ショッピングモールのベビー用品売り場で、私は目を疑った。妊娠した女性のお腹に優しく手を添えていたのは、夫の徹だった。二人は手をつなぎ、小さな赤ちゃん用の服を選んでいる。徹は私には5年間も見せなかった笑顔を、その女性に向けていた。
私は棚の影に隠れ、震える手でスマホを構えた。写真を撮らなければ、証拠を残さなければならない。そう考えるより早く、指が動いていた。二人がレジへ向かい始めた時、我に返った。もしかしたら勘違いかもしれない。でも、徹が財布から取り出したカードを見て、息が止まった。それは私名義の家族カードだった。緊急時の支払いに必要だと言われ、渡しておいたものだ。
徹は私のお金で、誰かの子供の服を買っていた。私はその場から逃げ出し、実家へ向かった。
「お母さん、徹が浮気してるかもしれない」
母は私が撮った写真を黙って一枚ずつ確認した。
「この女性、妊娠しているのね」
「うん。徹の子みたいだった」
「今すぐ電話するわ。全部問い詰めてみる」
立ち上がろうとした私の腕を、母が強く掴んだ。
「だめよ。今問い詰めても、お金が帰ってくるだけよ」
母は私の目を見た。
「泣いてもいい、怒ってもいい。でも今は……知らないふりしなさい」
私の名前は彩子、35歳。病院で栄養士として働いている。夫の徹は38歳。大手保険会社で営業部長を務めていた。結婚して10年。最初の5年間は穏やかで幸せな夫婦だったと思う。子供を望んでいたが、なかなか授からなかった。落ち込む私に、徹は何度も言ってくれた。「二人でも十分幸せだよ」と。
その言葉を私は信じていた。
ところが5年前から、徹の帰宅は遅くなった。休日出勤や接待、泊まりの出張。理由はいくらでもあった。
「最近顔色が悪いよ。食事はちゃんと取れてる?」
「営業部長は忙しいんだ。お前は心配すぎだよ」
私は栄養を考えて食事を作り、毎朝お弁当を持たせた。スーツにアイロンをかけ、シャツをクリーニングへ出し、体調を崩さないよう支えた。徹の仕事が成功することが、夫婦の幸せにつながると信じていた。
でもその裏で、夫は別の家庭を作ろうとしていた。
ショッピングモールで徹を見た夜、私は何も知らない妻のふりをして、いつも通り夕食を並べた。
「お帰りなさい」
「おう。今日は仕事だったのか?」
一瞬だけ徹の箸が止まった。
「得意先へ顔を出していた」
「そう。お疲れ様」
私は笑った。徹は私の顔すらまともに見なかった。この人は、私が何も気づいていないと信じている。そう思うと、悲しみより寒気がした。
翌日、私は母に付き添われ、弁護士へ相談した。カードの利用履歴を確認すると、見覚えのない支払いが次々と出てきた。高級レストランや宝飾店、二人分のホテル代、ベビー用品。それらは半年ほど前から急激に増えていた。
弁護士の助言を受け、カードはすぐに停止した。私名義の預金も確認した。そこでさらに大きな異変が見つかった。夫婦の将来のために私が10年間貯めてきたお金のうち、800万円が知らない口座へ送られていたのだ。
銀行へ確認すると、徹が以前私に書かせた委任状が使われていた。「保険の見直しに必要だ」と言われ、私は内容をよく確認せず署名していた。信じていたからだ。夫を、家族を、そして自分の結婚生活を。
数日後、夫婦で使っていた古いタブレットに、徹のメッセージが同期された。画面に表示された相手の名前は、マリカ。ショッピングモールにいた女性だった。
私はメッセージを保存しながら、一つずつ読んだ。
「マンションどうする? 頭金がまだ足りない」
「彩子の貯金から800万は動かせた。あと1000万くらい出させる。投資の話をすれば信じるよ」
マリカからの返事。
「彩子さん、大丈夫なの?」
徹は答えていた。
「大丈夫。あいつは俺を疑わない」
私は画面から目を離せなかった。裏切られたことよりも、私が信じていたことを夫が笑っていたことが苦しかった。
さらに別の日の会話には、こう残されていた。
「赤ちゃんが生まれる前に離婚して」
「分かってる。子供を産めない妻といても仕方ない」
指先が冷たくなった。私たちは何年も子供を望んできた。病院へ通った時も、辛い検査を受けた時も、徹は隣にいた。「二人でも幸せだ」と言ったあの言葉まで、全部嘘だったのだろうか。
母は私の背中をさすった。
「彩子、今は泣きなさい。でも、この人の言葉で自分の価値まで疑ってはだめ。子供を授からなかったことと、徹さんが裏切ったことは別の話よ」
私は母の肩に顔を押し付け、声をあげて泣いた。
一ヶ月後、徹が上機嫌で帰宅した。
「彩子、いい知らせがある」
「何?」
「今度、会社で表彰されるんだ。営業成績が過去最高だったんだよ」
徹は誇らしげに招待状を差し出した。夫婦同伴の表彰式。会場は都内のホテルだった。
「スピーチで家族への感謝を話すつもりだ」
家族への感謝。その言葉を聞いた瞬間、腹の底が冷たくなった。けれど私は笑った。
「すごいじゃない? もちろん出席するわ」
その夜、母へ電話した。
「表彰式へ行く」
「そこで全部話すつもり?」
「いいえ、大勢の前で怒鳴ったりはしない」
私は答えた。
「ただ、徹が嘘をついたまま表彰されるのを黙って見ていたくない」
弁護士を通じて、徹の会社には事前に資料を送った。勤務時間中に営業へ行くと偽ってマリカと会っていた記録。妻の財産を架空の投資話でさらに出させようとしたメッセージ。金融と保険を扱う会社の管理職として、確認が必要な内容だ。私が徹を失脚させるのではない。徹が自分で積み上げた嘘を、会社へ知らせただけだった。
式当日、会場には徹の上司や同僚、取引先の人たちが集まっていた。壇上で徹の名前が呼ばれる。
「山田徹部長は、年間目標を大きく上回り、過去最高の成績を納めました」
大きな拍手。徹は胸を張って壇上へ上がり、マイクを握った。
「この結果は私一人の力ではありません。日々支えてくれた部下と、家庭を守ってくれた妻のおかげです」
徹が私へ笑いかけた。会場の視線が一斉に私へ集まる。司会者が私にもマイクを渡した。
「奥様からも一言いただけますか?」
私は立ち上がった。足が震えていた。母が客席の後方から私を見ている。私は一度だけ深呼吸をした。
「おめでとうございます。徹さん」
徹が笑った。
「私は10年間、夫の仕事を支えてきました。毎朝食事を作り、体調を考えたお弁当を持たせ、スーツを整えました。帰りが遅くても仕事だからと信じて待ちました」
会場が静かになる。
「でも、今日私は夫を祝福するためにここへ来たのではありません」
徹の笑顔が消えた。
「夫婦として最後の話をするために来ました」
「何を言ってるんだ?」
私はポケットから一枚の写真を取り出した。妊娠中のマリカと、ベビー用品を選ぶ徹の写真だ。
「この赤ちゃんの服を買ったカード、私名義のものよね」
ざわめきが起こった。
「やめろ」
徹が小声で言った。
「大臣との新居へ使った800万円も、私が10年間働いて貯めたお金です。会社にはすでに、必要な資料を送付しました」
会場の端にいた役員が立ち上がった。
「山田部長、確認したい事項があります。表彰については一旦保留とします」
「待ってください!」
徹の声が裏返った。私は持っていた封筒を徹へ差し出した。
「離婚届です。私はあなたを支えたことを後悔していません。でも私が支えたのは夫です。妻の貯金で愛人との家庭を作る男ではありません」
式の後、徹はホテルの廊下で私の腕を掴んだ。
「彩子、待ってくれ」
「離して」
「マリカとは終わらせる。子供ができて、俺も混乱していたんだ。仕方なかったんじゃない?」
私は静かに答えた。
「あなたが選んだのよ。私に嘘をつくことも、私のお金を使うことも、別の女性との家庭を作ることも。全部、あなたが自分で選んだ」
「俺はお前を嫌いになったわけじゃない」
その言葉に、私は思わず笑った。
「嫌いじゃなければ何をしてもいいの? 私は妻よ。あなたの生活を整える道具ではありません」
徹は何も言い返せなかった。
「あなたが今日失ったのは、表彰ではないわ。10年間あなたを信じた妻です」
それだけ告げて、私は母の元へ歩いた。母は何も言わず、私の手を握ってくれた。
その後、私は正式に離婚した。使われたお金については弁護士を通じて返還を求めた。徹の財産も整理され、私名義の預金は守られた。会社では調査が行われ、徹は管理職を外されたそうだ。マリカとのマンション購入も白紙になったと聞いた。けれど、その後の二人がどうなったかは知らない。もう私の人生には関係がないからだ。
私は実家の近くへ引っ越し、栄養士の仕事を続けている。以前より小さな部屋、一人分の食卓。けれど、誰かの帰りを疑いながら待つ夜はもうない。
ある朝、母が私の部屋へ来て、二人で朝食を食べた。
「彩子、寂しくない?」
私は少し考えてから首を振った。
「一人になったわけじゃないよ。私を大切にしない人との生活を終わらせただけ」
母は静かに笑った。
夫を信じた10年間が、全て無駄だったとは思わない。私は人を信じ、支え、愛することができた。間違っていたのは、その愛情を利用した人だ。だから、私はもう自分を責めない。誰かの妻でなくても、子供がいなくても、私は私の人生を幸せにすることができる。今度は誰かの健康だけでなく、自分の心も大切にしながら、私はこれからを自分のために生きていく。



