「智也さん、結婚することにしました」
私は携帯を握ったまま、言葉が出なかった。
三十二歳になる兄からの突然の報告。お相手は東大卒で大手企業に勤める才女、ちさとさん。兄は誇らしげに言った。「尊敬できる人と一緒になれて幸せだ」と。
私は兄の幸せを心から喜んだ。引きこもっていた時期を支えてくれた兄が、ようやく自分の人生を歩き始めたんだと思った。
「式には必ず来てほしい。両家の顔合わせにも参加してほしい」
私は二つ返事で承諾した。兄から頼られることが、何より嬉しかったんだ。
一ヶ月後、私はちさとさんに呼び出された。まさか、それが私の人生を大きく変える出会いになるとは思わなかった。
「安芸さん、私たちの結婚式なんだけど、不参加でお願いできないかしら」
その一言で、全てが始まった。
※ ※ ※
カフェのテーブルを挟んで、ちさとさんは笑顔のまま、しかし目だけは冷たく光っていた。「立場」という言葉が彼女の口から出たとき、私はまだ理解できなかった。
「私は東大卒。智也さんだって名門の出身よ。式に来るのはそういう人ばかりなの。そこにあなたが混ざって平気だと思う?」
「私には、その式に出る資格がないとおっしゃりたいんですね」
「そうよ。スーパーでレジ打ちしてる底辺の義妹」
その言葉は、刃物のように私の胸に突き刺さった。二十六歳でスーパーのパートとして働く私。兄はいつも「働いてるだけで立派だ」と言ってくれてた。なのに、この人は。
「兄妹の顔合わせの時、あなたの話を聞いて驚いたわ。まさか智也の妹がこんな出来損ないだなんて」
私は必死に平静を保とうとした。でも、彼女の言葉は止まらない。
「私があなたの歳の頃には、今の会社でバリバリ仕事をこなしてたわ。ITコンサルよ。今は大きな案件を任されて、成功したらすぐに昇進する」
「別に、私はあなたに追いつこうなんて思ってないです」
「負け惜しみはやめなさい。バカを見下すのが楽しくて、私は勉強してきたの」
その言葉に、私は言葉を失った。
「学歴が上なのよ。下の人間なんだから、黙って言うことを聞きなさい」
私は立ち上がった。もう、この人と話していても何も生まれない。
「これは兄に話します」
「だったら私が説得するわ。こんな不幸な式に出ない方が、あなたのためだってね」
※ ※ ※
翌日、今度はちさとさんの母親が私の家に現れた。彼女は娘と同じ言葉を繰り返すだけだった。
「あなたの存在が邪魔なのよ。学歴のない人間は、それだけでマイナスな存在なの」
「あなたの娘さんは、人を見下すような性格ですよ」
「そうせざるを得ないでしょ。DNAが違うんだから」
「DNA?」
「あなたの両親がもっと優秀なら、あなたももっとマシな人間になれたってことよ」
私は自分が震えているのを感じた。大切な両親を、こんな風に侮辱されたのは初めてだった。
「あなたたちと顔を合わせずに済むなら、それでもいいです」
その言葉を最後に、私は彼女との会話を終わらせた。
※ ※ ※
ところが、一週間後。ちさとさんから再び連絡が来た。
「安芸さん、色々言ってごめんなさいね。やっぱりあなたには参加してほしいの」
私は警戒した。彼女が簡単に態度を変えるとは思えなかったから。
「条件があるの。あなたに余興をお願いしたいのよ。内容は当日に伝えるわ」
「何かよからぬことを考えてそうですね」
「で、どうする?」
私は考えた。断れば、兄はきっと悲しむ。でも、この人を信じるのは怖い。
「……わかりました。参加します」
※ ※ ※
結婚式当日。
私は言われた通り、控え室で待っていた。そこに現れたちさとさんは、花嫁姿だった。
「安芸さん、私の式で英語でスピーチをしてほしいのよ」
「英語で、スピーチですか?」
「きっとみんな囃し立てるわ。あなたはバカっていう特技があるんだから、それを生かした余興だと思って」
私は深く息を吸い込んだ。そして、静かに言った。
「……はい。やりましょう」
ちさとさんは、予想外の返事に少し驚いたようだった。でも、すぐに口元に笑みを浮かべた。
「三十分はやってもらうからね。録音テープを流すとか、そういうズルはなしよ」
「もちろんです。テーマは?」
「結婚祝いに関するスピーチにしてもらおうかしら」
「わかりました」
彼女が部屋を出ていくとき、私は心の中で思った。あなた、私が何者か、知らないんだね。
※ ※ ※
二時間後。
披露宴のクライマックス。私はマイクの前に立った。会場には、ちさとさんの友人らしき人々の嘲笑の視線が突き刺さる。
「みなさん、本日は本当におめでとうございます。私は新郎の妹、安芸と申します。この場で、英語でお祝いのスピーチをさせていただきます」
私は聞こえるように、はっきりと英語で話し始めた。三十分、途切れることなく。結婚の素晴らしさ。兄の真面目さ。これから始まる二人の人生への祝福。
会場はしーんと静まり返った。誰も、私が流暢な英語を話すとは思っていなかったから。
終わった後、花嫁は私を呼びつけた。
「あれはどういうこと? あなた、なんで英語が喋れるの?」
「お姉さんには伝わらなかったですか?」
「馬鹿にしないで。ちゃんと分かったわよ。ただ、あなたの発音がおかしかっただけ」
「すみません。友達にイギリスの子がいて、イギリス訛りが入っちゃってたかもしれないです」
「イギリス訛り?」
「そうなんです。アメリカの大学に行った時に、一番仲の良かった子がイギリス人で」
「アメリカの大学? 何を言ってるの?」
「私、ハーバード大学を卒業してるんです」
ちさとさんの顔色が変わるのが、手に取るように分かった。
「嘘つかないでよ」
「本当ですよ。兄に聞けば分かると思います。卒業証書もあるし」
「そんなの、聞いたことない」
「兄には、母に隠してほしいと頼んでたんです。ハーバードに合格した時、地元で騒ぎになって、変な人に付きまとわれたことがありまして。それから、経歴を隠すようになったんです」
ちさとさんは口を開けて、固まっていた。
「だから、英語でスピーチすること自体は、私にとって簡単なことでした。ただ、人前で話すのは苦手で」
「あなた……私を見下してるの?」
「そんなことはしてません。学歴マウントなんて、恥ずかしいことだと思ってますから」
その言葉に、ちさとさんは顔を真っ赤にして、歯を食いしばった。でも、私はもう彼女の表情に恐れは感じなかった。
「お姉さんが英語の分からない方でよかった」
「何を言ってるの?」
「そうじゃなかったら、三十分も話させてくれなかったと思いますから。妹が英語でスピーチをすることを、お姉さんが許したのは、私を恥かかせたいからですよね。でも、結果は逆でした」
ちさとさんは何も言えなかった。私が言い返したことを、初めて覚えていないほどの屈辱を受けた表情だった。
※ ※ ※
式が終わり、片付けが始まる頃。
私は控え室に戻ると、兄が待っていた。
「安芸、帰ろう」
「うん」
兄はドレスを脱ぐのも待たずに、帰り支度を始めていた。その表情には、苛立ちが滲んでいた。
「どうしたの?」
「……聞いてくれ。ちさとの母親から、全部聞いた」
兄の口調は、いつもと全く違った。
「お前を式から外したり、スピーチをさせたり。その上、お前のことを『底辺』呼ばわりして、腹立たしいことに、うちの両親のことも馬鹿にしたって」
「いや、それは……」
「俺は、ちさとに言った。お前の考えは間違ってるって。でも、あいつは分かってくれなかった。『東大に行くために遊ぶこともなく努力してきた私には、勉強をサボった連中を馬鹿にする権利がある』って」
私は黙って、兄の話を聞いていた。
「俺は聞いた。お前がスーパーで働いてることを恥ずかしいと思ってるかって。そしたらあいつ、『もちろん恥ずかしいわよ。この際、ちゃんと言っておく。あなたの妹は、私の足を引っ張るだけの存在』って」
兄は深く息を吸った。
「その言葉を聞いて、はっきり分かった。この人とは、家族になれない」
「え?」
「婚約を解消する。もう、二度と関わらない」
※ ※ ※
翌日、ちさとさんの母親が私の家に怒鳴り込んできた。
「あんたのせいで、結婚がダメになった。なんとかしなさいよ」
「それは兄が決めたことです。私がどうこうできる問題じゃないです」
「親として、娘が恥をかくのを黙って見ておけっていうの?」
「お母さん、あなたの娘さんは、かなり恥ずかしいことをおっしゃってましたよ。もっと前に止めておくべきじゃなかったんですか?」
「あの子は何も間違ってないの! 東大に行ったんだから、何も間違ってないわ!」
私は、はっきりと言った。
「学歴が全てだと思ってるから、そうなるんです。あなたは、もう少し自分で物事を判断した方がいいですよ」
「黙りなさい! 東大に現役で合格した娘を、馬鹿にするんじゃないわ!」
彼女は喚き散らしながら帰っていった。ドアが閉まる直前、私は彼女に言い放った。
「婚約が解消されたのは、あなたたちの言動が原因です。反省してください。……まあ、無理でしょうけど」
「……家族にならなくて、本当に良かった」
※ ※ ※
それから二ヶ月後のこと。
会社に、一通のメールが届いた。
「お前か。俺たちの契約を奪ったのは」
それは、ちさとさんからのメッセージだった。私は彼女を連絡先から削除していたのに、彼女はブロックを忘れていた相手を探して、連絡してきたようだった。
「何の話ですか?」
「とぼけるな。うちが相談を進めていた大規模なレジシステムの契約。コンペで、お前の会社に取られたんだろうが」
「ああ、その話ですか。コンペだったので、仕方ないでしょ。私が開発した自動レジシステムが、クライアントに気に入られただけですから」
「うちみたいな大手が、あなたみたいな小さい会社に負けるなんて!」
ちさとさんは、私の会社のことを知っていた。彼女は悔しさのあまり、私を探し回っていたんだろう。
「私は、二年前に会社を立ち上げました。規模は大きくないけど、優秀な人材が揃ってますよ」
「……スーパーで働いてたのって、まさか、このため?」
「そうです。自動レジシステムを開発する上で、実際のスーパー現場の状況を知りたかったんです。今、どこのスーパーも深刻な人手不足でしょ。だから、自動化が必須だと思った。でも、高齢者のお客様の利用が難しいとか、万引きとかの問題もあって。それらを全部解決できるシステムを、今回開発したんです」
私は言葉を選びながら、ゆっくりと伝えた。
「今回の契約先は、全国展開している大手スーパーです。かなりの台数が導入されることになりますよ」
「どうして……どうして、こんなことになるのよ。私は正しい道を歩んできた。勝ち続けてきたのに。あなたと会ってから、何もかも上手くいかないわ」
「お姉さんは、いい学歴とエリートっていう肩書きを得て、それに満足してたんですよ。でも、それだけじゃ、これから先、何も掴めません」
「何を言ってるの?」
「下だけを見て、人を見下して気持ちよくなってる人間が、この先、上に行けるはずないです。私は常に、自分の目標を叶えるために必死でやってきたんです」
「そんなわけない!」
「この世は学歴が全てなんでしょ? それなら、東大よりハーバードの方が上ですよ。どっちの言ってることが正しいか、学歴社会主義者のあなたなら、分かりますよね」
その場には、沈黙が落ちた。
※ ※ ※
それから数ヶ月後。
私は、ちさとさんのその後を、共通の知人を通じて聞いた。
彼女は私に対して敵対心を燃やし、どうにかして私の上に立とうとしたらしい。でも、そのやり方がまずかった。後輩から手柄を奪ったり、会社の名前を振りかざして脅迫めいた言動で契約を取ろうとしたらしい。
それが発覚し、彼女は退職処分になった。
エリートとしてのキャリアが受け入れられなかった彼女は、今は家に引きこもっているらしい。
そして、ちさとさんの母親は、娘を首にした会社に逆恨みして、毎日苦情の電話をかけ続けた。もちろん、業務妨害として訴えられ、損害賠償を請求された。
今は、その支払いのために、スーパーで働いてお金を稼いでいるそうだ。
一方の兄は、婚約解消を引きずらずに、仕事に打ち込んでいる。いつもの、真面目で真っ直ぐな兄のままだ。
私はあの日、兄の結婚式で英語のスピーチをしてから、自分の会社を少しずつ大きくしてきた。開発したレジシステムが全国のスーパーに導入されて、会社はようやく軌道に乗ったところだ。
私はこれからも、自分の道を歩いていく。学歴なんかに頼らなくても、私は自分の足で立って、自分の力で何かを掴んでいく。
そう決めた日から、私の人生は、本当に自分のものになった。



