「帰りたきゃ泳いで帰って来い。」
電話の向こうで息子は笑っていた。私は海外のホテルの部屋で、その言葉を聞いて頭が真っ白になった。部屋には私の荷物だけが残されていた。息子夫婦のスーツケースは消えていた。
「私の飛行機は最初から取ってないよ。俺たちは今、空港にいる。」
「待って。すぐ支度するから。」
「もう搭乗手続きも終わってるよ。」
隣から嫁の笑い声が聞こえた。
「お母さん、もう少しゆっくりしたら。」
そして息子はもう一度言った。
「帰りたきゃ、泳いで帰って来い。」
その瞬間、私はやっと気づいた。この旅行のすべてが、最初から嘘だったのだと。
私は佐藤久さ子、66歳。8年前に夫を亡くしてから、一人で暮らしている。1年前、私は息子夫婦への毎月の仕送りをやめた。
36歳の息子・り太と、34歳の嫁・アイナ。二人は派遣や短期の仕事をすぐに辞め、人に使われるのは向いていないと言い、そのうち動画で稼げるからと、ほとんど再生されない動画配信に夢中になっていた。
家賃が足りない、車の修理代が払えない、カードの引き落としに間に合わない。その度に私は数万円ずつ振り込んでいた。り太とアイナは、私が年金だけで暮らしていると思っていた。私が普段どこへ行き、何をしているのか尋ねたことは一度もない。
これ以上お金を渡せば、二人を助けるのではなく、甘えさせるだけだ。私は二人を家へ呼んで告げた。
「来月から仕送りはやめます。二人とも働けるんだから、自分たちで生活しなさい。」
り太はテーブルを叩いた。
「ふざけんなよ。親なら助けるのが普通だろ。私たちが成功したら返すから。」
アイナも私を睨んだ。
「いつ成功するの?」
そう尋ねると、り太は怒鳴った。
「年金で余ってるくせに偉そうに言うなよ。」
それでも私は考えを変えず、二人とは疎遠になった。
そして1年後、り太とアイナが揃って家を訪ねてきた。
「あの時はひどいこと言って悪かった。」
り太は仏間に飾ってある夫の写真を見た。
「親父が亡くなってから、寂しかっただろう。昔は二人でよく海外へ行ってたんだよな。」
夫と私は、老後も一緒に旅をしようと約束していた。けれど、その約束を果たす前に夫は亡くなった。それ以来、私は一人で旅をする気になれなかった。
「これからは親父の分まで、俺が母さんを連れて行くよ。三人でサイパンに行こう。飛行機もホテルも全部俺たちが出す。」
アイナも頭を下げた。
「お母さん、今までごめんなさい。三人でやり直したいんです。」
り太が続けた。
「そういえば母さん、大学で語学を勉強してたんだよな。旅費は俺たちが出すから、現地では助けてもらうよ。」
「旅行で困らない程度ならね。」
私が答えると、り太は笑った。
「それで十分だよ。」
やり直せるのかもしれない。夫がいなくなってから途切れていた家族の時間を、もう一度取り戻せるのかもしれない。私は涙をこぼした。
「ありがとう。お父さんもきっと喜ぶわ。」
二人が帰った後、私は夫の写真に話しかけた。
「あなた、海外へ行けるみたいよ。」
けれど、家から少し離れた場所に停めた車の中で、二人はカメラを回していた。
「はい。ということで、母親をサイパンに置き去りにしてみたドッキリです。」
り太はさっきまでの優しい顔を崩して笑った。
「飛行機もホテルも俺たちが出すって言いましたけど、帰りの航空券は俺たち二人分しか取ってません。」
アイナも笑った。
「お母さん、自分たちで働けって言って仕送りを止めやがったんですよ。だからこのドッキリで仕返しします。」
「泣くかな、怒るかな、どっちにしても絶対バズるって。」
私は二人が家の中でも私の反応を隠し撮りしていたことを知らなかった。
サイパンでは、二人は驚くほど優しかった。海を背景に写真を撮り、私の好きな料理を頼み、夫の思い出話にも付き合ってくれた。
「親父も一緒に来たかっただろうな。」
り太がそう言う度、私は思った。この子もようやく家族の大切さがわかったのだと。
旅行最後の夜、私は幸せな気持ちで眠った。
そして翌朝、二人は消えていた。息子夫婦の荷物もなかった。何度電話をかけてもなかなか出ない。ようやく繋がった電話で、り太は空港にいると告げた。
「私も空港へ行くから待って。」
「無理。俺たちはもう帰る。私の航空券は最初から取ってないって。」
「そんな、そんなのってない…」
「帰りたきゃ、泳いで帰って来い。」
電話が切れた後、私は動けなかった。異国に一人残された不安よりも、り太が亡き夫への思いまで利用して私をその気にさせたことが苦しかった。「親父の分まで連れていく」という言葉も、最初から私を騙すための嘘だった。私が泣いて喜ぶ姿も、海を眺めながら交わした言葉も、食事中の笑顔も、すべて動画の材料だった。
私は顔を覆い、声を殺して泣いた。やがてフロントへ向かい、事情を説明して新しい航空券を手配した。帰国する方法は見つかった。それでも心は少しも軽くならなかった。
一睡もできないまま日本へ戻ると、到着ロビーでり太とアイナがカメラを構えていた。
「お母さん、ドッキリ大成功!」
アイナが笑顔で拍手した。
「すごい顔。最高のリアクションだったよ。」
り太が私の顔へレンズを近づける。
「サイパンから無事帰国できました。今のお気持ちは?」
私は何も言わず、二人の横を通り過ぎた。
数日後、動画は公開された。確かに再生数は伸びたけれど、二人が期待した笑いは起きなかった。
「これはドッキリじゃない。帰国便を取らずに海外に置き去りにしただけ。」
「泣き顔まで無断で公開するなんて信じられない。」
批判はニュースサイトにまで広がり、過去の動画も掘り起こされた。二人が仕事を馬鹿にし、親のお金を当てにしていたことまで知られた。派遣契約は終了。動画の収益も止まり、やがてチャンネルも削除された。
追い詰められた二人は釈明動画を公開した。
「あれは母も了承していた企画です。家族で話し合った上で撮影しました。」
その嘘を見て、私は初めて反撃を決めた。仕事用のSNSに短い文章を投稿した。
「今回公開された動画について、事実と異なる説明がされているためお伝えします。私は企画について事前に何も知らされていませんでした。帰国便が用意されていないことも現地で初めて知りました。撮影と公開にも同意しておりません。」
これだけだった。けれど、その投稿は一気に拡散された。
「この方、国際映画祭の通訳者では。海外俳優の来日会見で何度も見た。いつも正確で落ち着いた通訳をする方だ。」
過去の映画祭や舞台挨拶の映像が次々に共有された。
夫を亡くした後、私は通訳の仕事へ戻っていた。今では海外の俳優や監督が来日する際、記者会見や映画祭で通訳を任されることもある。
り太とアイナは私をネットに晒して自分たちが有名になるつもりだった。けれど皮肉にも、ネットの外の世界ですでに多くの人に顔と仕事を知られ、信頼されていたのは私の方だった。私がどんな人生を築いてきたのかを知らなかったのは、他でもない息子夫婦だけだった。
しばらくして、二人は家に来た。
「母さん、頼むよ。動画に出て全部仕込みだったと言ってくれ。このままじゃ働けない。」
アイナも頭を下げた。
「少しだけでもお金を貸してください。」
り太は私を責めるように言った。
「あんな仕事をして、それだけ稼いでたなら、なんで仕送りをやめたんだよ。」
あれだけのことをして、今度は私に世間を騙せというのだ。
「だって親子だろ。」
その一言で、迷いは消えた。
「私に収入があることと、あなたたちを養い続けることは別でしょ。お金がないからやめたんじゃない。働ける二人をこれ以上甘やかしちゃいけないと思ったの。」
「海外に置き去りにした母親へ、今度はお金を出せというのね。あなたたち、まだ自分が何をしたのかわかってないのね。」
二人は黙り込んだ。けれど、二人への批判はそれで終わらなかった。チャンネルが消えた後も、動画は切り抜きやリポストという形で残り続けた。二人はこれまで、自分たちの顔だけでなく、愛用している車やよく利用する店、暮らしている地域まで動画に映していた。それらの情報をつなぎ合わせる人が現れるまで、時間はかからなかった。
ある日、り太とアイナがスーパーから出てくる姿が遠くから撮影された。映像にはこんな言葉が添えられていた。
「母親を海外に置き去りにした夫婦を発見。」
その投稿もまた瞬く間に拡散された。私を晒して自分たちが注目を浴びるつもりだった二人は、皮肉にも今度は自分たちが世間の物見にされる側へ回ったのだ。駅を歩けばスマートフォンを向けられた。飲食店に入れば、周囲から声が聞こえた。
「サイパンの夫婦じゃない? 母親に泳いで帰れって言った人たちだよ。」
り太が撮影者へ怒鳴れば、その姿まで撮影され、再び拡散された。アイナはSNSのアカウントを削除し、り太は帽子とマスクで顔を隠すようになった。それでも一度知られた顔は簡単には消えなかった。仕事へ応募しても、名前を検索すればあの動画が表示された。ようやく採用された短期の仕事も、客に気づかれると長くは続かなかった。
二人の願いは確かに叶った。ただし、二人が望んだ形ではなかった。
私は晒されたことで、これまで積み重ねてきた信頼を知ってもらえた。り太たちは晒されたことで、自分たちの悪意を何度も見せつけられることになった。同じように顔と名前が広がっても、私には励ましの言葉と新しい仕事が届き、二人には冷たい視線と消せない動画だけが残った。
それから数ヶ月後、私は海外の国際映画祭へ通訳として同行した。仕事を終えた夜、若い同僚たちが私を誘ってきた。
「明日は一日空いていますよね。せっかくなので、みんなで町を見に行きませんか?」
私は反射的に遠慮した。
「私は仕事で来ただけだから、皆さんだけで楽しんできて。」
すると、一人が笑った。
「仕事だから誘ってるんじゃありません。久子さんと一緒に行きたいんです。」
翌朝、ホテルで目を覚ました瞬間、サイパンの朝が蘇った。静かな部屋、消えていた荷物。誰も私を待っていなかった朝。
その時、扉がノックされた。
「久子さん、朝食に行きましょう。みんなロビーで待っていますよ。」
私は鞄の中に入れていた夫の小さな写真にそっと触れた。
「あなた、私、今度こそ本当にみんなと旅をしてくるわね。」
あの朝目を覚ました時、私を待つ人は誰もいなかった。けれど今朝は、扉の向こうから私の名前を呼ぶ声が聞こえていた。



