は会議室を退出し、扉が閉まる音が低く響いた。
「議題、代表取締役解任決議について、ご審議をお願いいたします。」
「賛成。」
「賛成。」
社内取締役の他の2名も、静かに賛成の手を挙げた。桐と、他の社外取締役2名も同様に。
「過半数を超えました。代表取締役解任、可決いたします。」
会議室の長机に、白い封筒が一通、新たに置かれた。木戸が退席後に別に提出した、辞任届である。
「木戸孝志君、取締役からも辞任届のご提出を受領いたしました。」
***
会議室の外、役員専用ラウンジで、退席した木戸の前に、白髪の老紳士が一人立っていた。東洋精神銀行常務、霧山秀夫、58歳。木戸の個人的な付き合いで、霧山の息子を銀行に採用された、縁故者である。
「お疲れ様でした。」
霧山秀夫の声は、いつもと変わらぬ事務的な調子だった。
「で、お前、なんでここに?」
「本店の内部調査から、本日午前のロビーの一件で、私の元に報告がございましてね。私としては、息子の乱行を、社長に依頼された記憶はございません。」
「待て、秀夫。お前から、内々に処理をと…

」
「失礼ですが、人事記録に残っていないご指示は、存在しないものと同じでございますね。息子の判断であったと、人事委員会にご報告申し上げました。」
「秀夫… 」
「お疲れ様でございました。」
霧山秀夫はそう言うと、引き止めようと手を伸ばした木戸に軽く会釈し、ラウンジを出ていった。木戸の指が、しばらく空中で固まったままだった。
***
3日後、中央労働委員会の事務局より、紅葉正規株式会社宛てに、退職金規定改定に関する正式な紹介書が、追加で2通届けられた。
「今回は、労働法違反の他、源泉徴収票の偽造記載につきまして、税法違反にも該当します旨、書面に明記いたしました。本件は、厚生労働省の労働基準局長宛てに、運用ガイドライン改正の勧告を上申する次第でございます。源泉徴収票の偽造記載内容の証明のため、本年度退職者100名の退職所得の源泉徴収票の写しをご提出願います。」
書類を受け取った紅葉正規の臨時代表取締役は、社外取締役の桐君子だった。桐は、手河原からの電話を受けた。
「手河原先生、ご紹介、確かにお受けいたしました。同時に、有価証券報告書の退職給付債務の虚偽について、証券取引等監視委員会への情報提供を、本日中に取り行います。」
数日を経て、桐は記者会見を行うこととなった。桐はカメラのフラッシュを浴びながら、静かに口を開く。
「桐臨時代表取締役より、ご報告いたします。元社長個人への民事責任追求訴訟の見通しは、株主代表訴訟から、請求後60日経過後に、株主による提訴に進む見込みです。」
***
1週間後、東洋銀行は、行員の霧山早斗主任の懲戒解雇処分を、本社人事委員会で正式に決議した。父親の霧山秀夫も関与の可能性が追求される中で、自己都合の退任届を、本社人事委員会に提出する。
「銀行の使用者責任として、当行は全責任を引き受けます。江崎健一郎様並びに退職者100名への正式な謝罪文を、本日中に発出いたします。」
霧山の謝罪文は、銀行のホームページにも当日掲載された。
行為の数々は、紅葉正規退職者の会の同志、白髪の老人たちをも動かした。
「40年務めて、『30円分の働きしかしてない』と、店頭で侮辱された。400名の家族のために、けじめはつけてもらう。」
彼らは、霧山早斗に対する侮辱の罪での刑事告訴状を、東京地検に提出した。告訴状は、本日付けで受理された。
***
1ヶ月後、紅葉正規の元代表取締役・木戸孝志の自宅から、妻が娘を伴って実家へ戻った。
「待ってくれ。話し合おう。」
「もう、お話しすることはございません。書類は追ってお送りいたします。」
半年後、離婚届が木戸の元に届いた、と関係筋は語った。木戸は来週、統合畑出身の経歴を生かそうと、24社への再就職を模索したが、全て返答なしだった。業界紙の片隅に、木戸の名は一度だけ載った。紙面の見出しに、木戸の名はもう、肩書きなしで印刷されている。
株主代表訴訟は、訴訟請求から60日が経過し、健一郎が従業員持ち株会経由で38年間の継続保有株主として、提訴に踏み切った。訴訟は、東京地方裁判所の商事部に静かに受理される。
紅葉正規の臨時取締役会は、退職金規定改定の基本合意書の草案を、桐君子を委員長とする特別委員会に付託した。是正は、労使協議を得て、翌年4月。その合意書の署名は、健一郎が一本の万年筆で行う予定だった。
***
それからの数日、健一郎の書斎には静かな時間が戻っていた。健一郎は午前中にコーヒーを入れ、湯気の立つ湯飲みを書棚の前まで運ぶ。労働基準法解説の合本、判例集の閉じ込み、退職金制度に関する役所の切り抜き。社長退職金制度の合理性論争をまとめた一冊。
師匠の万年筆は、机の上のペン立て代わりに置かれていた。退職届の控えと、振り込み履歴の写し、手河原から届いた中央労働委員会の受理通知が、その下に揃って並んでいる。
健一郎は書類を一つずつ手に取った。
「労働法、ご存知ですよね。俺は40年、この言葉を内側に抱いて生きてきた。今日、その言葉がようやく外に出た。同期とその家族、400名。桐先生、手河原先生、イさん、そして… 」
健一郎は書棚の窓辺、銀色の遺影に軽く頭を下げた。書斎の窓の外で、午後の日差しが静かに傾いていく。
退職金の本来の振り込み通知が、銀行から書留で届いていた。2283万円。健一郎はその通知を、机の上の書類の下にそっと挟み込んだ。
机の脇の固定電話が、軽く鳴った。健一郎が受話器を取ると、大野の弾んだ声が聞こえてきた。
「けんちゃん、振り込み確認した。ふさ子の車、来月からリースで借りられる。」
「イさん、よかった。」
「ありがとう。40年、付き合ってくれてありがとな。」
「俺の方こそ、イさん。これからもよろしく頼む。」
電話が静かに切れた。その喜びを共有しながら、健一郎はこの40年の親友により広い意味で力になりたいと思った。静もきっと、そう願うだろう。
***
翌年3月、紅葉正規本社の17階の役員会議室で、臨時取締役会の後、退職金規定改定の基本合意書の署名式が執り行われた。長机の正面に、桐君子社外取締役と、退職者の会の代表として白髪の老人ら数名が並んで座っている。健一郎は中央席に、静かに腰を下ろした。
「本日、退職金規定改定の基本合意書をご署名お願いいたします。改定前規定に立ち返り、退職者100名の支給差額は、本年4月の労使協議を得て、即時全額をご支給します。規定改定の本則は、翌年度4月1日からの適用となります。」
健一郎は内ポケットから、40年ものの万年筆を取り出した。ペン軸の細い剣詞が、合意書用紙の白い野の上でわずかに光る。健一郎は静かに署名した。万年筆のペン先が紙の上で、40年前と寸分変わらぬ感触で走る。
「江崎先生、ご署名ありがとうございます。労働中央委員会事務局より、本件、運用ガイドライン改正。本年6月、告示の予定でございます。ガイドライン改正は、全国の上場企業の退職金規定改定実務に影響します。同類の被害規模、年間2万件、4000億円規模の是正効果が見込まれます。」
「桐先生、江崎先生、40年勤めた我々と、その家族のために、本日はありがとうございます。」
健一郎は桐に頭を下げ、それから白髪の老人たちに向き直って、もう一度深く頭を下げた。
署名式後、健一郎は先ほどの合意書用紙の脇に、もう一つ書類を並べた。
「一般財団法人、静。透析患者就労支援基金、設立趣意書です。」
桐は30年来の労働法学会の同志として、書類に目を落とし、ゆっくりと頷く。
「設立趣意、確認いたしました。1年後を目途として、正式に認可が頂戴できるかと思われます。先生、透析患者の就労継続支援、バリアフリー改修補助、介護タクシー券発行、3本柱でまいります。病気は違えど、病者の縁者として、妻、静の名を、ご使用させていただきます。妻は『派手な財団はいや』と言っておりましたので、小さく、静かにお願いいたします。」
「承知いたしました。静様のお名前で、透析患者とそのご家族にお力添えしていきましょう。」
会議室の窓の外で、春の光がゆっくりと傾いていく。健一郎は内ポケットから、もう一冊、古びた本を取り出した。
『退職金制度論集成』著者、子高坂哲太郎。表紙の見返しに、師匠の直筆の言葉が、40年前の万年筆で刻まれている。
「江崎健一郎君へ。人の値打ちは、勤続年数じゃ測れねえ。高坂哲太郎。」
健一郎は本を、合意書用紙の脇に静かに置いた。
「師匠。あなたの言葉が、今日、400名の家族の元へたどり着きました。」
健一郎は本の表紙に、軽く手を置いた。
***
半年後、紅葉正規本社の1階の喫茶コーナーで、退職者の会の幹事を引き継いだ大野が、新人の研究担当者を相手に、湯気の立つコーヒーを挟んで話していた。
「大野さん、本日は退職者の会幹事として、新人社員教育にお越しくださっているそうで。」
「ああ。半年くらい前から、桐代表に頼まれてな。俺の方からも、新入社員に一つだけ、伝えておくことがあって。」
「と、申しますと?」
「40年、お前らの先輩100名、誰一人として、『30円分の働きしかしてねえ』なんて人はいなかった。『30円分の働きしかしてない』なんて、誰にも言わせちゃならねえ。『全部で30円です』なんていう人間にも、なるな。」
「肝に命じます。大野さん。」
大野はゆっくりと頷き、コーヒーを一口飲んだ。
***
その同じ頃、東京郊外の霊園で、健一郎は妻・静の墓前に立っていた。線香の細い煙が、ゆっくりと立ちのぼっていく。健一郎は風呂敷から二つの品を取り出した。師匠の万年筆と、退職金の振り込み通知書の写しである。健一郎は二つを、墓石の前にそっと置いた。
「静、けじめがついたよ。40年、筋を通し続けてやった。師匠の万年筆も、イさんの言葉も、お前の名前の基金も、皆それぞれに収まる場所へたどり着いた。」
健一郎は深く頭を下げる。
「俺はこれからも、静かに生きていく。お前との約束も、師匠の言葉も、イさんとふさ子さんの暮らしも、抱えて生きていく。」
春の風が、桜の花びらを一枚、墓石の前の万年筆の上に、ゆっくりと落としていった。


