夫・工事が、見たことのない目で私を睨みつけた。「お前、またれ子さんに迷惑をかけたそうだな。」
「違うわ。私がそんなことをするはずないでしょ。何度言ったら分かるの?」
「まだ嘘をつくのか。」
その時、乾いた音がリビングに響いた。次の瞬間、左の頬が焼けるように痛んだ。夫に叩かれたのだ。
34年間、声を荒げることさえほとんどなかった夫が。私は尋ねた。「あなた、本当に私がやったと思うの?」
夫は答えた。「息子の嫁だぞ。れ子さんが嘘をつく理由がないだろう。」
その言葉で、頬の痛みは消えた。代わりに、胸の奥で何かが切れた。私が嘘をつく理由は、考えてもくれないのね。34年よ。34年間も一緒にいたのに。
息子の優太も私と目を合わせない。れ子さんだけが、夫の背後で小さく笑っていた。
その夜、私は一枚の封筒と離婚届を食卓へ置いた。そして、一度神棚に手を合わせてから、34年暮らした家を出た。
私の名前はさち子、62歳。夫の工事とは34年前に結婚した。夫は無口で、愛情を言葉にする人ではなかった。けれど、私がパート先で失敗して落ち込んだ日は、何も聞かずに駅まで迎えに来てくれた。「近くを通っただけだ」と、そう言っていたけど、それが遠回りになることを私は知っていた。
一人息子の優太が運動会で一等になった時も、誰よりも大きく拍手していたのは夫だった。息子も幼い頃は優しい子だった。「母さん、僕が持つよ」と、買い物へ行けば小さな手で重い袋を持ってくれた。
私にとって、二人は何より大切な家族だった。だから、優太がれ子さんとの結婚を報告した時、心から喜んだ。れ子さんは礼儀正しく、柔らかな笑顔で言った。「これからは、本当の娘だと思ってください。」こんな言葉を言える人はなかなかいない。息子もいい人を捕まえたと、私は嬉しかった。
結婚から間もなく、優太夫婦から同居を頼まれた。「家を建てるお金が溜まるまででいい」「父さんとお母さんにも賑やかな方がいいだろう」れ子さんも私の手を握った。「お母さんと暮らせたら、私も安心です。」夫はすぐに賛成した。私も家族が増えることが楽しみだった。
ところが、同居から半年ほど経つと、家の空気は変わった。家事は全て私の仕事になった。三人分のお弁当も。「お母さん、助かります。」れ子さんは夫と息子の前では笑顔だ。けれど、二人きりになると声が変わる。「このシャツなんですけど、アイロンをお願いします」「夕食は7時までに。専業主婦なんだから、そのくらいできますよね。」
ある日、私が牛乳を買い忘れると、れ子さんは冷蔵庫を乱暴に閉めた。「本当に役に立たないですね。」
「ごめんなさい。」
なぜ私が謝っているのだろう。ここは、私と夫が建てた家のはずなのに。それでも私は波風を立てたくなかった。れ子さんと仲良くできないと話せば、息子を困らせる。夫にも気を使わせてしまう。そう思って黙っていた。
しかし、れ子さんは少しずつ私を家族から孤立させていった。「お母さんに無視された」「私の服だけ選択を後回しにされた」全て嘘だった。
一度だけ、私は夫と息子へ相談したことがある。「れ子さん、私と二人の時だけ態度が違うのだけれど…」夫はため息をついた。「母さんの考えすぎじゃない?」夫も言った。「れ子さんは仕事で疲れているんだ。お前がもう少し大人になれよ。」
私は何も言えなくなった。家族の前では優しく笑うれ子さん。疲れた顔の私。二人がどちらを信じるかは、もう決まっていたのだ。
それから、私は家の中で話すことをやめた。料理に文句を言われても、名前を呼んでも無視されても、食後は黙って片付けをした。
そんなある日、れ子さんが大切にしていたネックレスが無くなったと騒ぎ始めた。「母から結婚祝いにもらったものなんです。」優太はすぐに私を疑った。「母さん、最近れ子の部屋に入っただろう。」
「洗濯物を置いただけよ。」
数日前、れ子さんの化粧品が無くなった時も、私のせいにされた。私は怖くなり、自分を守るため、台所と廊下に小さなカメラを置いていた。しかし、映像を確認する前に、夫から呼び出されたのだ。そして、私は泥棒と決めつけられ、夫に頬を叩かれた。
夫が手を挙げた時、優太はその場にいた。止めることはなかった。むしろれ子さんの肩を抱き、「もう大丈夫だから」と慰めていた。誰も私の頬を見なかった。誰も「さち子はそんなことをしない」とは言ってくれなかった。
その夜、私はようやく分かった。この家に残れば、私は壊れる。妻である前に、母である前に、私はさち子という一人の人間です。私は最低限の荷物とカメラの記録を鞄に入れた。大切な思い出の家族写真やアルバムには手をつけなかった。今の私には、触れるだけで傷口を広げるものでしかなかったから。
始発の電車に乗り、私は以前友人から聞いた女性向けの短期滞在施設へ向かった。六畳ほどの小さな部屋。きれいな建物でも、家具は机と布団と乾燥機だけだった。それでも扉を閉めた瞬間、胸いっぱいに息を吸うことができた。誰の足音にも怯えなくていい。誰の顔色も見なくていい。
その夜、私は滞在施設にあるパソコンを借りて、カメラの映像を確認した。映っていたのは、れ子さんが自分のネックレスを持ち出し、私の洗濯物の奥へ隠す姿だった。さらに別の日、れ子さんは台所で誰かと電話しているところが記録されていた。「もう少しよ。泥棒に仕立てれば、お父さんもゆう太も完全に私を信じるから。プライドを傷つければ、あの人自分から出ていくわ。そうなれば、この家は私のもの同然よ。」
笑い声が小さな部屋に響いた瞬間、私は震えた。怒りではない。悔しかったのだ。私が家族だと思っていた人たちは、こんな浅い嘘に負けた。でも証拠は残っていた。私の無実も、れ子さんの悪意も。
私は映像を保存し、勇気を出して弁護士へ相談した。長い説明は必要なかった。「この映像を、家族全員の前で見せたい。」私が望んだのは、それだけだった。
それから二週間後、私は弁護士に動いてもらい、夫たちと会った。優太は私たちを見るなり立ち上がった。「母さん、どこにいたんだよ。心配したんだぞ。」
「心配?」私は思わず笑ってしまった。「私が出ていった夜、追いかけても来なかったのに。」
ゆう太は黙った。夫は私を見ないまま言った。「とにかく戻ってこい。家族なんだから、話し合えば分かるだろう。」
「今日は戻るために来たんじゃないわ。」そして、私はパソコンを開いた。「今日は、私が泥棒ではないと証明するために来ました。」
映像を再生すると、部屋から音が消えた。れ子さんがネックレスを隠す姿。友人へ私を追い出す計画を話す声。全てが映っていた。
「違う!」れ子さんが叫んだ。「これは加工よ。」
「では、専門家に確認してもらいますか?」私が答えると、れ子さんは言葉を失った。
優太の顔が真っ青になった。「れ子、本当なのか? これはどういうことなんだよ。」
「私は悪くない。」れ子さんは泣きながら優太へすがった。「お母さんがいるから、私がこの家の家族になれなかったのよ。」
その言葉に、私は静かに返した。「あなたは家族になりたかったんじゃない。私の居場所を奪って、家の主人になりたかったんだよ。」
ゆう太が私の前で頭を下げた。「母さん、ごめん。」
夫も震える声で言った。「さち子、俺は…取り返しのつかないことをした。」
私は二人を見た。「証拠を見たから、私を信じるの?」二人は顔を上げられない。「証拠がなかったら、今も私を泥棒だと思っていたんでしょ?」
「違うんだ。俺たちはれ子に騙されて…」
「違います。」私は優太の言葉を遮った。「あなたたちは騙されたんじゃない。私を信じるより、れ子さんを信じる方が楽だったのよ。」
ゆう太は今にも泣きそうな顔だった。「母さん、俺は…」
「あなたは、私が叩かれるのを見てたわよね。それでも止めなかった。」
そして、私は夫を見た。あの日叩かれた頬は、もう痛くない。でも、34年一緒にいた私より、出会って間もない人の嘘を信じたことは消えない。夫の目から涙がこぼれた。「もう一度だけ、やり直せないか。」
「謝罪は受け取ります。」私は答えた。「でも、夫婦には戻りません。私は無実を証明するために来たの。あなたの妻へ戻るためではありません。」
その後、私は夫と離婚した。ゆう太も、れ子さんとの生活を見直すことにしたそうだ。二人がどうするかは、私にはもう関係ない。
ゆ太には、最後に一つだけ伝えた。「あなたは私の息子です。でも、何もなかったことにはできません。いつか、私を一人の人間として認めたら、また会いましょう。」
今の私は、小さな部屋で一人暮らしをしている。近所の店で、午前中だけ働き始めた。「さち子さん、ありがとう。」笑顔で名前を呼んでくれる人がいる。それだけで、胸が温かくなる。
朝は自分のためだけにコーヒーを入れる。夕食も、食べたいものを少しだけ作る。広い家ではない。家族の笑い声もない。それでも、ここでは安心して眠れる。誰かの顔色を見て、息を潜める必要もない。
私が欲しかったのは、復讐でも大きな家でもない。自分の言葉を、自分で信じられる毎日。ただそれだけだったのだ。
私は家族を失ったのではない。私を信じなかった人たちから離れ、ようやく自分自身を取り戻したのだ。


