シャンデリアの光が差し込む高級ホテルのラウンジで、女社長の笑い声が冷たく響いた。
「ここ、会員制よ。中卒夫婦は無理ね。」
目の前には、地味なスーツを着た男とその妻が立っていた。男の名は勇誠。妻のリンは穏やかな顔で、しかし少しだけ眉をひそめていた。
「ねえ、雪君。中学で一緒だったわよね。私、月島レイ。覚えてる?」
誠は静かに頷いた。
「ああ、月島か。久しぶり。」
「こんなところで会うなんて奇遇ね。あら、こちら奥様? 失礼だけど、ご主人と同じくらいの学歴なのかしら?」
「学歴が関係ありますか?」
リンの声は穏やかだったが、芯のある響きがあった。誠はリンを守るように手を握った。
「あら、ズバリごめんなさい。だって、雪君は中学卒業してすぐ働きに出たんでしょ。そんな人が会社やってるなんて、ねえ。」
レイの隣にいた夫、月島高幸は、誠を一瞥もせず、シャンパンを口に運んだ。誠には見覚えがあった。だが、高幸の目には何の反応も浮かばない。
「雪君、今は何をしてるの? 社員は何人?」
「1人だ。」
「1人? うちは80人よ。あなたとは立っている場所が違うけどね。」
「もういいだろう。長い話をする必要もない。行こう、リン。」
誠とリンは背を向け、ラウンジを後にした。背後でレイの声が追いかける。
「あら、中卒夫婦本当に出ていったわ。」
誠の足が一瞬止まった。だが、何も言わずにその場を離れた。
—
それは16年前の春に遡る。
誠は中学を卒業した翌日から働き始めた。父はすでに亡く、母は体が弱かった。高校へ行く選択肢は最初からなかった。工場の住み込み、深夜の倉庫での仕分け、配送のアルバイト。誠は働きながら簿記と経営を独学で学び、18歳で小さな個人事業を始めた。そして24歳の春、誠は大きなチャンスをつかもうとしていた。
「ゆき君、よくここまでやってきたな。1人紹介しよう。月島高幸という男だ。若い経営者の世話をしとる。」
高幸の事務所で、誠は丁寧に事業計画を説明した。高幸は何度も頷きながら、笑顔で言った。
「これはよくできてるよ。分かった。私の方で銀行に話を通そう。1ヶ月ほど時間をくれ。」
誠は期待に胸を膨らませて事務所を出た。しかし、1ヶ月が経っても連絡はなかった。誠の方から連絡しても、高幸は海外出張だと言いつがらない。
そして、状況は悪化していった。誠が銀行に行くと、断られ続けた。理由を尋ねても、銀行員は答えない。取引先からの発注も次々と減っていった。自分の周りから、糸を引くように人と仕事が静かに離れていく。
翌月、誠は会社を畳んだ。そして、そのさらに翌月、母が亡くなった。
「ごめんな、母さん。最後まで楽させてやれなくて。」
誠は通夜の夜、誰もいない部屋で、母の写真の前で何時間も泣いた。そして、25歳の誠には、ただ1人、誰にも認められなかった計画書と、母を失った虚しさだけが残った。
—
それからどん底の中で、誠は生きていくために別の道を選んだ。26歳の冬、誠は知人の紹介で高級ホテル「グランドアジュール」の倉庫管理の仕事に就いた。
ある日、誠は夜遅くまで帳簿を整え直していた。すると、背後から声がかけられた。
「君、随分遅くまで残っているね。」
そこに立っていたのは、白髪を後ろに整えた70歳近い男だった。
「その帳簿、君が直しているのか?」
「はい。伝票の数字が合わなくて気になっていたものですから。経理は独学です。中卒なので、きちんと習ったことはありません。」
男は誠の目をじっと見つめた。
「君の名前は?」
「雪誠と申します。」
「雪君、私はこのホテルのオーナー、最奥寺慶造というものだ。私のそばで働かないか? 私は学歴より人を見る。それが私の信念だ。君の目には確かな光が宿っている。」
その一言が、誠の人生を確かに動かした。それから誠は慶造の下で、フロント、財務、経営企画と、ありとあらゆる現場を回った。そして、誠は30歳の春、慶造からこう言われた。
「もう一度、自分の会社を立ち上げなさい。私が最初の客になる。」
誠は半年でグランドアジュールの利益を1. 5倍に押し上げた。慶造が信頼する業界の重鎮たちが、次々と誠を呼ぶようになった。誠の名前は表に出ることなく、静かに業界で広がっていった。
—
会社を立ち上げて2年が経った頃のこと。誠は業界紙で、ある記事を目にした。
「ネクサスゲート、月島高幸氏、新規事業本格展開。中古工作機械の共同導入による町工場ネットワーク、業界初の試み。」
誠の手から業界紙が落ちた。記事には、16年前に誠が高幸の事務所で見せた計画書の内容が、ほぼそのまま高幸の言葉で書かれていた。
「あの男…」
その夜、誠は唯一当時、自分の話を最後まで聞いてくれた銀行員を尋ねた。銀行員は周囲に気を配りながら、声を潜めて言った。
「君の融資が止まったのは、業界の若手経営者から『あの中卒の若造は信用できない。手を出すな』と、複数の担当者に話が回っていたからだ。発信元は、月島高幸さんだ。」
銀行員は、当時の記録を残した1枚の便箋を誠に握らせた。
「私も当時、おかしいと思ったんだ。だから、独自にメモを残していた。いつか君が必要とする日が来るかもしれないと思ってな。」
誠はその便箋を机の引き出しの一番奥にしまい、8年間誰にも見せなかった。それは、忘れようとしても忘れられない、自分の中に確かに刻まれた男の名前だった。そして、その男が先日のラウンジで、16年ぶりに目の前に現れたのだ。
—
数日後、誠は慶造の元を訪れた。誠の顔を見るなり、慶造は何かを察したように言った。
「珍しいな。お前から来るとは。何かあったか?」
「慶造さん、お聞きいただきたい話があります。16年前、私が起業して会社を畳んだ理由についてです。」
誠は、便箋を慶造に差し出した。
「これは当時、妨害発言を記録してくれた銀行員の方から頂いたものです。8年前から私の引き出しに眠っていました。」
慶造は便箋を読み終えると、静かにうなった。
「…月島高幸か。お前が動くなら、私も席を外さん。それだけは約束しよう。」
「ありがとうございます。」
その夜、誠は自宅の書斎で、パーティーの招待客リストを開いた。リストの中ほどに、見覚えのある名前が2つ並んでいる。
「月島高幸、55歳、ネクサスゲート株式会社。」
その時、書斎の扉が静かに開いた。
「あなた、まだお仕事?」
「いや、もう終わる。リン、来てくれるか?」
リンは誠の隣に立ち、リストを覗き込んだ。誠が指す行を見て、リンの表情がわずかに動いた。
「あの方たち、おじい様のご招待で?」
「ああ。ずっとお前からの付き合いだそうだ。」
リンはリストをじっと見つめたまま、しばらく動かなかった。そして、静かに言った。
「あの夜、私、本当は悔しくてたまらなかった。あなたが何も言わないでとおっしゃった時、自分が情けなくて、爪が手のひらに食い込むほど握りしめていました。でも、今は分かります。あなたがずっと1人で抱えていらしたものが、あの夜、動き出したんだって。」
リンは顔を上げ、誠の目をまっすぐ見つめた。
「あなたが16年、お1人で背負われてきたもの。今度はお1人にしないでください。私、当日は何も言わずに、ただあなたの隣に立っています。もしも、あの夜の続きが私にも巡ってきたら、その時は私の言葉でお返しさせてください。…いいですか?」
誠はしばらくリンの顔を見つめていた。やがて、ゆっくりとその手を両手で包み込んだ。
「ありがとう。」
—
数週間後。グランドアジュールの大宴会場はシャンデリアの光に満ちていた。誠とリンは正面玄関からゆっくりと会場へ進んだ。すると、横から耳障りな声が飛んできた。
「雪君? やだ、本当に何でこんなところにいるの?」
振り返ると、シャンパングラスを手にした月島レイが立っていた。隣には高幸もいる。
「先日はどうも。」
「先日はどうもじゃないわよ。ここは最奥寺会長のパーティーよ。会員制ホテルどころの話じゃないわよ。…え、あなた、招待客? どういうこと?」
高幸は軽く咳払いをして、誠を一瞥した。
「雪さんでしたな。どちらのご紹介で?」
「慶造さんから直接。」
「へえ、会長から直接? 会長もお優しい方ですからな。よくあなたのような零細企業のお取引先までお招きになる。」
「それよ、それ。雪君、良かったわね。会長のおこぼれに預かって。」
レイはそう笑ったが、目は笑っていなかった。その時、フロント係の男性が静かに歩み寄ってきた。
「雪様、奥様、お席のご案内をさせていただきます。メインテーブルまで、こちらからお進みください。」
「メインテーブル? あら、何かの手違いかしらね。」
誠とリンは月島夫妻に背を向け、フロント係の後を歩いた。会場の中央へ進むにつれ、業界の重鎮たちが誠の姿を見て、次々と静かに頭を下げていった。
「雪さん、お久しぶりです。」
「雪さん、また後ほど。」
月島夫妻は会場の端のサブテーブルへと案内された。すると、ステージで進行役が挨拶を始めた。
「皆様、お待たせいたしました。本日はグランドアジュールのオーナー、最奥寺慶造よりご挨拶を申し上げます。」
慶造がゆっくりとステージに上がり、深く一礼した。
「皆様、本日はお集まりいただき誠にありがとうございます。私、最奥寺慶造、本日を持ちまして、本ホテルの経営の一切を正式に引き継がせていただきます。…ご紹介申し上げます。本日からのオーナーは、私の孫娘の夫でもあります、雪誠です。」
その瞬間、会場の空気が止まった。そして、業界の重鎮たちが次々と立ち上がり、拍手を始めた。
「やはり雪先生でしたか…」
その音の中で、月島夫妻は固まっていた。高幸の手からシャンパングラスが落ちた。床に砕ける音は、誰の耳にも届かなかった。
「嘘…だろ?」
ステージの誠は、慶造と並んで深く一礼した。
「皆様、本日はお越しいただきありがとうございます。雪誠と申します。…ここで皆様に1つだけ、私自身のお話をさせていただいてもよろしいでしょうか? 私は20歳で起業し、24歳でその会社を自分の手で畳みました。長く自分の力不足だと思っておりました。…しかし、後になって、ある人物に計画書を盗まれ、業界に悪い噂を流されていたことを知りました。」
サブテーブルで高幸の額に汗が浮かんだ。
「その人物とは…月島高幸さん、あなたです。」
どよめきが走り、会場全体が低く揺れた。
「いや、待ってください。雪さん、何かの誤解では? 私はあなたの計画書を見ましたが、私の事業は私自身がゼロから組み上げたものです。仮に当時の私が何か話したとしても、それは若い経営者の評価として自然なことでは? むしろ、あなたが今こうして立っていられるのは、当時の経験があったからでは?」
高幸は論点をすり返そうとした。だが、その時、慶造が静かに口を開いた。
「月島。お前は私のかつての部下だ。お前が独立してから、私が頭を下げて紹介した取引先は10社を超える。お前が今業界で立っていられるのは、お前1人の努力ではない。…その私が信じた男が、私が今夜の後継者として迎えた人間を16年前に潰そうとしていた。その言い分は、そのまま返すぞ。」
慶造の言葉は穏やかだったが、高幸の逃げ場を少しずつ塞いでいった。
「雪君が提出したその文書、私の方でも本日中に確かめさせてもらう。私自身が当時の銀行員を何人も知っているからな。お前の言い分が正しければ、何も恐れることはない。違うかね?」
高幸の口はゆっくりと閉じた。額の汗が頬を伝って落ちた。
その後、会場のあちこちで高幸と取引のある社長たちが、静かにグラスを置いた。
「最奥寺会長、東洋通信として申し上げます。月島さんとの取引は、本日付けで見直させていただきます。」
「誠、うちも。」
レイが慌てて叫んだ。
「待ってよ! 高幸、ねえ、本当なの? あなた…本当に雪君の会社を潰したの?」
高幸は答えられなかった。喉の奥に何かが詰まったまま、口が動かない。
「ねえ、答えてよ! 私の会社よ! ネクサスゲートは! 何で? 何で私の取引先が一斉に!?」
「…俺は知らなかった。まさか会長の後継者だなんて。」
「知らなかったって何よ! あなた、今頃になって!」
レイは席を立ち、ステージの誠を見上げた。
「雪君…いえ、雪さん! お願いです、許してください! 私、何も知らなくて!」
誠はレイを見つめ、静かに言った。
「許す許さないの話ではありません。私の話は以上です。」
会場の拍手がゆっくりと戻ってきた。月島夫妻の周囲のテーブルだけが、静まり返ったままだった。
—
翌朝、誠のオフィスに秘書から連絡が入った。
「月島さんご夫妻がお見えですが、お通ししてもよろしいですか?」
誠は黙って頷いた。執務室のドアが開くと、レイと高幸が並んで立っていた。昨日までの余裕はなく、2人とも一晩で痩せて見えた。
「雪オーナー、最奥寺会長。本日は突然の面会を申し訳ございません。16年前、私が雪オーナーの事業を妨害したことは事実でございます。…どうか、最後にもう1度だけ、私たちにチャンスをいただけませんか?」
誠は静かに言った。
「月島社長、昨夜の会場で私が申し上げた通りです。私の言葉はもうあれだけです。」
レイの顔から光が消えた。彼女は誠の隣に座るリンに視線を向けた。
「奥様! 奥様、お願いです! ネクサスゲートには社員が80人います。その家族を含めれば200人を超えます! 私たち夫婦の過ちで、何の罪もないあの子たちが路頭に迷うんです! 社員のためです、どうかお助けください!」
レイはソファーから立ち上がり、その場で床に膝をついた。高幸もそれに続く。
「月島社長、お立ちください。…ネクサスゲートの正社員80名のことはご心配なく。昨夜のうちに、ホテルが最奥寺グループの取引先数社と連携して、希望される方は雇用を引き受けられるように話を通しました。」
「な、そんな…勝手に…!」
レイは顔を上げる。リンは穏やかだが、はっきりとした口調で続けた。
「従業員の皆様を救うのは、月島社長、あなたではありません。…月島社長、私は先日のラウンジで、あなたから『中卒夫婦』と決めつけられました。学歴のことは、私はどうとも思いません。けれど、あの夜あなたが見下していらしたのは、私の学歴ではなく、私たち夫婦そのものでした。月島社長、あなたが本当に守るべきだったのは、80名の社員でも、ご主人の体面でもなく、目の前の方々への人としての誠実さと敬意そのものだったと、私は思います。」
「…誠実さと、敬意。」
「お引き取りください。」
レイはハンカチで顔を覆ったまま、しばらく立ち上がれなかった。高幸が彼女の腕を支え、2人は深く一礼して執務室を後にした。重い扉が閉じる音を聞きながら、誠はリンの手をそっと握った。リンの手のひらは、昨日までの冷えた空気とは違って、温かかった。
—
それから1ヶ月、ネクサスゲートの主要取引先は、約束通りすべて契約を打ち切った。資金繰りは3週間でショートし、社員たちは驚くほど穏やかに会社を去っていった。高幸は業界の集まりから完全に締め出され、顔を出したバーで隣の経営者に背を向けられた。レイは社長の座を退き、2人は会社から完全に姿を消すことになった。
会社を失った日、家に帰ると、子供たちがリビングに揃っていた。長女が最初にレイに詰め寄った。
「お母さん、ちょっと何やってくれてんの? 私の友達、全員いなくなったんだけど! 『あの月島の娘』って、有り得ないんだけど!」
「私の学校でも、みんな避けてくる。」
長男も吐き捨てた。末っ子は何も言わず、ただ黙って床を見つめていた。
「あなたたち、それを今、お母さんに言うの?」
「お母さんのせいでしょ! お母さんが何かやらかしたんでしょ!」
「お母さんのせいじゃないわよ! お父さんが昔、変なことをしたから!」
「お前のせいだろう! お前があの夫婦を見下したからだ!」
両親の口から出てくる言葉は、最後まで自己弁護と責任の押し付け合いだった。子供たちは家を出ていき、リビングにはレイと高幸だけが残された。
「ねえ、何で私がこんな目に遭うの? 私、何も悪くないでしょ。」
「…お前は結局、何も変わっていないんだな。」
「はあ? 何よそれ。今、私を責めてるの? ふざけないで! 原因はあなたでしょ!」
「…何を話しても無駄だな。離婚しよう。」
「望むところよ!」
レイは結婚指輪を外し、テーブルの上に投げ捨てた。高幸は暗いリビングで1人、16年前の春、自分の事務所で計画書を抱えて深く頭を下げていた青年の顔を思い出していた。
「…あの男だったのか。」
リビングには、もはや誰も答えるものはいなかった。
—
季節が変わり、グランドアジュールの中庭に植えられた桜が薄紅の花を咲かせていた。朝の執務室は静かだった。誠が窓辺に立ち、中庭を見下ろしていると、リンがそっと歩み寄ってきた。
「おじい様、今朝も中庭を散歩していらしたわ。」
「慶造さんは桜の頃が一番好きだそうだ。」
リンは誠の腕に自分の手をそっと添えた。
「基金の一期生、今日から面談が始まるのね。」
「ああ。学歴がなくても起業を志す若者が47人応募してきた。全員に会うつもりだ。」
「あなたらしいわね。」
その時、執務室の扉がノックされた。
「雪様。一期生候補の方がお見えになっております。」
「通してくれ。」
扉が開き、入ってきたのは20代前半の青年だった。装飾を一切しない黒のスーツに、磨き込まれた古い靴。腕には買ったばかりらしい安物の腕時計。胸の前でファイルを握りしめるように持っていた。
「失礼いたします。本日はお時間をいただきまして、ありがとうございます。」
青年は深く頭を下げた。誠はその姿をしばらく無言で見つめていた。16年前の自分の姿が、そこに重なっていた。
「お座りください。…中学を出てから、何をされていましたか?」
「工場勤めを6年。その間に簿記と経営を独学で学び、今は小さな個人事業を1人で回しております。」
「拡大したいんですね。」
「はい。」
「計画書を見せてください。」
青年は震える手でファイルから計画書を取り出した。誠はそれを受け取り、ゆっくりとめくり始めた。リンは少し離れた場所から、その様子を静かに見守っていた。
青年が帰った後、執務室には静けさが戻った。
「緊張していらしたわね。」
「ああ。16年前の俺と同じ顔をしていた。」
「採用なさるの?」
「計画書はまだ荒いが、目がしっかりしていた。あれは本物の経営者の目だ。」
「あなたも若い頃は、そういう目をしていましたよ。」
「…そうか。その頃から、俺のことを見ていてくれたんだな。」
リンは誠の隣に腰を下ろした。
「あのラウンジの時、あなたは月島社長に、気づくチャンスを与えていた。あの方は思い出す機会も、あなたのことを調べる機会も、十分にあったのに、最後まで気づかなかった。それを、あなたはちゃんと見ていらした。…あの方がどんな人なのかを。」
「…よく分かったな。」
「もちろんです。あなたのことですもの。…人を見るというのは、相手を自分の物差しで測ることじゃないんですね。相手がどんな人なのかを、ちゃんと見届けることなんだって。私、今になって分かりました。」
誠はリンの手をそっと握った。窓の外を、桜の花びらがもう1枚、ゆっくりと舞い落ちていった。
その後、慶造が執務室に顔を覗かせた。
「面談が始まったと聞いてな。」
「はい。とても目に力がある子たちばかりですよ。」
「うん。…まあ、ただ1つだけ、お前に言っておこう。お前が16年前、私の倉庫で伝票を整理していた時、私はお前の何を見ていたか、分かるか?」
「何でしょうか?」
「お前が誰にも見られていない夜に、1人で伝票を直していた、その姿だ。人は見られていない時にこそ、本当の顔を出す。お前は誰も見ていない時も、人として真っすぐな男だった。…その目を、次世代にも向けてやってくれ。」
慶造はそれだけ言って、執務室を後にした。誠はしばらく窓の外の桜を見つめていた。リンが隣に立つ。
「あなた。」
「ああ。」
「私たち、これからも人を見る仕事を続けていきましょう。」
「ああ。それが次の世代への架け橋になるからな。」
窓の外を、桜の花びらが音もなく舞っていく。誠の胸の奥で、長年抱えていたものが、確かに1つ、軽くなっていた。それは学歴ではなく、肩書きでもない。ただその人が、誰にも見られていない時に何をしているか。それだけが、その人の本当の姿を教えてくれるのだと、誠は静かに噛みしめていた。



