「窓際の老いぼれは退職、これだけだ」――新社長は会議室でそう言い放ち、63歳の私に退職金480万円を突きつけた。41年間、会社の心臓部システム“ユニコーンコア”を守り続けた私に。「前例がないとは言わせない」と、彼らは笑った。私は静かに「承知しました」とだけ答え、その場を辞した。だが彼らは知らない。私が引き継ぎ書を紙で書いた理由も、内ポケットの革の手帳に込めた思いも。弟子の桐生にだけは、私はこ…

「窓際の老いぼれは退職、これだけだ」――新社長は会議室でそう言い放ち、63歳の私に退職金480万円を突きつけた。41年間、会社の心臓部システム“ユニコーンコア”を守り続けた私に。「前例がないとは言わせない」と、彼らは笑った。私は静かに「承知しました」とだけ答え、その場を辞した。だが彼らは知らない。私が引き継ぎ書を紙で書いた理由も、内ポケットの革の手帳に込めた思いも。弟子の桐生にだけは、私はこ...

会議室の空気が凍りついた。マイクスタンドの前に座った男が、唇の端を歪めて低く告げた。窓際の老いぼれは退職、これだけだ。

人事部長は視線を手元の資料に落とした。新社長の隣で、赤嶺出張部長がタブレットの数値を指で叩いた。

「退職金規定の最低額のみ適用する。前例がないとは言わせるな」

会議室の隅に立つ作業着姿の老人が、静かに口を開いた。

「承知しました。規定の通りというお言葉、忘れないでいただきたい」

一瞬、部屋の空気が止まった。赤嶺が鼻で笑った。

「何を言ってるんだ。脅しですか?」

だが老人はもう何も言わず、深く一礼しただけだった。

男たちはまだ知らない。自分たちが今、笑いながら切り捨てた老人が何者なのか。その言葉が半年後、会社も自分たちも地獄の底へ引きずり落とすことになるとは。

トアテクノス本社12階、北側の窓際の一角。古びた金属製の机に、作業着姿の男が静かに腰を下ろした。

男の名は宮本健吉。63歳。机の上には書類トレーが2つと湯呑みが1つ、それと会社支給の中古パソコンのみ。

健吉は冷めた茶を一口含み、内ポケットの上からカバンの中の革の手帳の感触を確かめた。茶色の皮、糸のほつれた古いもの。これは故・桐山三郎前社長が74歳で退任する際、健吉に手渡してくれた私物の手帳である。

「俺はこの1冊とこの1着で41年勤めてきた。桐山さんはいつも言っていた。人が技術を作り、技術が人を作る、と」

そこへ廊下の奥から若い足音が近づいてきた。

「宮本さん、おはようございます。お早いですね」

桐生翔太、28歳。健吉が5年前から直接育ててきた、たった1人の弟子だ。桐生の表情がわずかに硬い。

「あの、宮本さん。今朝のうちにちょっとお耳に入れたいことがありまして。うちの保守チームの編成が近々変わるかもしれないという噂が出てまして。ユニコーンコアを新社長か赤嶺出張部長が海外のクラウドに全部置き換えるおつもりだとか」

健吉は思わず息を飲んだ。ユニコーンコアとは、この会社の基幹システムのことだ。桐山さんが退任し、新社長が就任したのは3ヶ月ほど前だというのに。

「もし置き換えるなら、保守チームもいらないから解体すると。赤嶺さんが海外ベンダーを呼ばれているんです。3週連続、週末もお帰りにならない日が続いています」

「お前さんはその会議には呼ばれてないのか?」

「はい。チーム全員誰も」

健吉は湯呑みを置き、桐生をまっすぐに見た。

「お前さん、それで朝からこんなところまで知らせに来てくれたのか?」

「いえ、宮本さんに何かを期待しているわけじゃないんです。ただ、黙って消えるのは嫌だったので」

「お前さんがここまで来てくれた。それで十分だ」

桐生は深く頭を下げ、退勤の時間だと去っていった。健吉は窓の外に視線を移した。3月の日差しはまだ低い。

不意に机の電話が鳴った。

「はい、宮本です」

「本店知財法務統括部の江島です。宮本さん、お久しぶりです」

「江島さん、お元気ですか?」

「ええ、おかげ様で。宮本さん、少しお時間いただけたらお伺いしたいことがありまして。特許の件、それから職務発明規定のことなんです」

25年前、健吉が職務発明規定の起案に立ち会った時、まだ30歳のチーフ担当だった江島友子は、今では本店の知財法務統括部長で社内の弁護士でもある。

「資料を整理していて気になることがありまして。規定の改定の件で……あ、いや、改めてこちらから連絡します」

電話の向こうで江島が誰かに呼ばれた気配がして切れた。

数日後の朝、健吉宛に社内メールが届いた。差出人は人事。件名は「面談のお願い」。指定された会議室は本社6階の大会議室「桃」。新社長の和、赤嶺出張部長、人事部長の小田原が同席するとあった。健吉は黙ってメールを印刷し、引き出しに入れた。

午前10時。健吉が会議室の扉をノックすると、中から女性の声がした。

「どうぞお入りください」

会議用の長い机の向こう側、3人の男が並んで座っていた。中央が和、右隣が赤嶺、左隣が人事部長の小田原。机の中央にはペットボトルのお茶と録音レコーダーが1つ置かれていた。和自身が前職時代から持ち込み、取締役会の議事録用に流用している機材だった。

「宮本さん、お忙しいところ恐縮です。今日は率直なご相談です。シニアアドバイザー職の制度を今期から見直すことになりました。組織を守る責任が私にはある。全体最適という言葉を宮本さんにもご理解いただきたいというだけの話です」

健吉は何も言わず、机の上に置いた両手の指を軽く重ねた。

「タコみたいなんですよね。シニアアドバイザーっていう仕組み自体が。決まった業務もないのに固定費だけかかってる。通を見ると現場が回らないんです」

「承知しました」

健吉は静かに頷いた。その低く穏やかな声色に、和は初めて見たような目をした。だがすぐに笑みを取り戻し、人事部長の小田原に視線で促した。

「宮本さん、首ということではないんです。あくまで今後のキャリアについてのご相談で」

「おっしゃることは分かります。ですが、私は今後のために桐生たち若手のために技術を使えて行く責任が」

「個人の倫理感で会社を動かされたら溜まったものじゃない」

和が健吉の声を遮った。低く沈んだ調子だった。

「君1人の指命官のために全社員を路島に迷わせるつもりか。これは上の判断だ」

「上と申しますと?」

「投資ファウンドだ。当社は私の社長就任後に投資ファウンドの参画に入り、取締り役会の過半関数はファウンド派遺の社外取締り役で占められている。現社調査の役員はもう半分以上が退任し、老資協力会も今期から実質的に競技事項はなしで終わっている」

「承知しました。ただ、私の41年とユニコーンコアの30年については現行規定の通りに扱っていただければと思っております」

「規定ね。それも見直せです。組織としてご理解いただきたい」

「規定を見直される……江島が先ほど言っていた規定とは何のことか」

「退職金規定も職務発明規定も、ということでしょうか?」

「全体的にですよ。前例がないと言わせるなというのが私の方針です」

「承知しました」

健吉の「承知しました」の意味を、和はおそらく取り違えていた。健吉が受け入れたと受取ったらしく、和は満足にペットボトルの茶を一口含んだ。

「君は金属41年、機関システム補修管理部長15年と聞いている。その前は機関システム開発部の主任技長を20年。要するに41年、同じ系統の仕事を続けてきたわけだね」

「ずっとユニコーンコアの面倒を見てまいりました」

「そのユニコーンコアーですが、もう終わりです。海外のクラウドに全部置き換えます。判断材料は経営会議に出してあります」

赤嶺がタブレットの画面をくるりと裏返して健吉に向けた。健吉は画面を見ず、赤嶺の顔をじっと見た。

「ユニコーンコアの内部例外処理を全部海外のクラウドの方々に渡されるのですか?」

「だかそれも引継ぎ書として5月になるまでに紙でまとめてください。古いやり方で恐縮ですけど、宮本さんはそういうの得意でしょう」

「お引受けします。ただ、私した後の意地にもそうの人では必要になります」

「マジでこいつ悪い。マニュアル化されてない例外処理なんてもういらないんですよ。今時は海外ベンダーの標準実装で現場が回るんです」

健吉は何も答えなかった。机の上で右手が内ポケットの上をそっと撫でた。革の硬い感触が布に伝わってくる。

その時、会議室の扉がノックされ、秘書が一礼して入ってきた。

「失礼します。再来週、東日本輸送機工業の島村部長がご挨拶に お見えになるとご連絡が」

「それは赤嶺君が受けてくれ」

「承知しました」

健吉の目がほんのわずか動いた。島村新一郎。東日本輸送機工業の購買統括役員。健吉はその名を20年知っていた。ユニコーンコアが守り続けてきたトアーテクノス最大の取引先である。

健吉は静かに一礼して会議室を出た。廊下のベンチに腰下ろし、もう1度だけ革の感触を確かめた。今日は何も言わなかった。だ何も同意していない。

時は過ぎて4月の終わり。健吉宛に2度目の社内メールが届いた。差出しは人事。件名は「特許手当てに関するご通知」。次年度より特許手当て及び義手当ての支給を段階的に縮小いたします。短い事務的な一文だった。

健吉は文を2度読んで、静かに引出しに入れた。

その日の夕方、フロアの隅の自販機の前で、健吉は桐生に出会った。

「宮本さん、保守チーム来月解体です」

桐生の手にはまだ封の開いていない観光品があった。

「いつ決まった?」

「今日、赤嶺出長から。後騰で文章はまだ来てません」

「お前さんはどうする?」

「次の部署は社内ヘルプデスクと深夜の工場ライン巡回が月10回。それと古い障害ログを紙で整理する書類業務です」

「お前さんが詫びることじゃない」

「いいんです。出の俺がここまで使ってもらえただけで十文です」

「それを言うな。お前さんが拾われたんじゃない。お前さんがこちらを拾ってくれたんだ」

数日後の朝、健吉の机の電話がまた鳴った。

「はい、宮本です」

「江島です。宮本さん、例の規定の改定を調べ直したところ、やはりおかしいです。不利益変更の同意書も老資協議も老資記書の届出も何も確認できないんです。特許手当ての打切りの通知もいただきましたが、それも同じです。就退規定変更の周知手続を経がありません。職務発明規定も改定の議事録が出てこないのです」

江島の声にはっきりとした緊張があった。

「宮本さん、ユニコーンコアの引き継ぎ書、どなたに渡される予定ですか?」

「赤嶺出長に紙で来月までにと」

「私の方でも保管をお願いできますか? 本天監査物に提出す記録として」

「もちろんです。お送りします」

「目安箱にも複数件似た告発が届いており、本天監査部が正式調査に動いております」

電話を切ると、健吉は引出しから大学ノートを取り出し、ボールペンの先を押し出した。健吉は代謝後、社宅マンションの机でユニコーンコアの内部例外処理を手書きで書き始めた。新社長たちと面談したあの日から毎晩2時間だ。机スの隅には妻かの家と湯の途えた湯みがあった。30年分の暗黙地を紙の上で順に時作業だった。

「桐山さん、これでよろしいですか?」

健吉は時折り誰にともなく呟きながら板券を埋め続けた。

2週間後の朝、健吉が分厚いノートのコピーを抱えて赤嶺の席を尋ねると、赤嶺はけたるそうに顔を上げた。

「ああ、宮本さん、霊の私に参りました。引継ぎ一緒、287項目です」

「ああ、カスパはある。あ、これ要らないです。いりません。本当に赤名出長、KP Iなんで、こういう紙のドキュメントもうやめてって前車に通達したんですよ。全部海外ベンダーの自動以降で吸い込まれますから」

赤嶺はノートのコピーを机の脇のシレッターに突っ込んだ。機会的な裁断音がフロアーに響いた。

「俺全職は外しの戦略コンサルなんで、和社長と同じフオームからファンードに送り込まれた組です。30年もの暗黙地とか経済合理性ゼロですよ、マジで」

健吉は何も答えず、シレッターの中で裁団されていくユニコーンコアの30年をじっと見ていた。健吉は赤嶺の机を離れた。廊下の窓から刺す光が健吉の作業技の襟元にわずかに影を落としていた。健吉は内ポケットの上から革の感触をもう1度確かめた。写しはもう一部、江島に高便で送ってあった。

就6ヶ月目、5月の連休が明けた朝。桐生の左戦事例が正式に発せられた。次の部署は社内ヘルプデスク、深夜の工場ライン巡回点検が月10回、それと技術文書アーカイブ質の紙整理。発令日5月10日付。事務的な一文だった。

健吉は自分の机の前に立ったまま、その事令のコピーを桐生の手から受取った。

「宮本さん、申し訳ありません」

「お前さんが詫びることじゃない」

「ええ、でもヘルスプデスクの研修が来週から始まりますので、星チームの仕事は今日でおしまいです」

健吉は無言でポケットの上から革の表面を指で撫でた。糸のほれた古い革の感触が布に伝わる。

「桐生」

「はい」

「お前さんに前渡したユニコーンコアの内部例外処理を全部紙で写したあのファイル。お前さんの机の引き出しにまだあるか?」

「ああ、はい。まだあります。こちらへ持ってきましょうか?」

「いや、大丈だ。何かあった時のために取っておいてくれ」

その夕方、定時チャイムが鳴る少し前、桐生が健吉の机のところにもう1度やってきた。

「宮本さん、最後にちょっとだけお話ししてもいいですか? 私、星チームに来てからの5年間で一っ気づいたことがあるんです。人が技術を作って、その技術がまた人を作っていくんだなって。ユニコーンコアって、宮本さんとかその前の義師長の方々が長い時間かけで作られたものですよね。毎日触らせてもらってるうちに、私自身も皆さんの30年にちょっとずつ作てもらってた気がするんです」

健吉はすぐには答えなかった。

「すみません。別れ際屋に変な話て」

「いや、変な話ではない。お前さんがそれを自分で見つけたんなら、もそれでいい」

「ありがとうございます」

「桐生。お前さん、28か。これから先長い。俺がここを知り添いた後も、お前さんの技術はお前さんが守れ」

「はい、覚えておきます」

「物事の順番は、椅子と狂ってもまた戻る。30年見てきたから。それは確かだ」

桐生は深く頭を下げ、退勤の準備をしてフロアを出ていった。桐生の作業技の背中が廊下の角に消えるまで、健吉は静かに見送った。

健吉は1人、自分の机に座ったまま内ポケットから革の手帳を取出した。両手で挟むように握り、最初のページをゆっくりと開く。万年室で書かれた1行の格減が、初めて桐山の手から受取った朝と同じコス夕で紙の上に残っていた。

「桐山さん。教えた覚えのない子に、あの言葉が渡っていました」

健吉の目の奥に、タバコの煙の向こうで微笑む桐山の顔色のような何かがよぎった。健吉は手帳をそっと閉じ、内ポケットに戻した。革の重みがいつもより少しだけ胸の真中に伝わってきた。

その時、机スの上のレターケースに内部便の封筒が一通置かれていることに気づいた。差出しは東日本輸送機工業株式会社、購買統括役員・島村新一郎。封を切ると、短くこう書かれていた。

「基幹機関システムの保守体制について、品質保証強化のご対応をお願い申し上げます。詳細は別途書面にて」

健吉は封筒を引出しの1番奥に静かにしまった。明日もまた同じ時刻に出社する。それだけだった。

5月の終わり。新社長が就任から6ヶ月目の末日。午後2時、健吉は再び大会議室「桃」の扉をノックした。大会議室に入る直前、廊下の鏡に映る自分の作業姿を健吉は一度だけ見た。

「俺はこの一着で41年務めた」

そしても1つ確かなことが胸の真中にあった。あの言葉が桐生に渡っていたのか。健吉は静かに頷き、扉を開けた。

机の長づこう側、前回と同じ3人が座っていた。和、赤嶺、人事部長の小田原。机の中央には録音レコーダャー、そして退職通告書らしき1枚の書面と退職規定の冊子が置かれていた。

「宮本さん、お時間いただきありがとうございます。今日は結論をお伝えします。シニアアドバアイザー職の制度廃置に伴う宮本さんのご退職を、来月末でお願いしたい」

健吉はも改めて話すことはないと思っていた。

「承知しました」

「ご退職につきましては、海退退職金規定に基づきこちらの金額となります」

和は通告書形の上で健吉の方へに滑らせた。健吉は受取り、一目で数字を確認した。

「480万円、ですか?」

「ええ、自己都合退職の最低額です。前例がありますので」

「P DCAは合わせない。部署を畳むのに最低限のコストで住むなら妥当でしょ」

「規定上、宮本さんの金属41年のテーブルだと約3200万円という計算になりますが、それは旧規定の話で」

和は茶を一口含み、唇の端をほんのわずかに歪めた。前職時代の癖がまた漏れる。

「窓際の老いぼれは退職、これだけな」

短い調が低くこもって漏れた。人事部長の小田原が視線を手元の通告書に落とした。

「いいですよね。シンプルで、RO I的にもこっちの方が全社に説明しやすい」

赤嶺が同調して肩を揺らした。

健吉は手元の通告書をもう一度ゆっくりと畳んだ。机の上で右手が内ポケットの上をそっと抑えた。革の感触が布越しにはっきりと伝わってくる。健吉は間を置いて、低く穏やかな声で告げた。

「わかりました」

その瞬間、会議室の空気が不思議に止まったように感じられた。

「あ、いや、君は本当に話しの早い人だね」

和が満足げに笑った。

「マジでこういう昔の人って扱いやすくていいですよね」

赤嶺が腹を抱えて笑った。

その時、会議室の扉が外からノックされた。秘書が扉を開ける。廊下の向こうから紺色のスーツを着た女性が、革のブリーフケースを手に一礼して入ってきた。

「失礼します。本店知財法務統括部長の江島と申します」

「江島さんですか? 本日こちらに何のご用で?」

「和社長、赤嶺出張部長、人事部長。お時間を頂戴いたします。当社特許法と職務発明規定法、そして当社顧問弁護士務所からの意見を、本日本店から持参しました」

江島は机の上に3冊の分厚い書類を静かに置いた。

「宮本義長は当社として12件、共同発明者として7件、計19件の特許出願でいらっしゃいます。旧規定の対価生産規定に照らし、直近10年内の出願5件について、推定2億3000万円相当の利益が見払いとなっております」

「何の話を君は」

「過去5年分の発明出願所原現法の写しもこちらに用意してございます。当社特許データーべースには前の発明者情報が登録されておりますが、人事データーべースへの紐付けは長年未整備の状態でございました」

「ちょ、待って。それ本当に宮本さん、12件も?」

「当社法務部の弁護士として申し上げます。今回の退職金規定の改定は、労働契約法10条の合理性要件を満たしておりません。職務発明規定の改定も、特許法35条6号の従業者意見聴取手続を経ておりません。訴訟になれば、当社の敗訴リスクは極めて高いと判段しております」

和の膝が机の下で小刻みに震え始めた。椅子の上で体重がわずかに後ろにずれている。喉仏が2度大きく上下した。空気を飲み込むような不自然な動きだった。額に薄く油汗がにじみ、それを拭うこともできず、右手は卓上の万年室を握ったまま白く強張る。万年室が指の間から滑り落ちた。パチンと乾いた音が床のリノリウムに響き、転がる先でも一度小さく跳ねた。隣に座った人事部長・小田原が椅子を半歩横にずらす。その視線は和と江島の間をも生していなかった。手元の通告書を一心不乱に凝視していた。

高設の沈黙が5秒、10秒と続くうち、赤嶺のタブレットの画目が自動的に暗くなくり、彼の指はも数値を叩いていなかった。

「規定の変は……赤嶺、いや、赤嶺出長がファウンドの方針として推進していた案だ」

「は、ちょっと待って下さい、社長。規定の改定を指図されたのは、社長ご自身じゃないですか? 私はデジタル変革の推進部分だけをお伝えしていただけです」

「黙る。私はデジタル変革の応信は君が立案したと取締り役会で説明してきたんだぞ」

「社長、あの取締り役会の説明、私の名前で作るよう指示されたのは社長です」

「君がファウンド本社からの新賞、私のところに持ってきたじゃないか」

「あれは社長が事前に承諾されたから、私が形式上提しただけです」

赤嶺の声が途中で力なく途切れた。タブレットを机の上に置き、机の縁を強く握る。

「お言葉ですが、当社の役員会議録、それから録音レコーダャーの音声記録は、当社のサーバーに全て自動転送されております。本日のご面談も同様に記録が進んでおります。過去6ヶ月分の取締り役会と、本日の面談を含む全ての面談記録は、本店監査部の法ですに正査作業に入っております。なお、録音レコーダャーの音声は、規定上ファウンド本社の法務部にも定期的にバックアップされる仕組でございます」

和の顔から最後の色が引いていった。

健吉は静かに、目の前の退職金通告書を半分に畳み、も半分に畳み、自分の作業技の胸ポケットに収めた。そして内ポケットの上から革の感触をもう1つ確かめた。

「桐山さん、俺はあの言葉を桐生に渡しました。お預かりして、ユニコーンコアは別の方々の手に渡ろうとしていますが、ここから先は俺のやり方で片付けます」

健吉は椅子から静かに立ち上がった。

「では、私はこれで退職の手続につきましては、人事の方々と別途お合わをお願いいたします」

健吉は一礼して、会議室の扉を静かに開けた。部屋を出る前にもう1度振り返った。和は椅子に座ったまま両手で顔を覆い、肩を震わせていた。赤嶺はタブレットを膝の上に置いたまま、画目の暗い反動に自らの青ざめた顔を映していた。人事部長・小田原はも2人の方を見ていなかった。

健吉は無言で扉を閉めた。窓の外、5月の日がも真上に近かった。

退職から3週間が過ぎた6月の終わり。健吉は社宅マンションのキッチンで朝のラジオを聞きながら湯みを傾けていた。

「電子部品メーカー、トアーテクノスで、自社開発の基幹システム“ユニコーンコア”に大規模な障害が発生したとの情報が入っております。同社の主顧客である自動車サプライヤー各者では、生産計画への影響を懸念する声が…… 」

健吉は湯みを置き、ゆっくりと胸ポケットを抑えた。革の感触がいつものように布に確かに伝わってくる。机の上の携帯電話が不意に鳴った。

「はい、宮本です」

「宮本さん、桐生です。ユニコーンコアが止まりました」

桐生の声には、動したようにも追われたようにも聞こえるわずかなかれがあった。

「昨夜23時頃、最初のアラート。深夜2時にコアの内部例外処理が年崩壊したらしくて。赤嶺出長は徹夜で来てましたが、もお手上げです。引継ぎ書も手元にないので、何もできなくて」

「お前さんの机に置いてきたファイルは?」

「あ、はい。あれをこっそり持出して、夜中自分でできる範囲は対処しました。でも全体の3割くらいまでしか戻せていません」

「もう一部、本店の江島さんが持っている」

「え、宮本さん、いつからそんな準備を?」

「お前さんを左戦すると聞いたあたりから、前晩書いていた」

「ありがとうございます」

電話を切ると、健吉は道宅を整え、社宅マンションの玄関を出た。

その日の午後。本店知財法務統括部の会議室で、健吉は江島と向い合っていた。

「宮本さん、ご無事で何よりです」

「桐生のところに写しを届けてやって下さい。本店の決済が下りれば、彼がある程度戻せると思います」

「もちろんです。すぐに用意します」

「それと、別件でお知らせしたいことが」

江島は机の上にもう1通、封筒を静かに置いた。差出しは東日本輸送機工業株式会社、購買統括役員・島村新一郎。

「今朝、島村部長から当社取締り役に書面が届きました。同社の取締り役会がファウンド経由で本店知財法務統括部にも写しを回しました」

健吉は封筒を開け、書面を一読した。島村は、長年取引関係に対する誠意ある対応を求めた上で、機関システムの再構築の見通しが立たない場合は、継続的取引契約上の信頼関係が破綻したものと判段し、相当の予告期間として6ヶ月を持って解約する、と通告していた。

「島村部長らしい。誠意ある対応だ。にしても、6ヶ月の予告ですか?」

「ええ。他の主顧客4社からも、緊急調査要求と代替供給先の開拓開始の通報が本店に届いております。赤嶺出張部長は、何とアジエル開発で巻き返すと社内会議でご発言されたそうですが、も誰も聞いておりません。タブレットを落として画面が割れたというお話も聞きました。和社長は、本日午前中の取締り役会で解任されたそうで、ファウンド本社からは近日中に調査団が東京に入るとご連絡を受けております」

「調査団ですか?」

「ええ。それと、主要取引銀行も、融資条件の見直しを通告してきたそうです。先日の継続的取引契約の信頼関係破綻が、銀行側の貸し倒れリスクの判定に直結したようです」

健吉は書面を静かに丁寧に封筒に戻した。

「俺はもうやめた身だ。だが、ユニコーンコアは桐山さんが残したトアテクノスの心臓だった。江島さん、島村部長に私から一本、お電話を差し上げてもよろしいですか?」

「ええ、もちろんです。宮本さん、島村部長とは20年来のお付き合いだと伺っておりました。6ヶ月の予告期間に、桐生君がどこまで戻せるか。その間、島村部長のところの生産計画に与える影響について、私からも一言お詫び申し上げたい」

「島村部長なら、宮本さんからのお電話なら必ず取られると思います」

健吉は窓の外をしばらく見ていた。6月の梅雨の合間の日差しが、本店の高い窓越しに健吉の作業着を柔らかく照らした。

最初の停止から2ヶ月以内に、トアテクノスを巡る動きが続けに動き始めた。健吉が新聞を広げるたびに、業界面の隅にトアーテクノスの名が小さく繰り返し乗るようになった。

「計算書トアーテクノスに対し、下請法違反の疑いで予備調査開始」「同社二次下請けから優越的地位乱用の申立てを公正取引委員会に調査着手」「国税局がトアテクノスの法人税申告に損金参入漏れ、過少申告の非等不足を指摘」「主要取引銀行がメインバンク交代を通告、融資条件を全面見直し」「トアーテクノス主資材一者から損害賠償請求の内容証明文書が届く」

健吉はそれぞれの記事を一通り読み、机の上に重ねていった。

そんな中である日の午後、江島から健吉の社宅マンションに携帯で電話があった。

「宮本さん。今朝の臨時取締まり役会で、和社長と赤嶺出張部長の代表取締まり役解任決議が可決されました。調査団の中間報告で、規定改定の手続き的瑕疵と議事録の運営記録から、お二人の責任が明確化したそうです。私も、ちょうど本店監査部に同席を求められ、議事録の出席取締り役としてご署名を求められる場に立ち会いました。お二人とも、並んで控室の長椅子に座って、書類を持つ手が二人とも震えていらっしゃいました。視線は最後までお互いに会わないままでした。和社長が署名される間、赤嶺出張部長にこう仰いました。『君の独断であったと人事には報告した』と。赤嶺出張部長は何も返されませんでした。タブレットの割れた画面にご自分の青ざめた横顔をずっと映していらっしゃいました」

健吉は湯呑みをゆっくりと両手で包んだ。

「同じ日の夕方、ファウンド本社が株式買取請求の予告通知を本店監査宛てにお出しになりました。会社法847条の保有要件を満たす従業員持株会と取引先持株会が原告として、お二人の任務懈怠の責任を追求する構えだそうです。特許法35条相当の利益の方は、別途一括弁済の方向で進めております。宮本さんの最終支払い額が確定次第、ご連絡いたします」

電話を切ると、健吉は窓の外をしばらく見ていた。梅雨は塔に明け、日差しが社宅マンションのベランダの植木鉢を白く照らしていた。

「俺はも何もしなくていい。あとは信用失ったものが自分の重みで崩れていく。桐山さんも似たような場面で似たような口ぶりをよくされていたな」

健吉は湯みの中の茶を最後の一口まで飲み干し、ベランダの植木鉢に水をやるためにゆっくりと立ち上がった。

最初の停止から半年が過ぎた12月の始め。健吉は新聞の経済面の最後の段落で、トアーテクノスが東京地方裁所に民事再生手続の開始申立を行ったことを知った。スポンサー型再生で、主事業の電子部品事業は同業他者へ会社分割で譲渡されるという。トアーテクノス9法人は清算手続を予定しており、社名は実質的に消える。赤嶺元出張部長はすでに退社し、家族と離れて関西の実家に身を寄せたという続報を、健吉は数日後に目にした。和前社長は業界団体の役員職を解かれ、同業他者や転職先からも最就職の声がかからなくなったと、江島が電話で教えてくれた。

「東京の大家の方は?」

「ええ、別途一括弁済で決着しました。先日、宮本さんのご指定口座にも振り込みが完了したと聞いております」

「ありがとうございました」

「いえ、私のお仕事業ですから。それともう1つお知らせを。桐生さんは、新スポンサー先の品質保証部に保守エンジニアとして転職が決まりました。ユニコーンコア障害時の復旧対応を高く買われ、継承システムの内部例外処理を現場で担当するとのことです」

「それは何よりだ。俺はあくまで伝えただけ。あいつの実力だな」

「私もそれを渡しただけです。桐生さんが自分で道を開いていきました」

健吉は受話器を耳に当てたまま、しばらく黙っていた。電話を切った後、湯みを置き、窓の外の冬をしばらく眺めていた。

「俺の41年はこれでようやく片付いた」

健吉の口元に、長く忘れていたような静かな笑みがわずかに戻った。胸ポケットから革の手帳を取出して両手で包むように握った。

「桐山さん。年明けに、詣りに伺います」

民事再生からさら半年が過ぎた翌年の6月。健吉は地元商工会議所の小さい会議室で、長机の正目に座った桐生が革の手帳を両手で開いて持つ姿を静かに見ていた。

「桐生、お前さん、もう何度も読んだろう」

「ええ、でも今日は改めて」

会議室には、健吉と桐生の他、地元工業高校の校長、専門学校の理長、商工会議所の会頭、取引銀行の支店長、それから本店知財法務統括部の江島と、彼女の連れてきた中小企業基盤整備機構の担当官が並んで座っていた。桐生は手帳の最初のページをゆっくりと読み上げた。

「人が技術を作り、技術が人を作る」

会議室は静かだった。

「これはトアーテクノス前社長、故・桐山三郎さんの生前の格減だったそうです。そして本日、設立準備委員会が立ち上がります。一般財団法人“東亜技術財団”の設立の趣意とさせていただきます」

「桐山さん。あの日、あなたが手渡し下さった一冊が、こうして町工場の若手のための仕組みに形を変えました。お預かりしたことは、ご遺族の奥様にも頷いていただいた。あの日のお気持ちのまま、ここまで連れてまいりました。宮本さん、改めましてご出資ありがとうございます。私の退職金から1億5000万円。地元の商工公会の共済金と取引ごを合わせて、財団の基本財産を作っていただきました。中小企業基盤整備機構との連携は現在協議中です。地元工業高校と専門学校との技術継承教育プログラムの協定は、来年度から本格稼働の予定でございます」

「私どもの卒業生の中に、現場で技術を身に付けたい子が毎年数拾名おります。小物の職人さんから暗黙地を紙に書起こしながら受取れる場は、本当にありがたい。地元の取引先も一取引先も一斉に賛同して下さいました」

「経験は紙に残してこそ、次の人の手に渡る。人が技術を作り、技術が人を作る、ですね」

健吉は桐生の声に静かに頷いた。俺はこの言葉に40年生きてきた。あの言葉が、こうして紙の一冊から町の若手の手元の仕組みにようやく渡っていく。会議室の窓の外、6月の梅雨の隙間の日差しが、桐生の手元の革の表紙を照らしていた。革の色は約1年半の激道を経ても、桐山の手の中にあった朝と少しも変っていなかった。

桐山の墓から3年目の春の彼岸。健吉と桐生は、東京郊外の小さい墓苑を訪ねていた。桐生はその日の朝、工業高校から新たに預かることになった見習いの青年を1人連れていた。

墓石の前に立った健吉は、革の手帳を両手で持ち、線香の細い煙がまっすぐに立ち上るのをしばらく見ていた。春の風が墓苑の1隅で、まだ三分咲きの桜の枝をわずかに揺らしている。健吉はゆっくりと手帳を墓石の前に備えた。

「やっと、桐山さん。この言葉、ちゃんと次に渡せました。お前さんの言葉も、桐生の手で回り始めました」

桜の花びらが1枚、風に舞って墓石の淵に落ちて止まった。

「桐生」

「はい」

「お前さん、財団の見習いに、何か1つだけ話してやれることはあるか?」

桐生は新人の青年に向き直り、一度深く息を吸った。

「君はこれから現場で、たまにこんなことを言う人と出会うかもしれない。“窓際の老いぼれは退職、これだけな”と。そういったことを言う人間には、絶対になるな。数字や肩書きで人を測ろうとするものは、いつの時代にもいる。それを間に受けて、自分まで同じ目で人を測れば、いずれ自分も同じ目で測られる。人が技術を作り、その技術がまた次の人を作ってくれるんだ。君も、その輪の中に入っていくように」

「はい。覚えておきます」

健吉は桐生の声を後ろから静かに聞いていた。

その夕方、健吉は社宅マンションに戻ると、玄関で靴を脱ぎ、妻の小さな写真の前に湯呑みを1つ丁寧に置いた。

「かよ、終わったよ。みんな約束通り片付けてきた」

写真のかよは、ずっと前と同じ柔らかい表情で健吉を見ていた。健吉はゆっくり頷き、湯呑みの茶を最後の一口まで飲み干した。春の風がベランダの戸口をもう一度軽く揺らした。

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