母の口から出た言葉に、私は一瞬、何を言われたのか分からなかった。 「『バーガーのお前が産んだガキがまともに育つか』って言われたの。あなたを産んだ直後に」…

母の口から出た言葉に、私は一瞬、何を言われたのか分からなかった。 「『バーガーのお前が産んだガキがまともに育つか』って言われたの。あなたを産んだ直後に」...

「お父さんが私を捨てて、若い学生と再婚したって本当?」

母が突然そんなことを言い出したのは、夕食の後だった。何の前触れもなく、食器を片付けながらの一言だった。

「なんで急にそんなこと言うの?」

「知り合いから聞いたの。もう25年も前の話よ。私は離婚したとしか聞いてないわ」

母は申し訳なさそうにうつむいた。私は26歳。もう子どもの頃のように、ただ黙って受け入れる年齢じゃない。

「覚悟はいい?」

「そんなに気合いのいる話なのか?」

「そりゃね、いい思い出ではないから」

母は深く息を吸った。

「『バーバーのお前が産んだガキがまともに育つか』って言われたの。あなたを産んだ直後に」

私は言葉を失った。41歳での高齢出産で、父は医者だったからリスクを理解していたはずだ。

「でも問題はその次よ。医学部の学生が妊娠した。その子を大事に育てるって言われた時は、人生で初めて白目を向いたわ」

母は静かに話し続けた。研修医の若い女を妊娠させて、父は病院内でも噂の的になったらしい。それでも平然としていたという。

「お母さんは何か言い返さなかったの?」

「『そうですか』って言ったわ。それだけ。今でも忘れないわ。『覚えてろよ』とだけ言って、離婚届にサインした」

「かっけえ」

「生物学上の父親は、『覚えていられるかよ』って鼻で笑ってたわ」

私は確かに子ども時代にこれを聞いていたら、ショックだったかもしれない。でも今は違う。母は一人で私を育ててくれた。女手一つで大学まで行かせてくれたのだ。

数日後、私は遠藤先生の診察を受けた。私のかかりつけの医者だ。遠藤先生は私が母の娘だと気づいて、父との共通の友人だったことを思い出したらしい。そして、父から言われたことを私に話したのだ。

「お父さんは私を愛してないから捨てたんだと思う」

そう母に言った時、母はきっぱり否定した。

「それは違う。あの人は高齢出産がどうとか、いろいろ理由をつけてただ若い女が良かっただけなの」

それが何年も経って、後悔しても遅い。でも、母の言葉ははっきりしていた。

「クズはクズだね」

「うん。でもクズから天使が生まれたから、プラマイゼロどころかプラスの人生よ」

その後、遠藤先生を通じて父が連絡を取ってきた。私は一度会うことにした。母には内緒で。

喫茶店で会った父は、驚くほど老けていた。まず最初に言われたのは「女は若いうちに結婚して子供を産むべきだ」だった。いきなり上から目線が始まった。

「お母さんと離婚したのはどうして?」

「何も聞いてないのか?」

「うん。お母さん教えてくれなくて」

「そうか。いや、実はお前を妊娠してからお母さんは人が変わってしまった。神経症になって毎日怒鳴り散らかしてたんだよ」

「そうなの?」

「だろう。それに耐え切れず離婚したってわけだ」

「でも養育費すら払わないのはおかしくない?」

「俺は払おうとしたんだ。でもいらないってお母さんが断ったんだぞ」

私はその場では信じたふりをした。真実が分かってすっきりした、と。そして結婚式に招待すると言った。

「行くよ。是非行かせてくれ」

父は嬉しそうにそう言った。

数日後、母は父が私に連絡を取っていたことを知って激怒した。私は母に本当のことを話した。父が母を捨てた理由を知ったこと、そして父を結婚式に招待したことを。

「うちの親族だって来るし、みんなあの男が何をしたか知ってるんだからね」

「だからだよ。そんな居心地の悪い場に来て針のむしろになるのを見せたいんだ」

「やめなさい。大事な式を復讐のために使わないで」

「お母さん、お願い。結婚式じゃないとできないことなの。あいつの人生を終わらせるわ」

「何をする気なの?」

「大丈夫。式自体は絶対に成功させるし、多分着席して5分もいられないと思うから」

「なんか意味が分からないんだけど」

「お母さんは顔に出るから内緒。黙って見てて」

結婚式当日、父は入場したが、数分後には姿が見えなくなった。後で聞くと、私の夫の義父の病院でのトラブルが原因で、同じ系列の病院を首になっていたことを思い出して、気まずくなって帰ったらしい。

私はその後、母に真実を話した。私は医者になっていた。母が過労で倒れた夜、私は決めたのだ。もし母に何かあっても必ず自分が助ける。そのために医者になる、と。

そして、父に知らせた。私が医者になったこと、研修医として働いていることを。父は驚いていたが、すぐに「俺の遺伝子のおかげだ」と言い出した。

「冗談やめてよ。私は父親が医者だなんて知らなかったよ。お母さんが過労で倒れて私が絶対に助けるって気持ちで目指したの。あんたの影響なんて1ミリもない」

「俺の頭の良さが遺伝したんだ」

「お母さんも医学部だったんでしょ?」

「そうだけどあいつは中退した」

「おじいちゃんの会社が倒産したからって聞いた」

「そういう運すらない女なんだよ」

その時私は笑っていた。父がどれだけ自分の都合のいいように記憶を書き換えているか、よく分かったからだ。

「ちなみに、頭の良さは母親からしか遺伝しないっていう研究結果もあるらしいよ」

「そんなことはない」

「まあいいや。職につけなくて困ってるんだよね。うちの義父の病院で雇ってもらえるよう頼んであげようか?」

「ああ、必要ねえわ。お前の義実家に何ができる?」

「医療法人・高林会。そこの息子が私の夫なんだけど、不要だったかな?」

父の顔色が変わった。私が義父の病院の系列にいたことを知っていたからだ。それに、患者から訴訟を起こされたことも。

「あなたが逃げた後、病院では調査が行われたの」

「何の調査だよ」

「診察中の女性患者にわいせつな行為をしたよね」

「するか」

「へえ。おかしいなあ。看護師と患者さんの証言が一致してるんだけど」

「知らん。覚えてない」

「それでも厚労省の審議会によって審議されて、アウトになればあんたは終わるよ」

「ちょっと待ってくれ。厚労省まで持ち出すのは違うだろう」

「違わないね。あんたがやったことは、医者としてより人として道に反することばかりだから」

「この免許を奪われたら俺は生きていけない」

「知るか。私のお母さんはあんたに捨てられても、もう生きていけないって状態から私を育て上げて、偉大まで行かせたんだよ」

父は突然、土下座した。これまでの人生で最も惨めな姿を晒して。

「かずはごめんな。父さん。お前から連絡が来て嬉しかったんだ。で、息子とも疎遠になって、娘とつながれたことが嬉しかった」

「だから何?」

「この25年果たせなかった父としての役割を今から果たさせてくれないか?」

「そんなもんこっちは求めてないから」

「頼む。俺は真面目にやればそこそこいい医者なんだ。お前の義実家で雇い直してくれないか?」

「訴訟になってる医者なんて雇うわけないでしょ」

「そう言わずに頼んでくれよ。お前の父親なら温情をかけてくれるかもしれないだろ」

「娘の私が義父に一切の温情はいらないから、徹底的にやってくださいよ」

「なんであんたは、お母さんが昼も夜も働いて、私に無理やり作った笑顔を向けてたことは知らないでしょ。悪かったって言ってるじゃないか」

「そんな薄っぺらい謝罪で済まされるほど、こっちの25年は余裕でなんか回ってなかったよ。お母さんは癌になったの」

父は黙った。私は続けた。

「因果関係なんか証明できないけど、私を医大に入れるまで、相当なストレスと過労があったと思う。それを医者として否定できない」

「それは関係ないと思うぞ」

「自分の食事や睡眠もままならない生活を送ってたのよ。本当に関係ないと言い切れる?」

「それはまあ、若干生活習慣は影響するかもしれないけど、俺のせいというのは暴論すぎないか?」

「もういいよ」

「許してくれるのか?」

「なわけないでしょ。あんたなんかもうどうでもいいって言ってるの。そこに落ちてくれたらそれでスッキリするから。今後は一切連絡してこないで」

父は何度も呼び止めようとしたが、私は振り返らずにその場を去った。

その後、父は元同僚や患者からの訴訟が重なり、医師免許を剥奪された。多額の借金を抱え、行き場を失ったと聞いた。

「お母さん、シャンパン買ってきたよ」

「何回乾杯する気なのよ」

私たちは笑った。母の癌は、幸いにも切除可能なものだった。早期発見が功を奏し、治療後、母はすっかり元気になった。

「働いて動いて気を揉み続けてきた人生だったのに、こんなにゆっくりできる日が来るとは思わなかったわ」

「神様はこの時間と、素晴らしいかずはという娘を私にプレゼントしてくださったんだと思う」

その言葉を聞いて、私はようやく胸のつかえが下りた気がした。私は母に、今度は私が守る番だと誓った。母はただ、穏やかに笑っていた。

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