結婚3周年のハワイ旅行。私は心から楽しみにしていた。夫と二人で過ごす、年に一度の特別な時間。
「母さんも行くから。」
夕食の席で、夫が何気なく言った言葉に、私は箸を止めた。
「え、なんで?私たち、新婚旅行以来毎年行ってるじゃん。」
「そうなんだけど…母さんが、二人だけでずるいって言って泣いちゃってさ。『私も行きたい』って。」
「お母さんって、犬か鳥なの?嘘泣きに決まってるでしょ。」
「ひどいな。俺の母さんを嘘つきみたいに言うなよ。あの人、本気で泣くときもあるんだから。」
思い出した。以前、足の骨が折れたからすぐに来いと呼ばれて、仕事をほったらかして飛んでいったら、ただの捻挫だったこと。顔を見たいがために、私に洗い物と風呂掃除までさせる。それが義母の愛情表現らしい。
「そんな愛情、いらないけどね。」
「親孝行だと思ってさ、いいだろ?親孝行はできるうちにしておくべきだよ。」
「確かに、それはそうかもしれないけど…。」
「ありがとう、さすがレナ。母さんにとっては、最初で最後のハワイ旅行になるかもしれないんだ。きっと喜ぶよ。」
私は仕方なく頷いた。
「いいわよ。でも、もちろん部屋は別よね?」
「当たり前じゃん。ありがとな。手配は全部俺に任せて。」
私は素直に「お願いね」と返事をした。この時はまだ、これから起こることを知る由もなかった。
旅行前日。
「レナ、体調悪いだろ?今朝の顔色、土みたいな色してたし。明日は家でゆっくりしてた方がいいよ。」
「はあ?めちゃくちゃ元気だけど。せっかくのハワイなんだから、顔が何色だろうが行くわよ。」
「分かった。…正直に言う。今回は、遠慮してほしい。」
「何それ?前日に言うこと?」
「母さんがどうしても、二人で行きたいって言うんだ。」
「チケットはどうすんのよ。直前キャンセルだと手数料結構かかるでしょ。」
「…チケットは、2枚しかない。」
「最初から2枚しか取ってなかったの?最初から、私を騙すつもりだったの?」
「いや、3人分取ろうとは思ってた。ただ、決済画面でその高さに、恐怖を感じちゃってさ。でも、3人でケチケチ行くより、浮いたお金で少しでも親孝行してあげたいじゃないか。」
「あなたと結婚して3年経つけど、そんなに親孝行したい人だとは知らなかったわ。」
「目覚めたんだ。親へ恩を返すということにさ。悪いな。そういうわけで留守番頼む。」
私は、怒りで声が震えるのを感じながら言った。
「いいわよ。その代わり、ここで永遠にさよならするけど、大丈夫?」
「な、なんで?」
「妻との約束を破るから。」
「だからそれは親孝行のためで…。」
「それを免罪符にするの、やめてくれない?妻を犠牲にしてまでする親孝行が、正しいわけないでしょ。この先の長い人生を歩いていくのは、私たち二人なんだよ。」
「でも母さんとの時間は短い…。」
「そうね。だから私は、一緒に行くことを許可したの。なのに、気がついたら私だけ省かれてる。それはおかしいよ。」
「今回が最後だからな。悪かった。お土産、いっぱい買ってくるからさ。」
私は、もう何も言えなかった。どうせチケットはないのだ。ごねたところで無駄だと分かっていた。
翌日。
義母の家を訪ねた。スーツケースを抱えて、意気揚々と出発する準備をしている義母に、私は笑顔で言った。
「お母さん、ハワイ楽しんできてくださいね。怪我のないよう祈ってます。」
「はあ?何の話よ。」
「とぼけても無駄ですよ。私が引き下がったおかげでハワイに行けるんですから、感謝してください。」
「あんた、何言ってるの?年寄りをからかうなんて、趣味が悪いわよ。」
「今更、知らん顔する必要はありません。念願のハワイなんですから、堂々と言ってください。」
「私は家でワイドショーを見てるの。邪魔しないで。」
「本気で言ってます。」
「当たり前じゃない。こんな嘘をつく理由がないわ。」
その時の義母の顔は、完全に本気で、嘘をついているようには見えなかった。私は混乱した。
「ですよね…。ハワイに行くことを、今更私に隠す意味も分からないし…。」
「意味の分からないことばっかり言わないでちょうだい。そんなこと言ってる暇があるなら、うちの草むしりでもしてほしいくらいよ。」
「…分かりました。行きます。所持品確認のためにお伺いします。草むしりでも、風呂掃除でもしますよ。予定がなくなって、暇なので。」
「あら、そう。助かるわ。なんか買ってきて。」
数時間後。草むしりを終えて腰を伸ばすと、私はスマホを取り出した。
「マイク、助けて。腰が痛い。」
「アロハ。お侍のご来訪かと思いましたが…成功員ではありませんね。…は、マジ?どうした、その声。何があった?」
義母の庭の草むしりをしたことを話すと、マイクは呆れたように言った。
「また気使われたのか?断れよ。」
「いや、今回は自分で飛び込んだっていうか…。義母がハワイに行くから、今回は我慢してほしいって夫に言われて。親孝行じゃん?」
「そう思うだろ?私もそうだった。…でも、義母は日本にいるの。」
「は?どういうことだ?夫が嘘をついてるってことか?」
「…一人で行ったのかな?」
「わけないでしょう。」
そこで、マイクの声が楽しげに変わる。訳ありで日本全国を渡り歩きながら人にちょっかいを出して回っている、レナの父の弟子であり私の理解者でもある、変わり者のマイク。
「レナの親父さんには迷惑の極意を教わって世話になった身だ。その娘へのためなら、何でもするぜ。」
「え、いや、さすがにハワイまで飛べとは言わないよ。…って、僕、今ハワイにいるんだよね。」
「は?マジ?日本全国旅して人に嫌がらせして回ってるんじゃなかったっけ?」
「人聞きの悪いこと言うなよ。木が2つくらい多いな。木に触れないギリギリのラインでストレスを与えるだけのボランティアだ。最近は探偵も始めたんだ。今回は友達のウェディングでハワイに来てるのさ。」
「そうだったね…。じゃあ、夫のいるホテルを教えるから、ちょっと見てきてくれる?」
数時間後。
マイクからの報告は、私の予想をはっきり裏切るものだった。
「女と、いたよ。」
「はあ…。分かりきってたことじゃん。…数%の希望くらいは持ってたわよ。」
「プールサイドでイチャイチャしてた。」
「おちょくらないで。これでも一応、ショックは受けてるんだからさ。」
「人生はひつまぶしと同じだよ。」
「何それ?」
「途中から薬味とかお出汁を入れて、味を変えるだろ?味変は自分で決められる。レナにとって、今が味変の時なのさ。」
「分かるような、分からないような…。父が師匠なのに、その言葉聞いたことないわ。」
マイクは笑った。
「僕はひつまぶしのように生きたい。レナもそうしろ。」
「まあ、そうかもしれないね。」
私の口調が変わったのを感じてか、マイクが言う。
「てなわけで、あいつにお出汁をぶっかけてやろうぜ。任せてな。悪いようにはしない。」
「…何をするつもり?」
翌日。夫に電話をかけた。
「ハワイ、どう楽しんでる?もちろん、お母さんも大喜びでしょ?」
「ああ、最高だよ!」
「頭、悪すぎない?」
「あ、私、昨日あなたの実家に行ったんだけど…。」
「え、なんで?」
「そんなことはどうでもいいの。とにかく、お母さんはハワイのことなんて知らなかったし、今も日本にいる。」
「あー、それはね、色々あって…。いざとなったら、外国行くの怖いって言い出したんだ。」
「え?でも、お母さんは言ってたわよ。『ハワイに行ってみたいわ』って。」
「心の準備ができたら、ってことじゃないかな。」
「もう、全部わかってるから。正直に言って。」
「誰と、言ってるんだよ。」
「実は一人なんだろ?」
「嘘だよ。なんでそんなに自信ありげなんだよ。」
「だって、全部見てるから。プールサイドで女性とイチャイチャしてるお前。私と来た時よりいいホテルに泊まってるお前。ブランド品を買ってあげて満足げなお前。全部、見た。」
「いや、ちょっと待て…。まさか、レナもハワイに来てるのか?」
「だったら、どうする?」
「どこだ?出てこい!」
「嫌だね。」
「これは誤解だ!現地でちょっと仲良くなっただけっていうか…。」
「それはそれで問題でしょ。一緒にいた女が誰かなんて、知ってるの?私、全部調べたから。」
「…俺のこと、信じてくれないんだな。」
「信じない私が悪いみたいに言わないで。信じてもらえない自分が悪いんでしょ。…とにかく、帰ってきて話しましょう。」
「今はお互い、ハワイを楽しめばいいじゃないか。」
「そうね。…そうするわ。」
「よかった。分かってくれて。」
「楽しめるといいわね。」
「なんか、怖いな…。」
電話を切った後、私はマイクに連絡をした。
「マイク、証拠ありがとう。おかげで優位に立てたわ。夫は、なぜか私もハワイにいると思い込んでるみたい。…いい作戦だと思う。その線で行こう。」
「どういうことだ?何を企んでるんだ?」
「夫から連絡が来るまで、実家でジッとしているわ。そこで、全てが分かるはずよ。」
翌日。
夫から、慌てた電話がかかってきた。
「お前の仕業か?いや、違うな。いくらレナでも、そこまでの力はないか…。」
「何?どうしたの?」
「予約してたレストランもアクティビティも、全部キャンセルになってしまったんだ。現地の知らない人に早口の英語で怒られたり、警察に5回も通報されたり…。もう、意味が分からないんだよ。」
「すごい。何かしたの?」
「俺が浮気してると思って、嫌がらせしてるんだろ?お前しかいない!」
「何もしてないわよ。」
「じゃあ、なんでこんなに災難が続くんだ?」
「そうね…。おまけに、一緒に来た彼女は、現地のイケメンにナンパされて、ついてっちゃったんでしょ?」
「なんで知ってんだよ!…あー、もういい。そうだよ。浮気してたよ。」
「開き直らないでよ。」
「だって、しょうがないだろ!おねだりされて、断れなかったんだから。」
「私たち、約束したよね。毎年ハワイに来れるように、お互い仕事頑張ろうって。子供が生まれたら、その子たちも連れてこようって。」
「そのうちの1回くらい、別にいいだろ。」
「よくないでしょ。…ごめんね、あなたとお母さんがうまくいってなかったのは分かってた。何度も嘘つかれたし、人使いも荒かった。でも、あなたのお母さんならって思って、今回の旅行をOKしたの。赤の他人の女のためにお金を貯めてきたわけじゃない。」
「分かった。俺が全部悪い。」
「当然でしょ。…ハワイにいるんだろ?合流しないか?」
「いないわよ。そんなお金、あるわけないじゃん。」
「え?昨日、いるって言ってなかった?」
「あなたが勝手に勘違いしただけでしょ。」
「じゃあ、この災難は誰の仕業なんだよ…!」
「知らないけど。あり得るとしたら、神様じゃない?お天道様は、見てるってことよ。」
「…一人でこんなところにいても暇だ。帰国する。」
「それはいいけど、今まで通りだと思わないでね。」
「分かってる。もう二度と浮気なんてしないし、生まれ変わるから。好きにしてください。」
数分後。再びマイクと合流した私は、怒りが治まらなかった。
「マイク、何もかもキャンセルって、どういうこと?もっと酷くしてよ。」
「まあ、仕置きというか、僕の取扱説明書みたいなものだな。ようこそ、地獄の始まりへ。」
「…僕のセリフを取るなよ。彼女までイケメンに奪われたらしいじゃないか。簡単に乗り換えてたよ。もう心が折れたから帰国するって言ってた。」
「なんだ、甘いね。まだまだ追い込むよ。僕の大事なレナを泣かせるような奴は、徹底的にコテンパンにしてやる。」
私は、夫の実家に電話をかけた。義母に出た瞬間、私は声を潜めて切り出した。
「お母さん、先日は愛想も変わらずコキ使っていただき、ありがとうございました。おかげで腰痛で3日も苦しみました。」
「どういたしまして。まだ草、残ってたけどね。お礼より先に文句とは、さすがでございます。それで、何の用なのよ?」
「先日、私が連絡した際に言ったことを覚えてますか?」
「ああ、ハワイがなんとかって言ってたわね。ついに頭がおかしくなったのかと思ったわ。」
「元気さんは、私に『お母さんをハワイに連れて行く』と言ったんです。」
「え?本当?嬉しいわ!」
「しかし、実際は…別の女を連れて行きました。」
「は?それ、本当なの?」
「はい。私の友人が偶然ハワイにいて、証拠もあります。許せないです。」
「なんだって!あの野郎…!」
「私、何度も言ったんです。『お母さんも一緒にハワイに連れて行ってね』って。彼も、『いいよ、必ず連れていくよ』って言ってくれたのに…。」
「…そう、ですか。」
「なのに、妻でもない、見知らぬ女を連れてったって…。最低でしょ?ゴミクズです。」
「…で、帰国はいつなの?」
「『明日には帰ろうかな』とか言ってましたけど、どうなるか分かりません。チケットの手配次第かと。」
「私が知ってることは、黙っててちょうだい。そして、あの野郎に伝えて。帰国したら、すぐにうちに来るようにって。」
「分かりました。」
「…1つだけ言っておくわ。私は、お母さんにハワイ旅行を譲ったんですよ。結果的に騙されましたけど、親孝行ならいいと思って、最後は折れたんです。」
義母は、少し間を置いて、優しい声で言った。
「分かってるわよ。あんたは、いい嫁よ。…今まで厳しくしたのは、接し方が分からなかっただけ。嫌いになってくれたら、その方が楽だと思ったの。」
「…それ、本当ですか?」
「でも、あんたは私が呼んだら断らないし、悪態つきながらも、なんだかんだやってくれるし。心の中では、感心してたのよ。」
「…私だって、好きな人のお母さんだから、できることはしようと思ってました。今よりももっと、仲良くなれたらって思ってたんです。」
「そうなの?…私は、よくムカつくことの方が多かったけど。無駄な時間を過ごしちゃったわね。」
「はい。そうですね。」
「よし。今日からは、どうしようかしら。クズの討伐作戦を組みましょう。」
「面白そうですね。さあ、どう料理してやりましょうか。」
3日後。空港で落ち合った夫は、ボロボロだった。
「チケットが取れなくてさ。結局、最終日までいることになったんだけど、マジ最悪だったわ。」
「一応聞いてあげるけど、何があったのよ?」
「部屋のカードキーが毎回、時期不良を起こすんだ。その度にフロントまで降りてって、何度も繰り返した。」
「きついね。」
「あと、写真を撮るたびに、謎のアメリカ人が映り込むし。シャワーは、何度フロントに行っても、水しか出ないし。」
「大変だったね。」
「極めつけは、最後の飛行機だ。200キロ以上ありそうな男が隣の席でさ。ずっと肩が密着してて、汗だらけだったんだ。」
「お疲れ様。…ああ、久しぶりに和食が食べたいな。何か作ってくれる?」
「あ、そうだと思って。お母さんが待ってるみたい。」
「え、マジで?」
「あなたの大好物ばかり用意してくれてるみたいよ。」
「嬉しいな!じゃあ、実家に寄って帰るわ。」
「うん。楽しんできて。」
5時間後。夫は義母の家で説教を受けていた。実家に帰ったら和食どころか、水1杯すら出てこず、4時間座りっぱなしで親子の縁切り騒動まで言われたらしい。
「終わった…。」
「何が?」
「なんで母さんに全部言っちゃうんだよ!」
「事実しか伝えてないけど。」
「実家に帰ったら和食なんて影も形もなく、水も一杯出てこず、4時間説教だったんだぞ!俺がハワイに行ったことの恨みを延々と言われた。『いつか連れて行く』って言ったけど、『親子の縁は切る』って聞かないんだ。どうしてくれんだよ。」
「まあ、お前が悪いよね。母さんが傷つくって分かってて言ったお前が悪いでしょ。浮気した自分が悪いんじゃない?私とお母さんの何が悪いのか、現行犯1枚にまとめて提出していただけます?」
「それは嘘だろ!」
「しれっと連絡してきてるけど、私はあんたと離婚する気でいるからね。」
「なんで?逆に、なんでそのまま続けられると思ったの?俺はずっと一人で…。」
「知るか。私たちに嘘をついたことが問題なの。裏切ったのは、自分でしょ?」
「ごめんなさい…。」
「そんな軽い謝罪はいらないわ。」
「頼むよ。許してくれって。」
「浮気相手の素性も、全部把握したから。会社の近くにある、ガールズバーの店員なんだってね。なんで私が知ってるかって?探偵さんに調べてもらったのよ。」
「嘘だろ…。」
その日から、夫の数奇な運命が始まる。身に覚えのない不運、義母の勘当、そして、浮気相手のミクの本性が次々と明らかになった。
数日後、夫は別の女性・三玖との子供ができたと騒ぎ始めた。鑑定の末、DNAは自分の子だと判明。レナへの未練を断ち切れないまま、彼は離婚届にサインをした。
慰謝料は500万円。ミクには200万円の請求。裁判を避けるため、彼はミクの両親から借金をして支払った。残ったのは、多額の借金と、外国人だらけの薄い壁のアパートでの孤独な日々だけだった。
一方、レナと義母は抱き合って泣いた。そして、数週間後。
「本当にありがとう。マイク。色々と。」
「どういたしまして。離婚、できたかい?」
「最後の最後までごねたけど、弁護士同士でどうにか判を押させたわ。」
「お疲れさま。…なあ、ハワイのお土産、何がいい?」
「別にいいわよ。」
「離婚祝いだ。」
「何それ。離婚は、お祝い事じゃないでしょ?」
「めでたいじゃないか。あんなクズと縁が切れて、新しい出会いのチャンスが待ってるんだから。」
「まあ、確かにそうかもね…。マイクのおかげだよ。本当に。」
そうして、私の新しい人生が始まった。私はこれから、自分のために生きていく。いつかまた、あのハワイの海を、自分の脚で見に行くつもりだ。
お天道様は、いつだって見ている。あの日、ハワイの海で誓った約束を、私は決して忘れない。



