「役立たずは来なくていいですよ。重要会議に地味な女なんて間違いですし」
車内に足を踏み入れようとしたその瞬間、営業本部長の手が私の胸元を突き飛ばした。よろめいてホームに押し戻され、目の前で新幹線の扉が静かに閉まり始める。
「みな瀬さん、会社で雑用でもしててくださいね」
扉が完全に閉まった。ガラスの向こうで、私が3年間かけて開発した治療薬の資料とサンプルを抱えた同期の女が、勝ち誇った笑顔を見せている。二人は腹を抱えて笑っていた。
数時間後、関西の立花製薬本社の会議室で、大手取引先の社長の一言が空気を凍りつかせた。
「では、御社とは契約終了で」
社長は全てを見抜いていた。翌日、彼らを待っていたのは想像を絶する地獄の幕開けだった。
全ては、あの日の一つの約束から始まった。
朝の都心。見慣れたオフィス街の角を、一台の黒いセダンが静かに滑り出した。後部座席で運転手に穏やかに告げた男の名は、立花誠治、54歳。立花製薬株式会社の社長であり、業界最大手として知られる創業家三代目だ。
「今日は東都病院によってからにしてくれ」
「かしこまりました」
スーツの襟元は擦り切れ、20年以上連れている古い腕時計。派手な装飾品も、運転手以外の供も連れていない。
「社長、毎月立木に通われますね」
「ああ、友人との約束だ。月に一度くらい顔を見せないとな」
病院通いはもう何年も続いている。亡き友との約束を、誠治は一度として欠かしたことがなかった。到着すると誠治は受付に丁寧に頭を下げ、何度も通った病室へ向かった。
「み瀬さんのお見舞いですね。病室の方へどうぞ」
看護師に軽く会釈し、病室の前で立ち止まる。胸の奥に、いつも同じ感覚が満ちる。古い約束をまだ果たしていない。その思いが誠治の足を毎月ここへ運ばせていた。
ノックに応えるように、ベッドから細い声が返ってきた。
「あら、立花さん、また来てくれたんですか」
「ご無沙汰しております。お加減はいかがですか」
「ええ、おかげさまで」
み瀬久子、62歳。穏やかに笑う女性だ。誠治がここに通い始めて数年、彼女だけが知っている繋がりが確かにこの病室にはあった。
「うちの子ね、今の仕事がやりがいがあるって嬉しそうにしてたの」
「そうですか。彼女の研究、私もずっと注目しています」
「でもあの子、不器用な性格でしょ。人に頼るのが苦手だから、職場でうまくやってるか心配で」
「大丈夫ですよ。一さんと久子さんの娘なんですから」
久子が眠そうにまぶたを閉じると、誠治は軽く会釈して病室から廊下に出た。窓の外、晴れた春の空。胸の底で、まだ消えない声が残っていた。
「娘の研究を頼む」
数年前の病室で、息を引き取る親友から託された一言だ。答えるための機会はもうすぐそこまで来ている。来週、彼女が開発した新薬の重要会議が予定されていた。
「お前の娘なら、きっとやってくれるさ」
呟いた声を聞くものは誰もいなかった。古い鞄の中には、色あせた一通の封筒と20年前の写真が静かに眠っていた。
翌朝、日生製薬の本社ビル、研究員フロアの片隅で、み瀬ひかるは早朝7時から一人机に向かっていた。24歳。眼鏡の奥の瞳は真剣で、白衣の袖口は所々擦り切れている。机の隅には亡き父の写真と、父が残してくれた古い顕微鏡が静かに置かれている。
画面の中、青いファイルアイコンの名は「SRQ」。先天性代謝異常症の根治治療薬。国内患者数およそ4000人。これまで根治療法は存在しなかった。ひかるが大学院から3年をかけて積み上げてきた、世界で唯一の希望だ。そして、その4000人のうちの1人が、彼女の母だった。
「お母さん、もう少しだからね」
母の入院費、亡き父が残してくれた研究機材のローン。背負っているものは多いが、SRQさえ完成すれば全てが報われる。SRQは日生製薬の社運をかけた極秘プロジェクトだ。立花製薬という最大手との交渉を見据えて、案件全体は営業本部の直属下に置かれていた。研究員でありながら、ひかるは営業本部の指示を直接受ける立場にあった。
エレベーターの到着音が静かなフロアに響いた。開いた扉から滑り出てきたのは、ひかるが最も聞きたくない二人組の声だった。
「おお、み瀬さん、早いね。相変わらず机にかじりついてるんですね」
執行役員、営業本部長の美吉。社内最年少で執行役員に登り詰めた男で、SRQの決済権を盾にいつもひかるを使い倒している。隣に並ぶのは霧谷さおり。研究部所属の28歳。同期入社のひかるとは正反対のタイプで、研究そのものより社内で誰と繋がるかに重きを置くタイプだ。胸元のブローチは、研究員の給料で買えないような高価なものだった。
「おはようございます」
美吉は返事もせず、ひかるの机に書類の束を放り投げた。営業会議の資料コピー、来客用のお茶菓子の手配、領収書の整理。研究員の仕事ではない。
「あの、今SRQの最終データの整理が」
「研究の話なんか聞いてねえよ。優先順位を決めるのは本部長の俺だ」
「み瀬さん、本部長のご指示には逆らえませんよ」
ひかるは唇を噛み、それでも頭を下げた。美吉にとって自分はいくらでも使い潰せる便利な駒。けれど母の入院費を抱えた今、逆らうという選択肢は自分にはなかった。
二人が応接室へ消えると、フロアには沈黙だけが残った。同期の女性社員がひかるに声をかけてきた。
「み瀬さん、大丈夫?」
「ありがとう。慣れてるから平気」
「先月の治療薬の発表、あなたの研究なのに、霧谷さんが手柄にしたじゃない」
ひかるは小さく微笑むだけで、それ以上は何も答えなかった。胸の奥で、悔しさよりも母を思う気持ちが先に立つ。
「うん。でもいいの。薬が完成すれば、それだけで誰かの役に立てるんだから」
PCのキーボードに指を戻したその時、応接室から戻ってきた美吉がデスクの内線電話を取り上げた。
「ああ、来週の立花製薬さんとの会議の件な。同行メンバーは追って通達する」
立花製薬。日生製薬の最大取引先であり、SRQに最も強い関心を示している一社だ。ひかるの手が止まった。机の上の顕微鏡にまた指先が触れる。胸の中で小さな期待が灯った。3年間机の上だけで育ててきたSRQを、ようやく外の世界に持ち出せるかもしれない。けれど、その期待がどれほど甘い見通しだったかを、ひかるはまだ知らない。
3日後の夕方、日生製薬の営業フロア。美吉が研究フロアに内線をかけた。
「みな瀬、来い」
呼ばれて駆けつけたひかると、足取りも軽いさおりが部長席の前に並ぶ。美吉は椅子の背にだらりと寄りかかった。
「来週の立花製薬との会議な。立花製薬さんから開発者本人にも同席いただきたいってご指名が来た。だから俺、霧谷、それからみ瀬、3人で行く」
ひかるの胸が跳ねた。
「あ、ありがとうございます」
「え、み瀬さんもですか?」
「うん。まあな。先方からのご指名だからな」
さおりの唇がほんの一瞬だけ歪んだ。ひかるはそれに気づかないまま、深く頭を下げる。胸の中で3年間眠っていた火が灯る。ようやくSRQを世に出すための一歩が踏み出せる。
「精一杯ご説明させていただきます。よろしくお願いいたします」
「ただし、喋るのは俺と霧谷だ。お前は隣で資料持ってるだけでいい。技術的な質問が来たら、その時だけ答えろ」
「はい」
その夜、本社ビル裏の薄暗いバーのボックス席で、美吉とさおりが向かい合っていた。
「ねえ、部長、本当にみ瀬を連れていくの?私、SRQの資料は全部読み込んでるんだから、私だけでプレゼンできるよ」
「立花製薬さんからのご指名だぞ。一応連れて行かねえと格好がつかねえ」
「でも、立花製薬の前で部長が全部喋ったら、向こうはあの子が開発した薬だって認識しちゃう。したら私が主担当になっても、『開発者はみ瀬』ってずっと言われ続けるんだよ」
美吉の眉間にしわが寄った。確かにさおりの言う通りだ。立花製薬は業界最大手。そこで認知が固まれば、いくら社内で人事をいじっても覆せない。
「当日、何かのアクシデントでみ瀬が来られなかったってことにすればいいんじゃない?」
「アクシデントって、お前…指名されてたからこそ、ちゃんと欠席を伝えればそれが誠意になるんだよ。『体調不良で大変申し訳ございません。急遽代理で参りました』って深く頭を下げれば、立花製薬だって受け入れるしかない」
「資料は私が全部持っていく。プレゼンも私がやる。先方も、来た二人がしっかり説明してくれればそれで満足するでしょう」
美吉の口元がゆっくりと持ち上がった。
「確かにな。指名されてたからこそ、欠席を丁寧に説明すればこっちの誠意は伝わる」
「ねえ、新幹線、品川で5分間停車するんだよ」
「それがどうした?」
「私にいい考えがあるの」
さおりは美吉の耳元で囁いた。
「お前、よくそんなこと思いつくな」
「社内でみ瀬の口は私が塞ぐから、安心して。あの子は逆らえないよ。首になりたくないから」
「まあそうだな。これまでもあいつは反論した試しがない」
「そういうこと」
二人のグラスが、薄暗い店の照明の下で音を立てた。
そして当日の朝。東京駅、新幹線のホームに、ひかるは指定された7時20分ちょうどに立っていた。ビジネスバッグにはSRQのサンプルを入れたクーラーバッグと資料が詰まっている。
「あ、みな瀬さん、早いな」
「み瀬さん、おはようございます」
さおりの声は妙に明るい。三人並んでホームに立ち、新幹線に乗り込んだ。
新幹線が動き出してしばらく、品川駅手前で速度が落ち始める。美吉がスマートフォンから顔を上げた。
「ああ、み瀬さん、悪いんだけど、品川でちょっと停まるからさ、コーヒー買ってきてくんね。ここのホームの売店のコーヒー、うまいんだよね」
「はい。お二人とも、いつものブラックでよろしいですか?」
「ああ、それでいい。ありがとう」
新幹線が品川駅に停車した。停車時間5分。ひかるは小走りでホームに降り、売店で素早く2杯のコーヒーを買って戻ってきた。発車ベルが鳴り始めている。急ぎ足で車内に乗り込もうとしたその時、扉のすぐ内側に美吉とさおりが立っているのが見えた。
「あれ?どうされました?」
「いやいや、ちゃんと買ってこれたかなって心配でな」
「あ、はい。こちらブラックです」
「ありがとう、み瀬さん」
ひかるが紙コップを二つ、さおりに手渡した。その時、発車を告げる警告音が鳴った。
「あ、急がないと」
車内に足を踏み出そうとしたその瞬間、美吉の手がひかるの胸元を突き飛ばした。
ひかるの体が勢いよくホームに押し戻される。よろめいて二歩後ずさり、なんとか踏みとどまったその目の前で、新幹線の扉がゆっくりと閉まり始めていた。閉じていく扉の隙間から、さおりの笑う声が聞こえた。
「役立たずは来なくていいですよね。重要会議に地味な女なんて間違いですし」
「え、あの、ま、待っ」
「み瀬さん、会社で雑用でもしててくださいね」
扉が完全に閉まった。
「ああ、うまくいったわ」
ガラスの向こうで、さおりがSRQのサンプルが入ったクーラーバッグを抱え上げ、勝ち誇った笑顔をひかるに見せつけた。美吉とさおりが顔を見合わせ、腹を抱えて爆笑している姿が、流れていく窓の中に確かに見えた。加速していく車両の窓の向こうで、二人の笑い声は届かないはずなのに、ひかるの耳の奥でずっと反響していた。
新幹線が完全に視界から消えた。ホームに立ち尽くしたまま、ひかるは動けなかった。膝が抜けたように、その場から一歩も踏み出せない。突き飛ばされた背中に痛みが残っているけれど、それよりも痛いのは、扉のガラス越しに見えたさおりの笑顔だった。
「うそ…」
声がかすれて出た。自分の声なのか、誰か他人の声なのか分からなくなる。手元にあるのはスマートフォンと財布の入った小さなトートバッグだけ。SRQのサンプル、資料、データの入ったタブレット。3年間自分の手で積み上げてきたものは、全て今走り去った車両の中に詰まれている。
「待って…」
ホームに並ぶ行先表示板を見上げる。次の新幹線まで30分。追いかけたら間に合う。自分に問いかけてみる。次の便に飛び乗って、関西の立花製薬まで自分の足で行けば、会議には間に合うかもしれない。けれど頭の奥で美吉の声が蘇った。
「役立たずは来なくていい。会社で雑用でもしてろ」
勝手に来たと社内で吊し上げられる。美吉に目をつけられたら、もう日生製薬では仕事ができない。ひかるは母のことが真っ先に思い浮かんだ。今、職を失ったら、本当に全てが終わる。
「行けないよ…」
ベンチに崩れ落ちるように腰を下ろした。両手が膝の上で震えている。それを止めようとしても止まらない。大学院の研究室で深夜まで顕微鏡を覗いた夜。動物試験のデータを何百回と取り直した日々。母の症状に近い患者群にSRQが確実な改善を示した、あの時の手応え。全部自分の手で積み上げてきたものだった。それが今、自分の手から離れていこうとしている。
「なんで、こんなひどいこと…」
喉の奥から声が押し出されるように出てきて、涙がこぼれた。3ヶ月、雑用を黙って受け取った日々。先月の発表会で自分のデータがさおりの手柄になったあの日。何度も飲み込んできた悔しさが、今一気に吹き出していく。
「ずっとずっと頑張ってきたのに。もう嫌だ。もう嫌だよ」
その時だった。トートバッグの中でスマートフォンが激しく震れた。ひかるは慌てて画面を確認する。東都病院、看護師の名前。心臓が跳ねた。
「もしもし」
「み瀬さんですか?お母様の容態が急変されました。すぐに来ていただけますか?」
「え?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「み瀬さん、聞こえますか?」
「は、はい。すぐ向かいます」
通話が切れる。スマートフォンを握る手が、さっきとは違う震え方をしていた。ひかるは立ち上がった。さっきまで力が入らなかった膝が、今勝手に動いている。階段を駆け下りる。改札を抜ける。タクシー乗り場に走る。押された背中の痛みも、ベンチで流した涙も、今全部頭の中から消えていた。母が、母だけが、今自分の全てだった。
「お母さん。お母さん」
タクシーの後部座席で、ひかるは何度もそう呟いた。窓の外、見慣れた都心の景色がぼやけて流れていく。3年間の研究も、SRQも、立花製薬との会議も、もうどうでも良かった。母さえ生きていてくれれば、それでいい。母さえ間に合えば、薬は必ず作る。次の機会はきっとまた自分の手で掴み直せる。そう自分に言い聞かせた。
タクシーが東都病院の玄関に着いた。料金を支払うのももどかしく、ひかるは病棟へ走った。エレベーターのボタンを何度も連打する。こんなに長く感じたのは初めてだった。母の病室の前で立ち止まり、深く息を吸って、ノックもせずに扉を開けた。
「お母さん」
ベッドの上で、母は酸素マスクをつけて目を閉じていた。胸はゆっくりと確かに上下している。生きている。それを確認した瞬間、ひかるの膝から力が抜けた。床に崩れ落ちるように、ベッドの脇にしゃがみ込んだ。
「今回はなんとか持ち直されました。ただ、病状は確実に進んでいます。今後のことを見据えて、ご家族でご相談を」
看護師が病室を出ていき、残された静かな空気の中で、ひかるは母の細い指をそっと握った。骨ばった指の感触が、何度握っても胸を締めつけた。
「ごめんね、お母さん。私がもっと早く薬を作れていたら」
ひかるは母の手の甲に額を押し当て、震える声を殺して泣いた。新幹線のホームでは流せなかった涙の続きが、誰の目もない病室でようやくこぼれていく。3年間ずっと我慢してきた感情が、堰を切ったように溢れていった。
「お母さん…」
母の指が、わずかに動いた気がした。母の寝息を聞きながら、ひかるは目を閉じた。閉じた瞼の裏に、父の顔が浮かぶ。製薬研究員だった父は、ひかるが大学生の頃、突然倒れて帰らぬ人となった。最後の数日、病室のベッドで父が握っていた手紙。そこには、未完成の母の新薬のアイデアと、母の病名と、ひかるへのいくつかの言葉が書かれていた。
「ひかる、お父さんは何があってもお前の選ぶ道をいつも応援している。自分の信じた道を進みなさい。それと、お母さんを頼む」
父の言葉を辿るように、ひかるは大学院で創薬の道へ進んだ。母の病を治す薬を自分の手で作る。そう決めた日の覚悟だけが、今も胸の奥で熱を保っている。数ある製薬会社の中から日生製薬を選んだのも偶然ではない。日生製薬は、国内で数少ない先天性代謝病の治療を専門に扱う部門を持つ会社だった。SRQを実用化するにはここしかない。ひかるは大学院時代からそう決めていた。
「お父さん、私、間違えてないよね」
握りしめた母の手は、まだ温かい。
同じ頃、関西。立花製薬本社の社長室で、誠治は窓辺に立ち、もう一度資料に目を通していた。
「戸野君、会議は15時からだったね」
「はい。本社の役員会議室です。あと2時間ほどでございます。日生製薬の出席者は、営業部長の美吉様、研究員の霧谷様、そして開発者のみ瀬ひかる様の3名と伺っております」
「そうか」
誠治の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。今日、ようやく彼女に会える。亡き親友の娘に、直接自分の言葉で挨拶ができる。SRQの論文は全て読み込んできた。母を救いたいという研究者の覚悟が、論文からはっきりと伝わってくる仕事だった。
「週一、お前の娘さんに、今日会えるよ」
窓の外、下の朝の光が運河の上で静かに揺れていた。
午後15時、関西、立花製薬本社の役員会議室。誠治は上座に座らず、長テーブルの中ほどに腰を下ろした。隣には秘書の戸野、対面には研究本部長が控えていた。拠定時刻ちょうど、ドアがノックされた。入ってきたのは、美吉とさおりの二人だけである。誠治の視線が扉の向こうを一瞬探ったけれど、誰も続いて入ってくる気配はなかった。
「お時間頂戴いたします。日生製薬、営業部長の美吉でございます」
「研究員の霧谷さと申します。本日はよろしくお願いいたします」
「ご足労をかけました。本日はよろしくお願いいたします」
誠治は丁寧に頭を下げたが、視線はまだ扉の方に注がれている。
「ところで、み瀬さんは?」
「実は本日、み瀬は急な体調不良でして。前日まで万全に準備しておりましたが、当日朝に体調を崩しまして。ご要望いただいていたところ、誠に申し訳ございません。代わりに私と霧谷で対応させていただきます」
「み瀬さんの体調、本当に心配で。でも、SRQの資料は私もしっかり把握しておりますので、ご安心ください」
「そうですか。会えると思っていたのだが。体調の方は、大丈夫だろうか」
誠治の指先が、テーブルの上で一度だけ静かに動いた。長年抱えてきた約束に、また少し距離ができたような感覚があった。
「では、SRQの資料はこちらにご用意してきました。私からご説明させていただきますね」
さおりが青いファイルを広げ、滑らかな笑顔で口を開いた。10分ほど、要領よく説明を続ける。基本的な薬理、想定される市場規模、開発スケジュール。資料に書かれた内容を、さおりはまとめて見せる。
「以上がSRQの概要となります」
「ありがとうございます。よくまとまっている資料ですね」
「恐れ入ります」
「では、一つお伺いしてもよろしいですか?」
「はい。なんなりと」
誠治の視線が、ゆっくりとさおりに注がれた。
「SRQの主成分が肝臓の特定の酵素を阻害する、その作用機序を教えていただけますか?資料に書かれている結果ではなく、なぜその阻害が成立しているのか、分子レベルでのご説明を」
さおりの唇が一瞬固まった。視線が泳ぎ、青いファイルの背を指で撫でる。
「えっと、それは論文に詳しく書かれておりまして…」
「その論文の何ページに書かれていますか?」
「す、すみません。ページまでは…」
「では、ご自身の言葉で、分子モデリングの仮説の段階から検証での流れを」
「えっと、それは…」
さおりは慌てて青いファイルを開いた。
「え、今すぐ確認いたします。少々お待ちください」
震える指でページをめくるけれど、開発者本人がまとめた専門資料の数値の羅列を、さおりは半分も理解できていなかった。ページをめくる手だけが空回りしている。
「えっと、えっと…」
「霧谷さん。あなたが共同開発者なら、指導教官にもすぐにお答えいただけると思うのですが」
さおりの手が止まった。額にうっすらと汗がにじみ、視線が泳ぐ。隣の美吉の方を助けを求めるように一瞬見たけれど、美吉もその視線に答える術を持っていない。会議室の空気がはっきりと冷えた。研究本部長が眼鏡を外し、静かにため息をついた。美吉が慌てて口を挟む。
「立花様、申し訳ございません。細部については後日改めて、み瀬から書面でご回答させていただきます」
「美吉さん。以前より弊社がSRQに期待を寄せていたか、お分かりですね。どれだけ重要な案件なのかも」
「あ、はい。それはもちろんです」
誠治の視線が、ゆっくりとさおりに戻った。
「霧谷さん。あなたはSRQの実質的な開発に、どこまで関わっておられますか?」
さおりの顔が青ざめていった。膝の上で握りしめたファイルが小さく震えている。何かを言いかけて口を閉じ、視線を泳がせた。
やれやれ。この二人は何も分かっていない。誠治は、この会議に向けての二人の本気度を見抜いていた。
「では、結論を申し上げます」
誠治がゆっくりとテーブルの中央に手を置いた。穏やかな声のままだったが、その口調には岩のような重さがある。
「御社とは、契約終了です」
「はあ…」
会議室の空気がぴたりと止まった。美吉の口が半開きのまま固まり、手元のペンを取り落とす。さおりはファイルを抱えたまま息を飲んだ。
「ち、ちょっとお待ちください。契約終了とは?」
「現契約は更新しません。年間取引、全て他社にお願いいたします」
「立花様、一体何が…?」
「弊社は本日、SRQの開発者ご本人と直接お話しすることを楽しみにしておりました。事前にも開発者の同席を強くお願いしてあった」
「は、はい」
「にも関わらず、お見えになったのは開発者ではない研究員の方。しかもSRQについて、作用機序すらお答えいただけない」
「あ、お待ちください。それは本日、み瀬が体調不良で…」
「そうですね。体調不良ではいらっしゃった。しかしながら、なぜそのことを事前にご一報いただけなかったのですか?その判断一つとってみても、SRQというプロジェクトを本社がどれだけ重く扱っているかが見えてしまいました。弊社が指名した開発者が来られない。それは本来であれば、本日の会議を見直すべきでした。それを、御社は何もご連絡くださらず、当日になって別の方を立てて、何事もなかったかのようにこの場を進めようとされた。もちろん、質問への的確な回答が得られれば話は別でした。しかし、そうではなかった。弊社からのお願いを軽くお考えになったということで、よろしいですね」
「ち、違います。こんなつもりは…」
「立花様、お待ちを。もう一度だけ…」
「本日はもう結構です。お引き取りください」
その一言で、美吉は何も言えなくなった。さおりは震える手で青いファイルを抱え、椅子から立ち上がるのもおぼつかない。研究本部長が扉を開けて促し、二人は逃げるように会議室を出ていった。夕焼けの光が、立花製薬のロゴを橙色に染めていた。
翌日の午前10時、日生製薬本社、社長室。昨日の立花製薬との会議で契約終了を告げられた一件は、その日のうちに日生製薬の経営陣に届いていた。会長と社長は朝一番で関係者を緊急招集。美吉とさおり、そして置き去りにされた当事者であるひかるも、会長から直接の指示で会議室に呼び出されていた。美吉はソファーの端で背中を丸めて座っていた。隣のさおりは青ざめた顔のままハンカチを握りしめている。正面には日生製薬の社長と会長、そして法務部長が並んでいた。
「美吉君、契約終了とはどういうことだ?」
「申し訳ございません。細かな行き違いがありまして…」
「細かな行き違いで、年間50億の取引が消えるということか?」
「いえ、それは…」
「立花社長は、昨日開発者を会議に同席させなかったことを問題視しておられる」
会長の視線が、部屋の隅に立つひかるに向けられた。
「み瀬君、君は昨日会議に行けなかったそうだが、本当か?」
「…行きませんでした」
「美吉君は、み瀬君は体調不良で欠席と報告したな」
「あ、はい」
ひかるの胸が小さく震えた。本当のことを言えば、また嫌がらせを受ける。これまで3ヶ月、何度もそうやって押し殺してきた。けれど今日は、声を出さなければいけない気がした。
「あの、私は品川駅で…」
その時だった。社長室の扉が、ノックもなく外から開いた。秘書が深く頭を下げて立っていた。
「立花製薬の立花社長がお越しです」
「何?」
秘書の後ろから、誠治が静かに歩み出てきた。その後ろには研究本部長と立花製薬の法務担当役員、さらに数名の幹部が続いた。
「立花社長、これはアポイントは伺っておりませんが…」
「突然のご訪問、お詫びいたします。しかしながら、昨日の件、御社の経営陣に直接お話ししたい案件がございましてね」
「お話と申しますと?」
「昨日の会議の件、弊社で改めてSRQと御社の社内事情を精査させていただきました。その結果を踏まえ、契約終了の件についてもう一度お話しさせていただきたい」
「ありがとうございます。それはつまり、契約継続の可能性が…」
「それは、これからのお話次第です」
誠治は会長が示したソファーに腰を下ろした。視線が、部屋の隅に立つひかるに向けられる。
「そちらの方が、み瀬ひかるさんですか?」
「はい。初めまして。立花製薬の立花誠治と申します」
「お初にお目にかかります」
「昨日はお会いできず、残念でした。お加減はもうよろしいのですか?」
「あ…」
ひかるが言葉に詰まる。隣の美吉とさおりの顔が、一気に強張った。
「立花社長、契約終了の件、本当にもう一度ご検討いただけるのでしょうか?」
「これからのお話次第です」
「お、お待ちください。立花様…」
「美吉君、立花社長のお話を遮るな」
部屋の隅で、ひかるは立ち尽くしていた。話せば報復される。でも、ここで黙ったら、SRQは永遠に届かない。ひかるは深く息を吸った。
「あの、立花社長」
全員の視線が、部屋の隅のひかるに集まった。美吉の視線が、突き刺すように向けられている。ひかるの膝が震えていた。けれど、もう止まらなかった。
「お話を聞いていただけませんか?」
「もちろんです」
「私は昨日、品川駅で、新幹線の扉から押されました」
「なんだと?」
「『役立たずは来なくていい』と、美吉本部長と霧谷さんに突き飛ばされて、ホームに置き去りにされたんです」
「な、なんだと?み瀬君、それは本当か?」
「はい。突き飛ばされたって…君は?」
「大丈夫です。けれど、資料もSRQのサンプルも、全部新幹線に持っていかれて…」
「霧谷、本当なのか?」
「ち、違います。み瀬さん、勝手に何を…」
「み瀬さん、落ち着いて」
「黙れ、美吉。私はみ瀬君に聞いている」
誠治はゆっくりと立ち上がっていた。信じられない。静かだったけれど、これまで穏やかだった声に、初めてかすかな怒りが滲んでいた。
「弊社が指名した開発者を、ご自身の部下が新幹線のホームから突き飛ばした。本部長は、み瀬さんが嘘をつく理由がありますか?」
「う…」
社長室に長い沈黙が落ちた。会長は深く頭を下げた。
「立花社長、誠に、誠に申し訳ございません。御社の管理不行き届きでございました。何卒、契約継続をご検討いただけませんでしょうか?」
誠治はひかるの方を一度だけ見た。それからゆっくりと席に戻った。
「検討の余地はございます」
「ありがとうございます。どのような条件でもお受けいたします」
「では、先日中断した会議の続きを、今この場でお願いいたします」
「え?」
「SRQに関する、開発者ご本人からのご説明です。私は昨日それを伺うために関西から東京まで参りました。今日はその続きを伺いに来た。それだけです」
社長室の中で、全員の視線がひかるに集まった。
「え?あ、はい」
「み瀬さん、突然のお願いで申し訳ございません。お時間をいただけますか?」
「は、はい。でも、資料は…」
「資料はいりません。あなたの言葉で、SRQについて教えてください」
ひかるは深く息を吸った。胸が震えている。けれど、これは自分が3年間ずっと話したかったことだった。母を救うために積み上げてきた全てを、信頼できる相手に届けられる場が、今ようやく目の前にある。姿勢を正し、ひかるは静かに口を開いた。
「SRQは、先天性代謝異常症を対象とした根治治療薬です。国内推定患者数、およそ4000人。これまで根治的療法は存在せず、対症療法と食事療法以外の選択肢がなかった疾患です。主成分は、肝臓のミトコンドリア内で特定の代謝酵素を選択的に活性化させ、蓄積している代謝中間体を分解可能な形に変換します。その作用機序は、私が大学院在籍中に分子モデリングで仮説を立て、3年間の動物試験で検証してまいりました」
声が、徐々に震えなくなっていく。データの数字も、酵素の名称も、患者群の臨床的特徴も、ひかるの口から滑らかに流れ出した。3年間自分の手で積み上げてきたものは、資料がなくても全て頭の中に入っている。
「第二相試験の主要評価項目は、血中代謝中間体濃度の推移と肝機能マーカーの正常化率を主軸に設定しています。副次評価項目として、患者報告アウトカム、QOLスコア、長期的な合併症の抑制効果を組み入れる方針です。現時点での動物試験では、対照群と比較して代謝中間体の蓄積を平均78%減少させる効果が得られています。安全性プロファイルについても、急性毒性、慢性毒性ともに許容範囲内で推移しております」
10分以上に渡って、ひかるは淀みなく語り続けた。
「以上が、SRQの現時点での到達点になります」
社長室に、長い沈黙が落ちた。研究本部長が、ゆっくりと首を振った。
「素晴らしい。素晴らしい研究だ。これだけの設計と検証を、一人で積み上げてこられたとは」
「み瀬君、これが君の研究結果なのか?」
「はい」
「私は何を見てきたんだ。我が社に、これほどの研究者がいたのか」
経営陣の声には、明らかな動揺と感嘆が混じっていた。10分前まで雑用扱いしていた研究員が、今、誰よりも本物の研究者として目の前に立っている。美吉の口が半開きのまま固まっていた。さおりも、驚きで声すら出ない。3年間、ひかるのことをずっと侮っていたからだ。
誠治は深く頷いた。
「日生製薬の会長、社長。先ほどの契約継続の件、お受けいたします」
「ありがとうございます」
「ただし、SRQプロジェクトは、開発者であるみ瀬ひかるさんを正式なリーダーとして、研究本部直轄に再編してください。営業本部の介入は一切外し、開発者の判断を最大限尊重する体制で進めていただきたい」
「承知いたしました。直ちに組織再編を行います」
「弊社からも開発支援として、技術協力と資金援助をご提案させていただきます。SRQは御社一社の薬ではなく、業界全体にとって必要な仕事です」
「ありがとうございます、立花社長」
「これを申し上げるのは、私の方です」
誠治がひかるの方に向き直り、深く頭を下げた。
「み瀬さん、3年間、研究を諦めずに続けてくださって、本当にありがとうございました」
「あ、いえ、こちらこそ」
ひかるは慌てて頭を下げ返した。胸の奥で、これまで一度も流せなかった涙が込み上げてくるけれど、まだこらえる。窓から差し込む光が、ひかるの白衣を明るく照らしていた。3年間、誰にも見せられなかった研究が、今、業界最大手の社長によって正当な場所に置き直されていく。机の上に置いてきた父の顕微鏡。父が残してくれた、たった一本の道具。その重みが、今日初めて誇らしく感じられた。
それから2週間後、日生製薬の社内には嵐のような変化が訪れていた。社長室で、社長が法務部長から報告書を受け取っていた。
「新幹線置き去りの件、どうなった?」
「新幹線の防犯カメラに、突き飛ばす瞬間がはっきり映っておりました。暴行罪と業務妨害で警察に書類送検済みです。前科として残ります」
「ああ。それで、経費の件は?」
「営業本部長の美吉様、過去半年の出張42件のうち16件で、霧谷様との日程重複、同一ホテル、同一経路。架空の旅行費用の経費計上で、被害額は2000万円ほどかと。あと、下請けの件もあったそうな。東薬への発注3件、差額は美吉様の個人口座へ。詐欺被害は合計3000万円。本人を背任業務詐欺で刑事告訴いたします」
「やれやれ。霧谷も共犯だな」
「はい。研究不正と業務妨害で懲戒解雇、損害賠償請求。所属学会からも除名処分が下りました。二人とも永久追放です。業界各社への通達も済ませなさい。製薬業界に二度と戻れないように」
「承知いたしました」
そして、もう一つ。美吉の妻が動いた。社内不倫の証拠を全て握っていた妻は、離婚協議を一気に進めた。慰謝料、子供の養育費、財産分与。美吉に残るものは、ほとんどない。妻は弁護士を通じて、たった一言だけ書かれた書面を送った。
「人として最低」
霧谷さおりもまた、地獄を見ていた。婚約していた医者の恋人がいたことが、報道で明るみに出た。婚約破棄、相手の家族からの慰謝料請求。実家には誹謗中傷の電話が殺到し、両親は引っ越しを余儀なくされた。
そして二人は、最後に喫茶店で会った。共犯として手を組むはずだったが、互いに責任を擦り付けたい思考が交錯し、最後の話し合いはすぐに高圧的な口論になった。
「部長、私たち、どうしてこうなっちゃったの?」
「お前のせいだろ?お前が会議にみ瀬を入れるなって言い出したから」
「はあ?突き落としたのは、あなたじゃない」
「お前が肩を押したんだろうが」
「先に手を出したのはあなたよ」
責任を押し付け合う声が店内に響いた。この日を境に、二人は連絡を断ち、それぞれ別の弁護士の元で、互いを訴える側にも訴えられる側にも立つことになる。3年前から続いていた不倫関係は、互いを地獄に道連れにする形で、完全に終わった。
契約継続から1週間後の日曜の午後、誠治は東都病院の久子の病室を訪れていた。隣にはひかる。母の見舞いに行くと言ったひかるを、誠治が車で送ったのである。病室の扉を開けると、ベッドの上で半身を起こした久子が、入ってきた二人を見て目を丸くした。それから、ふっと小さく笑って見せた。
「ひかるを連れてきてくれたのね。立花さん、長い間、本当にありがとうございました」
「お母さん、立花さんを知ってるの?」
「お父さんの、一番古いお友達よ」
「え?」
「本当はね、ひかるが大きくなったらすぐにお話しなくちゃいけなかったの。ごめんなさいね、ずっと黙ってて」
「立花さんは、ずっとお母さんに会いに来てくださってたの?」
「月に一度、必ずね。雨の日も雪の日も。お父さんとの約束だからって」
ひかるの視線が、ゆっくりと誠治に向けられた。誠治は静かに頷き、古い鞄から色あせた封筒を取り出した。
「君のお父さん、み瀬週一さんは、私の幼馴染みだ。同じ大学で薬学を学び、同じ志しで研究者の道に進んだ、たった一人の友人。彼が病に倒れて、最後の入院の前に、私に残していたんだ。『娘の研究を頼む』と」
ひかるの瞳から、涙が一粒こぼれ落ちた。
「お父さん…」
「だから、君のことはずっと前から知ってた。論文も全て読みました。けれど、私は君の前に出ていく勇気がずっと持てなかった。君が自分の力で立っていたから」
「あの人ね、研究のことよりも、ひかるのことを心配してたの。利用されないか、潰されないかって」
ひかるは誠治から受け取った封筒を、ゆっくりと開いた。亡き父の筆跡。震える文字で、確かに記されている。
「娘の研究を頼む」
「お父さん…」
封筒を胸に抱きしめて、ひかるはふと顔を上げた。
「立花さん、あの日、関西からわざわざ会社まで来てくださったの。もしかして…」
「え?」
「もしあの日、立花さんが来てくださらなかったら、私、多分何もできないまま、SRQを奪われて、会社を辞めさせられて、お母さんの薬も永遠に届かないままだった」
誠治の声は低く、けれど確かに温かかった。
「あの日、君が体調不良と聞いて、おかしいと思った。これだけ真剣にやってきた研究を、体調不良で欠席なんてね。約束を果たすというより、私自身が君を救いたかった。しかし、君は想像以上の研究結果を見せてくれた。それには、純粋に驚かされたよ」
「立花さん、本当に、本当にありがとうございました」
封筒を胸に抱きしめて、ひかるは声を上げて泣いた。3年間ずっと一人で背負ってきた重さが、ようやく誰かと分かち合える場所にたどり着いた。
「いいえ、礼を言うのは私の方だ。君が研究を諦めなかったから、私はようやく亡き友との約束を果たすことができた」
窓の外、春の光が病室を優しく満たしていた。
半年後、初秋。立花製薬の本社敷地内に、「み瀬週一記念研究所」が完成した。立花製薬と日生製薬の共同研究施設。研究主任には、み瀬ひかるの名が刻まれている。SRQは厚生労働省の承認を得て製品化が決まり、第一号の投薬対象者の中には、久子の姿があった。ひかると誠治が立ち上げた「み瀬週一基金」には、若手研究者と女性研究員からの申請が200件を超えた。
久子の退院の日、ひかるは病院の玄関で出迎えた。車椅子から自分の足で立ち上がった久子が、ひかるの腕をしっかりと握る。
「ひかる、ありがとね。お父さんもきっと喜んでるわよ」
「うん。これからも、お父さんの研究、私たちで続けていくから」
「ああ。まだまだたくさんの患者さんたちが待っている」
たった一人の人を踏みつけにしたものは、いつか必ずその全てを失う。そして、たった一人の人の研究を信じたものは、その人と共に新しい未来を手にする。



