「私の夫、素敵でしょ?」
久しぶりに再会した大学時代の友達、エリナが得意げにそう言った。彼女の視線が私の夫を頭のてっぺんからつま先まで舐めるように動く。
「随分と年上なのね。その腕、建築関係のお仕事?」
私が言い返そうとしたその時、夫の高志が静かに口を開いた。
「ええ、力仕事もしますよ。ところで、エリナさんのご主人は総合病院の先生でしたっけ?」
エリナが目を丸くする。
「え、そうですけど…」
高志は微笑んだ。
「彼なら私の部下ですよ。総合病院で外科部長をしております。高志です」
エリナの顔から一瞬で笑みが消えた。でも、私にはそんなことよりも、目の前にこの女がいることの方が怖かった。なぜならエリナは、かつて私の婚約者を奪い、私の人生を一度壊した女性だったから。
私の名前は美沙。32歳。12歳年上の夫・高志と、3歳の息子・ハルトと暮らしている。今の私は幸せだ。休日になれば、パパの車が見えるとハルトが駆け寄り、高志も「よし、出発!」なんて笑いながら息子を担ぎ上げる。私はその横で「天井に頭ぶつけないでよ」と笑う。そんな普通の時間が、何より大切で幸せだった。
でも、ここまで来るまでには長い時間がかかった。
エリナと出会ったのは大学1年の時。地方から出てきたばかりで友達も少なかった私に、最初に声をかけてくれたのが彼女だった。明るくておしゃれで、誰とでもすぐ仲良くなる。地味だった私には、エリナが眩しく見えた。大学を卒業してからも頻繁に食事へ行くほど、仲は続いた。私はずっとエリナのことを親友だと思っていた。
26歳の時、私にも結婚を考える男性ができた。名前は勇気という人。取引先の営業として知り合い、1年ほど付き合った後、プロポーズされた。両親への挨拶も済み、式場まで決まり、私は毎日浮かれていた。
そんなある日、「会って欲しい人がいるの」と、私は勇気をエリナに紹介した。
「やだ美沙。こんな素敵な彼氏、隠してたの?」
3人で笑った。それから数ヶ月後、勇気が私の実家へ来た。でも、顔は真っ青だった。
「美沙、ごめん」
嫌な予感がした。
「結婚できない。俺はエリナと一緒になりたい」
頭の中が真っ白になった。さらに「子供ができたらしい」という一言で、私の中の何かが完全に崩れた。もちろん結婚式は中止。手続きをしている間、私はほとんど何もできなかった。勇気は自分の非を認め、謝罪もしてくれた。でもエリナは違った。私の連絡を無視し、そのまま姿を消した。そして後になって、妊娠自体が嘘だったと知った。
エリナとの話はそれだけではない。大学時代の友人からさらに聞かされた。
「美沙、知らなかったの?エリナって昔から、美沙に好意を持った男にわざと近づいてたよ」
私は何も知らなかった。友達だと思っていた人が、私の隣でずっと私が傷つくのを楽しんでいたのかもしれない。その事実の方が、勇気を失ったこと以上に苦しかった。会社でも「結婚直前に婚約者を奪われた女性」として見られ、私は耐えられなくなり会社を辞めた。
しばらく実家で休み、ようやく外へ出られるようになった頃、両親の勧めで始めたのがお見合いだった。そこで出会ったのが高志だ。当時40歳。仕事ばかりで結婚する機会を逃していたそうだ。最初のお見合いで高志は言った。
「医者という仕事は家族に迷惑をかけることがあります。夜中に呼ばれることもある。一緒にいられない日も多い。それでもいいなんて、簡単には言えないと思います」
格好いいことを言うでもなく、自分の欠点になりそうな部分を最初に伝えてくれた。その誠実さが私は好きになった。
結婚後も高志は変わらなかった。
「今日は遅くなる」
「わかった。夕飯残しておくね」
「先に寝てろよ」
「あなたこそ病院で何か食べてね」
そんなやり取りを毎日のようにする。ハルトが生まれてからは、どんなに疲れていても帰宅した高志の顔を見るなり「パパ!」と走っていく息子を、必ず抱き上げてくれた。
だから、ショッピングモールでエリナと再会した日、家族3人で買い物をしていた幸せな時間から一転、車へ戻った途端、私は震えが止まらなくなった。
「美沙、どうした?」
高志が心配そうに私の顔を覗き込む。
「ごめん。私、エリナだけは無理なの」
それ以上言葉にならなかった。高志は何も聞かず、「わかった。今日は帰ろう」と言ってくれた。その夜、ハルトを寝かせてから、私は初めて過去を全部話した。高志は最後まで黙って聞いた。そして言った。
「それは怖くなるよ」
たったそれだけ。責めるでも、忘れろと言うでもない。その一言に私はまた泣いた。
ところが数日後、高志がスマホを見せてきた。画面に映っていたのはエリナからのメッセージ。正確には、彼女の夫である徹を通して「先日の失礼を謝りたい」と連絡が来たのだ。私はすぐ言った。
「断って。そんなの何かの誘いよ」
高志は深く頷いた。でも、その日の夜、私は考えた。エリナに会っただけで震え、また逃げる。このままだと一生、彼女がどこかにいるというだけで怯え続けることになる。
翌朝、高志に言った。
「昨日の話だけど、断らないで。私も行く」
「大丈夫か?」
「わからない。でも、もう逃げたくない」
高志は少し考えてから「わかった」と頷いた。さらに高志は事情を徹にも伝えた。自分の妻が過去に美沙へ何をしたのか。そして今、高志と2人で会いたがっていること。徹は長い沈黙の後、「俺も確かめたいです」と答えた。
数日後、高志はエリナと小さなレストランで会った。私は少し離れた席に座り、徹も別の席で2人の会話を聞いていた。最初のエリナは殊勝な様子だった。
「この前は本当に失礼しました」
でも、しばらくすると声の調子が変わった。
「先生って、本当に素敵ですね。美沙にはもったいないくらい」
高志は淡々と聞く。
「どういう意味ですか?」
「だって美沙って、昔から地味じゃないですか?先生みたいな人なら、もう少し華やかな女性の方が似合うと思います。例えば…私とか」
エリナのやり口を聞いた私は、拳を握った。エリナは続けた。
「私、先生に一目惚れしちゃったんです」
「ご主人は徹さんのことですか?」
エリナはため息をついた。
「正直、期待外れでした。医者なのに思ったほど稼がないし、忙しいばっかりで全然楽しくないし」
その瞬間、椅子を引く音がした。
「そうか」
エリナの顔が固まる。徹、彼女の夫である徹がすぐ後ろに立っていた。そして私も席を立った。
「美沙も、なんで?」
エリナの顔色が変わる。
「何これ?私を嵌めたの?」
私は首を横に振った。
「違う。確認したかったの。あなたが今でも昔と同じなのか」
するとエリナは私を睨みつけた。
「あんたなんかより、私の方が選ばれるのよ」
その言葉、昔の私なら何も言えなかったと思う。でも、私は答えた。
「そうね。昔は私もそう思ってた」
エリナが眉を潜める。
「婚約者を奪われて、私には何かが足りないんだってずっと思ってた。でも、違った。あなたについていく人は、最初から私を大切にする人じゃなかっただけ」
エリナの顔が歪む。私は続けた。
「でも高志は違う。そして、この人はあなたが奪えるような人じゃないわ」
「何よ、あんたが偉そうに」
私は小さく笑った。その瞬間、不思議だった。あれほど怖かった人が、今はただ目の前で怒っている1人の女性にしか見えない。
「エリナ、私もあなたのこと忘れるわ」
それだけ言って、私は高志と店を出た。その後のエリナ夫婦がどうなったのか、詳しくは知らない。ただ、別々の道を選んだとだけ高志から聞いた。
それから数ヶ月後の休日、私たちは3人で広い公園へ行った。
「パパ待て!」
ハルトが芝生を走り、高志が追いかける。
「捕まえるぞ!」
2人の笑い声が風に乗って聞こえてきた。高志が振り返る。
「美沙、早く来いよ」
ハルトも「ママ、早く!」と手を振っている。昔の私は、奪われたものばかり見ていた。でも今は…
「はいはい」
私は立ち上がり、2人の元へ走っていった。



