朝6時、都内の閑静な住宅街にある古びた一軒家で、向海真時(むかい まこと)の一日が始まる。自分で入れたコーヒーの香りが漂う中、レコードプレイヤーからフランツ・リストの「愛の夢 第3番」が流れている。真時が毎朝決まってかけるレコードだ。
「愛せる限り愛せよ」。この曲にはそんな意味が込められていると教えてくれた人がいた。ふと視線が棚の上の古びた写真に向かう。キャンパスのベンチで隣に座る女性と、まだ何者でもなかった頃の自分。彼女は楽譜を抱えて無邪気に笑っている。
「もう5年か……」
写真の中の彼女の笑顔を見つめたまま、真時は小さく呟いた。あの日、彼女の夢を守るために自分から身を引いた。ただ一つ確かなのは、あれから5年経ってもこの写真を棚から下ろさずにいるということだった。
レコードの旋律が静かに終わりに差し掛かった時、真時はテーブル上のスマホに目を止めた。画面にはスケジュールの通知が表示されていた。
「今日の18時か……」
1ヶ月ほど前、大学時代の恩師である杉本教授から電話があった。「どうしても会って欲しい人がいるから、騙されたと思って会ってもらえないか」。妙な話は何度か断ってきたが、その日の恩師の声にはいつになく力がこもっていた。真時は断りの言葉を飲み込んだ。
「悪いけど、本当に俺自身を見てくれる相手なのか、確かめさせてもらうか」
そう呟きながら、彼はクローゼットの奥から古びた安物のスーツを引っ張り出した。
都内でも有数の格式を誇る高級料亭。ほのかに線香の香りが漂う静寂の個室で、真時はただ一人座っていた。襖の向こうで足音が止まり、仲居が静かに声をかけた。
「お待たせいたしました」
ゆっくりと襖が開き、そこに入ってきた女性を見た瞬間、真時は息を飲んだ。淡い桜色の着物をまとったその女性は、5年前に別れた元恋人、松田七子(まつだ ななこ)だったのだ。
「え……シジ君?」
七子は信じられないものを見るような目で彼を見つめ、立ち尽くしている。なぜ彼女がここに?真時が言葉を失っていると、七子の視線が彼の古びた安物のスーツに落ちた。その瞬間、彼女の表情がすっと曇った。
大学3年の秋、真時は奨学金とコンビニのアルバイトで生活費をやりくりする学生だった。昼飯はもっぱらカップ麺。それでもいつか自分の会社を立ち上げると本気で言い続け、研究室では教授も舌を巻くほどのプログラミングの腕を持っていた。
そんな真時には日課が一つあった。夕方になると音楽棟の練習室の前に足を運ぶ。扉の小窓から中を覗くと、恋人の七子が夢中で鍵盤に向かっていた。額に汗をにじませ、時に目を閉じ、時に楽譜を睨みつけながら、何度も同じフレーズを繰り返していた。フランツ・リストの「愛の夢 第3番」。七子が最も愛した曲だ。
「シジ君、またカップ麺でしょう。見なくても分かるわよ。顔色で」
ある日、練習を終えた七子が呆れたように笑いながら弁当箱を差し出してきた。中には手作りの弁当が入っていた。
「ちゃんと食べなきゃ、夢を叶える前に倒れるわよ」
それ以来、七子は毎日彼の弁当を作ってくるようになった。金はなかったが、穏やかで満ち足りた時間だった。
そんな穏やかな日々に、突然影が差した。グランツプロダクション。クラシック音楽業界において、その名を知らない者はいない。国内の主要コンクールの審査員派遣、海外名門音楽院との連携、大手レコードレーベルとの独占契約。業界の頂点に立つこの事務所に所属できれば、ピアニストとしての将来は約束されたも同然だった。その社長を名乗る男、黒田が七子に接触してきたのだ。
「松田さん、君の才能は素晴らしい。是非我が社でのデビューを視野に入れ、アメリカ留学を全面的に支援したい」
七子の目が輝いた。行き先はニューヨークの超名門校、ローレンス音楽院。ここを卒業できれば世界の舞台への切符を手にしたも同然と言われている。しかも帰国後はグランツプロダクションでのデビューまで確約するという、夢のような話。とっくに諦めていた夢が、彼女の目の前に差し出されたのだ。
「シジ君、聞いて。留学できるかもしれないの。そしてデビューもできるの」
満面の笑顔で報告してくる七子を見て、真時の頬が自然と緩んだ。彼女の才能がようやく誰かの目に止まった。それだけで十分だった。
だがその数日後、真時は一人、黒田に呼び出されていた。都内のホテルのラウンジ。黒田は優雅にコーヒーカップを傾けながら真時を見つめていた。その目には感情がなく、値踏みするようなものだった。
「向井君には、少しお願いがあるのだが」
「何でしょうか?」
「松田君のこと、別れてくれないか?」
「は?」
「彼女はこれから世界の舞台に立つ人間だ。君のような――失礼だが、何者でもない男が隣にいては、彼女の価値が下がる」
真時は拳を握りしめた。しかし黒田は、まるで天気の話でもするかのように続けた。
「もし君が別れないと言うなら、留学の話もデビューの話も白紙に戻す。彼女の夢は、君の選択次第なんだよ。もちろん、これは君と私だけの話だ。彼女には一切知らせないでほしい。彼女が君に未練を持ったまま渡米しても、集中できないだろう。将来を誓った相手がいては、人生をかけて世界に挑戦なんてできやしないと思わないか」
黒田は穏やかに微笑んでいた。まるで善意の助言をしているかのように。しかしその目の奥に宿る冷たい光を、真時は見逃さなかった。この男は七子を人間ではなく商品として見ている。だが彼には反論する材料が何もなかった。金も地位もない。七子の夢を守る力が、今の自分には何一つない。
その夜、真時は七子を呼び出した。キャンパスの桜並木。葉が散り始めた秋の夕暮れに、二人は向かい合って立っていた。
「七子、別れよう。お前が重いんだよ。俺には俺の道がある。お前の夢に付き合ってる暇はない」
「何を言ってるの、シジ君。冗談でしょ?急にどうしたの?」
「冗談じゃない。もう終わりにしよう」
嘘だった。全部嘘だった。握りしめた拳の爪が手のひらに食い込んでいた。だが、ここで本当のことを言えば、彼女の夢が壊れてしまう。
「どうしてよ。意味わかんない」
七子の目から涙が溢れる。真時はそれを見ないように背を向けた。一歩、二歩と遠ざかる足音。背中に七子の視線が突き刺さる。振り返りたかった。だが、ここで振り返ってしまえば、もう二度と離れられなくなる。真時はそのまま歩き続けた。七子は一人、桜並木に取り残された。それが5年前の全てだった。
「あの選択は間違っていなかったんだな」
真時は目の前の七子を見つめ、心の中でそう呟いた。美しい着姿。洗練された佇まい。彼女は夢を叶え、立派に成長した。自分が泥を被った甲斐があった。それだけで十分だ。
「杉本教授、相変わらず強引よね。騙されたと思ってなんて」
「ああ、あの人らしいよ」
真時は少しだけ笑った。七子も釣られてか、口元を緩めかけたが、すぐにその表情は消えた。先ほど一瞬曇った顔。それが再び彼女の表情に戻っていた。
「やっぱり俺のことを許してくれてはいないんだな」。5年前、理由も告げず一方的に別れを切り出した自分を、七子はまだ許していないのだ。当然だろう。
「七子、アメリカでの評価すごかったらしいな。さすがだよ」
その言葉を聞いた瞬間、七子は膝の上でぎゅっと着物の袖を握りしめた。
「ねえ、シジ君。あなた、今何をしているの?」
彼は言葉に詰まった。ここで「夢を叶えて社長になった」と言えば、七子はどう思うだろう?「私を捨てて、その分の時間で成功したってこと?」そう思われてもおかしくない。自分が彼女を踏み台にして成り上がった男だと思われること。それだけは絶対に嫌だった。
「フリーター……みたいなもんだよ」
沈黙が落ちた。長い、長い数秒だった。そして七子の目から涙がこぼれ落ちた。彼女は唇を震わせ、何かを我慢するように天井を仰いだ。だがこらえきれなかった。
「夢も叶えられずフリーターとか、受けるんだけど」
そう言うと七子は体が震え、呼吸が乱れた。そして堰を切ったかのように言葉を吐き出し始めた。
「嘘、嘘よ。あなたまで……あなたまで、そんなこと……」
「七子?」
「私、騙されてたの。奨学金だと思ってたの。全部、全部借金だったの」
「なんだって?」
「留学費も生活費もレッスン代も、全部貸付金だって。帰りの飛行機で契約書渡されて、『もう一度目を通しておいて』って。あの男に……」
七子の声はもはや叫びに近かった。
「5000万よ。返せるわけないじゃない。デビューさせてくれるって言うから我慢してたのに、2年も引き延ばされて、今日はスポンサーになってくれる人との会食に出ろって言われて……この着物だって……」
彼女は自分の着物の袖を、さっきよりも強く悔しそうに握りしめた。
「自分で選んだんじゃない。今夜の会食のために着せられたの。私は……私はもう……」
呼吸が浅くなり、過呼吸のように肩が激しく上下する。それでも七子は止まらなかった。止められなかった。
「サインしたのは私よ。自分の落ち度よ。誰のせいにもできない。だから、だからせめてあなただけは幸せでいて欲しかったのに。なのに……なのにあなたまで夢を諦めて……」
七子の言葉はそこで途切れた。声を飲み込み、もう言葉にならない。テーブルにつっぷすようにして、彼女は声を殺して泣いていた。
真時は完全に言葉を失っていた。留学費用が借金、契約書、帰りの飛行機の中で、スポンサーとの会食。この着物が着せられたもの。自分が5年前に犠牲を払って守ったはずの七子の夢は、とっくに踏みにじられていた。守れていなかった。何一つ、守れていなかった。
何か言わなければ。彼女を助けなければ。だが体が凍りついたように動かない。真時の手がテーブルの縁を強く掴んだ。指先が白くなるほどに。その時だった。
突如、室の襖が乱暴に開け放たれた。
「七子、お前、こんなところで何をしている?」
「全くです。20時からの会食はどうするんですか?」
「で、誰ですか?この貧乏臭い男は」
土足で踏み込んでくるような無遠慮な声と共に現れたのは、七子が所属するグランツプロダクションの社長、黒田と、専務の小宮だった。真時の目が黒田を捉えた。5年ぶりだった。あの日、ホテルのラウンジで「君のような何者でもない男が隣にいては彼女の価値が下がる」と言い放った男が、今目の前にいる。
小宮は部屋の中を見回し、テーブルに突っ伏して泣いている七子と安物のスーツを着た真時を見て、下劣な笑みを浮かべた。
「はぁ。何ですかこの状況?七子さん泣いてるし。うわ、興醒めですけど」
「おい、お前、何者だ?」
「……ただのフリーターですよ」
「フリーター?うわぁ、ここに来るなんて身の程知らずもいいところですよ」
小宮が腹を抱えて笑う中、黒田は七子の涙に濡れた顔を一瞥し、静かにため息をついた。
「七子、20時からスポンサーの田所様との会食を忘れたわけではないだろうね。さあ、立ちなさい」
「空気読めないんすよね。社長がどれだけ金かけたと思ってるんですか?留学費に生活費にレッスン代、5000万ですよ。5000万なのに、よりによってフリーター男と鉢合わせとか、マジ勘弁ですよ」
「さあ七子、急いで。田所様がお待ちだ」
黒田は冷たく微笑んだまま、七子に手を差し伸べた。
「もしかしたら、君への貸付金を一括返済してもらった方がいいのかな?」
七子の体から最後の力が抜けた。涙を流したまま、ゆっくりと立ち上がろうとする。膝が震え、テーブルに手をついた。黒田の差し出した手に、七子の指先が伸びかけた。その時だった。
「座っていろ、七子」
静かな声だった。怒鳴ってもいない。声を荒げてもいない。だが、個室の空気が一瞬で変わった。七子の動きが止まる。小宮の笑い声が途切れる。黒田だけが、皮肉な笑みを浮かべていた。
「おやおや。フリーターさんが何かおっしゃりたいようだが」
真時はゆっくりと立ち上がり、七子に向き合った。
「七子、俺が5年前、お前にひどいことを言って別れた理由を、今から話す」
「え、うわぁ、出た出た。振られた男の未練話。社長、こういう男いますよね。5年前に振られたのがよっぽど悔しかったんでしょうけど、見苦しい。あのさぁ、お前、七子さんの前でそういうのやめてくんない?キモいから」
「嘘じゃない。俺はあの時――」
「七子さんは、うちの将来有望な所属アーティストなの。無関係な話を持ち出さないでくれますか」
「社長、こんなストーカーみたいな男、警察呼びましょうよ」
「七子、聞いてくれ。あの時、俺はこの男に呼び出された」
真時の視線が黒田を射抜いた。黒田の表情から、わずかに余裕が消えた。
「彼女と別れろ。別れなければ留学の話は白紙にする。彼女の夢はお前のせいで終わると言われた」
「そんなの嘘でしょう?」
「嘘じゃない。俺にはあの時、お前の夢を守る力がなかった。だから黙って身を引いた。理由を言えば、お前は留学を蹴ると思ったから」
「そんな……こと?」
その瞬間、七子の目が大きく見開かれ、震える視線が黒田へと向かった。
「はぁ。君、5年前の話を蒸し返して何になる?仮にそうだったとしても、現実は変わらない。彼女には5000万の債務がある。それを肩代わりでもしてくれるのかね?フリーターの君が」
黒田は余裕の笑みを崩さない。小宮が馬鹿にするように口を挟む。
「5000万ですよ。5000万。お前の年収何年分?あ、フリーターだから年収ないのか。ははっ」
真時は何も言い返さなかった。ただ七子の方を向いた。
「七子、今夜の会食には行かなくていい。でも……私の借金は、俺が何とかする」
「何とかって……ちょっと待ってください。何勝手に決めてるんですか?田所様は大口のスポンサー候補なんですよ。それに、何とかするって。5000万をどうやって?宝くじでも当てるんですか?」
「七子、俺を信じてくれ。必ず、何とかする」
彼の目は5年前と違っていた。あの頃の無力な大学生の目ではない。七子は涙の滲んだ目で真時を見つめた。そして、小さく頷いた。
「七子、君がバカなことをしていることを、私はよく知っている。しかし、今ここを出ていけば、もう二度と戻れないぞ。デビュー公演は白紙だ。そしてピアニストとしての未来もな」
七子は唇を噛みしめ、体が震えていた。それでも、立ち上がり、真時の隣に歩み寄った。
「ちょ、ちょっと待ってください。マジで行くんですか?正気ですか?このフリーターメシしか出てこないですよ?伸びたカップ麺しか」
黒田の表情がわずかに歪んだ。しかしすぐに、冷たく余裕のある表情を取り戻した。
「いいだろう。好きにしろ。だが、明日になれば目が覚める。5000万の貸付金は消えない。どこにも、君たちの逃げ場はないよ」
黒田はそう言い残し、小宮を従えて個室を出ていった。
「いいんですか?社長」
「放っておけ。明日になれば戻ってくるさ。5000万の事実は消えない」
小宮は振り返り、真時に向かってにやりと笑った。
「精々、今夜だけ楽しんでくださいよ、フリーターさん。明日の朝にはね、七子さん泣きながらうちに戻ってきますから。だってしょうがないでしょ。あんた、何の力もないんだから」
足音が廊下に遠ざかっていき、静寂が戻った。
「シジ君、本当に大丈夫なの?私、5000万も……」
「大丈夫だ。少しだけ、時間をくれ」
彼は七子を料亭の玄関まで送り、タクシーを呼び止めた。
「大丈夫だ。明日、必ず連絡する」
タクシーが夜の通りへ消えていくのを見届けると、真時はスマホを取り出した。
「俺だ。あの件、最終承認を出す。明朝までに全ての手続きを完了させてくれ」
電話の向こうから一瞬の沈黙の後、落ち着いた声が返ってきた。
「承知しました。書類は全て準備済みです。明朝9時までに完了予定です」
「頼む」
電話を切り、真時はもう一件、別の番号にかけた。学生時代からの親友、霧島だ。真時、七子、霧島の3人はあの頃、いつも一緒にいた。霧島は七子のピアノを誰よりも近くで聞いてきた一人だった。
「真時か。こんな夜遅くにどうした?」
「霧島、七子に会った」
「え?七子と再会したのか?どうだった?元気そうだったか?」
「霧島、落ち着いて聞いてくれ」
真時は料亭での出来事を伝えた。黒田が七子にしていたこと。奨学金を偽った借金契約。帰りの飛行機で渡された契約書という騙し打ち。2年間引き延ばされたデビュー。スポンサーとの会食。電話の向こうで、霧島が息を飲む様子が分かった。
「嘘だろ?あの七子が……俺もずっと騙されてた。黒田は七子を支えてくれている人間だと思ってた。ふざけるな。あの子の演奏を俺たちは知ってるんだぞ。あの子がどんな思いでピアノを弾いてきたか。それを、あの男は……」
霧島の声は血が通っていないような低さで、それでいて怒りに震えていた。
「俺はあの男から会社を取り上げる。だが、それだけじゃ足りない」
「ああ、それだけじゃ絶対に足りない。ああいう男は、必ず誰かにすがって、また同じことを繰り返す」
「霧島、お前の会社で、あの男に接触してくれないか?」
「何をする気だ?」
「あの男が七子にしたことと同じ手口で、自分が落ちていく絶望を味わせてやりたい」
短い沈黙の後、霧島が静かに答えた。
「わかった。任せろ」
「すまない。お前の会社まで巻き込むことになる」
「ふざけるな。これは俺の意思だ。七子は俺にとっても大切な後輩なんだよ」
「ありがとう」
「礼は要らん。明日の朝、お前が黒田たちを追い詰めた後は、俺が引き継ぐ。あの男には、自分がしたことの意味を嫌というほど思い知ってもらおう」
電話が切れた後、真時は夜空を見上げ、静かに息を吐いた。
「七子、遅くなってすまなかった」
誰にも聞こえない声で呟き、彼は料亭を後にした。
午前9時。都内の一等地にそびえるオフィスビル、グランツプロダクション本社。黒田は社長室の革張りの椅子に深く腰かけ、白いカップを片手に引き立てのコーヒーの香りを楽しみながら、昨夜のことを思い返していた。あの安物スーツの男。5年前に追い払ったはずの無力な男が、七子の前に現れた。だがあいつはフリーターだ。大口を叩いたところで、5000万の債務はビクともしない。今日明日にでも、七子は戻ってくる。
「ふっ、相変わらず愚かな男だ。5年前と何も変わっていない」
冷たい笑みを浮かべたその時だった。社長室のドアがノックもなく勢いよく開き、法務部長が青ざめた顔で飛び込んできた。
「社長、大変です!」
「なんだ、騒々しい」
「親会社のグランツミュージックグループの株式が、昨夜から今朝にかけて全て取得され、会社が買収されました!」
「なんだと?」
黒田は思わず立ち上がった。数ヶ月前から、親会社に不審な買収者が接触しているとの報告は受けていた。しかし、相手の資金力が桁違いで、他は手も足も出ないという報告だった。
「相手は誰だ?」
「向井ホールディングスです。代表取締役の名前は、向井真時」
「向井……ホールディングス。向井真時だと?」
黒田は法務部長が震える手で差し出した資料を奪い取るように手元に引き寄せ、資料をめくった。
「なんだこれは?」
「向井ホールディングスは、資産300億円のIT企業グループです。昨夜の最終承認を受けて、今朝9時に手続きが完了しました。当社はすでに向井ホールディングスの傘下に……」
黒田の手からコーヒーカップが滑り落ちた。白い陶器が床で砕ける音が、静まり返った社長室に響いた。
「あの男と……同じ名前。バカな。まさか……あいつが?」
「法務部長!対抗策は?議決権の差し止めの仮処分、何でもいい!」
「株式がすでに移転済みです。法的に争う根拠がありません」
黒田は虚ろな目で天井を見つめた。打つ手が何もなかった。そこへ、小宮が転がるように社長室へ入ってきた。
「社長!ちょっと……何ですかこれ?コーヒーこぼれてカップが割れてるし。あ、それよりも、買収されたって嘘ですよね?」
黒田は答えず、椅子の背もたれに沈み込み、天井を見上げていた。5年前に追い払った何者でもない男。金も地位もないあの男が、わずか5年間で300億の帝国を築き上げ、自分の会社を静かに飲み込もうとしていた。そして、昨夜、最後の引き金を引いた。
「社長、しっかりしてください。なんとかなりませんか?」
「ならん。親会社を抑えられた以上、全ての権限は向こうにある」
「そんな……」
受付の内線が鳴った。法務部長が震える手で受話器を取り、すぐに黒田を見た。
「社長、向井ホールディングスの代表が、ロビーにお見えになりました」
黒田と小宮がエレベーターホールに出ると、そこに立っていたのは昨夜の安物スーツの男ではなかった。仕立てのいいスーツに身を包み、背筋を伸ばして静かに立つ男。隣にはスーツ姿の秘書と弁護士が控えている。昨夜のフリーターは、そこにはいなかった。
「黒田さん、おはようございます」
「あ、お前、昨日の……何しに来たんだよ」
「向井ホールディングス代表取締役の、向井真時です」
「あ、グランツプロダクション専務の小宮ですけど……てか、何なんだよお前。昨日のフリーターだろ。代表取締役って、何の冗談だよ?」
黒田の唇がわずかに震えた。
「本日付けで、当社の親会社が当社の傘下に入りました。それに伴いまして、社長にいくつか通告がございます」
「ちょ、ちょっと待って。ねえ、これドッキリでしょ?テレビカメラはどこ?え、マジ?マジなの?」
真時は秘書から書類を受け取り、淡々と読み上げた。
「1つ。黒田社長は、本日付けで代表取締役を解任します」
「そんな――」
「2つ。松田七子との契約について、当社顧問弁護団の見解では、公序良俗に反する不当契約に該当します。よって、当社として一切の債権を放棄し、5000万の債務は全額免除とします」
「そんな、勝手な!」
「3つ。契約に関わった関係者への法的措置については、当社弁護団より追って連絡します」
「関係者って……俺も入ってます?えっとですね、俺はただ社長に言われて、会食のセッティングとか、ちょっとスケジュール管理してただけで……」
「小宮さん。あなたは、七子さんの前で、5000万の借金を笑い話にしていましたね」
「あ、あれはその場を盛り上げようと……」
真時は小宮から視線を外し、隣の弁護士に向かって一言だけ告げた。
「この方の今の発言も、しっかり記録しておいてください」
真時は書類に目を落とし、そして黒田を静かに見つめた。
「黒田さん。5年前、俺にこう言いましたね。『君のような何者でもない男が隣にいては、彼女の価値が下がる』と。あの日から、俺はずっと考えていました。いつか力をつけて、あなたの会社を自分のものにして、七子のキャリアを支えていこうと」
真時の声は怒りに満ちたものではなかった。ただ静かで、部屋の隅々まで響き渡った。
「正直に言えば、あなたを恨んだ時期もありました。でも、時間が経つうちに、感謝の念が膨らんでいった。俺には与えられなかった世界への切符を、あなたが七子に与えてくれたのだと。だから信じていたんです。あなたが本当に七子の才能を支えてくれていると。だが、昨夜知ってしまった。あなたが七子にしたこと。奨学金を偽った借金契約。飛行機で契約書を突きつけた残酷さ。2年間デビューを引き延ばし、彼女の自由を奪い続けた。俺は、ずっとあなたを信じていたんです」
真時は一歩、黒田に近づいた。
「俺はもう、5年前の無力な学生じゃない。そして、今度こそ彼女の夢を守り抜きます」
黒田の膝が折れた。床に手をつき、声を出せず、ただ虚空を見つめるような目で呆然としている。
「嘘だ……嘘だ……」
小宮は壁に背をつけ、その場に無力な様子で座り込んでいた。真時は2人に背を向け、静かに歩き出した。
「二度と、彼女の前に現れないでください」
だが、黒田の本当の地獄は、ここからだった。真時の足音が遠ざかると同時に、別の場所でもう一人の男が静かに動き始めていた。
真時が去った後、エレベーターホールに黒田と小宮だけが残された。
「し、社長、どうするんですか?」
黒田は答えなかった。打つ手が何もなかったからだ。その日から、黒田の地獄が始まった。社長室から追われ、自宅にも報道陣が押し寄せ、黒田は都内のビジネスホテルの一室に潜んだ。300人の部下は、誰一人として寄り添わない。長年付き合いのあった業界人に電話しても、コール音が虚しく響き続けるだけ。秘書も、運転手も、行きつけの料亭の女将すら、もう「黒田社長」とは呼んでくれなかった。
夜が来ても眠れなかった。ベッドに横たわっても、目を閉じれば真時の顔が浮かぶ。「二度と、彼女の前に現れないでください」。あの静かな声が、頭の中で何度も反響する。気がつけば、天井を見つめたまま朝を迎えていた。そんな夜が、もう何日続いただろうか。鏡に映る顔は別人のようだった。頬がこけ、目の下には濃いクマが刻まれ、白髪が一気に増えた。手はわずかに震え、コーヒーを入れることすらおぼつかない。食事は喉を通らず、口にするのはホテルの冷えたサンドイッチを一口、二口だけ。
唯一そばに残ったのは小宮だけだった。だが、連日「俺どうなるんですか」と泣き言を繰り返すばかりで、小宮の存在もはや慰めにすらならない。黒田は気づいていた。自分の判断力が確実に鈍っていることに。書類を読もうとしても文字が頭に入ってこない。考えがまとまらない。だが、認めるわけにはいかなかった。私は黒田だ。業界の頂点に立っていた男だ。こんなところで終わるはずがない。プライドの高さだけが、辛うじて彼を立たせていた。
そんな時、霧島から接触があった。業界では誰もが知る実力派事務所、エクシードミュージックの代表、霧島。あの霧島が私に連絡を……。受けた瞬間、黒田の心臓が久しぶりに脈打った。地獄のような日々の中で、業界の頂点に近い人物から「お話ししたい」と告げられる。それだけで、自分がまだ黒田でいられる気がした。黒田は震える手で髭を剃り、シワの寄ったスーツに袖を通した。久しぶりに「社長」として誰かに会える。その期待だけが、彼を動かしていた。
指定された都内の高層ビル。重厚で品格のある応接室で、最高級のスタッフに「社長」と呼ばれ、案内された瞬間、黒田の口元が自分でも気づかぬうちに緩んだ。ああ、これだ。これが私のいた世界だ。
「黒田社長、本日はお越しいただき、誠にありがとうございます。エクシードミュージック代表の霧島です」
「霧島さん。あなたほどの方が、私にどのようなご要件で?」
「単刀直入に申し上げます。黒田社長と、手を組ませていただきたい」
「手を組む、ですか」
「今回の買収の件は、業界内でも様々な見方がございます。経緯について私が軽々に申し上げる立場にはありませんが、一つだけ確かなのは、黒田社長が業界に残してこられた功績は決して色あせないということです」
その言葉が、ずっと張り詰めていた何かをゆっくりと溶かしていく。連日の不眠で麻痺していた感情が、久しぶりに動き出すのを感じた。分かってくれる人間が、まだいたのか。
「我が社が、新会社の設立に10億円を出資いたします。形としては資本提携。返済は、新会社の事業収益から、無理のない範囲で、という形で考えております。黒田社長には、新会社の代表として自由に采配を振っていただきたい。小宮さんには、共同事業者として」
霧島は分厚い契約書を丁寧にテーブルに置いた。黒田は契約書を手に取った。普段の黒田なら、隅々まで目を通したはずだった。だが、文字が頭に入ってこなかった。連日の不眠で霞んだ視界に、細かい条文がぼやけて見える。霧島ほどの男が、妙な条項を入れるはずがない。
黒田はペンを取った。手がわずかに、止まった。
「黒田社長。差し出がましいことを申し上げるようですが」
「なんだ」
「向井ホールディングスのことを、業界では『新興の遺児』と呼ぶ者もおります。金の力で全てを動かそうとする若い経営者だと。ですが、業界の本道を知る我々が手を組めば、本物の力とは何か、思い知らせることができる。私はそう信じております」
遺児、若造。その一言が黒田の中で何かを焼き切った。最後に残っていた警戒心も判断力も、全てが向井への憎悪に塗りつぶされていく。そうだ。この俺が、あのような男に負けてたまるか。
黒田はペンを走らせた。迷いは消えていた。
「ありがとうございます。では小宮さん、こちらにもお願いできますか?」
「え?俺もですか?やった。喜んで」
小宮も契約書を読みもせずにサインした。霧島は深く一礼した。
応接室を出てエレベーターに乗り込むと、霧島は壁にもたれかかり、ようやく息を吐いた。真時が読んだ通りだった。あの男は、こんな単純な仕掛けに引っかかったのだ。七子から5000万を奪い、人生を縛り上げた男が、自分の対抗心を煽られただけで、自ら罠に飛び込んできた。
「真時、お前が描いた通りに、あの男は落ちていったよ」
誰にも聞こえない声で、霧島はそう呟いた。
それから数週間後、新会社が立ち上がり、黒田は再び業界に向けて動き始めていた。あの屈辱から、ようやく立ち直れる。そう思い始めた矢先だった。黒田の元に、霧島からメッセージが届いた。「契約書にもう一度、目を通しておいてください」。彼は眉をひそめ、契約書を広げた。契約以来、久しぶりにぐっすりと眠れるようになり、ようやく頭が回り始めていた。そして、契約書を読み進めていくうちに、最後のページの小さな文字に目が止まった。
「第12条 本契約における出資金は、甲(黒田)への貸付金として計上され、事業収益により全額返済するものとする」
「第13条 乙(小宮)は、甲の連帯保証人としての責務を負うものとする」
貸付金。返済。手が震えた。
「俺は……なぜ、読まなかった。あの時、なぜペンを止めなかった?」
答えは分かっていた。連日の不眠で判断力を失っていたのだ。久しぶりに社長と呼ばれ、いい気分になっていた。また、向井への対抗心に、最後の警戒心を焼き切られていた。全て、自分の弱さだった。そして、もう一つの真実にもたどり着いてしまった。七子も、同じだったのか。「奨学金」という言葉に救われて、夢が叶うという喜びで判断力を失って。私が、そう仕向けたのだ。
黒田はすぐに霧島に電話した。
「はい、霧島です」
「返済不要と言っていたはずだ。契約書には貸付金と書いてある。どういうことだ?」
「『無理のない範囲で』とは申し上げましたが、返済不要とは一度も申し上げておりません。黒田さん、サインされる前に契約書はご確認いただきましたよね。契約書の内容に同意の上でサインされたと理解しております。ご不明な点がございましたら、弁護士を通じてご連絡ください」
霧島の声は終始、穏やかだった。丁寧で、冷たく、まるで何でもないことのように。電話は、静かに切れた。黒田はスマホを握りしめたまま、動けなかった。そこへ、小宮が形相を変えて飛び込んできた。
「社長!俺、連帯保証人になってるじゃないですか!返済不要じゃなかったんですか?なんで俺まで巻き込まれてるんですか!」
小宮は顔をくしゃくしゃに歪め、黒田の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで叫んだ。
「社長が『好きにしろ』って言ったから、自分でついてきたんだろって言いたいんでしょうけど、俺は社長を信じてたんですよ!なんで……なんでこうなるんですか?」
黒田は答えなかった。ただ窓の外に視線を向けたまま、動かなかった。彼の頭の中には、七子の顔が浮かんだ。
「まあ、一度目を通しておいてください」
自分が七子に言ったその言葉を、黒田は静かに呟いた。誰に言うでもなく、ただ自分自身に言い聞かせるように。
「社長?何言ってるんですかねぇ。社長!」
黒田は何も答えなかった。それが、グランツプロダクション社長・黒田と専務・小宮の末路だった。
一方、その日の午後。都内のコンサートホールのロビーに、七子は立っていた。今朝、何の連絡もなく「今日の14時に来てほしい」とだけ伝えられていた。
「シジ君?」
ホールの扉が開き、真時が現れた。昨夜の安物スーツではなく、落ち着いたスーツに身を包んでいる。昨日とは全く違う雰囲気の彼に、七子は言葉を失うほど驚いた。
「話さなきゃいけないことがある」
真時は彼女を客席に招き、静かに語り始めた。
「お前と別れた後、俺は大学を出て、がむしゃらに働いた。プログラミングしか取り柄がなかったけど、死に物狂いでやった。3年で会社を立ち上げ、5年でそれなりの規模にはなった」
「それなりって……」
「黒田の会社の親会社、グランツミュージックグループを買収できる程度には」
「え?」
「今朝、全ての手続きが完了した。黒田は解任した。お前の契約は無効だ。5000万の借金は、もう存在しない」
「え、買収って……?」
七子は真時の顔を見つめたまま、何度も瞬きを繰り返す。突然の告白に呆然とし、言葉が出てこなかった。そして、その言葉の意味にたどり着いた時、震える声で呟いた。
「あなた……夢、叶えたの?」
「ああ」
七子の目から、堰を切ったように涙が溢れた。それは昨夜の涙とは違っていた。
「よかった……よかった……」
やがて七子は涙を拭い、ふと気づいたように顔を上げた。
「待って。じゃあ、会社を買収したのって、私の借金を消すため?」
「準備は半年以上前から進めていた。本当は、もっと時間をかけるつもりだった。お前が舞台で活躍するのを見届けて、直接会って、あの日のことを詫びられたら。その時から、お前を支えていこうと。そんな悠長な計画だった。だが、昨夜、お前の話を聞いて、もう待てなかった」
「別に、大したことはしていない。やるべきことをやっただけだ」
「嘘つき」
七子が泣きながら、笑った。しばらく二人とも、言葉を交わすことなく。ただ七子のすすり泣きだけが、広い客席に静かに響いていた。
「ありがとう、シジ君。本当にありがとう」
やがて七子は目元を拭い、落ち着きを取り戻した様子で、ふっと息をつき、話し始めた。
「ねえ、シジ君。杉本教授から聞いたんだけど、まだ『愛の夢』のレコード、かけてるんでしょ?」
「あの親父、余計なことを……」
「私もね、アメリカでも、帰国してからも、毎日弾いてた。この曲だけは、どんなに辛くても弾き続けた。弾いてる間だけ、シジ君のこと、思い出せたから」
真時は何も言えなかった。ただ、目頭が熱くなるのを必死にこらえていた。
「あの……七子。俺にもう一度、やり直させてくれないか。5年前は守れなかった。でも今度は、お前の夢も、お前自身も、全部守って見せる。だから、もう……」
七子の顔がくしゃっと歪んだ。やっと止まった涙が、また溢れ出し、真時の胸に飛び込んだ。
「そんなの、答え決まってるでしょ。バカ」
真時は一瞬固まり、それから静かに七子の背中に手を回した。5年ぶりに、彼は心の底から笑みがこぼれ、目の縁には、じわりと涙が滲んだ。
3ヶ月後、霧島が用意した契約書に縛られ、黒田と小宮は二度と業界の表舞台に戻ることはなかった。だが、真時も七子も、もう彼らのことを口にすることはなかった。
都内の大ホール。「松田七子 日本デビューリサイタル」。チケットは完売。客席は満員の観客で埋まっていた。舞台袖で、七子は深呼吸をしている。その手は、もう震えていなかった。
「大丈夫か?」
「うん。ねえ、シジ君」
「ん?」
「『愛の夢 第3番』。この曲の意味、覚えてる?」
「忘れるわけないだろ。『愛せる限り愛せよ』だろ」
七子は微笑んだ。そして、ステージに向かって歩き出す。客席の最前列中央には、仕立ての良いスーツを着た真時と、目を真っ赤にした霧島が座っていた。
「真時、あいつ、うまくなったな」
「ああ。あの頃より、ずっと深くなった」
「守れて、よかったな」
「本当に……な」
真時は答えず、ただ静かに頷いた。そして、その隣には、満足そうに腕を組む杉本教授の姿があった。
「ようやくか」
「先生のおかげです」
「私は何もしておらん。『騙されたと思って会ってこい』と言っただけだ」
「それが、全てだったんですよ」
照明が落ち、スポットライトがステージを照らす。七子がピアノの前に座り、鍵盤に指を置いた。最初の一音が、ホールに響き渡った。「愛の夢 第3番」。その旋律は、大学の練習室で聞いたあの頃と同じで、あの頃とは全く違っていた。一音一音に、真時の記憶が呼び起こされる。弁当箱を返した夕暮れ。背を向けた桜並木。そして昨夜、震える声で全てを打ち明けた時の、七子の顔。真時はそっと目を閉じ、静かにその旋律に身を委ねた。
愛せる限り、愛せよ。
客席の隅で、杉本教授がそっとハンカチで目元を拭ったことに、真時は気づかないふりをした。



