私の前にだけ料理がない。長男の嫁のみさが、自分の前に置かれた空の皿を見つめて、突然涙を浮かべた。
「ひどいですよ、お母さん。みんなにはこんなに料理があるのに」
親戚たちの視線が一斉に私へ向いた。
「さち子ちゃん、まさか嫁いびりか?」
「みさちゃんだけ食事なしってのは、さすがにかわいそうだぞ」
みさは待っていましたとばかりに両手で顔を覆った。私は小さく息を吐いた。
「そうね。じゃあ、みささんの分も持ってきてあげるわ」
私は立ち上がった。ちょうど皆さんにも見てもらいたいものがあることだし。
私の名前はさち子、62歳。2年前に夫の正を亡くし、長男の浩司が結婚してからはこの家で一人暮らしをしている。今年はみんなの都合が重なり、親戚が集まれたのはお盆を少し過ぎた頃だった。久しぶりに全員が揃うのが嬉しくて、私は数日前から料理の準備をしていた。煮物や出し巻き、難蛮付けにローストビーフ、炊き込みご飯は欠かせない。当日受け取りのお刺身まで予約した。
夫がいた頃から、親戚が集まる日の料理は私の担当だった。「さち子ちゃんの料理を食べると、帰ってきた気がするな」と言ってもらえるのが、私の密かな楽しみでもあった。だから今回も少し張り切りすぎたくらいだ。
ただ今年は違った。その嬉しい気持ちで、心配事を抑えていた。それは長男嫁のみさについて。みさには一つ大きな問題があった。
結婚して数ヶ月後のこと、夜8時過ぎに突然長男の浩司から電話が来た。「母さん、今すぐ来てくれ」「どうしたの?」「台所が大変なんだよ」慌ててこの家へ行くと、新品だったはずのキッチンが油だらけ。そして浩司は腕を冷やしている。何があったのかと聞くと、夕飯を作っていたみさが油を使った料理で大きな失敗をしたらしい。幸い大事にはならなかった。でも私が驚いたのはその後だ。
「みささん、怪我はない?」
「私は大丈夫です」
「浩司が火傷してるから、少し手当てを」
するとみさは「でも私だって怖かったんです」と泣き出した。結局、浩司の手当てもキッチンの片付けも、ほとんど私たち二人でした。その間みさは「お気に入りの鍋だったのに」「壁も選ぶの大変だったのに」と嘆くばかり。私は料理に慣れていないだけなのだろう、そう思うことにした。
数ヶ月後、私の誕生日に浩司夫婦が夕飯へ招待してくれた。「この前のお詫びも兼ねて、今日は私が作りました」みさが誇らしげに出したのは焦げた唐揚げ。「揚げ物克服したんです」せっかく私のために作ってくれたのだ。私はいいを決して一つ食べた。「うん。美味しいわ」人生で一番頑張っていった美味しいだったと思う。
が翌日、私は激しい体調不良で病院のお世話になった。浩司も同じだった。原因は加熱が十分ではなかった料理。驚いたことに、みさだけは元気だった。「みささんは食べなかったの?」浩司に聞くと、「ダイエット中だから」って自分はサラダだけだった。私は言葉を失った。味見はしてないと思う。そして浩司が申し訳なさそうに言った。
「母さん、俺が何度も同居しようって言ってたの覚えてる?」
「新婚なのになんでとは思ってたけど」
浩司は首を横に振った。「飯なんだよ」「え?」「家で普通の飯が食いたかったんだよ、俺が」思わず笑いそうになったが、浩司本人は真剣だ。「俺が作ろうとすると『私の料理が嫌なの?』って怒るんだ。レシピ見ようって言っても『料理は感覚だ』って聞かないし」私はため息をついた。料理が下手なのは悪いことではない。最初から上手な人なんてほとんどいない。でも分からないのに聞かない。自分では味見をしない。失敗しても人の言葉を聞こうとしない。そこが問題だったのだ。
だから今回の集まりに浩司夫婦を呼んだ。みさにも私の料理を食べてもらい、気に入ったものがあれば「今度一緒に作ってみない?」と誘おうと思っていた。
集まりの前日の夜、みさは「お母さん、明日は私も手伝いますね」と言ってくれた。「ありがとう。でももう遅いから、明日の朝お願いね」そう言って眠った。
翌朝、冷蔵庫を開けた私はしばらく動けなかった。「何これ?」数日かけて作った料理が全部、全て変わり果てていた。
「お母さん、おはようございます」みさが笑顔で台所へ入ってきた。「昨日のお料理、ちょっとアレンジしておきました」
「あ、アレンジ?」
「はい。同じ味じゃつまらないじゃないですか」
煮物には甘いソース、難蛮付けにはなぜかクリーム。ローストビーフは鍋の中で煮込まれ、予約していた刺身にも見たことのない垂れ。さらに食べ物ではない飾りまで料理の上に混ざっていた。
「みささん、これ全部あなたが?」
「そうですよ。映えるでしょ?」
悪びれる様子はない。私は怒鳴りたい気持ちを必死に抑えた。「味見した?」「してません。だって私、朝は食べないので」頭が痛くなった。もう時間がない。親戚はあと数時間で来る。私は浩司を起こし、悪いけど今すぐ買い物に行って開いている店を回ってもらい、出来合いのお惣菜と残っていた食材を使ってなんとか食卓を整えた。そしてみさが触った料理は一つも出さなかった。だからみさの前だけには料理を置かなかったのだ。
私は台所から大きなお盆を持って戻った。「お待たせしました」親戚たちが振り返る。「みささん、あなたが食べるはずだったものよ」お盆の上には、みさが勝手に手を加えた料理を少しずつ並べてあった。もちろん誰にも食べさせるつもりはない。
みさの表情が変わった。「お母さん、これ何?」親戚の一人が聞いた。私は答える。「昨日まで私が準備していた料理です。みささんが昨日、全部アレンジしてくれたの。全部」
私はスマホを出した。前日の夜に完成した料理を、念のため浩司に写真で送っていたのだ。親戚たちは写真と目の前の料理を交互に見た。「全然違うじゃないか」「これ全部さち子ちゃんが作ったやつだったの」
みさが慌てる。「でも、もっと美味しくしてあげようと思っただけです」
その時、浩司が口を開いた。「みさ、もうやめろ」
「浩司?」
「料理が下手なのを怒ってるんじゃない」浩司は妻をまっすぐ見た。「分からないなら聞けばいい。失敗したなら謝ればいい。でもお前は、前に母さんも俺も体調を崩した時だって『私知らなかったもん』で終わらせただろう」
みさの目から涙が落ちた。今回は浩司が続ける。「母さんが何日もかけて準備した料理を、一言も聞かずに全部いじった。しかも自分では味見もしない。それをみんなに食べさせようとしたんだぞ」
部屋が静まった。さっきまで私を嫁いびり姑扱いしていた親戚たちも、気まずそうに俯いている。一人が頭をかいた。「さち子ちゃん、悪かった。事情も知らないでからかっちゃって」私は笑えた。「分かってくれたならいいわ」
そしてみさを見た。「みささん、知らないことは恥ずかしいことじゃないの。料理が苦手でもいい。でも食べる人のことを考えずに、自分だけが正しいと思って作るのは、料理とは言わないわ」
みさはしばらく黙り、やがて小さな声で言った。「ごめんなさい」私は初めてみさの口からその言葉を聞いた。
それから1日後、我が家であの日の仕切り直しをすることになった。「今度こそさち子ちゃんの料理だ」親戚たちも大喜び。台所では「お母さん、みさ」が包丁を握っている。「これくらいの暑さでいいですか?」「もう少し薄くね」「はい」それから私が念を押す。「いや、念には念を入れます。勝手に味を変えないこと」みさは苦笑い。「もうしません」横で浩司が「絶対だからな」というので、三人で笑った。
料理は上手か下手かだけではないのだと思う。食べてくれる人を思い、分からなければ聞く。口に入れるものだから、失敗したらちゃんと認める。そんな当たり前のことが一番大切なのかもしれない。
「さち子ちゃん、この煮物お代わり」リビングから声がする。「はい、はい。煮物だけでいいの?」そして私は笑いながら、みさと一緒に料理を運んだ。とても幸せな集まりになったことは言うまでもない。



