「お前が悪いんだろ。俺をイライラさせるお前が悪いんだ」
夫の希望で専業主婦になったのに、何かと言うと私を責める夫。そんな態度に我慢ならず、思わず言い返すと、
「お前ごときが口応えするな。離婚されたいのか?」
「いいの?それじゃあ」
そして真実を知った夫は、思わぬ道をたどることになる。
私の名前は伊藤れ子、29歳。2年前に4歳年上の夫・太と結婚し、今は太の希望もあって専業主婦をしている。
私と太は元々同じ会社に勤めていたが、所属部署も働くフロアも違ったため、せいぜい朝に1階のエレベーター前で顔を合わせる程度で、口を聞いたこともなかった。
しかし、たまたま天気のいい日に屋上で同期とお弁当を食べていたところ、その同期と大学の先輩後輩の間柄だった太が通りかかった。そしてその時に紹介されたのがきっかけで、私たちは仲を深めるように。1年ほどの交際期間を経て太との結婚を決めた時は、共働きにも理解のある職場だったので、結婚しても当然仕事を続けるつもりだった。
し、今時古風かもしれないけど、家庭を守って俺を支えてほしいと太に言われたので、迷ったものの退職を決めたのだ。
新婚当初は何もかも順調な滑り出しに思えた。大学進学を機に上京してきた私は、それ以来ずっと1人暮らしだったため、家事は特に苦痛でもない。それに実家にいた時も兼業農家の母を手伝っていたので、忙しく立ち働くのには慣れている。
しかし新居となった家は、義両親がリタイアして田舎に住むまで住んでいたという、築数十年の古い一軒家。しかも水回りも何もリフォームもしていない。掃除機や洗濯機のような生活家電なども古く、まだ使えるものがあるのに、もったいない。贅沢言うなよという太の意見で、私が嫁入り道具として買った新品の家電は全てリサイクルショップに買い取られて売り払われてしまった。
おかげで2人暮らしには無駄に広い家を、太が満足するような綺麗で快適な状態に保つためには、朝から晩まで働き詰めで毎日クタクタだった。
今ではヒステリックになってしまった太だが、付き合っていた頃は決してそんな素振りは見せずに、優しくて頼りになる男性だった。社内でもむやみに声を荒げたりすることもなく、「困った時の伊藤さん」とまで言われていたほどだ。そんな太だったからこそ、私たちが交際していると知られた時には、周囲の女性から随分と羨ましがられたものだ。
しかし実際は、些細なことにもすぐ切れる上に、家のことは愚か、自分のことも何もしない亭主関白男だったのだ。
メールもLINEもしないくせに、自分が帰った時にはすぐにお風呂ができていて、冷えたビールが出てこないと立ちまち不機嫌になる。夕食なら揚げたて出来たての料理が出てきて当たり前。飲んできての帰りなら胃に優しい夜食をすぐに出すのが妻としての常識と考えており、少しでも手間取っていたり、自分の好みのおかずではなかったりすると、
「おい、このゴミみたいな飯は何だよ。俺のことを思っているのなら、こんな粗末な料理ができるはずないよな」
と怒鳴り散らす。それに対して少しでも口応えしようものなら、
「俺の言うことに黙って従えばいいんだよ。俺の言うことが聞けないようなら、お前なんか明日にでも簡単に捨ててやるからな」
と言い放つ始末だ。さらに何も言えない私に対して、
「お前は所詮、俺がいないと生きていけない専業主婦だ。稼いでいる俺とは人間の格が違うんだよ」
と嘲笑うまでがセットとなっているほどだ。
確かに外で働きお金を稼ぐのは大変なことだ。だからこそ常にありがたいと感謝しているし、家事もちゃんとやっているつもりだ。それに離婚を脅しに使うなんて。しかし悔しいけれど、確かに私は会社を退職してしまっているし、今更1から勤め先を見つけるのもそんなに容易なことではないだろう。
せめてパートから始めてみようと思って話を切り出してみたこともあるが、太は「俺の稼ぎに不満があるのか」と怒り狂ってしまい、耳も貸してくれようとはしない。
これではまるで太にとって私は、自分の言うことをただ「はいはい」と聞いてくれる下僕か奴隷でしかないと言っているのと同じことだろう。そう考えると、私は自分が身動きできない透明な檻か、抜け出せない沼にはまってしまったような気がしてきたのだった。
抜け出したくても抜け出せない。そんな生活が続いていたある日、久しぶりに連絡を取った知人から仕事を紹介された。仕事の単価自体は安いものの、内容は在宅でできる事務作業だったため、これなら太に咎められることもなく働けるだろうし、こんなチャンスは2度と来ないかもしれないと思った私は、思い切ってその仕事を引き受けることにした。
家事の合間を縫っての仕事は大変だったが、久しぶりに太以外の誰かに認められることが嬉しくて仕方なかった。太に頼らなくてもなんとか生きていけるかもしれないという期待が大きくなっていったのだ。
しかしこれまで通りの家事をこなしながらの仕事はやはり大変で、とうとうある日大失敗をしてしまった。いつも私は太に言われている通り、太が起きてくる時間より2時間以上は早くに起きて、細やかな支度を完璧にこなしていた。しかしその日は仕事の納期が迫っていて、前夜に太が寝た後も仕事をしていたこともあって、目覚ましに気づかず、太が起き出すのと同時に起床してしまったのだ。
当然いつものような支度はできず、太は大激怒。帰宅後も朝出ていった時と全く同じ調子でヒステリックに怒鳴り散らし、私を罵倒し続ける。それでもいつもの私ならただ黙って太の怒りが収まるのを待つのだが、この日はついに我慢の限界を感じた。そして、
「確かに寝坊したのは悪かったわ。だけど謝ってるのにそんなに怒鳴り続けないで」
とつい言い返してしまった。すると、犬に手を噛まれたとでも思ったのか、さらに顔を真っ赤にした太は、
「俺に逆らうなんていい度胸だな。高が専業主婦のくせに文句があるんなら出ていけ」
と言った。その言葉を聞いた途端、私は心の中からすっと何かが抜け落ちていくのを感じた。
「わかりました。あなたの言う通り出ていきます」
と返事をして、必要なものだけをまとめて家を出た。
家を出たその足で私は最寄りのターミナルまで移動し、近くの適当なビジネスホテルへとチェックインした。ノートパソコンとスマホがあればどこでも仕事はできる。当然だが、仕事ができれば収入も確保できる。
「なんだ、家を出るって案外簡単なことだったんだ」
そう思った私は、一旦ホテルを出て近くのコンビニに行き、ビールとお弁当を買ってくる。そして次第に暮れていく窓の外の風景を見ながら、1人で乾杯をしたのだった。
次の日、私はホテルと長期契約をして本格的に仕事に取り組み始めた。これまでとは違い家事に取られる時間もないので、サクサク仕事が進められる。おかげで新しい業務も任せてもらえることになり、収入アップも見込めそうだ。
そして家を飛び出してからちょうど2週間が経った。実はあれ以来こちらから太には一切連絡を取っていない。だからこそ内心ではもうそろそろかと覚悟していたが、案の定、しびれを切らしたらしい太からLINEが届いた。
「いい加減頭も冷えたか。分かったらさっさと帰ってこい」
その文面も相変わらずの上から目線だ。しかし実は私の方もそろそろ一旦家に帰らなくてはと思っていたこともあり、次の日の昼過ぎに自宅へと帰った。
平日の昼間ということで当然太は不在だったのだが、たった2週間で自宅は家の中も外もすっかりゴミ屋敷となり果てていた。弁当の容器が家中に散乱しているし、空缶やペットボトルの容器も山積みで、嫌な匂いが充満している。洗濯機には大量の汚れ物が詰まっていて、入りきらない服が脱衣所だけでなく廊下にまで落ちている始末。
一目見ただけで、あのプライドの塊のような男がどうして自分から連絡をよこしたのか、その理由がよくわかった。家を綺麗に片付けさせて、以前のように居心地のいい空間にさせようという意図が明白だった。
最初は無視しようかとも思ったのだが、このままにしておいていずれご近所にまで迷惑をかけることになる。仕方なく動きやすい洋服に着替えて大掃除を開始。片付けるだけでもたっぷり5時間はかかり、気づけば時刻は7時前となっていた。
ちょうど太が帰宅してきたが、私をちらっと見ても「ありがとう」とも「お帰り」と言うでもない。むしろ食卓に以前のように食事が準備されていないのを見て、ちっと舌打ちする始末だ。
「おい、ようやく帰ってきても飯の支度1つ満足にできないのかよ。相変わらず使えないやつだな」
「どうして私があなたのご飯の支度までしてあげないといけないのかしら」
「はあ?お前何様のつもりだよ。次に俺に逆らったら本当に離婚してやるからな」
日頃から何かと返す私に、太は吐き捨てる。私はそんな太を真正面から見ると、
「何様のつもりだなんて、こっちのセリフだけど。まあいいわ。いっそ離婚しましょう。お互いそう望んでいるみたいだし」
と、自分の欄は記入済みの離婚届をヒラヒラさせながら太の目の前に突き出した。それを見た太は途端に真っ赤な顔になり、怒りのためなのか体を小刻みに震わせ始めた。
そのまましばらくお互い無言で睨み合っていたが、急に太は大声で笑い出すと、ひったくるように離婚届を掴み、自分の欄にサインをしたのだ。そして今度はそれを私の目の前でヒラヒラさせると、
「何のご芝居をしているつもりか知らないが、こんなことしても無駄だぞ。お前は俺がいないと生きていけないんだよ」
と、さも楽しそうに笑い転げている。全く単純な男だ。
私はその太の手から離婚届を受け取ると、手にしていたバッグにきちんと納めた。そして大きく1つため息をつくと、
「お金のことなら心配無用よ。以前からあなたには内緒で在宅で働いていたの。だけどこれからはこそこそしないでいいんだし、すぐにあなたの収入より稼げるようになる見込みなの」
そう言うと、太はびっくりしたように目を大きく見開き固まっている。
「これからはってどういうことだ?こそこそしなくていいって?」
実は私に仕事の話を持ちかけてくれたのは、太との出会いのきっかけともなったあの同期なのだ。
結婚前、私が所属していたのは営業部だったのだが、結婚後も長く仕事をしたいと思っていた私は、同じことを考えていた同期と一緒に、週末や仕事の後に経理の資格取得を目指して専門学校に通っていた。そしてようやく資格が取れた頃に太からプロポーズを受けて結婚。専業主婦にならないかという太の言葉に迷いながらも頷いたのは、資格があれば後々パートや再就職するのも有利になるかもしれないという望みがあったからだった。しかし家事に追われるうちに次第に気力もなくなり、そんな望みもすっかり薄れてしまっていたのだが、私とは違い同期は取得した資格を生かして経理部へと社内転籍した。そして経理部に空きが出て外部発注の話が出た時に、私に任せてみてはどうかと上に掛け合ってくれたらしい。会社の方も、私なら会社内のことにも明るいし、守秘義務もきちんと守ってくれるだろうということで開拓。そうして同期を通じて経理の仕事を補佐するようになったのだ。
「お前が経理?しかもうちの会社の?」
「ええ、最もいくら元社員とは言っても現役ではないから、社員の出張旅費や経費精算が主なんだけどね」
そう言うと、太はさっきまでの真っ赤な顔が嘘のように青ざめ始めた。それはそうだろう。実は同期から仕事を受注するにあたり、私はある重大な不正に気づいたのだ。
それは太の会社に対する横領行為に他ならない。私に送られてくる経費案件は基本的に社員番号で処理されているのだが、太の社員番号は、毎日太から仕事用のスマホやモバイルPCを充電させられるうちに見知っていた。その太の社員番号で申請されている経費や出張費の領収書がおかしいのだ。なぜなら太が出張に行ったとか接待をしたと申請している日は、ことごとく太が自宅にいた日なのだ。つまり提出されている領収書は偽造されたものであり、太はそうして不正に得たお金をまんまと自分のものにしていたことになる。
私がそう指摘すると、太は懸命に、
「違う、そんなことはしていない。全てお前の勘違いだろ」
と言ってきたが、そんな言い訳は通らない。なぜならスポーツカーが大好きな太は、ご自慢の愛車の防犯のためにわざわざ自宅に防犯カメラを設置している。だから太が帰宅した日はしっかり録画されているのだ。そのことを指摘すると、太の足元がふらついた。
「頼む、見逃してくれ。お前だって夫が犯罪者になるのは嫌だろう」
とすがってきたが、私は即座に、
「このことは全て上司や同期に報告してあるわ」
と告げた。夫が犯罪者?もう夫じゃないけれど。
そして今日家に来たのは、太に離婚届にサインしてもらう目的もあったが、上司や同期がこの後太に尋問をしに来る手はずになっているので、ゴミ溜めで尋問させてはあまりに上司たちが気の毒だから、片付けに来ただけだと言うと、太はがっくりと項垂れた。そして玄関の呼び鈴が鳴ったのを確かめると、
「あら、ちょうどお見えになったみたいね。それじゃ私は失礼するわ」
と、離婚届をヒラヒラと振りながら、上司たちと入れ替わるようにして家を後にしたのだった。
家を後にした私は、その足で役所の夜間受付に離婚届を提出。晴れて太と赤の他人となった。
一方、太は自宅を訪れた上司に問い詰められて、これまでの悪事を白状することに。最終的に太が横領した金額は200万を超えていたそうだ。さらに期間が長きに渡ること、領収書の偽造や裏の根回しなど手口が悪質だということで、警察に被害届を出される寸前まで行ったらしい。
しかし、田舎から急遽駆けつけた義両親が、横領したお金やその他会社が受けた被害分を弁償することで、なんとか退職金なしの懲戒解雇処分で済んだようだ。
加えて私としては離婚だけで済ませようかと思っていたのだが、周囲から金額云々というよりも、どちらに非がある離婚かをはっきりさせた方がいいと勧められたこともあり、太に対して精神的苦痛の慰謝料と財産分与を請求。太自身が自己破産寸前の状態だったため、慰謝料は義両親が肩代わりして支払ってくれた。
しかしそのことが決定打となったらしく、義両親は太との絶縁を宣言。太を叩き出した後、私たちが住んでいた家を売却してしまったらしい。
仕事も住むところもなくした太のその後の行方は分からないが、私はセキュリティのしっかりしたマンションに移り、元の会社に正社員として復帰。今では太と暮らした2年余りの結婚生活を思い出すこともほとんどなくなった。先のことは分からないが、再び誰かと結婚を考えるようなことがあっても、まずは自分らしさをなくさずに共に歩める相手かどうかをきちんと見極めたいと思う。



