「おい、このガキ誰だ?」 –…

「おい、このガキ誰だ?」 –...

「おい、このガキ誰だ?」

6年ぶりに玄関を開けた夫・拓也は、私の後ろに立つ娘を見てそう言った。足元には大きなスーツケース、手には白い封筒が握られている。水希の肩が跳ねた。

私は娘を背中にかばい、拓也を見上げた。

「この子は水希。あなたの娘よ」

拓也の手から封筒が滑り落ちた。中から離婚届けがのぞいた。

「は? 俺の娘? お前、海外へ行った後に生まれたの。どうして何も言わなかったんだよ」

私は静かに答えた。

「6年前、大事な話があるって言ったでしょう」

私の名前は藤井まゆみ。44歳。物流会社の経理部で働きながら、5歳の娘と2人で暮らしている。あの日私が伝えようとしたことを、拓也は最後まで聞かなかった。

6年前の日曜日。拓也には海外赴任の辞令が来ていて、まだ返事はしていなかった。ベランダで棚にペンキを塗った拓也は、作業着を私の下着と一緒に洗濯機へ放り込んだ。買ったばかりの白い下着に、青い色がにじんでいた。

「どうして一緒に洗ったの?」

「そのくらいまた買えばいいだろう」

「そういう話じゃないの。洗う前に一言聞いてほしかっただけ」

拓也は濡れた作業着を洗濯機の上へ投げた。

「朝から細かいことばかり言うなよ。家にいても息が詰まる」

その頃、私の生理は10日も遅れていた。検査薬は陽性で、翌日に病院を予約していた。

「拓也、大事な話があるの」

拓也は私を見なかった。

「お前の話はもういい」

その日の午後、拓也は私に相談せずに海外赴任を受けると会社へ連絡した。赴任者が急に帰国することになり、出発は3日後に決まった。

夜、もう1度だけ言った。

「明日、病院へ行くの?」

「帰国してから聞く」

「いつ帰ってくるの?」

「まだ分からない。仕事なんだから仕方ないだろう」

拓也は最後まで、私が何のために病院へ行くのかを尋ねなかった。

翌朝、スーツケースも靴も消えていた。食卓には「行ってくる」とだけ書かれたメモが置かれていた。

病院で、妊娠6週目だと言われた。小さな画面で点滅する光を見ながら、私は診察室の待合室を何度も見た。

出国して3日後、国際電話をかけた。

「今、話せる?」

「鬱陶しいな。用があるなら母さんに言ってくれ」

口を開く前に切れた。その後は何度かけても繋がらなかった。会社へ折り返しを頼んでも返事はなかった。

私は母子手帳を前に置き、義母の比佐子さんへ電話した。

「お母さん、私、妊娠しています。拓也さんの子です」

電話の向こうが静かになった。

「そう、分かったわ。私から話しておく」

3ヶ月待っても、拓也からの連絡はなかった。もう一度、比佐子さんへかけた。

「拓也さんに伝えていただけましたか?」

ため息が聞こえた。

「あの子には向こうで新しい人がいるの。もう関わらないでちょうだい」

「新しい人って、どういうことですか?」

「あなたといたら仕事に集中できないって言っていたわ。今更、子供の話で帰国させるつもり?」

「本当に妊娠しているんです。病院にも行きました」

「私は何も伝えていないわ。あの子の邪魔をしないで」

電話は切れた。私は母子手帳を抱えたまま台所の床に座り込んだ。その夜、声を殺して泣いた。お腹に手を当てても、1人で産んで1人で育てる覚悟はすぐには持てなかった。

翌日、上司へ妊娠を伝え、時短復帰の相談をした。待っていても決まらないことばかりが増えていく。私は自分とお腹の子の生活を、先に決めることにした。

お腹が大きくなるにつれ、買い物袋を下げて階段を上がるだけで息が切れた。健診の度に、夫の連絡先と出産時の付き添いを聞かれた。「海外赴任中です」とだけ答えた。母親学級では、みんな夫と並んで沐浴の練習をしていた。私は看護師さんに人形を渡され、1人で腕の角度を直された。

陣痛が始まった夜は、自分で病院へ電話し、入院鞄を抱えてタクシーに乗った。分娩室の外に家族の姿はなかった。それでも水希の鳴き声を聞いた瞬間、この子と生きていくと決めた。

退院の日、看護師さんに言われた。

「ご家族のお迎えは…いませんね。タクシーを呼びます」

水希を抱き、入院鞄と紙おむつの袋を1人で車へ積んだ。家に帰ってからは、2時間おきに起きてミルクを作った。洗濯物を干している途中で鳴き声が聞こえれば、濡れた服を置いて部屋へ戻った。

生後8ヶ月で高熱が出た夜は、1人で水希を抱いて救急外来へ走った。受付の用紙には父親の連絡先を書く欄があり、もう繋がらない番号を書いた。水希が眠った後、枕に顔を埋めて泣いた夜もある。それでも朝になればおむつを変え、保育園の申請書を書いた。

生活費も家賃も、私の給与と貯金で払った。拓也からの入金は1度もなかった。

育児休業を終え、私は以前と同じ経理部へ戻った。保育園から呼び出しが来る度、周りへ頭を下げた。残業ができない分、娘が眠った後に会計の勉強を続けた。朝は誰より早く出社し、その日の処理を先に片付けた。半年後には、休業前に担当していた取引先をまた任されるようになった。

月末に水希が熱を出した日、同僚の三浦君が私の机から伝票を引き寄せた。

「今日の締めは俺がやる。来月、俺が困った時に返してくれ」

「でも、三浦君も忙しいでしょう」

「じゃあ、貸しにしておく。早く迎えに行ってあげて」

翌週、私は三浦君の集計を引き受けた。助けられるだけでなく、私も誰かを助けられる。その関係がありがたかった。

保育園の父の日、水希は白い画用紙を持ち帰った。パパの顔が分からなかった。写真を見せようとすると、水希は首を振った。

「写真じゃなくて、本物のパパに会いたい」

私は抱きしめることしかできなかった。

4歳の運動会で、水希は転んでも自分で立ち、最後まで走り切った。帰り道で「ママが見てたから平気だった」と言った。その夜、玄関に残していた拓也の靴を捨てた。それからは、水希と私の予定だけをカレンダーに書いた。

翌年、私は経理部の主任になった。勤務時間は変えず、後輩の確認と月締めを任される役目だった。夫に置いていかれた生活ではなく、水希と私が自分たちで築いた生活になっていた。

そして今、6年ぶりに帰った拓也が、離婚届けを持って私の前に立っている。

「もう何年も夫婦らしい生活はしてないだろう。戸籍だけ夫婦でいても仕方ない」

「そうだね」

私が離婚届けへ手を伸ばすと、拓也は水希をもう1度見た。

「なあ、本当に俺の子なんだよな」

私は立ち上がり、押し入れから箱を出してテーブルへ置いた。

まず母子手帳。表紙の交付日は、拓也が出国した2週間後だった。

「あなたが病院へ行くのかと1度も聞かなかった、あの翌日の日付よ」

次に通話履歴を印刷した紙の束。拓也の番号が並び、通話時間はどれも数十秒だ。

「これが出国して3日後。これが1週間後。ここから先はもう呼び出し音もならなくなった。会社へ折り返しをお願いしたのがこの日」

そして病院の領収書の束。水希が高熱を出した夜のものには、深夜の時刻が印字されている。

「この日、私は1人で水希を抱いて走ったの」

保育園の連絡帳を開く。父の欄は6年間空白のままだった。入園式の写真、運動会の写真。そのどこにも拓也はいない。

拓也は写真を1枚も手に取らなかった。ただテーブルの上に並んでいく紙を目で追っていた。

「疑うなら検査をすればいい。でもその前に、確認する相手がいるでしょ」

拓也は比佐子さんへ電話した。

「母さん、まゆみが妊娠してたって知ってたのか?」

慌てた声が漏れた。

「あの時は嘘だと思ったのよ。あなたを帰国させたいだけだって」

「どうして俺に確認しなかったんだ」

「あなたが言ったんでしょ? まゆみさんからの連絡は取り継がなくていい。仕事に集中したいって」

拓也は電話を切り、両手で頭を抱えた。

「母さんが黙ってたせいで、俺は何も知らなかった」

「お母さんは隠した。でも、私の話を聞かなかったのはあなた。連絡を絶ったのも、6年間1度も帰らなかったのもあなたよ」

「それは、仕事が…」

「6年あれば、1度は帰れたはずでしょ」

拓也は顔をあげられなかった。壁には水希の背丈を測った線が5本残っている。棚には入園式と運動会の写真が並んでいる。この家の6年に、拓也の居場所はなかった。

やがて拓也は身を乗り出した。

「離婚の話は一旦忘れよう。今からでも父親になれる。3人でやり直さないか?」

「新しい人はどうするの?」

拓也の表情が固まった。

「何の話だ?」

「6年前、お母さんに言われたの。拓也には新しい人がいるから、もう関わるなって」

「それは母さんが勝手に言ってるだけだ」

「その人と一緒になるために、離婚届けを持ってきたんでしょう」

拓也は答えられなかった。

「私たちのために離婚をやめるんじゃない。娘がいたと知って、急に惜しくなっただけよ」

5日後、拓也はまた来た。

「彼女とは別れてきた。向こうへ戻るつもりもない」

「離婚届けを持ってきた5日前までは、その人と暮らすつもりだったのよね」

拓也は目を伏せた。

「間違っていた。娘を見て、俺が何を捨てたのかやっと分かった」

「水希がいなかったら、その人と暮らしていたんでしょ」

拓也は黙って頷いた。

「そうだな。だから今更信じてもらえないのも分かってる。それでも、もう1度だけ向き合いたい」

拓也は私の後ろにいる水希を見た。

「水希、お父さんだよ。これからはお父さんって呼んでくれないか?」

水希は私の手を強く握った。

「呼ばない。あなたは私のパパじゃない」

拓也の顔が歪んだ。

「これからは2人の話をちゃんと聞く。だから、もう一度だけチャンスをくれ」

その言葉をもっと早く聞きたかった。本当にそう思った。あの洗濯機の前で聞いてくれていたら、水希が生まれた日にそばにいてくれたら、違う家族になれていたかもしれない。けれど、私は抱っこを変わってほしかった夜も、1人で病院の廊下を歩いた朝も忘れていない。水希が父親の絵を描けずに白い画用紙を持ち帰った日の顔も忘れられない。

私は離婚届けを封筒へ戻し、鞄へしまった。

「離婚には同意する。この届けは弁護士へ預けるわ。養育費と慰謝料を決めてから出す」

「まゆみ、俺は2人とやり直したいんだ」

「もう遅いの。さよなら」

私は扉を閉めた。廊下の足音が遠ざかるまで、鍵に手を置いたまま立っていた。

その後、拓也が不倫を認めたため、弁護士を通して慰謝料と養育費を取り決め、離婚が成立した。拓也は海外勤務を終え、国内の営業所へ戻ったと聞いた。比佐子さんからも1度だけ、孫に合わせてほしいと連絡が来た。水希にとってその人は、顔も知らない人だった。私は断った。息子に嘘をつき、孫の誕生を6年間なかったことにした人に、合わせる理由が見つからなかった。

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