「じいさん、会員性だよ。会員性な。」
その声がロビーに響いた瞬間、空気が凍りついた。名門ゴルフクラブの受付で、くたびれたポロシャツ姿の老人が静かに一礼して踵を返す。カウンター越しに、スーツ姿の支配人が追い打ちをかけた。
「会員証ないなら、うちじゃ一歩も入れないんですよ。分かります?昔は知りませんが、今は俺が基準なんで。あ、その格好じゃ他所でも断られますよ。ウェアくらい揃えてきてください。」
柱の影で、研修プロの若い女性が拳を握りしめ、唇を噛んだ。
直後、同じロビーに黒塗りの高級車が滑り込む。スーツ姿の男が飛び出し、支配人を完全に無視して老人に駆け寄った。
「会長、探しましたよ。」
その瞬間、支配人の顔が青ざめた。
一枚の白いキャップの下、78歳の老人の頭の中で、静かな決意が動き出そうとしていた。
この老人を追い出した男は、自分が地獄に落ちることをまだ知らなかった。
—
早朝の住宅街に薄い霧が立ち込めている。古い平屋の縁側で、湯呑みを手にした男が腰を下ろしていた。小山友巣、78歳。全国12のゴルフ場を手がけた伝説のコース設計家であり、日本ゴルフコース設計家協会の名誉会長。しかし、その姿に貫禄はない。
「今日は暖かいなあ。布団もそろそろ干すか。」
独り言のようなつぶやきが朝の空気に溶ける。壁には年季の入ったパターと色あせた表彰状。棚の隅には金文字の剥がれかけたトロフィー。しかし本人はそれらについて多くを語らない。
「昔の話はもう飾りでいい。」
湯呑みを縁側に置いた時、胸の奥で30年沈んでいた怒りが、かすかに音を立てた。
「俺は、1人の選手の未来をこの手で奪った男だ。」
—
30年前のクラブハウス。まだ肩幅の足りない若い選手が、興奮した目で小山の前に立っている。
「小山さん、お願いします。俺を出してください。今年の調子なら絶対に勝てます。絶対にです。」
険しい顔で小山は低く告げる。
「お前の指導役として、大事なことを伝えておく。お前のスイングは本番で崩れる癖がある。もう1年基礎を固めてから出るべきだ。」
「でも、今年を逃したら、俺なんて保証されてないんです。」
「それを俺が決める。悪く思うな。」
若い選手は悔しさを飲み込んで頭を下げ、その後ろ姿が廊下の奥へ消えていった。
その年の大会で優勝したのは、他ならぬ小山自身だった。
—
縁側の湯呑みの茶はもう覚めている。膝の上で、しわの寄った手の甲が静かに震えた。
「1973年の会場記念で優勝したのは、他ならぬこの俺だった。」
空を見上げると、雲が1つゆっくりと流れていった。
「今日、行ってみるか。あのコースに。」
コースは嘘をつかない。昔も今もな。胸の内に言い聞かせるような声だった。
クローゼットから、着古したベージュのポロシャツ、古びた白のキャップ、傷だらけのスパイクシューズを取り出す。首の古い高級時計だけが朝日を浴びて鈍く光った。
「道具は昔のままでいい。飾りも必要もない。」
玄関で靴紐を結び直し、扉を閉めた時、古い家の軋む音が物語の始まりを告げる合図のようになった。
—
名門ゴルフクラブのエントランスは、相変わらず手入れが行き届いていた。足を踏み入れた小山は、50年前に自分が設計図に鉛筆を走らせた日の光を、今の空気に確かに感じ取った。
「変わらんな、この芝の匂いは。木の立ち方も風の抜け方も、あの頃のままだ。」
つぶやきながらクラブハウスの横手へと続く小道を歩く。遠くからパターの音が聞こえてきた。コツン、コツンと規則正しく、しかしどこか硬い音だった。
小山は足を止める。練習グリーンの脇で、若い女性が1人、黙々とパット練習を続けていた。クラブの研修プロ、瀬川凛、26歳である。
「落ち着いて、落ち着いて。あと1球だけ、まっすぐ転がそう。」
自分に言い聞かせるようなつぶやきが朝の静寂に落ちる。
「今年でダメだったら、本当にもう後がないんだから。」
細く吐いた息がグリーンの芝を撫でる。
「今年ダメだったら帰っておいで。」
お母さんのその声が頭から抜けない。プロテスト挑戦3年目。今年を自分で決めた最後の年と心に決めて、グリーンの上で自分と向き合い続けている。
もう1球打とうとしたその時、背後から革靴の音が近づいてきた。
「瀬川さん、またここ使ってるの?朝一、邪魔なんだけど。」
声は丁寧を装いながら、語尾に棘が滲んでいた。仕立てのいいスーツに光沢のある革靴。クリップボードを抱えた男。支配人の安田春典、38歳が朝の光を遮るように立つ。
凛はパターを下ろし、背筋を伸ばして向き直った。
「申し訳ありません。ただ、練習部は研修プロの朝の使用が認められているはずで。」
「認められてたでしょ。過去は。」
軽く首をかしげながら、安田はあざけり笑うような口調で言い放つ。
「俺が変えたから。研修プロより会員様が最優先。分かる?」
「存じ上げず、申し訳ありません。」
「クラブの顔は会員様なの。研修プロが邪魔して、何が名門クラブなのって話。」
凛は唇を噛み、拳を握ったまま小さく頷く。
「以後、気をつけます。」
「それに正直さ、3年やってまだプロになれてないって、向いてないんじゃないの?」
凛の肩がわずかに跳ねた。
「才能って残酷だよね。努力で埋まるものじゃないし。そろそろ誰か気づいてあげなきゃの話だよ。次のスポンサー枠、別の子にしようかなって、ちょうど考えてたとこなんだよね。」
その一言に、凛の視線が落ちた。
「考え直してください。今年の枠は、私の最後の挑戦で。」
「はいはい。最後最後ってもう聞き飽きたよ。じゃあ頑張って。向いてないけどね。」
安田はクリップボードを一瞥し、肩をすくめて立ち去った。
入れ替わりに、同じ研修プロ仲間の高橋美紀、27歳が心配そうに駆け寄ってきた。1歳上で、凛にとって唯一胸の内を話せる同期生である。
「瀬川さん、大丈夫?あれはさすがに言いすぎだよ。」
「うん。ありがとう。」
凛は微笑んでもう一度アドレスに入った。グリップを握る指の震えを、自分で抑え込もうとしている。
エントランスのガラス越しに、その一挙手一投足を目にしている老人がいた。
「あのスイングの癖、どこかで見たことがある。軸のぶれ方も、押し込み方も、間違いない。」
記憶の底の何かが、ゆっくりと動き出す気配を感じた。小山はじっと黙って、ガラスの前に立ち尽くした。
—
しばらくして、小山はエントランスへと進んだ。カウンターの男の顔を見て、胸の奥で一度だけ息を吐く。
「あの顔は知らんな。新しい人間が立っているのか。」
安田は老人の姿に気づくと、上から下まで値踏みするような視線を這わせた。合わせた若いスタッフの1人が、思わず目を伏せる。
「失礼ですが、ご予約はお持ちですかね。」
声だけは丁寧に整えていたが、唇の端に浮かんだ笑みが本音を物語っていた。
小山は帽子のつばに軽く触れ、穏やかな調子で答える。
「昔は持っていたんだがね。随分前に返してしまって、そのままになっている。古い名簿には、私の名前もまだ残っているはずなんだが。」
「名簿?今、更新中でね。古い会員はこっちで整理させてもらってるんで。」
取り繕った丁寧さの仮面が、音を立てて剥がれ落ちる。
「じいさん、このクラブは会員制だよ。会員証ない人はお断りしてますんで、いい加減にしてくれます?」
「そうか。」
「散々ぶられても、俺は新しい体制を任された人間なんで、前人の甘い基準とは違うんですよ。」
棘が混じったその物言いに、小山はキャップのつばを少し上げ、静かに返す。
「そうかね。昔はフラッと来ても、よく回れたものだったがな。」
「今は俺が基準を決めてますので、分かります?会員制って意味?」
小山は黙って帽子のつばに指をかけた。カウンター越しに身を乗り出し、安田は追い打ちをかける。ロビーの空気が真冬の川のように静まり返った。
「お金を払ってる会員様が、いいの隣でプレイしたいと思います。普通でしょう。」
「分かったよ。今日は帰ろう。」
「そうしてください。あ、その格好じゃ他所でも断られますよ。ウェアくらい揃えてから出直してきた方がいいんじゃないですか。」
少し離れた柱の影で、練習から戻ってきた凛がその一部始終を見ていた。
「あの、支配人、ひどくないですか?」
「あ、何?お前?」
「会員証がないのは分かりますが、そこまでおっしゃらなくても。」
「研修プロが口出すことじゃないけど、自分の仕事してくれる?」
凛は唇を噛み、それ以上言葉が出なかった。
小山はゆっくりと帽子を取り、静かに一礼して踵を返す。凛は拳を握りしめたまま立ち尽くす。その輪に向けて、ほんの少しだけ首を横に振る。
「凛さん。あんたが悪いんじゃない。」
独り言のようにつぶやき、老人はエントランスへと背を向けた。残されたロビーには、スタッフたちの沈黙だけが気まずい余韻として漂っていた。
—
夜、小山の書斎は古時計の振り子の音だけが静かに響いていた。小山はクローゼットの奥から、長らく開いていなかったフォトアルバムを取り出した。ページをめくると、色あせた写真が現れた。若き自分と肩を並べた1人の選手、瀬川健二。30年前、誰よりも才能があった男だ。
「やっと、お前の顔を正面から見られた。」
かれた声が古い写真の上に落ちる。指先が写真の中の若い選手の肩の線をそっとなぞった。
「あの一言で、お前は競技を離れた。俺のせいだ。ずっとそう思ってきた。」
ページをめくる手がそこで止まった。次のページに貼られていたのは、競技中の1枚。軸が揺れながらも、最後の瞬間にグリップで押し込む、あの粘り強いスイング。
凛がフェンスの向こうで見せた、アドレス前の深呼吸、グリップを握り直す仕草、軸がぶれながらも諦めずに打ち続けた粘り強さ。2つのスイングが1本の糸で結ばれていく。
「軸のぶれ方も、手首の使い方も、間違いない。」
写真の笑顔に、今日の凛の顔がゆっくりと重なる。同じ目の光、同じ眉の角度。
「あの子は、健二の娘か。」
アルバムを閉じ、胸に当てた。畳の床が軋む音を立てた。
「もう、同じ過ちは繰り返さん。今度こそ、最後まで見届ける。」
胸の奥で、30年ぶりに硬い何かが鳴った。小山は机の手帳を開き、古いメモ欄に書き留めてある番号を指でなぞる。それから受話器を取り、ダイヤルを回した。数回のコール音の後、相手は少し驚いたような声で出る。
「おお、小山さん、お久しぶりです。どうされましたか?こんな時間に。」
電話の向こうで、窮屈な男の姿勢が正されたのが伝わってくる。安田ホールディングスの創業者、安田聖、65歳。業界内で長年小山の仕事ぶりを間近で見続けてきた男だ。
「ちょっと子を言いたくなってな。少しいいか。」
「小山さんですか?一体どうされましたか?」
「今日な。久しぶりにあるゴルフ場へ行ったんだが、門前払いされてしまってな。」
「え、どちらのクラブですか?それは冗談じゃ済まない話ですよ。」
「面白いだろう。この年になっても、こんなことが起きる。それでな、明日もう一度行ってみようと思っている。」
「小山さん、待ってください。場所だけでも教えてください。」
「すまん、すまん。それだけだ。今日はもう寝ることにする。すまんね、付き合わせて。」
「せめて、明日の朝、迎えをよさせてください。」
「いらんよ。自分の足で行きたいんだ。」
「おい、小山さん、切らないで。」
受話器を静かに戻し、小山は一度だけ目を閉じた。
「今度こそ、筋を通す。あの子の前で逃げるわけにはいかん。」
電話の向こうで、聖は受話器を握ったまま動けなくなっていた。
—
夜が明け、聖は心当たりのクラブへ片っ端から問い合わせを入れていく。数件目、相手のスタッフの声が少し戸惑った。
「昨日、高齢の男性をお1人お断りした件でしたら、確かにございます。」
「応対したのはどなたですか?」
「支配人の安田春典でございます。」
受話器を握る指に力が入る。胸の底で静かに、しかし確実に怒りが燃え上がった。
「すぐそちらへ向かう。支配人にはその場で待たせておいてくれ。」
スタッフに向けて短く告げ、電話を切る。
「小山さんに顔向けできん。」
黒塗りの車が朝の光の中で静かに動き始めた。
—
同じ朝、クラブ敷地内の練習コースでは、凛が1人でドライバーを振っていた。朝露がまだ芝の先に残る。昨日の支配人の声と、追い出された老人の背中が頭から離れなかった。
「3年やってまだプロになれないって、向いてないのかな、私。」
ドライバーのグリップを指先で何度も握り直した。構えに入り、振り抜く。しかしインパクトの瞬間、力が肩に乗り、ボールは大きく右へそれた。
「またか。軌道が浅くなってる。」
額の汗を手の甲で乱暴に拭う。もう1球、また右へ。
フェンスの向こうから、穏やかな声が届いた。
「また来てしまったよ。こりないじいさんだろ。」
振り返ると、傷だらけのスパイクシューズを履いた老人が、キャップのつばを少し上げて柔らかく笑っていた。
「あ、昨日の。大丈夫でしたか?あんな風に言われて。」
「私は平気だよ。気にしないでおくれ。それより、スイングを見ていていいかね?」
「はい。お願いします。」
正直、自分じゃもう何が悪いのか分からなかった。凛は戸惑いながらも、断る理由が見つからない自分に内心驚いていた。
もう1球打って見せる。やはり力が抜けず、ボールは右へ逸れた。
「力で問わそうとしているね。大事な場面になればなるほど、もっと力が入る。違うかね。」
「なんで分かるんですか?初めて会ったはずなのに。」
小山は答えない。代わりにフェンスのワイヤーに軽く指をかけ、視線を凛のアドレスから手元、肩、膝の順にゆっくりと下ろしていく。
「手元の握りと膝の角度。そこに答えがもう出ている。あとは、あなた自身が気づくかどうかだ。」
そして低い声で告げた。
「1番遠くに飛ばすより、1番正直に打て。」
「正直に、ですか?」
「見栄も焦りも、コースには通じない。あなた自身のゴルフをすればいい。」
その言葉に、凛は胸の奥を指先でそっと押さえられたような気がした。正直に打つ。見栄も焦りも置いて。そうだ。それだけでいい。
「今年ダメだったら帰っておいで」の声も、一度置いてか。胸の底から、細い軸が1本ゆっくりと立ち上がる感覚があった。
「もう1度打ってみます。見ていてもらっていいですか?」
「いくらでもな。ゆっくり、自分のリズムでな。」
凛はもう一度構えに入った。呼吸を整え、肩の力を抜く。ドライバーのヘッドがバックスイングで自然な軌道を描き、そのままダウンスイングに入った。インパクトの音が先ほどまでとは違って、芯を捉えた重い響きになる。ボールはまっすぐに美しい弾道で朝の空へ伸びていった。
「まっすぐ飛びました。」
「芯を捉えたな。今のは何か違いました。全然。」
「それが、お前の本当の音だよ。」
フェンスの向こうの老人は、それ以上何も言わず、ただ小さく微笑んでいた。
—
その時、クリップボードを小脇に挟んだ安田が、フェンスに立つ老人の姿を見つけ、露骨に顔をしかめた。
「また来たのか、じいさん。昨日追い返された話、まだ飲み込めてないんですか?」
荒い声が、澄んだ朝の空気を一気に濁らせた。
小山は同じ。
「少し見学させてもらっていただけだよ。邪魔はしていないつもりだが。」
「見学?うちのクラブは、誰でも覗けるテーマパークじゃないんで。」
鼻で笑い、安田は凛の方へ視線を滑らせた。
「瀬川さん、こんな非会員の爺いさんと仲良くしてるから、お前はいつまで経ってもプロになれないんだよ。」
その一言で、凛の顔色が変わった。昨日までの自分なら、拳を握りしめ、視線を落としていたかもしれない。しかし今日は、胸の底に細い軸が1本通っている感覚があった。凛はグリップを握ったまま背筋を伸ばして声を返す。
「支配人、このおじいさんとは何も関係ありません。私が勝手にアドバイスを頂いていただけです。」
「あ、何?いきなり口ごたえする気?」
「機会だからって、バカにしていい理由にはなりません。それと、プロになれるかどうかは、支配人が決めることではないはずです。」
「は?何言ってんの?会員じゃなきゃ、ここでゴルフなんかできないに決まってるだろうな。」
あざけるように笑う口元が、わずかに引きつった。
「そうかね。」
短いつぶやきだけで、小山は安田の視線を受け止めた。安田は老人の穏やかな目の中にある、底の見えない静けさに、ほんの一瞬だけ怯む。しかし、すぐに自分を立て直すように肩を張った。
「そうだよ。じいさんも、もう帰ってくれって。見学したって、その年から急にうまくなるわけでもないでしょう。」
凛は拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込むのを感じていた。小山はそんな凛に静かに目を向けた。
「1番遠くに飛ばすより、1番正直に打て。」
声には静かな重みが宿っていた。
「それは、クラブを握る時だけの言葉じゃないんだよ。」
凛の目がわずかに見開かれる。
「生きていく上で、大切なことだ。」
「はい、先生。私、ちゃんと胸に刻みます。」
「はい。はい。」
「感動してるとこ悪いけど。」
安田が割り込むように冷めた声をかけた。
「じいさんも、そんな子に肩入れしてどうすんの?時間の無駄じゃないですか?お互いに。つかさあ、何しに来てんの?毎回ストーカーみたいで、マジ受けるんだけど。」
小山は何も言わない。ただ静かに安田の顔を見ている。その目の奥にある、底の見えない静けさに、安田はほんの一瞬だけ言葉に詰まった。しかしすぐに口の端を持ち上げる。
「その年で、3度もなくないですか?正直。」
「そういう言い方、ひどくないですか?」
思わず声が漏れた。老人へのその一言が、自分への言葉よりずっと深く刺さった。
「なんだ?お前も文句あるのか?さっさと練習に戻ったらどうだ?じいさんも、もう帰ってくださいよ。本当に。」
安田が言いかけたその瞬間。
—
クラブの車寄せに、黒塗りの高級車がゆっくりと滑り込んだ。スーツ姿の男が勢いよく飛び出してくる。中から現れたのは、上質なスーツを着た男、安田聖である。
聖はクリップボードを抱えた安田を視線の端に捉えた。しかし、その顔は完全に無視した。まっすぐにフェンスの向こうの老人に向かって、大股で駆け寄っていく。
「会長、探しましたよ。こちらにいらっしゃいましたか。」
よく響く低い声が、朝の澄んだ空気に突き刺さった。
「おじさん、なんでこんなところに?」
安田春典はその場で凍りついた。クリップボードを抱えた手の指が、わずかに震え始める。
支配人の安田春典は、声が出せなかった。仕立てのいいスーツの肩がわずかに跳ねる。やっとの思いで絞り出した声は、いつもの支配人然とした響きを完全に失っていた。
「え、」
我に返るより先に、驚きの声が唇の隙間から転がり出ていた。続けて、必死に体裁を保つように言葉をつなぐ。
「叔父さん、なぜこちらに?今日、ご予定伺っていませんでしたが。」
その呼びかけに、聖はちらりと安田に視線を投げるだけですぐに老人の方へ向き直った。
「よくここが分かったね、聖さん。」
「朝から何件も電話を入れました。心当たりのあるクラブに、片っ端から確認を取りまして。」
「そうか。何度もすまんな。大事にするつもりはなかったんだが。」
「いえいえ。とんでもない。それで、先日このクラブでおじいさんを追い返したと、スタッフから答えが返ってきましてね。」
「うん。その通りだ。」
「それで、黙っておくわけにもいかず、駆けつけた次第です。」
安田の膝から力が抜けそうになる。それでも最後のプライドが、弁解の言葉を積み上げさせた。
「ルールに従っただけで。会員制なので、会員証お持ちでない方は、俺は支配人として、規程通りの対応を。」
「勝のり。」
短く重く名前を呼ぶ声だった。安田の姿勢が反射的に固まる。子供の頃から、叔父にこの声を出させたことは一度もなかった。
聖は安田から視線を外し、周囲のスタッフたちにも聞こえる声で、ゆっくりと告げた。
「こちらにいらっしゃる方はな、日本コース設計家協会の名誉会長。」
一呼吸を置いて、聖は静かに名を告げる。
「小山先生だ。」
「名誉会長?業界で先生のお名前を知らない人間は、1人もおらん。」
「嘘だろ?そんなの聞いてません。本当に聞いてないんです。」
呼吸を忘れたようなつぶやきが唇から漏れる。凛は震える手で口を覆い、小さく息を飲んだ。
「え、あのおじいさんが。」
凛の視線が、フェンスの向こうの老人と聖の間を何度も往復する。
「名誉会長って、ゴルフ協会のトップの?」
「その通りだよ、瀬川さん。」
「そんな方に、私、昨日はただ黙って見てるしかできなくて。」
フェンスの向こうの老人は、キャップのつばを下げて、少しだけ照れ臭そうに笑う。
「役職で驚かせたいわけじゃない。ただのくたびれたじいさんで、どうするつもりだった。」
穏やかな一言に、凛の頭の中で昨日からの光景が一気に繋がった。あの格好、力の抜け方を見抜いた鋭い目。全部、伝説のコース設計家のものだった。
聖は安田の方へ改めて向き直る。
「小山先生は、このクラブの永年名誉会員だ。会費は生涯免除。」
安田がみるみる青ざめていく。
「名簿の1ページ目に、1番上に載っている。」
「そんなの知らなかった。聞いてないです。本当に。」
かれた声を絞り出し、安田は目線を泳がせた。
「名簿は更新中で、俺の手元の一覧にはまだ反映されていなくて。」
反射的に出た弁解が、自分の首を絞めることに自分でも気づいていた。
聖の眉がわずかに上がる。
「支配人が、名簿の1ページ目を確認していなかったと。お前、何ヶ月この席に座ってきた?何を采配していたんだ?」
安田は返す言葉を失った。
「いや、それは本当に知らなかっただけで。」
クリップボードを抱える指が震え、胸の内側で鼓動が激しく打っていた。
「それだけではすまん。小山先生はな、このクラブのコースを設計された方だ。俺たちが今歩いている18ホールを、50年前に図面に引かれた。」
壁の肖像画の列を手で示し、聖は声の重さを一段下げる。
「このクラブは、先生がいなければ、そもそも存在していない。」
安田の顔から完全に色が抜けた。視線は足元に落ち、肩の線が明らかに下がる。
「そんな、俺は、その方を。」
凛は涙をこらえながら、フェンスの向こうの老人を見つめている。小山はゆっくりと視線を巡らせ、遠くのグリーンへ目を細めた。
「50年経っても、いいコースだ。芝の手入れをしていただいているのが、よく分かる。」
それは怒りでも自慢でもない。職人が自分の仕事に向ける、静かな祈りのような声だった。
安田は取り乱し、腰を折って深く頭を下げる。
「先生、本当に申し訳ございませんでした。この始末、どのようにお詫び申し上げたら良いか。」
安田を当てて、スーツの背中を折れる。ただし、その目はまだ助けを求めるように叔父の顔を結び見ていた。
「小山先生、大変申し訳ありませんでした。知らぬこととはいえ、失礼な対応。」
凛はフェンスに近づいて、小さいがはっきりとした声で頭を下げた。
「先生、私も昨日、何もお声がけできずに申し訳ありませんでした。」
「いいんだよ。あの場であんたが口を開かなくて正解だった。もしあんたが声をあげていたら、次はあんたがこいつの的になっていた。今日打てた一球で、もう十分だ。」
凛の目の縁に、ようやく涙が滲んだ。
聖は「ふう」と短く息を吐く。安田に視線を戻した時、そこにもはや温かさは一片もなかった。
「勝のり。話がある。中へ入れ。」
「はい。」
抵抗する気配は残っていなかった。
—
応接室は、歴代名誉会員の肖像画が並ぶ部屋。重厚なテーブルを挟んで、小山と凛が向き合って腰を下ろす。聖は安田の前に立つ。
「小山先生を追い出したことだけではすまん。お前の足元、俺は前からずっと気にしていた。」
静かな、しかし逃げ場のない一言だった。安田は喉の奥で息を詰まらせ、どうにか声を絞り出す。
「何の話でしょうか、おじさん。」
聖は上着の内ポケットから1枚の紙を取り出し、テーブルの隅に置いた。
「前の施設でも、そのまた前の施設でも、トラブルを起こして揉み消していたと、報告が上がっている。」
紙の上に指を重ね、聖は視線を安田から外さない。
「いや、それは揉み消したなんて言い方は。言い訳は聞かん。ここでも同じことを繰り返していたな。」
その言葉に合わせるように、凛はバッグから綺麗に折りたたんだ書類の束を取り出した。テーブルの上に静かにそれを置く。
「私、ずっと気になっていたことがありました。」
声は小さかったが、震えてはいなかった。
聖は静かに頷いて、先を促す。
「支配人からスポンサー枠の処理を受け取った時、金額の桁が契約書と違っていたんです。」
「違っていたとは?」
「何度見直しても、数字が合いませんでした。事務方に連絡してもらったら、振り込み名義との差額が、別の口座に流れていることが分かったんです。」
聖は書類を手に取り、ページを1枚1枚めくる。眉間のしわが、ゆっくりと深くなっていった。
「これは、勝のり。この口座の名義は、誰のものだ?はっきり答えろ。」
声が低く、苦く沈む。安田は両手を膝から離すように動かし、叫ぶように弁解した。
「違います。それは事務処理の都合で、後から清算する予定の仮の口座で。俺は一時的に預かっていただけで。」
「清算の予定の金が、お前名義の口座に入っている理由を言ってみろ。」
「それは。」
一言で弁明は断ち切られた。椅子の上で、安田の背中が丸まり、肩が内側に落ちる。
小山はその様子を攻めるでもなく、凛の方へ視線を移した。
「瀬川さん、よく勇気を出したね。この書類を出すには、相当な覚悟が要ったろう。」
凛は唇を噛み、首を横に振る。
「先生が何も言わずに帰って行かれた姿を見てから、ずっと悔しくて。」
小山は静かに頷く。
「せめて、こういう形ででも声をあげないと、自分が自分でいられなくなると思ったんです。」
伏せていた目を上げ、凛はまっすぐ小山を見た。
「先生に、背中を押された気がしました。」
声の端が震えた。しかし、目はそらさなかった。
小山は小さく頷く。
「その一歩は、コース上の一打と同じだよ。正直に打てた証拠だ。」
凛の目の先に、光の粒が揺れた。昨日までずっと自分を縛っていた「今年ダメだったら帰っておいで」という声が、胸の中で静かに溶けていく感覚があった。
聖は書類を閉じ、安田の顔をまっすぐに見据えた。
「勝のり、お前を甘やかすのはもう終わりだ。ここから先は、自分の足で立って、自分の始末を自分でつけろ。」
言葉は穏やかだが、決定的な重さを持っていた。安田は震える唇を動かしたが、声は音にならなかった。
小山はゆっくりと立ち上がり、安田のそばへ歩み寄る。小柄な78歳の老人が、若い支配人を見下ろす形になった。
「お前は、コースに嘘をついたのだ。」
たった一言だった。しかし、その一言は安田の胸の奥を深く貫いた。
「違う、先生。俺は、俺は本当に。コースは、聞いているよ。お前の、石田も、一声も、全部。こんなつもりじゃなかったんです。」
かれた否定の声が途中で途切れる。安田は両手を顔に当て、沈黙に自分の輪郭が溶けていくような錯覚を覚えた。
聖は深く息を吐いた。ここからは、叔父としてではなく、経営者として判断を下す時間だった。机の上に書類を重ね直し、姿勢を整え、安田の方へ再び向き直る。
「勝のり、お前は今日付けで支配人を降りろ。」
安田の肩がぴくりと跳ねた。
「おじさん、そんな。」
「決定はもう動かさん。」
安田の両手が力なく膝の上に落ちた。喉からは、音にならない空気だけが漏れる。
「おじさん、お願いします。一度だけ、もう一度だけ、俺にチャンスを。」
かれた声が応接室の床に落ちた。聖は目を合わせたまま、何も答えない。
「ここで下ろされたら、俺はもう。」
もはや支配人の声ではなく、助けを求める1人の男のかれ声だった。
聖は目をそらさず続ける。
「お前を守ってきた。前の施設でも、その前でも、俺が頭を下げて済ませてきた。だが、今日でそれは終わりだ。」
「そんな、おじさん、俺はこれからどうすれば。」
「ケアから出直せ。」
短い一言がテーブルの上に静かに落ちた。
「このクラブのコースを、もう一度自分の足で歩いて、1ホールずつ覚え直せ。」
聖はそこで一度言葉を切る。安田の目をまっすぐに見据えて、最後の選択肢を告げた。
「それが嫌なら、安田の名は捨てて、この業界から出ていけ。それだけだ。」
選択肢はほとんどなかった。叔父の声には、情があるからこそ、逃げ場を残さない硬さがあった。安田は震える唇の奥から、必死に絞り出す。
「はい。申し訳ありませんでした。」
その一言で、支配人の肩書きは彼の手を離れた。クラブスタッフが呼ばれ、公認には7年副支配人を務めた男の名が告げられる。経理は第三者機関へ。スポンサーへの返金手続きも指示された。
一連の区切りがついた時、聖は改めて凛の方へ向き直る。
「凛さん、君のことも、小山先生から少しだけ聞いている。」
「え、私の何をですか?」
聖はテーブルの上で両手を組み、ゆっくりと告げた。
「君のお父さんは、瀬川健二さんだな。」
「はい。父を、ご存知なんですか?父の名前?どうして?」
凛の視線が、聖から小山へと移る。小山は帽子を膝の上に置き、静かに目を合わせた。
「瀬川さん、少し長くなるが、聞いてもらえるかね?」
「はい、もちろんです。」
小山は少し間を置いて続ける。
「30年前、私はあなたのお父さんを、大会の出場から外した。」
膝の上で、しわの寄った両手がそっと組み合わされる。
「まだ早いと、私はあの場で告げた。」
一度喉の奥で息を飲み、小山は声の調子を落として続ける。
「その判断が、お父さんを競技から遠ざける結果になった。長い間、私はその責任を、誰にも言わずに抱えてきた。」
凛の目が大きく見開かれる。しかし、そこにあったのは驚きだけで、怒りや悲しみの色は見当たらなかった。
「先生、それは先生が勝手に抱え込んでこられたことです。父は先生を恨んでなんていません。」
落ち着いた、しかしはっきりとした声だった。小山の視線がわずかに上がる。
「小学校に上がる前から、父はずっと練習場で私に言っていたんです。」
膝の上で指を重ね、凛は続ける。
「お前は正直に打てって。それと、コースは嘘をつかないって。」
小山の胸の奥で、何かが小さく軋む音がした。
「父は一度も、先生のお名前を悪く言ったことがありません。」
唇に、父を偲ぶような柔らかな笑みが浮かぶ。
「むしろ、あそこで外してくれた人がいたから、俺は心の弱さに向き合えたんだって。そう言って、よく静かに笑っていました。」
30年前、悔しさを飲み込んで頭を下げた若い男の、その後の姿を埋める言葉が、ようやく小山の前に差し出された瞬間だった。
「そうか。」
短い一言が、応接室の空気にそっと解けた。
「あいつは、そんな風に受け止めてくれていたのか?」
「はい。ずっと、そう話していました。」
「随分、長く待たせてしまったな。」
ゆっくりとつぶやきながら、小山は目を閉じた。長い息が胸の底から抜けていく。30年間、重りのように沈んでいた何かが、ゆっくりと外れていく感覚があった。
そして、もう一度目を開ける。
「コースは嘘をつかない。お父さんは、あの場所で正直に生きていた。」
老人の声は穏やかで、しかし確かな芯が通っていた。凛の目から、こぼれ落ちた涙が1粒、頬を伝って落ちる。
小山は両手をそっと組み直し、姿勢を少し正した。
「瀬川さん、1つ頼みがある。」
「はい。」
凛の視線がまっすぐ、老人の目に戻る。小山は少しだけ声の調子を改めて続けた。
「プロテストまで、私に指導させてもらえないか。」
聖の眉がわずかに上がった。凛の呼吸が、また一瞬止まる。
「先生、まさか。」
小山は聖に小さく頷き、それから凛の方へ静かに視線を戻す。
「あの頃の判断も、今日のことも、全部コースに刻まれている。だからこそ、やり直せる。もう一度、一緒に立たせてくれ。」
凛の頬の上で、新しい涙が静かに伝う。膝の上の両手が、硬く握り合わされた。
「はい、お願いします。先生。」
かれた声だった。窓から差し込む朝の光が、3人の影を静かに照らし出している。部屋の隅で、両手に顔を埋めたままの安田の姿だけが、その光の外に取り残されていた。
—
季節が穏やかに移っていった。
やがて、かつてあの男が門前払いした名門ゴルフクラブの朝。露に濡れた芝の上で、1人の若い女性がキャディバッグを肩から下ろしていた。瀬川凛である。
凛がキャディバッグを下ろしていると、後ろから足音が近づいてくる。美紀だった。
「凛さん、プロテスト合格、おめでとう。本当に良かった。」
「美紀さん、泣いてるじゃないですか。」
「泣いてないし。目にゴミが入っただけだし。」
「ありがとう。あの時、声かけてくれてなかったら、折れてたかもしれない。」
「私は何もしてないよ。ただ隣にいただけ。」
「それで、十分だったんです。」
美紀は照れ臭そうに視線をそらし、それからまっすぐ凛を見た。
「私も、来年もう一回だけ、挑戦してみようと思って。」
「え、一緒に頑張りましょう。」
2人は顔を見合わせ、小さく笑った。
3番ホームのティーブラウンドには、古びた白のキャップの老人が静かに腕を組んで立っている。
「先生、今日もよろしくお願いします。」
「ああ、始めようか。」
小山の指先が、凛のグリップの位置を穏やかに示す。凛は深く息を吸い、肩の力をゆっくりと抜いた。軽やかに振り抜いたボールは、高い弧を描き、フェアウェイの真ん中に落ちていく。
「軸がぶれませんでした。」
「腹が座ってきたな。」
凛はキャップをかぶり直し、父譲りのスイングをもう一度、ゆっくりと確かめるように振り直す。
「父の打ち方、やっと自分のものになってきた気がします。」
「それでいい。お父さんの打ち方は、お前の中にちゃんと生きている。」
指導の合間、コースの脇の道から、キャディバッグを担いだ男がゆっくりと近づいてきた。額に汗を浮かべたその顔からは、かつての鋭さは消えている。安田春典である。
足元に目を落としたまま、小さく会釈をした。
「先生、おはようございます。」
「ああ、のさん。しばらくだな。」
短いやり取りだったが、2人のどちらも目をそらさなかった。
「いいスイングでした。」
短い一言を残し、安田は事務所の方へ静かに戻っていった。凛はその背中を見送り、少しだけ視線を落とす。
「先生、コースは嘘をつかないって、教えてくれましたよね。」
「ああ、言ったな。」
「これからのことも、ちゃんとここに刻まれていくんですね。」
凛の声は静かで、しかし、まっすぐだった。小山は遠くのグリーンの方に向かって、ゆっくりと目を細める。
「ああ、お前の歩みも、お父さんの歩みも、全部ここに残る。」
クラブハウスの玄関口から、黒塗りの高級車が滑り込んでくる。上質なスーツの襟を整え、安田聖が静かな足取りで小山の隣に歩み寄った。
「先生、コースは嘘をつかないんですね。」
小山はその言葉に静かに頷く。
「ああ、人の歩みも、全部ここに刻まれる。」
「例の基金の件、関係各所が動き出しました。協会は全面協力を約束しております。」
数日後、日本ゴルフコース設計家協会の記者会見の場で、若手ゴルファー支援基金の設立が告げられる。才能と覚悟を持ちながら、環境が整わず挑戦を諦めかけている若手を支える仕組みだった。
小山は穏やかに告げる。
「才能のある若い人を、環境のせいで止めたくない。」
短い一言に、記者の空気が静かに変わった。基金の第1号支援選手として、凛の名が読み上げられる。会場の袖で、凛は唇を噛み、深く頭を下げた。
夕暮れ、練習を終えた凛がクラブハウスの窓の方から手を振る。小山はキャップを軽く持ち上げて、それに答えた。
空を見上げると、夕日に染まった雲が1つ、ゆっくりと流れていく。胸の中で、昔の友に静かに呼びかけた。
「健二、お前の娘は強くなったぞ。」
18番ホールの芝が、1日の最後の光を受けて金色に輝いていた。風の匂いは、50年前、小山がこの業界に足を踏み入れた朝と同じ匂いだった。
本物の品格は、どんな状況でも滲み出る。そして、コースは全ての歩みを静かに記録し続けていく。



