血の繋がりなんて、そんなに大事じゃないんだよ。
息子の言葉に、私は手に持っていた箸をそっと置いた。今夜も私は、朝から仕込んだ煮物、焼き魚、炊き込みご飯を、72歳の体に鞭打って作り続けてきた。息子家族の健康を思ってのことだった。
「お母さんの料理の方が上品で美味しいんだよね」
嫁の歩美が、挑発するように言う。
「それに、お母さんは私たちのことを本当に理解してくれるの。お母さんみたいに口うるさくないし」
息子の洋兵が頷きながら続けた。
「正直、母さんより、お母さんの方が大切なんだ。血は繋がってないけど、歩美の母親だし、俺たちにとっては家族なんだよ」
食卓の空気が凍りついた。
15年前に夫を亡くしてから、私は息子家族のために全てを捧げてきた。月15万円の生活費援助。孫の教育費。そして毎日の家事。なのに、私は怒らなかった。悲しみも見せなかった。ただ静かに微笑んだ。
「そう、分かったわ」
私の予想外の反応に、息子夫婦は顔を見合わせ、明らかに困惑していた。きっと、泣いたり怒ったりすると思っていたのだろう。でも、私の心の中では、ある決意が固まっていた。
――明日、あなたたちは知ることになる。本当に大切なものを失うということを。
思い返せば、息子家族との同居が始まって5年。最初は「お母さんがいてくれて助かります」と言っていた歩美の態度も、時と共に変わっていった。夫が残してくれた家に息子夫婦を迎え入れ、私は2階の小さな部屋に移った。広いリビングも台所も、全て息子家族のために。
月々の援助は15万円。息子の給料では住宅ローンと子供の教育費でいっぱいだからと、私の年金と貯金から出し続けてきた。その都度、私は黙ってお金を渡してきた。35年間小学校教師として働いて貯めたお金、夫の生命保険金。全ては息子家族の幸せのためだと思っていた。
一方、歩美の実母はどうだろう。年に2回、誕生日とお正月に顔を見せる程度。孫のお小遣いは5000円。家事の手伝いなど一切なし。それなのに、歩美は実母が来ると大喜びで高級レストランに連れて行き、「お母様は品があって素敵」と褒めちぎるのだ。
私には「お母さん、また同じ服着てるの。その髪型、古臭いわよ」と、毎日のように言われた。でも私は笑顔で受け流してきた。息子の幸せが私の幸せだからと。
でも、昨夜の一言で全てが変わった。
息子夫婦の態度が露骨に変わり始めたのは、3年前の出来事がきっかけだった。歩美の実母、つまり息子にとっての義母である佐藤さ子さんが定年退職したのだ。
「お母様、これからはゆっくり過ごしてくださいね」
歩美は実母を敬愛し、月に1度は必ず高級レストランでの食事会を開くようになった。
「今日はお母様の好きなフレンチにしましょう」
「いえいえ、お母様のためなら2万円のコースでも安いものです」
一方、私の誕生日はどうだっただろう。
「あ、母さん誕生日だったっけ? ごめん。忙しくて」
ケーキもなし。プレゼントもなし。「お母さんは地味な服好きでしょう」と、歩美は言い訳した。
孫の運動会での出来事は、特に胸に突き刺さった。
「お母様、ここが特等席です。匠がよく見えますよ」
歩美は実母を最前列の椅子に案内した。
「お母さんはあっち側でお願いします。席が足りないので」
私は後方の立ち見席に追いやられた。それでも我慢した。孫の晴れ姿が見られれば、それで十分だと自分に言い聞かせて。
家事の分担も、いつの間にか不公平になっていった。
「お母様がいらっしゃる時は、私がお料理しますから」
歩美は実母が来る日だけは張り切って料理を作る。でも普段は「お母さん、今日の夕飯まだ? お腹空いた」「朝ご飯、もっと早く作ってよ」と言う。
朝5時起きで朝食の準備、洗濯、掃除。昼食を作り、買い物に行き、夕食の支度。私は文句も言わずにこなしてきた。なのに、息子夫婦は言う。
「お母さんの作る料理って、脂っこいのよね。濃すぎて健康に悪いわ」
でも、文句を言いながらも毎日3食きっちり食べる。実母が作った料理は「さすがお母様、プロ級です」と大絶賛するくせに。
経済的な負担もどんどん重くなっていった。
「お母さん、今月も15万円お願い」
「匠の塾代、30万円必要なの」
「床の発表会の衣装代が」
求められるままに出し続けた結果、私の貯金は底を突き始めていた。
最も腹立たしかったのは、リフォームの件だった。
「お母様の部屋を作りたいの」
歩美が突然言い出した。月に1回泊まりに来てもらうために、和室を潰したいという。
「お母さんの部屋、もっと狭い部屋に移ってもらえる?」
私は2階の物置き前の3畳間に追いやられることになった。リフォーム代50万円も、なぜか私が出すことに。「だってこの家の持ち物でしょう。当然じゃない」。
完成した義母の部屋は、8畳の松の木の立派な和室。私の部屋の3倍の広さだ。でも、佐藤さ子さんが実際に泊まったのは、この2年間でたったの3回だけだった。
親戚の集まりでも差別は明らかだった。
「こちら、歩美の母の佐藤さ子です。元銀行員で、とても聡明な方なんです」
洋兵は義母を誇らしげに紹介する。私の紹介はというと、「あ、こっちは僕の母です」――それだけ。まるで付け足しのような扱いだった。
「佐藤さんはお若いですね。とてもお綺麗で」
「いえいえ、もう65歳ですから」
義母より7歳も上の私は、完全に老人扱いされていた。
でも、私はずっと信じていた。血の繋がった息子なら、きっと、いつか分かってくれる。私の愛情に、いつか気づいてくれる。その淡い期待も、昨夜の一言で完全に打ち砕かれた。
あの言葉が発せられたのは、まさに母の日の前日だった。
5月の第2日曜日を前に、私は密かに期待していた。もしかしたら、今年こそは。でも、現実は残酷だった。
「明日、お母様と一緒にランチに行くの。帝国ホテルのフレンチを予約したわ。母の日のスペシャルコースよ」
歩美が嬉しそうに言った。
「いいね。お母さん、喜ぶだろうな」
洋兵も笑顔で賛同する。
私は台所で夕食の準備をしながら、聞こえないふりをしていた。
「プレゼントも用意したの。エルメスのスカーフ。5万円もしたけど、お母様なら似合うわ」
「5万円か。でも、お母さんにはそれくらいの価値があるよ」
その時、歩美がふと思い出したように言った。
「あ、そういえば、明日は母の日よね。お母さんには……」
私は少しだけ期待した。
「ま、いいか。お母さんは、そういうの好きじゃないでしょ」
洋兵があっさりと切り捨てた。
「そうね。地味なのがお好きだものね」
2人は顔を見合わせて笑った。
夕食の席で、さらに追い打ちをかける会話が続いた。
「お母様って、本当に素敵よね。品があって、教養があって」
「そうだな。話していて楽しいし、尊敬できる」
歩美が私の方をちらっと見ながら言った。
「それに比べて……」――言葉は続かなかったが、意味は明白だった。
「お母様は、私たちに干渉しないし、適度な距離を保ってくださる。本当の親子みたいに自然な関係だよな」
本当の親子。では、血の繋がった私は、何なのでしょうか。
そして、ついにあの言葉が飛び出した。
「正直、母さんより、お母さんの方が大切なんだ」
洋兵は箸を置いて、まっすぐ私を見た。
「だって、歩美の母親は、俺たちの生活を豊かにしてくれるから。精神的にもね」
「そうよ。お母様といると、心が安らぐの」
歩美も同調する。
「でも、母さんは――ごめん、正直、邪魔なんだ」
邪魔。15年前の葬儀で「母さん、俺が守るから」と言った、あの息子の口から出た言葉とは思えなかった。
「お金は確かに助かってる。でも、それ以上に精神的な負担が大きくて。私たちだって、一生懸命やってるのに、お母さんは文句ばかり」
文句。私は家事も完璧にこなし、お金も惜しみなく出し、1度でも文句を言ったことがあっただろうか。
それに、洋兵は続けた。
「血の繋がりって、実はそんなに大事じゃないんだよ」
私の心臓が、ドクンと大きく脈打った。
「歩美の母親は、血は繋がってないけど、俺にとっては本当の母親みたいなものだよ」
「そうよ。家族って、血じゃなくて、心の繋がりよね」
歩美が得意げに言った。
「お母さんとは、血は繋がってるけど、正直、心は繋がってない。むしろ、血の繋がりがあるから、余計に生き苦しいんだ」
2人は私の気持ちなど考えずに、残酷な言葉を重ねていった。
「老後の面倒は、施設にお願いすればいいし。私たちには、私たちの人生があるもの」
「母さんのお金は、確かに必要だけど。それ以外は、正直、早く楽になりたい」
楽になりたい。つまり、私がいなくなることを望んでいるということだろうか。
その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。でも、不思議なことに、涙は出なかった。悲しみも怒りも、全てを通り越して、ある種の悟りのような感覚に包まれた。
――ああ、そうか。私は、血の繋がりだけのATMのような存在だったのね。お金を出すだけの、都合のいい財布。それ以上でも、それ以下でもない。
私は静かに微笑んだ。
「そう、分かったわ」
予想外の反応に、息子夫婦は明らかに動揺していた。
「母さん、血の繋がりは大事じゃないよ。心の繋がりが大事なんだ」
「素晴らしい考えね。私も、そう思うわ」
私は立ち上がった。
「ご馳走様。とても勉強になったわ」
「え、母さん、怒ってないの?」
洋兵が慌てたように聞いた。
「怒る? むしろ、あなたたちの本音が聞けて、感謝してるわ」
私は穏やかに微笑み続けた。
「明日から、色々と変わるでしょうね」
「変わるって、何が?」
歩美が不安そうに聞いたが、私は答えなかった。ただ静かに自分の部屋に向かった。
扉を閉めた瞬間、私の顔から笑みが消えた。代わりに浮かんだのは、冷徹な決意だった。
――血の繋がりが大事じゃないなら、それで結構。私も、あなたたちを他人として扱わせていただきます。そして、他人に私の財産を渡す理由はありませんよね。
私は机の引き出しから、1冊の通帳を取り出した。残高は2500万円。夫の生命保険金1500万円と退職金1000万円。息子夫婦には内緒にしていた、私の最後の切り札だった。
――明日、この使い道を決めることにしましょう。血の繋がりを否定した人たちには、1円も渡さない方法で。
翌朝、私は誰よりも早く起きた。いつもなら朝食の準備を始める時間だが、今日は違う。私には、もっと大切な用事があった。身支度を整え、玄関を静かに出た。
向かった先は、駅前の佐々木法律事務所。20年来の知り合いである佐々木弁護士は、夫の相続の時からお世話になっている、信頼できる方だ。
「小西さん、お久しぶりです。今日はどのようなご相談で?」
「遺言書を作成したいのです。それも、今日中に」
佐々木弁護士は、私の真剣な表情を見て、すぐに理解してくれた。
「分かりました。詳しくお聞かせください」
私は昨夜の出来事を簡潔に説明した。息子夫婦の言葉、血の繋がりの否定、そして私の決意を。
「なるほど。お辛い思いをされましたね」
「いいえ。むしろ感謝しています。本音が聞けて、踏ん切りがつきました」
私は通帳を見せた。
「この2500万円、全額を児童施設に寄付したいのです」
佐々木弁護士は少し驚いた様子だったが、すぐに頷いた。
「承知しました。息子さんへの遺留分は、法定の最低限で結構です。それ以上は、1円も渡したくありません」
遺留分制度により、息子には最低限の相続権がある。しかしそれは全体の4分の1、つまり625万円だけ。残りの1875万円は、県内の児童養護施設「ひまわりの家」に全額寄付することにした。
私がこの施設を選んだのには理由があった。教師時代、何人かの教え子がこの施設から通っていた。血の繋がりはなくても、本当の家族のように支え合って生きている子供たち。彼らこそ、このお金を有効に使ってくれるはずだ。
「それから、この家についても」
「はい」
「私の死後、息子夫婦が住み続けることがないよう、売却して現金化し、同じく施設に寄付する旨を明記してください」
「分かりました。完璧な遺言書を作成いたします」
手続きは思いの外スムーズに進んだ。公正証書として作成するため、公証役場での手続きも済ませた。これで、息子夫婦がどんなに争っても、私の意思は変えられない。
帰り道、私は別の場所にも立ち寄った。「ひまわりの家」だ。施設長の田中さんは、私の教え子の1人だった。
「小西先生!」
「お久しぶりです。実は、ご相談があって」
応接室に通され、私は遺言書の件を説明した。
「先生、そんな大金を……」
「血の繋がりがない子供たちのために、使って欲しいのです」
田中さんは涙を流しながら、深々と頭を下げた。
「必ず、子供たちのために大切に使わせていただきます」
「それから、もう1つお願いがあります」
「何でしょう?」
「ボランティアとして、子供たちに勉強を教えさせていただけませんか?」
「もちろんです! 子供たちも喜びます」
私の心に、温かいものが広がった。血の繋がりはなくても、私を必要としてくれる子供たちがいる。それだけで十分だ。
帰宅したのは昼過ぎだった。息子夫婦は不機嫌そうだった。
「母さん、朝ごはんは? 今日はどこに行ってたの?」
でも、私はもう以前のような罪悪感を感じなかった。
「ちょっと、大切な用事があったの」
「大切な用事って?」
「あなたたちには、関係ないことよ」
私の冷たい返事に、2人は顔を見合わせた。
その後、私はもう1つの準備を始めた。部屋の整理だ。アルバムや思い出の品々を、ダンボールに詰めていく。息子の成長記録、家族写真、全て。
「お母さん、何してるの?」
歩美が部屋を覗き込んできた。
「整理よ。必要なものと、そうでないものを分けているの」
私は1枚の写真を手に取った。息子の七五三の写真だ。
「これ、あなたたちにあげるわ」
「え?」
「だって、私には必要ないもの。血の繋がりだけの関係なんでしょう?」
歩美は言葉に詰まった。
夕方、私は最後の準備として銀行に行った。定期預金を解約し、普通預金に移す。そして、新しい口座を開設した。今後の生活費は、この口座から自分で管理する。もう、息子夫婦のためにお金を使うことはない。
帰宅後、私は台所に立った。今日の夕食は特別だ。私が最後に作る、家族のための食事。いつも以上に心を込めて、洋兵の好物の唐揚げ、歩美の好きな茶碗蒸し、孫たちの大好きなハンバーグを作った。
「わー、豪華!」
孫たちは喜んでくれた。でも、息子夫婦は何か違和感を感じているようだった。
「母さん、今日は特別な日なの?」
「ええ、とても特別な日よ」
私は微笑んだ。
「人生の転機となる、記念すべき日」
食事が終わり、家族がリビングでテレビを見ている時、私は静かに切り出した。
「みんなに、大切な話があるの」
「何? 急に改まって」
洋兵が面倒臭そうに言った。
「遺言書を作成したの」
その一言で、リビングの空気が凍りついた。洋兵の箸が止まり、歩美は口を半開きにしたまま固まっている。
「え、母さん、何を言ってるの?」
「聞こえなかった? 遺言書を作成したと言ったのよ」
私は静かにお茶を飲みながら、淡々と続けた。
「今日、公証役場で正式に手続きを済ませてきたわ」
「お、お母さん、縁起でもない! まだお元気じゃないですか?」
「あら、元気なうちに準備するものでしょう」
洋兵が怖った表情で聞いてきた。
「それで、内容は?」
「ああ、気になる?」
私は薄く微笑んだ。
「2500万円の預金があるの」
「2500万円!」
2人は目を見開いた。まさか、そんな大金があるとは思っていなかったのだろう。
「お母さん、そんなお金があったなんて……」
歩美の目が、明らかに輝き始めた。
「夫の生命保険金が1500万円、私の退職金が1000万円。大切に取っておいたの」
「そ、そうだったんだ!」
洋兵も、急に態度を変え始めた。
「それで、その遺産だけど――全額、児童養護施設に寄付することにしたわ」
「はあ?」
2人は同時に叫んだ。
「冗談でしょう!」
「冗談に見える?」
私は遺言書のコピーを取り出し、テーブルに置いた。
「ここに書いてある通りよ。『ひまわりの家』という施設に全額寄付。息子には、遺留分の625万円だけ」
洋兵が書類を引ったくるように手に取った。
「625万円……たった、これだけ?」
「法律で定められた最低限の金額よ。文句は言えないはずよ」
歩美が青ざめた顔で訴えた。
「お母さん、どうしてこんなことを? 私たち、家族でしょう?」
「家族?」
私は首をかしげた。
「昨日、何て言ったか覚えてる?」
2人は顔を見合わせた。
「血の繋がりは大事じゃない。心の繋がりが大事だって。それは私も、その通りだと思ったの。だから、心が繋がっている人たちに遺産を残すことにしたのよ」
洋兵が声を荒げた。
「母さん、それは極端すぎる!」
「極端? 『母さんより義母の方が大切』って言ったのは、あなたでしょう」
洋兵は言葉に詰まった。
「血の繋がりがない他人に、遺産を渡す必要はないでしょう」
私は、彼らの言葉をそのまま返した。
「あなたたちにとって、私は血が繋がっているだけの他人なんでしょう?」
「そ、そんな意味じゃ……」
「じゃあ、どんな意味?」
歩美が涙を浮かべながら言った。
「お母さん、ごめんなさい。昨日は言いすぎました」
「言いすぎ? 本音でしょう」
「違います! 感情的になってしまって……」
「15年間、ずっと我慢してきたのよ」
私は立ち上がった。
「月15万円の援助、毎日の家事、孫の世話。全部、当たり前のように受け取って。歩美さんの実母は、年に1万円のお小遣いで『素晴らしいお母様』。私は総額で1000万円以上を援助しても、『邪魔者』。数字を突きつけられ、2人は顔を伏せた」
「でも、もういいの。あなたたちの本音が聞けて、むしろスッキリしたわ」
洋兵が必死に食い下がった。
「母さん、考え直してくれ! 俺たちが悪かった! 今更だけど、本当に反省してる! これからは、母さんを大切にするから!」
「大切にする? どうやって?」
私は振り返った。
「また私のお金が必要になったら、優しくするの?」
「そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、今すぐ援助を断ってみなさい。『もうお母さんからお金は要りません』って」
2人は黙り込んだ。
「言えないでしょう? だって、私がいなくなったら生活できないもの」
歩美が泣きながら訴えた。
「お母さん、お願いです! 遺言書を撤回してください!」
「できないわ。公正証書による遺言だから。それに、撤回する理由もないし」
私は時計を見た。
「あ、そうそう。もう1つ、言い忘れていたことがあったわ」
「まだ、何か?」
「来月から、援助は一切しません」
「えっ!」
「だって、私は『他人』でしょう? 他人にお金を渡す理由はないわ」
洋兵は顔面蒼白になった。
「そ、それは困る! 住宅ローンが……」
「知らないわ。佐藤さち子さんに頼んだら? 大切なお母様なんでしょう?」
「義母は、そんな余裕が……」
「あら、おかしいわね。あんなに立派な方なのに」
私の皮肉に、2人は何も言い返せなかった。
「家事も、これからは自分たちでやってちょうだい。私の料理は脂っこくて、掃除は雑なんでしょう?」
歩美が慌てて否定した。
「そんなこと、言ってません!」
「言ったわよ。毎日のように」
私は自分の部屋に向かいながら、最後に言った。
「あ、それから、この家についても遺言書に書いてあるから。この家は、私の死後、売却して、その代金も施設に寄付することになってるの」
「俺たちは、どこに住めばいいんだ!」
「さあ、それは私の知ったことじゃないわ」
洋兵が叫んだ。
「母さん、ひどいよ!」
「ひどい?」
私は振り返った。
「『邪魔だ』と言われ、『早く楽になりたい』と言われた母親の気持ちは? 血の繋がりを否定された親の気持ちは?」
2人は完全に言葉を失った。
「『因果応報』という言葉を知ってる?」
私は静かに微笑んだ。
「人を粗末に扱えば、自分も粗末に扱われる。当たり前のことよ」
その夜、夫婦は必死に謝罪を続けた。でも、15年間の献身を踏みにじられた傷は、そう簡単には癒えない。
翌日から、家の中の空気は一変した。
「お母さん、朝ご飯作りますよ」「掃除は私がやります」「何か欲しいものはありませんか?」
でも、それは明らかに2500万円目当ての演技だった。
「いいのよ。私は『他人』だから、遠慮しないで」
その言葉が、彼らの心に突き刺さるのが分かった。他人――自分たちが言った言葉が、ブーメランのように返ってくる。これ以上の仕返しはないだろう。
あの夜から3ヶ月が経った。
私は今、「ひまわりの家」の子供たちに囲まれて、算数を教えている。週に3回のボランティア活動は、私の生活に新しい輝きをもたらしてくれた。血の繋がりはない子供たち。でも、彼らは私を「先生」と慕い、心から必要としてくれている。
「先生、今日もありがとうございました!」
「また水曜日に来てくださいね」
子供たちの純粋な笑顔を見るたび、私の心は温かくなる。
一方、息子夫婦の生活は一変していた。月15万円の援助が止まり、家事も全て自分たちでやらなければならなくなった彼らは、日に日に疲弊していった。
「母さん、やっぱり助けてくれないか?」
洋兵は何度も懇願してきたが、私の答えは変わらない。
「ごめんなさい。私は『他人』だから」
この3ヶ月で、彼らの生活がどれだけ私に依存していたかが明白になった。住宅ローンの支払いに追われ、歩美はフルタイムで働き始めた。孫たちの塾も、費用が払えず退会。
そんな中、決定的な出来事が起きた。
ある日の午後、歩美の実母、佐藤さ子さんが、顔色を変えて我が家にやってきたのだ。
「小西さん、どういうことですか?」
「あら、佐藤さん。どうされました?」
「歩美から聞きました。援助を打ち切ったって、本当ですか?」
「ええ、本当ですよ」
佐藤さんは顔を真っ赤にして詰め寄ってきた。
「なんてひどい! 実の息子なのに!」
「あら、おかしいですね」
私は首をかしげた。
「歩美さんは、あなたの実の娘でしょう。なぜ援助しないんですか?」
「え、それは、私には余裕が……」
「でも、洋兵は『お母さんの方が大切だ』と言っていましたよ。大切な人なら、助けてあげたらいかがですか?」
「そ、そんな! 月15万円なんて、無理です!」
「あら、じゃあ、なぜ私には当然のように要求したんでしょうね」
佐藤さんは何も言い返せず、そそくさと帰って行った。
その夜、洋兵から電話があった。
「母さん、義母まで巻き込むなんて、ひどいよ」
「巻き込む? 事実を話しただけよ」
でも、洋兵も気づいたはずだ。佐藤さんは、歩美のために1円も出さない。それなのに、彼らは彼女を褒め称えた。「品があって素晴らしい」って。一方、私は1000万円以上援助しても『邪魔者』扱い。
「母さん、おかしいと思わない?」
電話の向こうで、洋兵が泣いているのが分かった。
「母さん、本当にごめん。俺たち、間違ってた」
「今更気づいても、遅いのよ」
私は静かに電話を切った。
その後、息子夫婦の関係にも亀裂が入り始めた。
「あんたの母親のせいよ!」
「お前が余計なこと言うからだ!」
喧嘩の声が、時々私の部屋まで聞こえてきた。でも、私はもう心を痛めることはない。彼らが選んだ道だ。
ある日、施設長の田中さんから連絡があった。
「小西先生、子供たちがどうしても先生に会いたいって」
「何かあったの?」
「実は、みんなで相談して、これを……」
田中さんが差し出したのは、子供たちの手作りのアルバムだった。表紙には「先生だ〜い好き」と書かれている。中を開くと、子供たち1人1人からのメッセージが綴られていた。
「先生のおかげで、算数が好きになりました」
「いつも優しく教えてくれて、ありがとう」
「先生は、本当のおばあちゃんみたい」
血の繋がりはない。でも、心は確かに繋がっている。これこそが、本当の家族なのだと実感した。
「先生、実はもう1つお願いがあるんです」
「何かしら?」
「施設の子供たちの中に、将来教師を目指している子がいまして。ぜひ先生の経験を、その子に伝えてもらえませんか?」
私の心は踊った。35年間の教師経験を、次の世代に伝えられる。血は繋がっていなくても、志は受け継がれていく。
「もちろん、喜んで」
こうして、私は新しい人生を見つけた。
先日の運動会では、なんと私が来賓席に案内された。
「小西先生は、子供たちにとって特別な存在ですから」
職員の方の温かい言葉に、胸が熱くなった。
あの日、息子夫婦に「席がない」と言われ、立ち見だった私。今は最前列の特等席に座っている。人生とは、本当に不思議なものだ。
そんな中、洋兵が1人で訪ねてきた。
「母さん、話があるんだ」
やつれた息子の姿に、少しだけ心が痛んだ。
「歩美と、離婚することになった」
「そう」
「お互い、余裕がなくなって。喧嘩ばかりで……」
私は黙って聞いていた。
「母さん、俺、本当にバカだった」
洋兵は涙を流しながら続けた。
「母さんがいてくれたから、俺たちは幸せだったんだ」
「今更ね」
「でも、気づいたんだ。本当に大切なものを」
洋兵は私の手を取った。
「母さん、もう1度だけ、チャンスをくれないか?」
「チャンス?」
「親子として、やり直したい」
私はしばらく考えてから、答えた。
「洋兵、あなたは私の息子よ。それは変わらない」
「母さん……」
「でも、昔のような関係には戻れない」
洋兵の顔が曇った。
「お互い、自立した大人として、付き合いましょう」
「それって……」
「1度、食事でもしましょう。もちろん、割勘で」
洋兵は苦笑いを浮かべた。
「厳しいな」
「当たり前よ。あなたももう45歳。自立しなさい」
「……分かった」
洋兵は深く頷いた。
「母さん、ありがとう。もう1度、ゼロからやり直すよ」
息子が帰った後、私は1人で考えた。許すことと忘れることは違う。私は息子を許すことはできても、あの屈辱は忘れられない。でも、あの経験があったからこそ、私は本当の幸せを見つけることができたのだから。
夕方、施設に向かうと、子供たちが走り寄ってきた。
「先生! 待ってたよ!」
「今日は、何を教えてくれるの?」
無邪気な笑顔に囲まれて、私は思う。私の遺産は、いずれこの子たちのために使われる。彼らの未来のために、教育のために。それを思うと、心が温かくなる。
あの日、息子夫婦に言われた言葉――「母さんより義母が大切」。今となっては、感謝さえしている。あの残酷な言葉があったからこそ、私は目覚めることができた。
72歳にして、私は新しい人生を手に入れた。子供たちの成長を見守り、彼らの未来に希望を託す。これ以上の幸せがあるだろうか。
夜、自宅に戻ると、仏壇の前で手を合わせる。
「あなた、見ていますか? 私、やっと本当の家族を見つけました」
夫の遺影が、優しく微笑んでいるように見えた。きっと、夫も今の私を誇りに思ってくれているはず。
明日も、また子供たちが待っている。「先生」と呼ぶ、あの輝く瞳が。私は今、心から幸せです。



