「大事な話がある。俺たちも終わりにしよう」
夫、優斗からのLINEは突然だった。還暦を迎え、いい区切りだと言う。つまり離婚したいらしい。
「ふざけないで。どうしてそんなことを言うの?」
「医者の嫁として甘い汁は十分吸っただろう。これからは俺に寄生せずに自分の力で生きてくれ」
私は言葉を失った。確かに彼のおかげで不自由のない暮らしをしてきた。でも私だって家を守り、家庭を支えてきた。それなのに、彼は「お前じゃなくても良かった」と言い放った。
「財産分与はちゃんとする。この家はお前にくれてやる」
「顔を合わせて話しましょう」
「嫌だね。お前の顔なんてもう二度と見たくない」
彼は離婚が成立するまでホテルに住むと言い、一方的に通話を切った。離婚届は送るから、サインして役所に出せと。
あんなに長く連れ添ったのに、最後の最後まで彼は私を軽蔑していた。私の存在は、ただの便利な家政婦だったらしい。
二日後、見知らぬ番号からLINEが届いた。
「ゆみさん、早く離婚に応じてくれませんか?」
「え? あなた誰?」
「優斗の携帯からあなたの番号を拝借しました。私は優斗と長年お付き合いをさせてもらっていて、この度結婚することになりました」
私は携帯を握りしめた。不倫相手から直接連絡が来るなんて。しかも彼女は言った。「今はまだそうですね。でもすぐに妻になりますよ」
話を聞くと、彼女は「レ子」と名乗った。優斗が勤める病院の看護師で、何度か家に来たこともあるらしい。淡々としながらも、その言葉の端々に私への優越感が滲んでいた。
「あなたのような家事しかできない無能は優斗のそばにはいりません。さっさと目の前から消えてください」
その一言で、私の中で何かが冷めた。
「あなた、不倫してたのね」
「何? どういうことだ」
「さっきレ子さんから連絡があったわ。さっさと別れてくれって」
彼は一瞬沈黙した後、あっさりと認めた。「そうだよ。だから還暦してから一緒になろうとしてたんだ」
「ずっと私を裏切ってたのね」
「裏切ってたつもりはない。俺の気持ちはとっくに冷めてた。ただ家事をそれなりにやってくれて便利だったから置いてただけだ」
私は深く息を吸った。もう何も言う必要はない。彼の本心を聞いた以上、迷う余地はなかった。
「もういいわ。離婚してあげる」
「ようやくか」
「あんたに対して愛想が尽きたわ。もうあんたの妻でいる必要もない」
「それなら財産分与だ。お前にはこの家をやる」
「家だけ?」
「一銭もやらねえ。自分で働いて生きろ」
私は六十を超えている。一人で新しい生活を始めるにはそれなりのお金が必要だ。しかし彼は「バイトでも何でもして暮らせ」とだけ言った。
その時、私は一つの提案をした。
「じゃあ、先に名義を私に変えておいてくれる? 財産分与の手続きをスムーズにするために」
彼は面倒くさそうに頷いた。「まあ、別にいいぜ。先に名義変更だけやっておくか」
こうして、私はあの家の名義を自分のものにした。
翌日、私は久しぶりに弁護士事務所を訪ねた。
「両親の遺産相続の時にお世話になりました。実は夫と離婚することになりまして、財産分与について色々と相談させてもらいたいんです」
弁護士は静かに頷いた。「もちろん協力しますよ」
二週間後、夫のもとに弁護士事務所から連絡が入った。彼は相変わらず高飛車な態度だったが、弁護士の言葉を聞いてその表情が一変した。
「東田様が引き継いだ家なんですが、査定価値はほぼゼロということになってます」
「はあ? ゼロ? あんなでかい家が?」
「購入されて三十年以上経ってます。建物はかなり古く、立地もよくありません。間取りも特殊で不動産価値はほぼないという評価になりました。土地自体には価値がありますが、売却には解体費用がかかるため、ほとんどお金は残りません」
「じゃあ、俺が金を渡さないといけないのか?」
「そうです。財産分与は半々が原則です。そして、それ以外に慰謝料も請求させてもらいます。不貞行為をされていたので、そちらもきっちり払っていただきますよ」
彼は電話越しに怒鳴ったが、もう遅い。
後日、彼から直接電話がかかってきた。
「お前、最初からこうなることを知ってて俺に名義変更をさせたな?」
「もちろんよ。あなたと老後をどうするか考えてたの。この広い家じゃなくて、自然豊かな土地でゆっくり過ごすのもいいかなと思ってね。不動産屋さんに見積もりを出してもらったら、この家に資産価値がないって言われたの」
彼は怒り狂った。「俺を騙すようなことをしやがって!」
「長い間私を裏切ってた人の意見とは思えないわね。その怒りを自分に向けることはできないの?」
彼は「ふざけるな」と叫んだが、もう何も変えられない。私は淡々と言い返した。
「あなたから慰謝料ももらえるし、なかなかいい生活ができそうね」
「勝手にしろ」
彼はそれだけ言って電話を切った。
数日後、私はレ子さんに直接会いに行った。彼女は優斗の中で私が「家を奪った女」になっていることを知っていた。
「あなたのせいでこっちの生活レベルがぐんと下がったんだから」
「そんな話はどうでもいいわ。それより、あなたにも慰謝料を請求するから」
「はあ? 私にも?」
「そうよ。あなたのせいで離婚したんだから、当然払ってもらうわ」
レ子さんは顔色を変えた。「私が払えるわけないでしょ」
「看護師として働いてるんだから、別に大丈夫でしょ。どうしても無理なら、優斗にまとめて払ってもらえばいいわ」
彼女は唇を噛んだ。私はもう一つの事実を伝えた。
「ちなみに、優斗にはあなた以外にも女がいたみたいよ」
彼女の顔が凍りついた。私は話を続けた。病院の関係者が、優斗とレ子さんの関係を知っていたことを。それはみんな気を使って黙っていただけだった。そして、彼にもう一人女性がいることも、私が調べて慰謝料を請求したことを。
二週間後、優斗から今度は怒鳴り込むような電話が来た。
「お前のせいで、みさが病院に来て大喧嘩になったんだぞ!」
「みさ? ああ、あなたのもう一人の不倫相手ね。彼女にも慰謝料を請求させてもらったわ。何が問題なの?」
「そのせいで俺はレ子からも嫌われたんだ!」
「それはちょっとおかしな話ね。自分が人の旦那を奪ったくせに、自分が同じことをされたら怒るなんて。不倫するような男なんだから、他に女がいることも想定しておかないと」
「今はそういう話をしてるんじゃない!」
「じゃあ何? 私にレ子さんを説得してほしいの?」
「違う! 俺の幸せの邪魔をするな!」
「私はただ自分の権利を行使しただけよ。それに、みささんの分は自分で払う?」
「そんな余裕あるか!」
「あら、そう。じゃあみささんにきっちり払ってもらわないとね」
彼は怒り狂ったまま電話を切った。
その後、彼は病院を辞めざるを得なくなったようだった。みささんとの揉め事が病院関係者や患者に噂され、医者としての信用を失ったのだ。別の病院を探しても、悪い噂のせいでどこも相手にしなかったらしい。
無職になった彼から、レ子さんは捨てて出ていった。彼は看護師のレ子さんを愛していた。それが彼の人生のすべてだったのに。
レ子さんはその後、婚活パーティーで知り合った金持ち風の男と再婚を考えていたらしい。しかし、その男は詐欺師だった。彼女は貯金をすべて奪われ、一文無しになったという。
結局、優斗は愛する人を失い、仕事も失い、孤独に生きているらしい。
私は、あの二人が住んでいた家を解体して、更地にして売りに出した。手元に残ったお金はそれほど多くなかったけれど、彼が住める場所を奪うという目的は果たせた。
今は田舎に引っ越して、新しい生活を始めている。慰謝料と財産分与のおかげで、経済的な心配はない。畑を借りて野菜を作るのが毎日の楽しみだ。近所の人たちも親切で、一人でいる寂しさを感じることはない。
離婚しなければ、今の生活はなかったかもしれない。そう思うと、あれは悪くない離婚だったのかもしれない。



