雨の日だった。運転手はピアノに触るな。その怒号が、豪邸の静寂を切り裂いた。
磨き上げられたグランドピアノの前で、若い運転手が立ち尽くしていた。
「申し訳ありません。でも、触ってはいませんので」
「同じことだ。お前のようなものが近づいていいものではない」
だが、家の春は許さなかった。大股で部屋を横切り、運転手の腕を掴んで引き剥がす。
「本当に申し訳ございません。お暇いたします。今日限りで」
「首だ。当然だ。約束を破った」
一礼して都口へ向かおうとした、その時だった。
「待って」
矢主の娘が、その前に立ちふさがり、父に向き直った。
「お父さん、聞いて。この人はね… 」
「なんだと?」
「まさか… ありえない」
誰も引かないのに、毎日磨かれ、調律されるピアノ。
この後、ただの運転手に、その封印は破られてしまうことになる。
やがてこの家に、鳴るはずのない音が鳴る。
たった1曲が、会長一家を慟哭させ、閉じ込められていた長い歳月が動き出す。
見下された運転手の指先が、全ての謎を解く鍵だった。
朝5時半。築40年のアパートの台所に、味噌汁の匂いが立っていた。
田村金出、30歳。都内の運転手派遣会社に務めて、今年で12年になる。
「ばあちゃん、味噌汁は俺が見るから、座ってなよ」
「いいの?あんたのお弁当だけは、私の仕事」
田村義子、78歳。小柄な背中を丸めて、卵焼きを巻いている。
金の育ての親であり、たった1人の家族だった。
「膝、まだ痛むんだろう」
「もう治ったから、大丈夫」
嘘だと金は思う。昨夜、台所で1人、膝を押さえていたのを見ていた。早く楽をさせてやらないと。
高校を出る時、進学の話も出た。成績は悪くなく、担任は惜しがった。だが家計を知っている金は、求人表の中から1番給料のいい道を選んだ。運転手派遣の会社に入り、21歳で2種免許を取ってからも、無事故無違反を通してきた。引き継いだ先が、役員送迎の専属運転手だった。
会社での評判は、少し変わっている。
「俺さ、田辺に雑談したこと一回もねえんだけど」
「ああ、俺も挨拶と引き継ぎの連絡だけ。多分お客さんともあんまり喋ってないんじゃねえの」
「そんで指名は営業所で1番って、なんかすげえよな」
車内で自分から話しかけない。聞かれれば短く答える。堀際の客に「次も君がいい」と言われても、金は理由が分からず頭を下げるだけの男だった。
その金に、ある朝、署長が声をかけた。
「明情ホールディングスの会長付きが空いた。先方のご指名。いや、指名というか… 何というか、『お宅で1番口の硬いのをよこしてくれ』とさ」
橋谷川誠一郎。新聞の経済面でしか見たことのない、財界の獣だった。
引き継ぎの日、定年を迎える仙台の運転手は、車の鍵を渡しながら妙なことを言った。
「いいか、田村君。あのオタクではな、『見ない、聞かない、触らない』。それさえ守れば、悪いオタクじゃない」
「触らない?」
「そうだ。そのうちわかる。いや、分からんままの方が幸せかもしれんな」
翌日、金は初めて長谷川の門をくぐった。手入れの行き届いた庭、磨き込まれた車寄せ。そして、これだけの豪邸に、人の営みの音が1つもしない。車の脇で待っていると、玄関から若い女性が出てきた。
「あの、新しい運転手さんですね。娘の美です。父が、その、気難しい人に見えるかもしれないんですけど、よろしくお願いします」
「はい」
ミオは小さく会釈して、玄関へ戻っていった。
その日の帰り道。バックミラーの中で遠ざかる屋敷を、金はもう1度だけ見た。大きな窓の奥で、夫人らしき人影が、黒く大きな何かを拭いている。昨日も今日も、おそらくは明日も、毎日磨かれ続けている。それが何なのか、金はまだ知らない。
会長付きの仕事は、ハンコで押したように始まった。朝7時50分、門の前に車をつける。8時ちょうどに玄関が開き、橋谷川誠一郎が出てくる。飴色のスーツに撫でつけた白髪。63歳という年齢を感じさせない切れ長の目だった。
「出してくれ」
「はい」
車内で誠一郎が口を開くことはほとんどない。だが行き先を告げる声は明瞭で、金の運転に注文をつけたことも1度もなかった。悪いオタクじゃない。仙台の言った通りだ。
見送りには、毎朝必ずかよが立つ。
「あなた、今日はお薬よ」
「分かっている。もう分かってらっしゃらないから、鞄に入れておきましたよ」
「やれやれ。お前には叶わんな」
ミラー越しに見える老夫婦は、穏やかで仲が良かった。
ある雨の日、金は初めて屋敷の中に入った。届いた美術品の木箱を、大広間へ運ぶ手伝いを頼まれたのだ。言われた場所に箱を置き、頭を下げて下がろうとした時、それが目に入った。
グランドピアノだった。
窓越しに見えていた黒い影の正体。大広間の奥の、1番いい場所にそれは鎮座していた。黒い塗装は鏡のように磨き上げられ、指紋1つない。だが妙だった。譜面台には楽譜が1冊もない。鍵盤の蓋は、硬く閉じられたままだった。遠目には、昨日届いたばかりの新品のようにさえ見えた。
「あら、ご苦労様です」
いつの間にかかよが立っていた。手には白い布。
「もう古いものなんですけどね。誇りだけは、どうしても許せなくて」
「失礼します」
何も聞かない。引き継ぎの時の約束を、金は守った。大広間を出て廊下を歩きながら、金は見てはいけないものを見た気がしていた。詮索はしないでおこう。自分はただの雇われの運転手だ。この家の事情に立ち入る立場ではない。
金は昔から、そうやって一歩引いて生きてきた。踏み込まなければ、傷つくことも傷つけることもない。あの時の言葉が、今になって腑に落ちた。見ない、聞かない、触らない。きっとそれは、この家族へのせめてもの礼儀なのだ。
その後も妙なことは続いた。大広間の前を通る時、誠一郎は決してピアノの方を見ない。あれほど仲のいい夫婦が、ピアノに関わる話になった途端、申し合わせたように黙り込む。1度だけ、ミオが大広間の掃除を手伝おうとして、断られているのを見た。
「ここはいいの。お母さんの仕事だから」
「はい」
慣れた調子で引き下がるミオは、それを不思議とも思っていないようだった。
決定的だったのは、来客のあった日だ。玄関ホールで帰りの挨拶を待っていた金の耳に、大声の声が届いた。
「ほお、見事なピアノですな。奥様が弾かれるのかな?是非一曲」
その次の瞬間の空気。
「妻は弾きません」
低く短い声だった。来客が続きの言葉を飲み込むのが、廊下にいても分かった。
誰も弾かないピアノが、毎日磨かれている。なぜとは、誰も聞かない。聞いてはいけないことだけが、この家の空気で分かった。
その日、金はミオをデパートへ送り、車寄せで戻りを待っていた。ふと、車の先で立ち往生している老夫婦が目に入った。外国人の観光客らしい。タクシーの運転手に地図を見せては、困り顔で首を振られている。金は車を降り、2人に歩み寄った。
「How can I help you?

」
流れるような英語だった。老夫婦の顔がパッと明るくなる。
「予約しているホテルに行くと、予約されていないと言われた。似た名前のホテルだった」
「その場所を教えてもらったが、タクシーの運転手に伝わらない」
金はすぐに聞き取り、調べ、タクシーの運転手に日本語で行き先を告げた。走り出すタクシーの窓から、老夫婦は何度も手を振った。
いつの間にか戻っていたミオが、買い物袋を下げたまま目を丸くしていた。
「すごい、英語お上手なんですね」
「はい。少々」
「少々って、ペラペラでしたけど」
「戻りましょうか。お荷物を」
「何なの、この人?全然会話にならない」
その日から、ミオは父の使わない休日に、金の車を頼むようになった。
「そういえば、私、お名前もちゃんと伺ってなくて。運転手さんて呼ぶのも失礼ですし」
「田村です」
「田村さんですね」
信号待ちの間、ミオはよく話しかけた。帰ってくるのはいつも短い答えだ。しかも、会話が続かない。
「なんであんなにブッキラボウなのかしら。今日こそは長く会話できるようにしてみせるわ」
ミオのいたずら心に火がついた。
「田村さんって、お休みの日は何してるんですか?」
「祖母と買い物に」
「え、おばあちゃんと一緒に?優しいですね。えっと、それでは出発します」
会話はまた途切れた。それでもミオはめげなかった。
「聞いてくださいよ。この前、散歩中の犬が私の前で急に立ち止まったんですよ。飼い主さんが引っ張っても全然動かなくて、ずっと私を見てるから、犬に好かれるタイプなのかなって思ってたら… 私の後ろの焼き鳥屋を見てました」
「あ、今ちょっと笑いました?」
「いえ、笑いましたよ。絶対」
気を許したのか、金は少しずつ、弾かれれば答えるようになった。不思議だった。会話が弾むわけでもないのに、この車の中は心地いい。初めて会った気がしないのは、なぜだろう。お互いが、そう感じていた。
ある夕暮れ、渋滞の車内でラジオがクラシックを流した。ピアノの独奏曲だった。
「あ、消しますか?」
「ううん、そのままにしてください。私、ピアノの音って苦手なんです。なのに変ですよね。この曲だけは昔から聞けちゃうの。それだけじゃなくて、眠たくなっちゃうんです」
番組のアナウンサーが曲名を告げる。ショパンの子守歌、作品57。
ふと、ミオは気づいてしまった。ハンドルの上の金の指が、旋律をなぞるように、かすかに動いている。
「田村さんも、この曲お好きなんですか?」
指が止まった。
「ああ… よくわからないんです。ただ、昔聞いていたような気がして」
「昔って、子供の頃ですか?」
車の中に沈黙がしばらく続いた。そして金が、ぽつりと話し始めた。
「私には、子供の頃の記憶がないんです」
「え?」
「小さい頃、海外で事故にあったそうです。気がついたら、知らない国の、知らない人の家にいました。当時、その外国の現地にいた日本人の女性が、引き取って育ててくれました。その人が、私の祖母です」
「祖母と言っても、血の繋がりは全くなくて… 年が離れているので、祖母ということに」
「ごめんなさい。私、無神経なこと…
」
「いえ」
信号が青に変わり、車はまた流れ出した。それきり2人とも黙っていたが、気まずさはなかった。
その頃からだ。車で待機する時、気づけばピアノがある大広間の窓へ目をやっている自分がいた。理由は、金自身にも分からなかった。
その日は朝から雨だった。誠一郎を送り出した後、金はかよに頼まれ、届いた荷物を屋敷の中へ運び入れていた。最後の箱を置いて廊下を戻る。その途中だった。
大広間の扉が、開いていた。
今日も蓋が閉められたままのグランドピアノ。戻らないと。そう思ったはずだったのに、足が止まらない。廊下ではなく、部屋の中へ、足は勝手に動いていた。心臓が嫌な速さで打っている。指先が冷たい。怖い。なぜかわからないが、怖い。それなのに、目が離せなかった。磨き上げられた黒い蓋に、自分の顔が映っている。気づけば右手が持ち上がっていた。蓋まで、あと数センチ。
「そこで何をしている?」
振り向くと、戸口に誠一郎が立っていた。忘れ物でも取りに戻ったのか。コートの肩が雨に濡れたままだった。その目を見て、金の背筋が凍った。
「運転手が、ピアノに触るな」
大広間に響く怒声だった。誠一郎は大股で部屋を横切り、金の腕を掴んでピアノから引き剥がした。63歳とは思えない力だった。
「申し訳ありません。でも、触ってはいませんので」
「同じことだ。お前のようなものが、近づいていいものではない」
「お父さん!」
怒声を聞きつけたミオが、戸口で立ち尽くしていた。
「どうしたの?そんな大声」
「この人は、お母さんの荷物を運んでくれてただけよ」
「お前は黙っていなさい」
「でも」
「黙っていなさい」
取りつく島もなかった。金は深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。2度と近づきません」
言い訳はしなかった。できるはずもなかった。なぜあの部屋に足が向いたのか、自分でも説明がつかないのだから。
廊下に出る時、金は見た。誠一郎がピアノに背を向けて立っている。握りしめた拳が、かすかに震えていた。それは怒りというより、何かに耐えているように見えた。戸口のかよは何も言わなかった。夫を責めるでもなく、金を咎めるでもなく、ただ悲しい目で、閉じられた黒い蓋を見ていた。
その夜、金は夢を見た。広い部屋、高い天井。誰かの大きな手が、自分の小さな手の上にそっと重なっている。目が覚めると、頬が濡れていた。なぜなのか、理由は分からなかった。
誠一郎の態度は、翌朝には元に戻っていた。
「出してくれ」
何事もなかったような、いつもの声だった。それが却って、あの日の怒声の異様さを際立たせていた。
数日後の夕方だった。買い物帰りのミオを乗せた車が屋敷に着く頃、空は赤色に染まりかけていた。車寄せに止まり、エンジンの音が消える。二つの影が長く伸びて、砂利の上に横たわっていた。後部座席のミオは、すぐに降りようとしなかった。膝の上の紙袋に目を落としたまま、ドアの取っ手に手を伸ばしては引っ込める。それを2度ほど繰り返してから、ようやく口を開いた。
「この前は、父がごめんなさい」
「いえ、私が悪いんです」
「ねえ、田村さん。あの時、どうして大広間に?」
「あ、責めてるんじゃないんです。ただ… その、変な話をしてもいいですか?」
初めて、金の方から話し始めた。自分でも、なぜ話す気になったのか分からない。あの怒声の日から、1人で抱えてきたものが、この車の中だけで、口をついて出た。
「私は、ピアノが怖いんです。見ると心臓が変な音を立てるのに、この前は気がつくと近づいているんです。弾いたこともないのに、弾きたい気になるというか… 」
ミオはそれを聞いても笑わなかった。胸の奥で、何かが小さな音を立てていた。ピアノが怖い。その感覚がどういうものか、この世で自分だけが知っているものだと、ずっと思ってきた。誰にも言えなかった。言っても伝わるはずがなかったから。
「ちょっと変わってますよね」
「一緒だ」
考えるより先に、言葉がこぼれていた。
「私も、ピアノの音が怖いの。この前、車の中で『ピアノの音が苦手』って言ったけど、本当は怖いの。聞くと、わけも分からなく不安になるっていうか。子供の頃からずっと。コンサートも音楽の授業も、全部ダメなのに… 変ですよね。この前、車の中で聞いたあの曲だけは、平気なんです」
夕闇の車内で、2人はしばらく黙っていた。気まずい沈黙ではなかった。長い間1人で持て余してきた「変なもの」を、初めて誰かの隣に置けた安心感の余韻に浸るような時間だった。日は屋根の向こうに沈み、フロントガラスの先で屋敷の窓に、1つまた1つと明かりが灯っていく。あの大広間の窓だけが、暗いままだった。
「うちのピアノも、変なんですよ。誰も弾かないのに、年に1度だけ調律師さんが来るの。不思議でしょ」
「田村さん、いつか弾いてみたらいいのに」
言ってから、ミオは自分で驚いた。それでも、取り消すことはできなかった。この人が弾いたら、何かが変わる気がする。根拠のない確信だった。
「いえ、約束しました。2度と近づかないと」
「じゃあ、父には内緒で、なんてね」
冗談めかしてミオは笑った。夕闇の中で、金は何も答えなかった。2度と近づかない。そう約束したのに。膝の上の自分の指を、金はじっと見下ろしていた。指の奥が、まだかすかに疼いていた。
その日曜日、金は夕方の送迎を言いつかっていた。約束の時刻にはまだ間があり、車寄せに止めた車の中で待っていた。窓がコンコンと叩かれた。ミオだった。
「田村さん、ちょっと来てもらえますか?」
理由は言わなかった。お嬢様の頼みを断る理由もなく、金は車を降りた。廊下の奥へ、奥へ。先を歩くミオの足が、ある扉の前で止まる。開けられたその先を見て、金の足がすくんだ。
大広間だった。午後の光の中に、ピアノが黒く光っていた。
「ここですか?」
あの日の怒声が耳の奥で蘇る。2度と近づかないと頭を下げた。あの約束を破るわけにはいかなかった。
「ごめんなさい。騙すみたいに呼んで。あのね、変なことを言いますけど」
ミオは少しだけ笑って見せた。
「田村さんはピアノが怖い。私はピアノの音が苦手。だったら、2人でちょっとだけ触ってみたら、その理由が分かるかも、なんて。1人で触る勇気がなくてね。1回だけ、お願い」
軽い調子で言った。言えるように、何日も前から練習してきた。あの車の中の話を聞いてから、この考えが頭を離れなかったのだ。理由があるわけではないけれど、この人と自分の中にある「怖いもの」を、このまま放っておきたくなかった。
「ですが、旦那様が…
」
「父は書斎よ。母は奥の間。無駄に広いんですよ。ポンって鳴らすくらい、聞こえやしません」
金は動けなかった。断るべきだった。断る言葉なら、いくらでもあった。それなのに、目はピアノに吸い寄せられていた。
一歩、近づく。遠くから見れば、それは新品のように光っていた。だが間近に立って初めて、金は気づいた。鍵盤の蓋の縁、ちょうど手をかける場所だけ、塗りがわずかに曇っている。ペダルには、靴先の形に擦り切れた跡。
何百時間、いや、何千時間。誰かがここに座り、弾き続けた痕跡だった。
新品じゃない。これは、ずっと誰かが… ミオが蓋に手をかけ、ゆっくりと開けた。白い鍵盤が、光を浴びる。ミオ自身、この蓋が開いているところを見た記憶がなかった。
「どうぞ」
心臓が早鐘を打っていた。指先が冷たい。耳の奥で、どこか遠くの水の音がした気がした。怖い。逃げ出したい。それなのに、足は椅子へ向かっていた。
金は腰を下ろした。鍵盤の上に手を置く。いや、置いたのではない。無意識のうちに、左手が低い方の鍵盤のある一点に吸い寄せられていた。まるで何百回もそうしてきたかのように、指は迷わずその場所を知っていた。
ポン。と、1つ低い音が鳴った。
その瞬間だった。何か温かいものが、指先から腕へ、腕から体中へ、ぶわっと広がった。ずっと金の胸の底に張り付いていた、あの水のように冷たい恐怖が、嘘みたいに溶けていく。代わりに溢れてきたものを、金は名前で呼べなかった。懐かしいとも違う。嬉しいとも違う。強いて言うなら、帰ってきたという感覚に1番近かった。長い間迷子だった自分が、ようやく知っている場所にたどり着いたような。
喉の奥が熱くなる。理由も分からないのに、泣きそうになっている自分がいた。
なんだ、これ。俺は、この場所を知っている。
気がつくと、両手が動いていた。
「え?」
「あ、ちょ、田村さん!」
止めようとした声は、続かなかった。
柔らかく揺れる旋律を、指が光の粒のように転がっていく。ショパンの子守歌、作品57。あの曲だった。教わった覚えもない。楽譜も知らない。それなのに、指は次の音を、その次の音を、迷いなく知っていた。年に1度整えられ続けた調律は、古びることなく、健在だった。長い眠りから覚めた音が、扉を抜け、廊下を渡り、屋敷中に満ちていく。ポンどころではなかった。
だが、ミオはもう止める気にはなれなかった。気がつくと、ミオは涙が伝っていた。どうして泣いているのか、自分でも分からなかった。
24年もの間、沈黙してきた家の中の空気が、その音で震えていた。壁も、窓も、固く閉ざされた扉さえも、久しぶりの旋律に、そっと息を返していくようだった。
その頃、書斎では、書類の上で誠一郎のペンが止まっていた。
ピアノ… ?
聞き間違いだ。そう思った。この家で、ピアノが鳴るはずがない。鳴っていいはずがない。だが、この旋律、この音色… ペンが、書類の上に落ちた。
奥のかよは、手から布が滑り落ちていた。畳を転がる音も、もう耳に入っていなかった。彼女は駆け出していた。
大広間の扉は、開け放たれたままだった。駆けつけた誠一郎の足が、戸口で止まった。若い男の背中。鍵盤の上を舞う指。わずかに傾いた首の角度。それは、遠い昔、あの男の家のリビングで、何度となく見た後ろ姿だった。
「健一郎…
」
かすれたつぶやきは演奏にかき消され、誰の耳にも届かなかった。いや、ミオだけが見ていた。父の唇が、知らない誰かの名前の形に動くのを。
最後の一音が、長い余韻を引いて消えた。金が我に返る。振り向いた先に、蒼白の誠一郎と、両手で口を覆ったまま涙を流すかよが立っていた。誰も動かなかった。
長い沈黙を破ったのは、誠一郎の震える声だった。
「離れろ」
低い声だった。
「その椅子から、離れろ。早く」
金が立ち上がるより早く、誠一郎が大股で部屋を横切った。金の腕を掴み、椅子から引き剥がす。あの雨の日と同じ手だった。だが、込められた力が、まるで違った。
「貴様、誰の許しを得て、このピアノに触れた?」
屋敷が震えるような怒声だった。
「申し訳ありません」
「触るなと言ったはずだ。2度と近づかないと、貴様は約束した。それを… 」
誠一郎にとって、それは誰にも触れさせぬものだった。家族にさえ、指1本。長い年月、誇りの1つも許さず、この大広間の奥に守り続けてきた。その理由を、誰にも語らぬまま。それを、今日、どこの誰とも知れぬ運転手が… 言葉が続かなかった。代わりに、誠一郎の目から、涙が一筋、伝い落ちた。ミオは、見てはいけないものを見た気がした。父は怒っている。全身で怒っているのに、その目からは涙が溢れて止まらない。拭おうともしない。まるで、涙が流れていることに、本人だけが気づいていないかのようだった。
戸口では、かよが座り込んでいた。立っていられなかったのだ。両手で顔を覆い、肩を震わせている。指の隙間から漏れる嗚咽は、悲鳴に近かった。
「やめてよ!私が弾いてって言ったの!この人は悪くない!」
「勝手なことを」
「なんで、そんなに怒るのよ!」
叫んでから、ミオは気づいた。おかしい。何かがおかしい。
「ねえ、どうして泣いてるの?」
誠一郎の肩が揺れた。
「ねえ、何なのよ!このピアノ、何なのよ!」
誰も答えなかった。答えられるものは、この部屋に1人もいなかった。事情を知る2人は言葉を持たず、知らない2人は問いだけを持ち尽くしていた。その中で、金の頭の中は、1つのことでいっぱいだった。
首だ。当然だ。約束を破った。胸にあったのは、ピアノの謎でも、この場の異様さでもなかった。
ばあちゃんに、何て言えばいい。せっかく掴んだ、給料のいい仕事だった。
「申し訳ございません。私が悪いんです」
沈黙を破ったのは、金だった。
「約束を破りました。本当に申し訳ございません。お暇いたします。今日限りで」
一礼して、金は戸口へ向かおうとした。
「待って!」
ミオが、その前に立ちふさがり、父に向き直った。
「お父さん、聞いて。この人はね… 」
「うるさい!」
言葉に被せるような怒声だった。
「誰が何を言おうと同じだ。誰であろうと、このピアノにだけは指1本…
」
「田村さんは、ピアノが怖いの」
「黙れ」
「私も、ピアノの音が苦手なの。子供の頃からずっと!」
「いい加減にしろ」
「だから、2人で弾いてみたら、何か分かるかもしれないって、私が思ったの。私が誘ったのよ!」
親子の怒鳴り合いなど、この家では1度もなかったことだった。金は立ち尽くすしかない。かよは座り込んだまま、2人を見上げることしかできない。
「聞いてよ、お父さん。この人はね、小さい頃に海外で事故にあったの。気がついたら、知らない国の、知らない人の家にいたの。それまでの記憶が、全部ないの。血の繋がらないおばあさんに育てられて、ピアノなんて1度も習ったことがない。それなのに、今、あんな風に弾いたのよ。小さい頃の記憶が、思い出されるかもしれないって… 」
「知ったことか。どこの馬の骨とも知れぬ男が… 」
その声が、不意に止まった。
海外、事故、記憶がない。
嵐で塞がれていた耳に、娘の言葉が1つ、届いた。
「なんだと?」
誠一郎の中で、何かが音を立てて組み替わっていく。まさか… ありえない。そんな…
一歩、また一歩。誠一郎が金に近づいていく。さっきまでの怒りとは違う、何かがその顔にあった。誠一郎の目が、金の全身を辿っていく。髪を、目元を、鼻筋を、肩の線を、そして、さっきまで鍵盤の上を舞っていた、その指の先まで。1つ残らず確かめるように。瞼の裏のあの顔と、目の前の男を重ねては確かめ、確かめては重ねるように。
その、まなざしの必死さに、金は身動き1つできなかった。
「名前は」
「… はい?」
「お前の、名前だ」
「会社に報告されるのか?それも当然だと思った。田村です。田村と申します」
誠一郎の目が、一瞬揺れた。違う。違ったのか。でも、田村… 聞いたこともない姓だ。他人だ。ただの他人の空似だ。そう思い直す心と、そう思いたくない心が、胸の中で攻め合っていた。
その時、声は戸口から届いた。
「下のお名前は?」
かよだった。座り込んだまま顔を覆っていた手を外して、まっすぐに金を見ていた。涙の跡の残る顔で、それでも目だけはそらさなかった。
金は戸惑った。なぜ、そんなことを聞かれるのか、分からなかった。だが、答えないという選択肢はなかった。
「… 金です」
時が止まった。金と書いて、キム。事故の後、名乗れたのはこの名前だけだったと聞いている。育ててくれた人が、そのまま残してくれました。
誠一郎の体が、傾いだ。とっさに伸ばした手が、ピアノの縁を掴む。何十年と、目を向けることすら避けてきたピアノに、誠一郎は今、すがりついていた。かよの口から、言葉にならない声が漏れた。ああ…
。それは泣き声とも、祈りともつかなかった。
金には、わけが分からなかった。名前を告げただけだ。それなのに、目の前で老夫婦が泣き崩れている。俺は、そんなに取り返しのつかないことをしたのか。ピアノに触れたことが、この人たちの大切な何かを壊してしまったのか。詫びる言葉すら、見つからなかった。
ミオは、ついていけなかった。
「え、何?何なの?」
名前を聞いただけで、父は崩れ、母は声を失っている。分からない。おかしい。何ひとつ、意味が分からない。金とミオは、立ち尽くすことしかできなかった。
「金… 」
ピアノにすがったまま、誠一郎は何度も何度も、その名を口にした。もう呼ぶことは一生ないはずの名前だった。
「夢じゃない… 夢じゃないな。現実だな… なあ」
誰にともなく、確かめるように叫ぶ。声は震え、体はもう、すがりついたピアノなしには立っていられなかった。
やがて誠一郎は顔をあげ、かよを見た。長く連れ添った夫婦に、言葉はいらなかった。かよが、涙を拭いもせずに、深く頷く。
「間違いない」
その頷きと共に、涙に濡れた顔から、怒りが消えていた。
「聞いてくれるか」
かすれた声だった。
「いや、聞いてくれ。頼む」
誰も座らなかった椅子と、誰も開けなかった蓋。この家が長い間守り続けてきた沈黙が、今、終わろうとしていた。大広間の椅子に、4人は向かい合って座っていた。誠一郎の話は、24年前の海から始まった。家族ぐるみで出かけた海外への旅。突然の高波に飲まれた船。海に投げ出された、2つの家族。
「私の無二の親友だった、桐健一郎。世界的なピアニストで、ミオのピアノの先生で、そして、私とミオの命の恩人だ」
その名を聞いて、ミオは思い出していた。さっき、父の唇が動いた、あの形。健一郎。あれは、この名前だった。
「健一郎はな、お前が生まれて間もなく、奥さんを…
お前の、母さんを、病でなくしていてな。それからは男手1つで、お前を育てた。夜、お前がぐずるたびに、ピアノの前に座って、あの曲を弾いて聞かせていたよ。母親の代わりにな」
顔も知らない母だった。生まれてすぐに別れたのなら、覚えているはずもない。それでも、毎晩父の奏でる曲が、母のいない自分を慰めてくれていた。そう思うと、知らないはずの温もりが、胸の奥に、ぽっと浮かんだ。自分には、父も母もいたのだ。ほんの少しの間だけ、世界に。
「さっきの曲はな、健一郎の得意曲だった。あの家であの曲が流れ出すと、お前たちは2人してピアノに駆け寄った。そばに自分たちの特等席を拵えて、聞き入って… そのうち決まって、2人とも眠ってしまう」
遠くを見るような目だった。その目尻に、涙が滲み始めていた。
「健一郎は、いつも笑って言っていたよ。『この曲は、この子たちの本当の子守歌だな』って」
言葉が途切れた。24年、誰にも語らずに封じてきた思い出だった。語れば、こうなると分かっていたのだろう。誠一郎は俯き、声を詰まらせた。その横で、かよが服の袖を目に当てた。ピアノの横に並んだ2つの小さな影。もう2度と戻らないはずだった景色が、昨日のことのように蘇っていた。
「お前たち、2人… 」
その言葉に、金とミオは思わず顔を見合わせた。初めて会った気がしなかった、あの感覚。2人とも、何も覚えていない。それなのに、出会うよりずっと前に、出会っていた。
「あの海で、健一郎は真っ先にミオを助けた。自分の息子が、まだ見つかっていないのにだ。ミオを船に押し上げて、それから、戻ってこなかった」
誠一郎の声が震えた。
「最後に、あいつは私を見た。荒れた波の間で、確かに目があったんだ。何か言おうとしていた。声は聞こえなかった。だが、口の動きだけは、今でもはっきり覚えている」
「『息子を頼む』。そう言い残して、沈んでいった」
その一言を背負って、誠一郎は24年を生きてきた。海の底に沈んだ約束を。来る日も来る日も、探しても、探しても、健一郎の息子は見つからなかった。せめて形見のピアノを引き取り、それを弾くことすらできぬまま、守り続けるしかなかった。
金は目を閉じた。顔も声も思い出せない父。その人が、最後に何をしたのかを、今、初めて知った。そういう人だったのか。私の父は。不思議と、悔しさはなかった。ただ、会いたかった。1度でいいから、会って、話がしてみたかった。
ミオの顔から、色が消えた。
「私… を、助けて…
」
「私が生きてるのは、この人のお父さんが… 」
それ以上は、言葉にならなかった。
「事故の直後、ミオ、お前は記憶を失っていた。海に投げ出されたことすら、覚えていなかった。私たちは、何も話さないと決めた。お前に背負わせないためだ」
ミオが、両手で口を覆った。ピアノの音が怖かった理由。あの曲にだけ心が安らぐ理由。何も知らないまま、体だけが全部、覚えていたのだ。
「健一郎の息子も、あの海で消えた。いくら探しても見つからず、見つからないまま、亡くなったことにされた。あのピアノは、健一郎の家にあったものだ。あの家が畳まれる時、私が引き取った。命の恩人の娘に、誰にも指1本、触れさせたくなかった。触れていいのは、この世でただ1人。健一郎の息子だけだと、そう決めていた」
誠一郎の声が、震えた。
「その、ただ1人が、今、目の前に座っている。私には、もう、そうとしか思えん」
金は、言葉が出なかった。父。ピアニスト。命の恩人。形見。どの言葉も、まだ自分のものにならない。物心ついた時から、自分には過去がなかった。生まれた場所も、本当の名前も、親の顔も。何ひとつ持たないまま、それでいいと思って生きてきた。持っていないものは仕方がない。欲しがったところで意味がない。そう、自分に言い聞かせてきた。
それが今、一度に手渡されようとしている。父がいた。名前があった。自分は、どこの誰かの、大切な息子だった。
胸の奥が、ぐらぐらと揺れた。嬉しいのか、怖いのか、それすらも分からない。ただ、鍵盤に触れた瞬間のあの温かさ。教わってもいないのに動いた指。夢の中で、小さな手に重なっていた大きな手。バラバラだったものが、1つずつ、音を立てて繋がっていく。そして、繋がった先で、1つの事実が金を待っていた。
その父には、もう2度と会えないのだ。
「私の… 父… 」
「もし私たちの思っている通りならば、お前の父は、桐健一郎。私とミオの、命の恩人だ」
誠一郎は立ち上がり、背筋を伸ばした。そして、金に向かって、深く、深く、頭を下げた。
「すまなかった。あれは、最初から、お前のピアノだった」
「いえ…
」
いつもの短い返事しか出てこなかった。だが、その声は、震えていた。
後日、調査は静かに進められた。24年前の事故の記録。海の向こうで保護された、身元の分からない幼子の記録。その子を引き取った養護施設の書類。そして、たった1つの名前、金。全てが、1本の線で繋がった。書類の上で亡くなっていた桐流金は、書類の上でも、生き返った。積み上がった記録の束は、あの日の確信を、しっかりと支えた。
全てが書類の上でも確かめられた最初の日曜日。金とミオは、大広間に呼ばれた。かよが、ピアノの前に立っていた。手には、あの白い布があった。
「ずっと不思議だったでしょう。私が、毎日これを磨いていたわけ」
かよは布を胸に抱いたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「年に1度、調律師さんに来てもらっていたのもね。日が決まっていたの。健一郎さんの、命日」
ミオが息を飲んだ。
「あなたは、書類の上では亡くなったことにされていた。でもね、私たちは1度だって信じなかった。あの海で、健一郎さんが命に変えて守ろうとしたものが、消えてしまうはずがないって。あの子は生きてる。いつか、きっと帰ってくる。帰ってきたその日に、すぐに弾けるように。だって、これは、あの子のピアノだもの。誇り1つ、曇らせてはいけなかったの」
磨くことは、待つことだった。誰も弾かないピアノを毎日磨き、年に1度、曇りのない音に整え続ける。それは、形見を守る作業ではなく、帰ってくる息子を迎えるための、24年間の支度だった。
金は、何も言えなかった。ただ、閉じた蓋の上に手を置いた。毎朝、この場所を、この人の手が往復していた。自分が、どこかの空の下で生きていた。その、全部の朝に。俺を待ってくれる人が、ここにもいたのか。消えたはずの自分なのに、この家で、毎日、帰りを待ってくれていた。
後日、誠一郎とかよは、金の育った古いアパートを尋ねた。狭い玄関先で、2人は床に手をつくように、深く頭を下げた。
「あなたが育ててくださったのは、私たちの恩人の忘れ形見です。ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
よし子は、しばらくあっけにとられていた。それから、いつもの調子で笑った。
「難しいことは分かりませんよ。私は、ただ、この子を生かしたかっただけだねえ。金」
「うん」
金は、頭を下げ続ける老夫婦と、あっけらかんとしているよし子を、交互に見ていた。この人は、何ひとつ見返りを求めなかった。世界的ピアニストの子だと知って引き取ったわけではない。ただ、居場所のない小さな子を、放っておけなかった。この人は、ただ愛しただけだった。血の繋がらない、この小さな手が、自分をここまで育ててくれた。実の父を知った今も、その温もりは、少しも褪せない。
金は今も、橋谷川家の専属運転手を続けている。誠一郎の会社で働かないかとの打診もあったが、しばらくは今のままがいいと断った。あれから、少しだけ変わったことがある。後部座席の誠一郎が、よく喋るようになった。口数の少ない運転手は、相変わらず「はい」としか返さないが、ミラーの中の目は、前より柔らかい。
そして、次の命日が来た。今年も調律師がピアノの音を整えた。だが今年は、それで終わりではなかった。大広間のピアノの真横に、椅子が4つ並べられた。誠一郎、かよ、ミオ、そしてよし子。あの日の特等席だった。
金が鍵盤に手を置く。旋律が、揺れ始める。ショパンの子守歌。24年間、この家で1番悲しかった場所に、1番温かい音が満ちていく。
誠一郎は目を閉じていた。かよは微笑んだまま、泣いていた。ミオは隣で聞きながら、幼い日の自分を探していた。何も思い出せない。それでも、この音に包まれていると、体の芯だけが、覚えている気がした。あれほど怖かったピアノの音。その正体が、こんなに優しいものだったなんて。
窓から差し込む午後の光が、4つ並んだ椅子と、鍵盤を撫でる金の指を照らしている。かつて健一郎の傍らにあった、あの特等席。24年の時を超えて、同じ席に、同じ旋律が流れていた。
よし子は目を丸くしたまま、遠い日のことを思い出していた。商店街の駄菓子屋の前で、足を止めたまま動かなくなった小さな金。欲しいのかい、と聞いても、こわい、と首を振った子。買ってやれる当てもなかった、その子が、今、こんなに大きなピアノを、こんなに綺麗に弾いている。
「人生、何があるか分からんもんだね」
目尻の奥で、涙が光っていた。
「いやあ、大したもんだ」
「こうなると、うちにもピアノが要るかね」
「あの狭い部屋のどこに置くんだか」
小さな笑いが、部屋にこぼれた。24年ぶりに音の戻った大広間に、今度は笑い声が満ちた。
「ピアノなら、ここにある。金で、これからもここへ弾きに来てくれるか?」
「はい」
褒められても、詰られても、いつも首を振ってきた男が、初めてまっすぐに「はい」と答えた。
ピアノに触るなと怒鳴った男が、今、目を閉じて、至福にも近い特等席で、その音を聞いている。
誰も弾かなかったピアノは、今、この家で、毎日のようになっている。その音が鳴るたび、かよの1日は明るくなり、ミオは少しずつ、ピアノが好きになっていく。誠一郎が背負ってきたものが、1つ、また1つと、降りていく。
24年、悲しみを守り続けた黒いピアノは、これからは、この家の幸せを鳴らしていく。


