真夏の朝、僕は5年ぶりに本社へ戻ってきた。窓際の席に通されて、着替えを渡されたのは、灰色の清掃ユニフォーム。総務部長は書類も見ずに言い放った。「新人は草むり。本社の周り全部終わるまで戻ってくるな」…

真夏の朝、僕は5年ぶりに本社へ戻ってきた。窓際の席に通されて、着替えを渡されたのは、灰色の清掃ユニフォーム。総務部長は書類も見ずに言い放った。「新人は草むり。本社の周り全部終わるまで戻ってくるな」...

午前7時、正東方製作所の工場はまだ動いていなかった。機械油の匂いだけが空気に残っていた。5年間、毎朝嗅いできた匂いだ。

滝川武は52歳。日に焼けた顔に、白い短い髭。グレーの半袖シャツから出た腕の、腕時計の跡だけが白い。その武が、ボストンバッグを一つ下げて、工場の門の前に立っていた。今日、5年ぶりに東京の本社へ戻る。

出発までにはまだ1時間以上ある。それなのに、若い社員たちが見送りに集まってきた。

「滝川さん、体に気をつけてください」

「ああ、この工場はもう大丈夫だ。お前たちがよく働いたからな」

社員の一人が武のバッグを指さした。持ち手に、古い麦わら帽子が結びつけてある。縁が少しほつれた帽子だった。

「その帽子も持っていくんですか? 東京に畑はないですよ」

「5年世話になった帽子だ。置いていく理由がない」

社員たちが笑い、武も少しだけ笑った。

仙台の妻には、昨夜のうちに電話を済ませてある。「今度は東京なの? 」と妻は呆れたように笑っていた。単身赴任は6年目に入る。

昼前に、武は東京へ着いた。本社ビルの前のアスファルトが白く光っていた。セミの声がビルの壁に跳ね返る。予報は今日も35度超えだと言っていた。武はすぐには正面玄関へ向かわなかった。社員通用口や搬入口の周りを、時間をかけて歩いていく。

人事部に顔を出した。古い付き合いの課長が、机の上に書類を置いて、武を見上げた。

「おう、滝川。お前、復帰は明日からだったか? 」

「ああ。ちょっと早く着きすぎた」

「適当にぶらついて、あとで総務で受け付けてもらえ」

武は頷いて、廊下に出た。エレベーターが混んでいた。階段を使うことにした。7階まで歩いた。

武の席は、窓際の一番奥だった。5年間、誰も座っていなかった。机の上に、薄く埃が積もっている。武は、ハンカチで拭いた。

午後、新任総務部長の前で、武は挨拶をした。

「正東方製作所、工場管理部の滝川です。5年間、仙台工場で勤務しておりました」

五十代半ばの総務部長、田辺は、書類から顔も上げなかった。

「ああ、転勤の戻りか。で、何の用だ?

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こっちは忙しいんだ」

田辺の声には、感情がなかった。武は少し間を置いてから言った。

「本人確認と、席の案内をお願いします」

田辺はようやく顔を上げた。武の地味なスーツと、古びたバッグを見て、鼻で笑った。

「窓際の席でも分かってるだろう? 新人は草むりだ。本社の周り全部終わるまで戻ってくるな」

武は何も言わず、頭を下げて、退室した。

翌朝、武は指定された席に座った。そこは本社の入口から一番遠い、コンピューター室の裏手だった。社員たちは、入れ替わり立ち替わりで挨拶に来たが、武の名札を見て、ほとんどが無関心だった。

「ああ、工場から戻ってきた人ね」

それだけだった。

3日後、武は人事部に呼ばれた。

「滝川さん、ちょっと」

課長が、書類を一枚、机の上に置いた。

「本社の会議室の清掃、当番が決まっててな。今週、お前さんが担当だ」

武は書類を見た。清掃当番表。名前が書いてある。武は、二つ返事で受けた。

「分かりました」

次の朝、武は早く出勤した。会議室の清掃を始めた。黒板を拭き、机の上を整え、ゴミ箱を空にした。掃除機をかけると、埃が舞った。

その日、会議の後に、新任の経理部長、岡村が会議室へ入ってきた。武がまだ床を拭いている。岡村は、武の背中を見て、いら立った。

「おい、君。拭き残しがあるぞ」

武は振り返った。「どこですか? 」

「あそこ。机の脚の裏側」

武は、言われた場所を、もう一度拭いた。岡村は、それを見下ろして、また部屋を出て行った。

その日の昼休み、武が食堂で弁当を食べていると、岡村が横の席に座ってきた。

「お前、名前は? 」

「滝川です」

「滝川ね。工場の連中ってのは、こういう仕事に慣れてないんだよな」

岡村は、そう言って、笑った。武は、無言で味噌汁を飲んだ。

1週間後、武は人事課に呼ばれた。人事課長が、武に辞令を手渡した。

「本社内の清掃・給仕業務を命ず」

武は、その紙を見た。本社の清掃担当。さらに給仕、つまりお茶汲み。

「これは……どういうことですか?

「上からの指示だ。お前は現場の経験が長い。本社の清掃のやり方も知らないだろうから、少し覚えてもらおうってことだ」

人事課長の声は、事務的だった。武は、それ以上何も聞かなかった。

「分かりました」

武は、清掃のユニフォームを着ることになった。灰色のポロシャツ。胸に「本社」のマーク。それを着て、廊下を歩く。社員たちは、彼を「掃除のおじさん」と呼んだ。

「掃除のおじさん、コピー機の紙が詰まったんだけど」

「掃除のおじさん、会議室の空気が悪いよ。換気してくれ」

武は、その度に、黙って対応した。

ある日、総務部長の田辺が、会議室の前で、武を呼び止めた。

「おい、滝川。明日の取締役会議の前に、この部屋をしっかり掃除しておけ。席順が変わってるから、机の配置も直せ」

「承知しました」

武は、翌朝、6時に出勤した。会議室の机を、席順の通りに並べ替えた。椅子を拭き、部屋全体を磨いた。

10時、取締役たちが会議室に入ってきた。武は、控え室で、給仕の準備をしていた。

その時、一人の男が武の前に立った。

中年の男。日に焼けた顔。身のこなしがしっかりしている。男は、武の胸の名札を見て、言った。

「おや、滝川さんじゃないか。こんなところで何をしているんだ? 」

武は、顔を上げた。

「清掃担当に回されました」

男は、少し驚いた表情で、武を見た。それから、会議室の中へ入って行った。

会議が始まった。武は、最初の挨拶を終えて、給仕の準備をしていると、部屋の中からにわかに声が聞こえてきた。

「どういうことだ! この若造が、取締役の前で、そんな態度を取るとは! 」

それは、田辺の声だった。武は、ドアの隙間から覗いた。

田辺が、取締役の一人、佐藤に対して、声を荒げていた。

「ええ、いや、すみません。つい口出ししてしまいました」

田辺は、椅子から立ち上がり、頭を下げた。

「そんな言い訳はいい。お前、本社の総務を預かる者として、その程度の自覚もないのか」

佐藤は、ゆっくりと田辺を見つめた。

「滝川さんは、何で清掃をしているんだ?

田辺は、言葉に詰まった。

「それは……本人に、転勤の疲れがあるようで……」

「嘘をつくな」

佐藤の声が、低く響いた。

「俺は、日本中の工場を見て回ってきた。滝川さんは、あの仙台工場を立て直した人物だ。お前たちが清掃なんぞさせるとは、どういうつもりだ? 」

部屋の中が、静まり返った。武は、その場で聞くとはなく、給仕の盆を置いた。

佐藤は、立ち上がると、武の方へ歩いてきた。

「滝川さん、ちょっといいですか」

武は、ドアを開けて、中へ入った。佐藤は、武に椅子を勧めた。

「座ってください」

武は、座った。佐藤は、取締役たちに向かって言った。

「この方を、清掃担当にしたのは誰だ? 責任者を出せ」

田辺が、顔を真っ赤にして名乗り出た。

「私です」

「理由を聞こう」

「ええと……年齢も62歳ですし、現場の経験ばかりで……本社の勤務に慣れていないと思ったので」

佐藤は、冷たく笑った。

「65歳だったら、どうするつもりだったんだ? 年齢で判断するとは、浅はかだな」

田辺は、何も言えなかった。

佐藤は、武を見て、言った。

「申し訳ありません。この件は、私がしっかり処理します。滝川さんは、今日から元の部署に戻ってください」

武は、小さく頷いた。

「ありがとうございます」

その日、武は、自分の元の席に戻った。机の上に、新しい名札が置いてあった。そこには「管理部 部長代理」と書かれていた。

後日、人事部から、正式な辞令が出た。武は、部長代理として、本社の管理部門を統括することになった。田辺は、関連会社への出向の辞令を受け、岡村は、地方工場への転勤を命じられた。

武は、自分の机の上に、古い麦わら帽子を置いた。

ある朝、新入社員の女の子が、武のもとに来て、お茶を差し出した。

「滝川さん、これ、どうぞ」

武は、微笑んで、それを受け取った。

「ありがとう」

女の子は、少し緊張しながら、言った。

「私、ずっと聞きたかったんです。仙台工場って、どういう所ですか?

武は、少しだけ目を細めて、答えた。

「いい所だよ。みんなが一生懸命働いてた」

その時、窓の外で、セミが鳴き始めた。