同窓会で、10年前に私を「肥満」と罵り、平手打ちにした女が、成功した私にすり寄ってきた。「ねえ、私と付き合ってあげてもいいわよ」と、勝ち誇った顔で。彼女は、昔と同じように、私をかばってくれた女性にワインを浴びせかけ、笑いものにしていた。10年間、見返すために鍛え上げてきた体。彼女は、その私が何をしたのか、まだ気づいていなかった。静まり返った会場で、私は手を上げた。あの日、彼女が私にしたのと、…

同窓会で、10年前に私を「肥満」と罵り、平手打ちにした女が、成功した私にすり寄ってきた。「ねえ、私と付き合ってあげてもいいわよ」と、勝ち誇った顔で。彼女は、昔と同じように、私をかばってくれた女性にワインを浴びせかけ、笑いものにしていた。10年間、見返すために鍛え上げてきた体。彼女は、その私が何をしたのか、まだ気づいていなかった。静まり返った会場で、私は手を上げた。あの日、彼女が私にしたのと、...

放課後の教室に、乾いた音が響いた。体育を終えたばかりの相沢蓮は、汗を拭いながら自分の席へ戻ろうとしただけだった。その瞬間、学年一の美女と名高い立花麗華が、平手で蓮の頬を打ったのだ。

「汗臭いのよ、この肥満。近寄らないでくれる?」

床に膝をついた蓮を見下ろし、麗華とその取り巻きたちが声をあげて笑った。蓮は何も言い返せなかった。ただ、熱を持った頬を押さえ、唇を噛むことしかできなかった。

それから10年。都内のホテルの宴会場で、中学の同窓会が開かれていた。かつて学校一の美女だった立花麗華が、勝ち誇った笑みを浮かべ、一人の男に体を預けるように持たれかかった。その瞬間、また乾いた音が会場に響き渡った。男の平手が、麗華の頬を打ったのだ。

「なんで……これは、10年前にお前が俺にしたことだ。忘れたのか?」

絶句する麗華を、男は静かに見下ろした。引き締まった体、揺るがない眼差し。かつて「肥満」と罵られ、この女にビンタされて泣いていた、あの惨めな少年の面影は、もうどこにもなかった。

朝6時、蓮は目覚まし時計が鳴るより先に目を覚ました。年数の経ったマンションの一室は、必要なものだけが置かれた質素な部屋だった。今の蓮なら、もっと広い部屋にも住める。それでも、ここを離れるつもりはなかった。

蓮は床に手をつき、ゆっくりと腕立て伏せを始めた。引き締まった背中が、朝の光の中で静かに動く。決められた回数を終えたところで、スマートフォンが短く震えた。師匠の黒田からだった。

「おう、起きてるか。今日だろ?蓮の同窓会。」

「はい。さっきトレーニングを終えたところです。」

「大会前でもないのに、相変わらずだな。雑誌の表紙まで飾るようになった男が、俺の集まりなんかにわざわざ顔を出すのか。」

「顔を出したいわけじゃないですよ。確かめに行くだけです。あの頃の人間が、10年で何か変わったのか。それだけです。」

「ふうん。昔のことを引っかき回しに行くんじゃないだろうな。」

「違います。もう、泣いてた頃の俺じゃないんで。」

「ならいい。胸を張って行ってこい。」

「はい。ありがとうございます。」

通話を切ると、蓮はクローゼットを開けた。派手なブランド物は一着もない。それでも丁寧に袖を通したのは、仕立てのいい紺のジャケットと、皺の効いた白いシャツだった。鏡の前でゆっくりと襟を正す。鍛え上げられた体が、その質素な装いを嫌味なく着こなしていた。清潔感と真っ直ぐな眼差し。誰かに媚びるためではなく、自分を立てる者だけが纏う静かな品が、そこにはあった。

デスクの上には一通の封筒が置かれていた。同窓会の招待状である。出席者をまとめる欄に、見覚えのある名前があった。

立花麗華。

その名を口にした瞬間、古い記憶が蘇ってきた。サイズの合わない制服、教室に響いた乾いた音、床に散らばった弁当のおかず。あの頃、蓮の世界の全ては、あの教室の中だけで完結していた。逃げ場のない灰色の三年間。そしてもう一つ、あの灰色の日々の中で、たった一度だけ自分をかばってくれた一人の少女の横顔。

「みんな、あれからどうしてるかな。」

窓の外には、目覚め始めた町が広がっていた。蓮は冷えた水を一口飲み、静かにその日に備えた。

蓮の地獄が始まったのは、高校に入って間もない頃だった。立花麗華。学校一の美女と誰もが認める少女が、最初に蓮へ目をつけた。父親が地元で手広く事業を営む裕福な家の娘で、整った容姿と家柄を傘に着て、クラスの空気を支配していた。誰もが麗華の顔色を窺い、誰一人として逆らわなかった。

「ねえ、見てあの子。お弁当、いつも同じおかずなんだけど、貧乏臭くない?」

教室の中央で蓮を指さして笑った。その隣で、取り巻きの水原さやかが、間髪入れずに追従する。

「やだ、本当だ。っていうか、あの子の家ってお父さんいないんでしょ?片親なんだって。」

「なるほどね。だからお金ないんだね。かわいそう。」

蓮は言い返せなかった。喉の奥で言葉が固まって、どこにも出ていかなかった。母が朝早く起きて作ってくれた弁当を「貧乏臭い」と罵られる。その理不尽さに、机の上で手を握りしめることしかできなかった。

「なんで?なんで俺ばっかり、こんなこと言われるんだ?」

声にならない問いだけが、行き場をなくして胸の中をぐるぐると回った。その日の昼休み、蓮が席を外している隙に、弁当箱の中に消しゴムのカスが撒かれていた。

「だ、誰がこんなこと…?」

戻ってきた蓮が気づいて固まると、麗華が親切を装って声をかけた。

「あら、どうしたの?もしかして誰かにいじめられてるの?可哀想にね。」

その白々しさに、教室はまた笑いに包まれた。蓮は消しゴムのカスを取り除き、それでも母の作った弁当を一粒残さず食べた。母が一生懸命に作ってくれた弁当を捨てることだけは、どうしてもできなかった。

それからは毎日だった。教科書が消え、机に落書きがされる。体育の授業では、組まされた相手が露骨に顔をしかめた。

「え、俺、こいつとペア組むの?勘弁してくれよ。」

蓮は同級生の中でも一際太っていた。それは貧しい食卓で安いものばかりを食べ、日々の辛さを食べることでしか紛らわせなかった結果でもあった。痩せる方法も、その余裕も、当時の蓮は知らなかった。

誰も助けようとはしなかった。助ければ次は自分が標的になる。それをみんな知っていたからだ。そんな教室の隅に、もう一人息を潜めている生徒がいた。藤井美央。蓮と同じように体型をからかわれ、誰とも目を合わさずに過ごしている女子だった。言葉を交わしたことはまだ一度もない。それでも、麗華に何か言われて俯く美央の横顔を見るたび、蓮は自分自身を見ているような気がした。

ある日の昼休み、麗華は退屈しのぎのように蓮の机に頬杖をついて、顔を覗き込んだ。

「あんたさ、生きてて楽しい?貧乏で肥満で、父親もいなくて。私だったら恥ずかしくて学校来れないけどな。」

周りの取り巻きがどっと笑った。蓮は何も言えず俯いたまま、ただ机の木目を見つめていた。家に帰れば、痩せた母が工場帰りの疲れた顔で出迎えた。

「お帰り、蓮。今日はどうだった?」

「うん。普通だよ。」

それ以上は言えなかった。自分のために働き詰めの母に、これ以上の心配はかけられない。

「もう嫌だ。こんな毎日。」

蓮は家では笑顔を作り、夜になると一人暗い部屋で膝を抱えて泣いた。灰色の高校生活は、出口の見えないまま、ただ過ぎていった。

二年生になっても、蓮の状況は変わらなかった。むしろいじめは陰湿さを増していった。ところがある日、思いがけない方向から手が差し伸べられた。声をあげたのは、あの教室の隅でいつも息を潜めていた少女、美央だった。昼休み、麗華が蓮の弁当を取り上げ、床にぶちまけようとしたその時だった。

「やめてあげなよ。」

震える声だったが、確かにそう言った。美央は蓮の前に立ちはだかり、まっすぐに麗華を見た。

「はあ?何?あんた、肥満同士で可哀想同士、慰め合ってるわけ?うわあ、お揃いじゃん。」

「ちょっと、関係ないでしょ。相澤君が何をしたって言うの?」

「口応えするんだ。」

麗華たちが立ち去った後、美央は床に落ちかけた弁当を蓮と一緒に拾い集めた。

「ごめんね。私が口を出したせいで、余計に目立たせちゃったかも。」

「謝るのは俺の方だよ。今まで、誰もかばってくれなかったから。」

「私たち、似てるね。一人で耐えるより、二人の方がちょっとはマシかもしれないよ。」

それが、二人が初めてまともに言葉を交わした瞬間だった。その日から、二人は友達になった。それでも美央は廊下で蓮とすれ違うと、小さく頷いてくれた。たったそれだけのことが、蓮にとっては灰色の日々に差した僅かな光だった。

その出会いが蓮を動かした。このままではいけない。せめて、かばってくれた美央に胸を張れる自分になりたい。下校途中、蓮は勇気を振り絞って、一軒の個人ジムの扉を叩いた。フェニックスジム。トレーナーの黒田剛は、金がないと口ごもる蓮を、ただ一言で迎え入れた。

「なんだ、強くなりたいのか、坊主。金の話は後でいい。本気で変わりたいなら来な。」

「はい、よろしくお願いします。」

こうして蓮はジムに通い始めた。だが、体というものはそう簡単には変わらない。一ヶ月通っても、鏡の中の自分はほとんど変わらなかった。そして、その変化のなさを、麗華たちは見逃さなかった。ある体育の授業の後、汗だくになった蓮が廊下で麗華の脇を通り過ぎようとした。その時だった。

「ちょっと、汗が飛んだんだけど。」

パシッ。乾いた音が響いた。麗華が蓮の顔を平手で打ったのだ。ただ近くを通っただけ。それだけのことで、理不尽な暴力が振るわれた。

「うわあ、最悪。臭いんだよ。太っちょ。」

「ねえ、聞いたよ。あんた、ジムに通い始めたんだって。」

麗華は撃たれた頬を押さえる蓮を見下ろし、馬鹿にしたように笑った。

「あんたのその体型で運動したところで、肥満は肥満でしょ。無駄なことやめなよ。みんな言っておくけど、あんたみたいな片親の貧乏は、見下されて当然でしょう。生まれが違うのよ。生まれが。」

その言葉はビンタよりも深く、蓮の胸に突き刺さった。もがき始めたばかりの人間を頭から否定する。その姿勢に、蓮の中でこれまで感じたことのない感情が芽生えた。

「笑え。今はいくらでも笑え。」

それは無力感とは違う、確かな熱を持った何かだった。麗華に背を向けて歩き出した蓮の足取りは、いつもよりほんの少しだけ早かった。その日の放課後、腫れた頬を一人で冷やしていた蓮の元に、そっと美央が近づいてきた。手には、自動販売機で買ったらしい冷たいペットボトルがあった。

「これ、当てて。少しは楽になるから。」

「ありがとう。」

「あの子の言うこと、信じちゃだめだよ。無駄なんかじゃない。変わろうとしている人を笑う人の方が、ずっと見苦しいんだから。」

その言葉に、蓮の胸の奥で火が小さく弾けた。悔しさと怒りと、まだ名前のつかない熱。蓮は腫れた頬の痛みを噛みしめながら、固く拳を握った。

努力はすぐには報われなかった。蓮はジムに通い続けた。それでも目に見える変化は乏しく、いじめは止まなかった。心が折れそうになる夜が何度もあった。ある日の放課後、蓮はとうとう限界を迎えた。教室で受けた仕打ちを思い出しながら、暗い部屋で一人、ただ天井を見つめていた。

「体重、全然変わらないなあ。」

何のために頑張っているのか分からなくなっていた。いっそ、何もかも消えてしまえたら。そんな考えが頭の隅をよぎった夜だった。その時、部屋の扉が静かに開いた。母だった。

「蓮、あんた最近、ご飯の量が減ってる。何かあったんじゃないの?」

蓮はとっさに笑顔を作ろうとしたけれど、できなかった。母の顔を見た瞬間、長い間堪えていたものが、堰を切ったように目から溢れ出した。

「母さん、ごめん。俺、学校でずっといじめられてて…。」

全てを打ち明けた。貧乏だと笑われ、片親だと馬鹿にされ、叩かれたことも。母は黙って最後まで聞き、それから蓮を強く抱きしめた。

「そうだったの。辛かったね。よく一人で耐えたね。いいか、蓮。あんたがどんな姿でも、何を言われても、母さんにとっては世界で一番大事な息子だよ。お前が生きてるだけで、母さんは報われてるんだ。それだけは忘れないで。」

その言葉が、暗闇に沈んでいた蓮の心に静かに明りを灯した。前を向く力が、もう一度戻ってきた。自分は一人じゃない。母がいる。かばってくれた美央がいる。本気で向き合ってくれる黒田がいる。翌日から、蓮は変わった。打ち込む覚悟が、まるで違った。その胸にあったのは、たった一つの誓いだった。

「見返してやる。あいつらが二度と俺を見下せないところまで、絶対に這い上がってやる。」

朝は誰より早く起きて走り込み、放課後は閉店間際まで黙々と器具と向き合う。必死のその姿に、黒田は目を細めた。

「随分いい目をするようになったな。何か火がついたか?」

「はい。あいつらを見返したいんです。俺を馬鹿にしてきた連中を、全員。」

「いいだろう。その怒りを熱量にしろ。絶対に諦めるな。お前のその継続力は、立派な才能だ。」

「才能なんて、ただ他にやり方を知らないだけです。」

「ふっ、世間じゃそれを才能って呼ぶんだよ。ただな、一つだけ覚えておけ。今はそれでいい。だが、いつかこれは誰かを見返すためじゃなかったって気づく日が来る。」

その言葉の意味は、まだ蓮には分からなかった。今はただ、湧き上がる闘志のままに前へ進むだけだった。

変わり始めたのは、蓮だけではなかった。いつからか、美央と二人で下校の道を並んで歩くようになっていた。

「相澤君、最近すごいね。背中、真っ直ぐになった。」

「藤井さんのおかげだよ。あの時声をあげてくれたから、俺、変わろうって思えたんだ。」

「私もね、実は走り始めたの。あんな風に笑われたまま終わるの、悔しいから。いつか見返したくて。」

「俺と同じだな。」

「うん。同じだから、一緒に見返してやろう。」

同じ痛みを知る二人は、別々の場所で同じ方を向いて歩き始めていた。

「ねえ、約束しよう。お互い、途中でやめないって。」

「ああ、約束する。」

たった一つの約束が、灰色だった蓮の毎日にはっきりとした色を与えた。家までの道を話しながら歩くその時間だけは、いじめの痛みも貧しさの引け目も、不思議と遠ざかった。いじめに耐え続けた日々が、蓮に耐える力を授けていた。皮肉にも、その力こそが肉体を作り替える上で何よりの武器になった。体は少しずつ、しかし確実に変わり始めた。脂肪が落ち、輪郭が引き締まり、筋肉の形が浮かび上がってくる。鏡を見るのが、初めて怖くなくなった。

卒業間近に控えたある日、蓮は黒田に告げた。

「黒田さん、俺、肉体美を競う大会に出ます。いつか、てっぺんを取ります。」

黒田はにやりと笑って、蓮の肩を叩いた。

「おう、やってみせろ。お前ならできる。」

灰色だった少年の物語は、ここで一度幕を下ろす。そして10年後、全く違う色を纏って、再び動き出すことになる。

10年の歳月は、全てを塗り替えていた。蓮は肉体美を競うフィジーク大会で次々と結果を残し、ついには国内の頂点に立った。その引き締まった体と、飾らない誠実な人柄は競技の枠を超えて注目を集め、今では多くの人が名前を知る存在になっていた。

一方、立花麗華は蓮の活躍を知っていた。雑誌の表紙に載った蓮を、テレビの特集で語られる蓮を、目にしていたのだ。

「ねえ、見た?この人。あの相沢蓮なんだって。」

「え、嘘。あの太ったのが?」

「信じられない。同窓会も来るらしいわよ。」

「ふふ、楽しみね。」

「楽しみって、何する気なの?麗華。」

「決まってるでしょ。あれだけ成功してるんだもの。私の隣に立つ男としてちょうどいいわ。私がもらってあげるのよ。」

「で、でも麗華、学生の頃、彼に結構ひどく当たってなかった?」

「覚えてるわけないでしょ。男なんてみんな、綺麗な女に笑いかけられたら、過去のことなんて全部忘れるの。それに…」

麗華は唇の端を釣り上げた。

「もし覚えてたって関係ない。私に認められるなんて、彼にとっては最高の名誉でしょ。」

「でも、どうせ元彼みたいにすぐに飽きて捨てちゃうんでしょう?」

「その時はその時で、別の男に乗り換えるわ。」

「あんたって、本当に男運がいいのね。」

麗華の口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。かつて見下していた相手が、今や成功者になっている。その事実は麗華にとって、嫉妬の対象ではなく、近づくべき獲物に変わっていた。自分の容姿があれば、相手がどんな立場になろうと手に入れられる。麗華はそう信じて疑わなかった。その本質は、10年前と何一つ変わっていなかった。

そして、同窓会の夜が来た。都内のホテルの宴会場に、かつての同級生たちが集まっていく。蓮はいつもと変わらぬ質素なジャケットを羽織り、静かにその扉をくぐった。会場に足を踏み入れた瞬間、10年前の空気が微かに肌に蘇った。だが、もう足はすくまなかった。あの頃とは、立っている場所も抱えているものも、何もかもが違う。蓮はゆっくりと会場を見渡した。視線の先に、見覚えのある横顔があった。壁際で、誰に媚びるでもなく静かにグラスを傾けている女性。派手さはないが、不思議と目を引く佇まい。蓮の胸が小さく跳ねた。10年前、たった一度だけ自分のために声をあげてくれた、あの少女。

「藤井さん、来てたのか。」

会場の中央には、すでにあの二人がいた。立花麗華と水原さやか。10年という時を得てもなお、二人は寄り添うように同級生たちの中心に立っていた。美央も、この10年で随分印象が変わっていた。すらりと痩せ、物腰には穏やかな落ち着きが宿っている。それでも装いは至って控えめだった。派手なドレスも高価なアクセサリーもない。シンプルで飾らない、品のいい服。華やかな会場の中では、むしろ目立たない一人だった。その地味な装いを、麗華たちは見逃さなかった。

「あら、藤井さんじゃない。相変わらず地味ね。せっかくの同窓会なのに、その格好。もしかして、それしか持ってないの?」

「ええ、これしか持ってないんです。でも、私は気に入ってるんです。」

「やだねえ。覚えてる?この子、昔ね、太っててさ、いつも教室の隅で一人でお弁当食べてたんだよ。」

クスクスと周りで笑いが起きた。それでも美央は動じなかった。

「ええ、覚えてますよ。あの頃の私もちゃんと私だったから、恥ずかしいとは思わないです。」

言い返すでもなく、卑屈になるでもない。その落ち着いた態度が、かえって麗華の神経を逆撫でしたようだった。

「何よ、その余裕。中身のない子に限って、分かったような顔するのよね。」

「余裕じゃないですよ。ただ、あなたの言葉でもう傷つかなくなった。それだけです。」

その一言に、麗華の表情がすっと険しくなった。手にしていた赤ワインのグラスを、見せつけるようにゆらりと揺らした。

「何よ。人生悟ったような言い方して、むかつくわね。ああ、なんだか手が滑っちゃいそう。」

次の瞬間、グラスが傾いた。パシャッ。赤い液体が、美央の淡い色のワンピースに浴びせかけられた。胸元から裾にかけて、みるみる赤黒い染みが広がっていった。

「あら、ごめんなさい。でも良かったじゃない。そんな安物がついたところで、誰も気づかないでしょ。」

「うわ、最悪。ねえ、これ撮ってもいい?」

さやかが当然のようにスマホを向けた。会場中がざわざわと音を立てた。美央は濡れたワンピースを、手のひらでそっと押さえた。

「拭けば落ちるから、大丈夫です。」

声も荒げず、涙も見せない。ただまっすぐに背筋を伸ばしたまま、その侮辱を静かに受け止めていた。その姿は、恥ずかしめられているはずなのに、麗華よりもずっと気高く見えた。その一部始終を、蓮は少し離れた場所から見ていた。隣では、数少ない当時からの友人である男が、苦々しげに口を開いた。

「あの二人、全然変わってねえな。卒業してから、何人泣かされたか。あの頃はみんな、麗華の家が金持ちだからって、怖くて何も言えなかったんだよな。」

「そうか。」

10年前、自分をかばって、自分まで標的になった女性。その身に今なお、同じ人間が同じやり方で踏みにじっている。蓮の中で、あの日くすぶり始めた火が、はっきりとした熱を取り戻した。蓮は手にしていたグラスを静かに置き、まっすぐ二人の方へ歩き出した。

「おおい、相澤!」

その時、麗華が蓮に気づいた。瞬間、彼女の表情が、下卑た笑みから華やかな笑顔へと鮮やかに切り替わった。

「あら、やだ。もしかして、蓮君?違っちゃった?」

麗華はするりと蓮に近づき、体を預けるように笑いかけた。

「すごいじゃない。テレビ見たわよ。昔はパッとしなかったのに、やればできるじゃない。」

褒めているようで、上から目線が抜けない言葉。蓮は表情を変えず、穏やかに応じた。

「ああ、久しぶり。元気そうだね。」

内心で、蓮は試していた。この10年で、麗華という人間が少しでも変わったのかどうかを。もし心から悔いて、人として変わったのなら、過去は過去として水に流してもいいと思っていた。しかし、美央へのこの態度で、答えはすぐに出ていた。

「本当に変わってないな、こいつは。」

蓮の視線の先で、麗華はちらりと美央を一瞥し、鼻で笑った。隣のさやかも、美央に聞こえるように陰口を続けている。蓮を持ち上げながら、美央への嫌がらせは何ひとつやめていなかった。

「ねえ、相澤君。今、彼女とかいるの?いないなら、私、あなたと付き合ってあげてもいいわよ。」

麗華は勝ち誇った顔で、蓮の腕に手を伸ばした。自分の容姿があれば、この成功者も簡単に手に入る。そう信じきった傲慢な笑みだった。

その瞬間、パシンッ。乾いた音が、宴会場に響き渡った。蓮の平手が、麗華の頬を打った。10年前、蓮が受けたのと全く同じ音で。

「な、なんで…」

会場が、水を打ったように静まり返った。麗華は頬を押さえ、信じられないという顔で蓮を見上げた。蓮は絶句する麗華を静かに見下ろしていた。怒鳴りもせず、声を荒げもしない。ただまっすぐに彼女を見て、口を開いた。

「10年前、お前は俺に同じことをした。汗が飛んだってだけで、俺の頬を張った。覚えてるか?」

「そ、そんな昔のこと、覚えてないわよ。」

「ああ、昔のことだ。だから俺は今日まで黙ってた。人は変われるかもしれない。そう思って、確かめに来たんだ。」

蓮は、すぐそばで立ち尽くす美央に一度だけ目をやった。

「でも、お前は何も変わってなかった。たった今、藤井さんのドレスにワインをぶちまけて、笑い物にしたな。成功した相手にはすり寄って、弱いと思った相手は10年前と同じように踏みつける。」

蓮の声は静かだったが、会場の隅々まで届いた。

「お前はさっき俺に言ったよな。昔も言った。『あんたみたいな片親の貧乏は、見下されて当然でしょ』って。人を見下して当然の存在だと思ってる。その考え方が、何ひとつ変わってないんだよ。」

麗華の顔が引き攣っていった。周囲の同級生たちがざわめき始める。その視線は、もはや蓮ではなく麗華に集まっていた。

「ち、違う。私は…」

「人を見下す者は、いつか自分に帰ってくる。今日のこれは、その報いだ。」

かつて麗華が放った「見下されて当然」という言葉が、今、全く逆の意味を持って、彼女自身に帰っていた。麗華はそれでもまだ、状況が分かっていなかった。頬を押さえたまま、必死に笑みを作ろうと、声を上ずらせる。

「待って。誤解よ、相澤君。私、あなたのこと、ずっと気になってて…。二人で話しましょう。お店、予約するから。」

「いらない。」

「お、お金なら、私の家、いくらでも…。」

「金で人の心が買えると思ってるところが、お前の終わってるところだ。」

蓮は静かに首を振った。

「初めはな、お前らを見返してやる。その一心で体を作り始めた。だが、続けるうちに気づいたんだ。これは誰かを見返すためじゃない。10年前に俯いていた自分を、もう一度立たせるための戦いだったんだって。お前にとっての美しさは、人を踏みつけるための道具だった。でもな、本物は誰かを下に見るためにあるんじゃない。お前には、一生わからないだろうな。」

そして、ここで会場に一つのざわめきが走った。同級生の一人が声をあげたのだ。

「おい、この人、相澤だろ。ほら、肉体美の大会で優勝したあの人だよ。テレビにも出てる。」

「嘘だろ?あの、いじめられてた相澤が?」

蓮の正体がはっきりと知れ渡った瞬間だった。かつて教室の隅で膝を抱えていた少年が、今や誰もが知る成功者として目の前に立っている。その事実が、麗華の敗北を決定的なものにしていった。

「待って、相澤君。あれは、あの頃は私もまだ子供で…。」

「28にもなって、お前は今、同じことをした。人前で藤井さんにワインをかけて、恥ずかしめた。あれは『子供だった』の言い訳が通る話じゃない。」

麗華はもう何も言い返せなかった。すがるように見回した先に、味方の顔は一つもなかった。ざわめきはやがて、麗華への明確な反発に変わっていった。

「立花さん、昔から相澤や藤井さんのこと、いじめてたよな。俺、見てたよ。今のだって、成功した相手にただ手のひら返してさ、見ててぞっとしたわ。」

これまで麗華の牽制を恐れ、口をつんでいた者たちが、次々と声をあげ始めた。成功者となった蓮の前で、ようやく事実を口にする勇気を得たのだ。女子の一人が、震える声で進み出た。

「私も、ずっと言えなかった。あの頃、立花さんに逆らったら、次は自分が標的になるって、みんな分かってたから。藤井さんが相澤君をかばった時、本当はすごいって思ったのに、私、何もできなかった。藤井さん、ごめんね。今更だけど、ごめん。」

美央はその同級生に、静かに首を横に振って見せた。恨みはもうなかった。それを切っ掛けに、堰を切ったように声が次々と上がっていった。

「俺、ずっと後悔してたんだ。あの時、相澤がいじめられてるのを見て見ぬふりした。立ち向かうのが怖くて、逆らえなかった。でも、結局それって、俺たちも同じだったんだよな。」

かつて麗華という太陽の周りを回っていた人々が、今やその引力を失っていた。

「ちょっと、やめてよ。なんで私が悪者なの?あの子たちがとろいから…。」

麗華は周囲を見回したが、もう誰一人として、彼女の側に立つものはいなかった。かつて彼女を取り囲んでいた同級生たちは、今や冷ややかな目で彼女を見ている。ただ一人、水原さやかだけが麗華の隣に残っていた。だが、そのさやかも味方というより、ただ逃げ場を失って立ち尽くしているだけだった。

「れ、麗華、どうしよう。みんな、こっち見てる…?」

「うるさいわね。あんたが何とかしなさいよ。」

「なんで私が…。いつも麗華が決めてたじゃない。私はただ、あんたに合わせてただけ。」

「はあ?今更、私のせいにする気?」

長年、強いものの側につくことだけで身を守ってきたさやかは、その強いものが崩れた瞬間、立っていられなくなった。二人は会場の真ん中で孤立していた。10年前、二人掛かりで蓮と美央を追い詰めたあの構図が、そっくりそのまま立場を入れ替えて再現されていた。

その時、美央が静かに歩み出た。そして、蓮の隣に、自らの意思で並んで立った。

「相澤君。」

「藤井さん。」

「ありがとう。でも、もういいよ。これ以上は、私たちがこの人たちと同じ目線に降りることになるから。」

美央はそこで一度だけ、麗華に視線を向けた。

「立花さん、私、あなたを恨んではいないの。ただ、もう二度と、誰かを見下す道具に、その綺麗さを使わないで欲しい。それだけ。」

「何を偉そうに…。」

麗華はその静かな言葉に、かえって打ちのめされたようだった。怒鳴られたなら言い返せた。だが、哀れみと僅かな願いだけを向けられて、麗華は何も言い返せなかった。美央の言葉に、蓮は静かに頷いた。美央は復讐の連鎖を望んではいなかった。蓮は麗華に背を向けた。

「行こう、藤井さん。」

崩れ落ちるように床に座り込んだ麗華と、呆然と立ち尽くすさやかを残して、蓮と美央は会場を後にした。二人の背中には、もうかつての怯えはなかった。

同窓会での一件は、麗華の人生を静かに、しかし確実に崩していった。あの夜の出来事は、すぐに人に広がった。成功者となった蓮にすり寄り、平手打ちを受けた麗華。そして、彼女が長年いじめの中心にいたという事実。容姿と立場だけを頼りに築いてきた世界は、もろくも音を立てて崩れ始めた。会社では同期から距離を置かれ、彼女を持ち上げていた人間も、潮が引くようにいなくなっていった。そんな麗華に最後まで付き添っていたのは、相変わらずさやかだけだった。だが、その関係も、もうかつてのものではなかった。

「ねえ、麗華。私たち、これからどうするの?最近、誰も誘ってくれないし。」

「うるさいわね。あんた、私がいなかったら、何一つ決められないくせに。」

「そういうとこ、昔から何も変わってないよね。」

さやかは、寄り添いながらも、もう麗華を信じてはいなかった。蓮の元に、同窓会で再会した友人から電話が入った。

「蓮、聞いたか?立花、だいぶ参ってるらしいぞ。肩を張って通ってたジムも、会費が払えなくてやめたって。」

「そうか。」

「SNSじゃ今も着飾った写真ばっかりあげてるけど、昔の連中はもう、みんな静かに離れてるよ。すがる相手を変えては、その度に突き離されてるみたいでさ。」

電話を切った蓮の胸をよぎったのは、勝ち誇りではなかった。ただ静かな、やるせなさだけだった。容姿が衰えることばかりを恐れ、それだけにすがって生きてきた人間の行きつく先。それを蓮は、誰よりもよく知っていた。それでも麗華は、負けを認めなかった。鏡の前に立つ度に、自分にはもうそれしか残っていないことを思い知らされる。そして、その「それ」さえ、永遠ではないことも。だが、その恐怖を、彼女は誰にも見せようとはしなかった。

「藤井美央、あの地味な女にだけは、絶対に負けたくない。」

誰もいない部屋で呟いた、その執着だけが、麗華に残された最後の灯りだった。

一方、蓮と美央は、あの夜をきっかけに、少しずつ距離を縮めていった。最初は同窓会の礼を伝えるだけの短いやり取りだった。それがいつしか、夕食を共にする時間に変わっていった。飾らない店で向かい合って箸を動かしながら、二人は誰にも言えなかった過去を、少しずつ分け合った。

「藤井さん、10年前、かばってくれてありがとう。あの時の優しさが、あれからずっと俺を支えてた。」

「うん。私こそ、あの時相澤君がいてくれたから、頑張れたの。」

「一つ聞いてもいいか?同窓会の時、どうして君はあんなに堂々としていられたんだ。あれだけ言われても。」

「だって、私の価値は、あの人が決めるものじゃないもの。自分で決めるって、ずっと前に決めたから。」

「かっこいいな、君は。」

「相澤君に言われると、照れるな。」

その言葉に、蓮は自分の中の何かがストンと腑に落ちる音を聞いた。見下される痛みを知る者同士、二人は互いの中に、誰よりも信頼できる相手を見出していた。やがて二人は、ごく自然に、生涯を共にすることを誓い合った。灰色だった少年の物語は、こうして彩りを纏っていく。

だが、物語にはもう一つだけ、用意された大きな逆転が残されていた。

それから一年後、蓮と美央の結婚式の日が来た。親しい人だけを招いた、さやかな式だった。チャペルに柔らかな日差しが差し込む。誓いの言葉を交わした二人を、温かな拍手が包んだ。最前列では、母のくみ子がハンカチを目に当て、その隣で、師匠である黒田が柄にもなく鼻をすすっている。蓮は隣に立つ美央の横顔を見た。こんなにも穏やかな時間が自分の人生に馴染む日が来るとは、かつての自分には想像もできなかった。全ては報われたのだ。会場にいる誰もが、そう信じて疑わなかった。

その時だった。バンッ。会場の扉が、突き破られるように開け放たれた。柔らかな空気が一瞬で凍りつく。談笑していた招待客が、一斉に振り返った。逆光の中に、一つの人影が浮かび上がる。カツ、カツ、と靴音だけが、静まり返った会場に異様に大きく響いた。蓮の背筋を、冷たいものが走り抜けた。

「まさか、よりにもよって、こんな日に、この場所に…。」

「どうしてお前が、ここに…。」

光の中から進み出たその顔を見て、蓮は思わず息を飲んだ。立花麗華だった。そしてその後ろには、相変わらず水原さやかが付き従っている。麗華はこの一年、周年だけで自分を磨いてきたのだろう。あの夜の屈辱を晴らすためだけに、目を覚ますような真っ赤なドレスを纏い、着飾っていた。

「おめでとう、蓮君。でも、本当にその人でいいの?」

麗華は自信に満ちた笑みを浮かべ、自らの着飾った姿を見せつけるように、美央の前に立った。

「ねえ、見てよ。地味なその子より、私の方がずっと綺麗でしょ。今からでも、遅くないわよ。」

「そうよ。麗華の方がずっと…。」

会場が凍りついた。あまりの非常識さに、誰もが言葉を失った。招待客がざわめき、参列者の席から立ち上がろうとする者もいた。

「か、か、いい加減にしろ!ここは…。」

その蓮を、美央がそっと手で制した。

「蓮君、大丈夫だから。」

ずっと静かに微笑んでいた美央が、ゆっくりと立ち上がった。そして、まとっていたウェディングドレスの上半身に手をかけると、その布をすっと剥がした。

「え、美央…?」

その一瞬、蓮の声が上擦り、会場から息を飲む音が漏れた。ドレスの下から現れたのは、極限まで鍛え上げられた美しい肉体だった。一切の無駄がなく、それでいて女性らしいしなやかさを湛えた、芸術品のような体。それは、世界の舞台でも戦えるレベルの、本物のボディだった。

「だ、何それ…?」

麗華の顔から笑みが消え去った。着飾った自分の姿が、その圧倒的な本物の前で、ひどく安っぽいものに見えた。蓮もまた、誰よりも大きく目を見開いていた。知らなかった。妻が、その服の下にこれほどのものを秘めていたなんて。美央はいつもゆったりとした服で体を包み、自分から見せようとは一度もしなかった。だから、夫となる蓮でさえ、今日この瞬間まで、まるで気づいていなかったのだ。

「黙っていて、ごめんね、蓮君。」

美央は夫に優しく微笑んでから、まっすぐに麗華を見据えた。その瞳には、怒りも勝ち誇りもなかった。ただ静かな、哀れみだけがあった。

「私は、誰かに勝つためでも、見せびらかすためでもなく、ただ自分自身のために体を磨いてきました。だから、大会にも出ないし、ひけらかしもしなかった。本当に大切なのは外見じゃなくて、中身だと思っているから。着飾らなくても、自分は自分。それで十分だと、ずっと信じてきたの。」

「そ、そんな…だったら、なんで隠して…。」

「あなたには分からないでしょうね。見せるために磨くんじゃない。誰に見られてなくても、自分が納得できるかどうか。それだけのために、人は努力できるの。」

麗華は、何も言い返せなかった。

「立花さん、あなたは確かに綺麗。それは認める。でも、あなたは外見を飾ることばかりで、一度も本当の自分自身を見ようとしなかった。容姿でしか人を測れなかった。だから、いくつになっても、あなたの心は子供のままなんだよ。」

その言葉は、どんな罵声よりも深く、麗華の胸を貫いた。麗華は、そしてさやかは、完全に言葉を失い、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

「う、こんなの…見た目ない。私は、私は…。」

声は震え、最後まで言葉にならなかった。一年かけて磨いた自分の全てが、本物を前に、呆気なく崩れていく。麗華には、もうその場に立っていることさえできなかった。

「麗華、もう行こう。」

やがて二人は、逃げるように会場を後にした。誰も、その背中を追わなかった。静寂が戻った会場で、蓮は美央の手をそっと握った。

「すごいな。君は。」

「本当に驚いた?」

「ああ、乾杯だ。」

その時、母のくみ子がゆっくりと二人のそばへ歩み寄ってきた。涙で濡れた目で、その妻を代わる代わる見つめる。

「蓮、立派になったね。『あんたが生きてるだけで、母さんは報われる』って、あの時言ったろ。今はもう、報われすぎて、言葉にならないよ。」

「母さん、美央さん、これからは二人で支え合っていきなさい。それが一番の親孝行だから。」

「はい。必ず。」

会場の後方では、黒田が太い腕を組んだまま、その一部始終を見守りながら、ふっと口の端を上げた。

「よくやったな、坊主。いや、もう坊主じゃねえな。」

黒田はゆっくりと頷いた。どん底にいた、肥満と笑われていた坊主が、家族に囲まれて笑っている。それだけで、師としての心は満たされた。蓮はふと、あの夜の母の言葉を思い出していた。『お前が生きてるだけで、母さんは報われてる』。あの一言が、どん底の自分を救ってくれた。今度は自分が、その言葉を自分の家族へ、そして次の世代へと渡していく番だ。

努力は、人を見下すためでも、誰かに勝つためでもなかった。それは、俯いていた自分自身をもう一度立ち上がらせ、自分を取り戻すためにあったのだ。そして、誠実に積み重ねたものは、必ずいつか報われる。

窓の外には、抜けるような青空が広がっていた。かつて灰色だった世界は、今、どこまでも明るく、晴れ渡っていた。

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