式が滞りなく進んでいたその時、突然式場のドアが大きく開き、一人の男が入ってきた。マスクをしていたが、私はすぐに分かった。立花よし、ルミの元彼だ。会場がざわつく中、隣に立つルミの表情が一瞬で変わった。驚きではなく、どこか興奮したような、期待に満ちた顔だった。
「立花さん……奪いに来てくれたのね。待ってたわ」
その言葉に、私は心臓が凍りつく思いだった。
私は菅野大輔、三十歳。大手企業で働く普通のサラリーマンだ。ただ一つ普通じゃなかったのは、あの朝、目が覚めた瞬間から始まった。
目が覚めると、隣に見覚えのある顔があった。会社の後輩、瑠美だった。彼女は静かに眠っている。昨夜は確かに会社の若手だけで飲み会をしていた。少し飲みすぎた記憶はあるが、泥酔した記憶はない。それなのに、なぜ隣に彼女がいるのか。頭が混乱した。記憶を辿ろうとしても、曖昧な断片しか浮かんでこない。
これまで彼女とは後輩としてしか接してこなかった。個人的な感情もなかったし、むしろあまり深く関わりたいとは思っていなかった。それが一夜を共にしたというのは、信じがたいことだった。
しばらくして瑠美が目を覚ました。彼女は最初驚いた顔をしたが、すぐに柔らかい笑顔を浮かべた。
「おはようございます、大輔さん。昨夜は楽しかったですね」
「ルミ、昨夜何かあったのか?」
「覚えてないんですか? まあ仕方ないですね。大輔さん結構酔ってましたもんね」
そう言って軽く肩をすくめる彼女に、嫌な予感が膨らんでいく。はっきりとした記憶がない以上、問い詰めることもできなかった。気まずい沈黙だけが部屋に漂った。
その後、私はルミと成り行きで付き合い始めることになった。最初は戸惑っていたが、彼女が積極的に関わってくる上に、あの日の後ろめたさも手伝って断れなかった。仕事の後に食事へ行き、休日には会う。恋人と呼ぶには微妙な関係だった。
しかし心の奥底では、常に何かが引っかかっていた。あの夜、本当に何が起きたのか。自分が本当に彼女と関係を持ったのか。確信が持てないまま、日々が過ぎていった。
ある日、そんな曖昧な関係が続いていた頃、瑠美が突然「話がある」と言ってきた。彼女は真剣な表情で私の前に座った。
「大輔さん、実は私妊娠しました」
その言葉を聞いた瞬間、胸が跳ね上がった。妊娠? 私の子供? 信じられない気持ちが込み上げるが、彼女の表情を見る限り冗談ではない。
「妊娠……本当か?」
「はい。病院で確認しました。間違いありません」
言葉を失った。頭の中を「結婚」という言葉がよぎる。彼女が妊娠しているなら、責任を取らなければならない。逃げるわけにはいかない。
「そっか。じゃあ結婚するしかないな」
覚悟を決めてそう言うと、瑠美は嬉しそうに微笑んで「ありがとうございます」と言った。しかし私の心は複雑だった。あの夜のことが思い出せないまま、妊娠を理由に結婚を決意してしまっていいのだろうか。心に疑問が湧き上がるが、彼女のお腹には子供がいる。逃げ出すことは許されない。
結婚の準備が進む中、私はますます自分に問いかけ続けた。本当にこれで良かったのか。胸の中に違和感が残り続けた。
そんなある日、久しぶりに幼馴染みの優香と再会した。近所に住む私たちは家族ぐるみの付き合いだ。二歳年下の彼女は明るく、私の気持ちを理解してくれる数少ない存在だった。
「大輔、久しぶりじゃない? 元気にしてた?」
街中で偶然見かけた優香に声をかけられ、懐かしさが込み上げてきた。私たちはすぐに打ち解け、近くのカフェに入った。昔と変わらない彼女の笑顔に安心感を覚え、抑えていた悩みを打ち明けたい気持ちが強くなっていった。
「実はさ、俺結婚することになってさ」
「え、結婚? それはおめでたいね。でもなんかあまり嬉しそうに見えないけど」
優香は私の内面をすぐに見抜いた。彼女はいつも鋭く、私が抱えている問題を指摘してくれる。
「実は相手のことがちょっと引っかかってて。彼女ルミって言うんだけど、突然妊娠したって言ってきたんだ。でもその夜のことがどうも思い出せなくてさ。こんなこと言ったら悪いのかもしれないけど、本当に俺が父親なのかも分からないんだ」
私はルミとの出会いから妊娠の話まで、すべてを優香に話した。優香は真剣な表情で聞いていたが、しばらく考えた後、少し困ったような顔で切り出した。
「大輔、ちょっと驚かせちゃうかもしれないけど、そのルミって、もしかして瑠美だよね?」
私は驚いて頷いた。「そうだよ。知ってるのか?」
「実はルミと私、大学の同級生だったの。あの頃同じゼミで知り合ったんだけど、彼女って結構計算高いところがあったのよ。ルミが付き合ってた立花さんっていう男がいたんだけど、彼からも色々聞いててね」
「立花? そいつが元彼か」
「そう。立花君とも同じゼミだったんだけど、彼もルミに振り回されて大変だったみたいで。最近立花君が話してくれたんだけど、どうもルミにまだお金を貸しているらしいの」
その話を聞いた瞬間、息を呑んだ。ルミが借金? しかも元彼から? そんな話は一度も聞いたことがない。
「それにさ、ルミって立花君との結婚を目指してたけど、結局思い通りに行かなかったみたいだったの。でも絶対に今年中に結婚するって周りの友達に言っていたんだよね。もしかしたら大輔が、はめられた可能性があるかもしれない」
優香の言葉が頭の中で響いた。ルミが俺をはめた? それなら、あの夜の出来事を巧妙に仕組んだ可能性だって考えられる。私は結婚準備の中で彼女が時折見せる不自然な笑顔を思い出した。
「でもさ、なんで俺だったんだろう? 俺が何か間違ったことをしたのか?」
優香は優しく微笑んで首を振った。「大輔、あんたが悪いんじゃないよ。ただルミが昔からお金やステータスに敏感だったのは事実だし、大手企業で働く大輔との結婚はメリットがあるんでしょ」
私は信じられない気持ちで、目の前のコーヒーを見つめた。ルミがそんな風に考えていたなんて、今まで一度も思ったことがなかった。でも優香の話を聞けば聞くほど、彼女の行動に対する疑問が深まっていく。
「立花君に会って話を聞いてみたら? 彼ならもっと詳しく知ってるかもしれないし。今のままじゃ大輔もこの結婚に納得できないでしょ」
優香の提案に、私は少し迷ったが結局頷いた。今のままでは、ルミとの結婚を進めるのはあまりにも危険すぎる。もし彼女が私を利用しているのだとしたら、結婚なんてすべきじゃない。
「そうだな。立花に話を聞いてみるよ。優香、ありがとう。君がいてくれて本当に助かる」
「いつでも力になるよ、大輔。困ったらすぐに連絡してね」
こうして私は立花と話をする決意を固めた。彼に会って話を聞くと、ルミに対する疑念はさらに深まっていった。彼は私に、ルミがかつて自分に対しても同じようなことをしたと話してくれた。酒に何かを仕込み、関係を持ったように装わせる。彼女の妊娠の話も、どこまで本当なのか疑わしいと言った。
「彼女は結婚したい相手に対して、妊娠したと嘘をつくことがある。俺もそれで騙されかけたんだ」
立花の話は、私の心に確信をもたらした。ルミは私を罠にかけた。妊娠も嘘かもしれない。私は結婚式当日を迎えることになったが、心は決して落ち着かなかった。
会場は華やかで、式は滞りなく進行していた。ルミは明るい笑顔を振りまき、招待客と楽しそうに話していたが、その姿がますます不気味に見えてきた。そして、式の最中に突然、式場のドアが大きく開き、一人の男が入ってきた。何事かと全員がその方向に目を向けた。男はマスクをしていたが、私はすぐに分かった。立花だ。
招待客たちがざわつく中、ルミは驚いた顔で立花を見つめた。彼女は思わず席を立ち、その男に向かって声をあげた。
「奪いに来てくれたのね。待ってたわ」
周囲の参列者は凍りついたように静まり、会場全体が緊張感に包まれた。一瞬の静寂の後、立花は冷静に口を開いた。
「いや、俺は貸した金を返してもらいに来ただけだ。今からでもいいから早く返してくれよ」
その言葉が会場に響き渡った瞬間、誰もが驚愕し、視線がルミに集まった。ルミは一瞬動揺を隠せない顔をしたが、すぐに作り笑いしながら言い返した。
「ちょっと、ここまで来てそんな風に照れなくてもいいじゃない。迎えに来たって素直に言ってよ」
だが立花は冷たい視線で彼女を一瞥すると、さらに追い打ちをかけるように言葉を続けた。
「恋なんてないさ。今まで一度も返してこなかった借金の取り立てに来ただけなんだから。それにルミが大輔さんをはめて結婚しようとしてるのも知ってるんだ。酒に何か仕込んだんだろ。俺にもやったもんな」
ルミは一瞬言葉に詰まり、焦った表情を浮かべたが、すぐに必死に言い訳を始めた。「違うわ。そんなことしたことないわ。本当に誤解よ、全部」
そんな言い訳をしても、立花の発言を会場の全員が聞いている。それに、ルミの焦っている姿は、誰が嘘をついているのか明白だった。
そして優香が立ち上がり、ルミに向かって言葉を投げかけた。
「もうやめなよ、ルミ。妊娠も嘘だって全部知ってるんだから。大輔を騙して結婚しようとしていたんでしょ」
優香の言葉に、ルミの顔から血の気が引いていくのが分かった。彼女は真っ青な顔で周囲を見回し、何か言い返そうとするが、言葉が出てこない。
私はもう一度深く息を吸い、冷静にルミに向かって告げた。
「ルミ。これどういうことなんだ?」
私の声は冷たく彼女を追い詰めるようだった。ルミは明らかにパニックに陥っていたが、なんとか言い訳をしようと必死に言葉を探している。
「いや、誤解よ。大輔、これには理由があって……」
「誤解じゃないだろう。立花さんに聞いたよ。君が彼に借金をしていたことも、返していないことも。そして立花さんと結婚したくて寄りを戻そうとしていたんだろ」
その言葉を聞いた瞬間、ルミの顔から血の気が引いていくのがはっきりと見えた。式場の参列者たちがざわつき始め、誰もが事態の深刻さを感じ取っていた。
「私は君の妊娠を信じて結婚を決意したんだ。でも今は君の全てが疑わしい。ルミ、君は俺を騙して何がしたかったんだ? 本当に俺のことを愛してたのか? それともただ金が目当てだったのか?」
ルミは返事をすることができず、ただ俯いて震えている。私は冷静にその様子を見つめながら、さらに追い詰めるように言った。
「ルミ、お前は花嫁でありながら、他の男に連れ去られることを望んだ。ここにいるみんなが証人だ。俺はお前とこのまま結婚するつもりはない。式費用やお前が招いた迷惑の責任は全てお前が追うべきだ。慰謝料も含めてきっちり支払ってもらうからな」
ルミは必死に「違う、誤解なの」と叫ぶが、私の冷たい目に恐れを感じたのだろう。次第に声が弱まり、言葉を失っていった。そして立花が一言付け加えた。
「俺からの借金も忘れるなよ。さっさと返せ」
会場の雰囲気は完全に冷え込み、誰もが困惑しながらも真実を理解していた。ルミは完全に孤立し、恥ずかしさと後悔に押しつぶされるようにして、その場で泣き崩れた。ルミの両親は娘の失態に焦りを隠せなかっが、誰も彼女を慰める者はいなかった。会場全体が彼女の醜態に気づき、冷たい目で見ていた。
私はそんなルミを一瞥すると、立花に向かって軽く頷いた。
「ありがとう、立花さん。おかげで真実が分かったよ」
「いや、大輔さんこそ。俺も協力できて嬉しいよ。ルミに一杯食わせることができてすっきりした」
私たちはそのまま式場を後にし、ルミはその場に取り残された。会場に残る人々の間で彼女の涙声が聞こえたが、私にはもう未練はなかった。世間的に見れば、花嫁に騙された情けない男になったわけだが、入籍前だったことが唯一の救いだった。
後日、ルミのご両親から慰謝料と結婚式の費用が振り込まれた。これはルミのご両親が一時的に立て替え、ルミがご両親へ返済していくと聞いた。そして立花への借金も返済されたようだ。ルミはこの先、多額の借金返済のために働き続けなければならないだろう。彼女は社会的な信用を失い、ご両親からも呆れられ、孤立しているという噂を耳にしたが、それを聞いても私は何も感じなかった。ただ一つ、自分の人生を取り戻せたことに感謝している。
そして立花とは新たな友人関係が始まり、優香とは幼馴染みの関係から恋人同士へと変わった。私は新しい人生へと歩き始めた。過去の苦しみを乗り越え、今は晴れやかな気持ちで未来を見つめている。



