「勝手なことすんじゃねえよ!」
母が漬け物を送っただけで、姉は烈火のごとく怒った。婚約者の家に送った漬け物が、どうやら気に入らなかったらしい。
「顔合わせのときに、ぜひ食べてみたいっておっしゃったから、お礼にと思って送ったのよ」
「大使系のバリキャリのオタクに、安物の漬け物なんて恥ずかしすぎるでしょ!」
「余計なことだったなら、ごめんなさい。もうしないわ」
「ごめんで済む話じゃないから、もう勝手なことしないでよ。式のことも一切口出ししないで」
翌日、姉は母に言った。
「あちらのお母様から、お礼のLINEが届いたの。『お漬け物ありがとうございます』って」
「社交辞令に決まってるでしょ」
「怒ってる様子はなかったから、それだけ伝えたくて」
「あんな安っぽいものもらって、内心ドン引きしてるに決まってるじゃん。とこさんは優しいから言わないだけよ」
「お母さんのせいで、とこさんに嫌われたらどうしてくれんのよ」
母は何も言い返せなかった。
「とにかく今後は何も送らないで。これ以上、私の顔に泥を塗らないで」
「分かった。勝手なことしてごめんなさい」
「それと、私あの漬け物大嫌いだから、二度と作らないで」
「え、子供の頃からよく食べてたじゃない」
「高校の時、毎日お弁当に入れられてさ、友達から『バクオリティ』って笑われてたんだよ。好物だと思って入れてたけど、一緒に歩くのも嫌。参観日も嫌。視界に入るのも嫌」
「そこまで言わなくても、マジで息だけしてて」
翌日、姉は母に言った。
「式場から、お花のことで追加で30万かかるって連絡あったから、お金出して」
「30万も?」
「とこさん側の親戚も来るんだよ。テーブルの花が見すぼらしいなんて、絶対に恥ずかしいから、どうにかしないと」
「分かった。通帳に300万あるわ」
「え、よかったら私にして」
「なんでそんな大金持ってんの?」
「風華が生まれた時から、少しずつ生活費を切り詰めて、お嫁に行く時のために貯めてたの。たまには役に立つじゃん」
「でも結局はパパの稼いだお金だよね」
「そうだけど、家計費として預かったお金から貯めたものよ」
「偉そうに自分の手柄みたいに言ってるけど、所詮はパパのおこぼれをストックしてただけじゃん」
「まあ、そう言われればそうね」
「だったら感謝はパパにしかしないよ」
「それでも構わないわ。感謝されると思ったのに、残念だったね」
「そんな風に考えてないわよ。パパ、ありがとう」
数分後、父が怒鳴り込んできた。
「お前、俺の金から300万もくすねやがったのか?」
「違う。生活費を節約して貯めただけ」
「風華には自分の手柄みたいに言ったらしいな」
「そんなことないわよ」
「本当はもっと溜め込んでんじゃないだろうな」
「あれで全部よ。風華のために貯めてたんだから」
「同じ服ばっか着て、貧乏臭い飯しか作らないのに、これしか貯まらないってことはないだろう」
「猫ばばなんてしてないわ」
「まあ、風華が喜んでるからよしとしよう」
「来月の結婚式、楽しみね。相手の方も素敵な方だし、幸せになってほしいわ」
「なんでお前が浮かれてるんだよ」
「そりゃ一人娘の門出だもの、嬉しいわよ」
「風華に恥をかかせんなよ」
「分かってるわ。大人しく末席に座ってるから」
一ヶ月後、姉は母に言った。
「お母さん、明日の結婚式、来なくていいから」
「え、ちょっと待って。どうしてそんなこと言うの?」
「席用意してないから、来たくても無理だよ」
「自分の娘の結婚式に出られないの?」
「うん。両親が揃ってないのは微妙かなと思ったけど、どう考えてもあんたを人前に出す方が恥ずかしい」
「お母さんだって、着物着てお化粧したら、それなりになると思うんだけど」
「無理、無理。どう頑張っても無理。彼の身内や友達はみんなキャリアのある人たちなの。医者とか弁護士の親戚も来るのよ」
「お願い。すみっこで大人しくしてるから」
「専業主婦のお母さんには無理だと思うよ。フレンチのテーブルマナーなんか知らないでしょ。一生箸しか使ったことないくせに」
「私だってそのくらい使えるわ」
「嘘つけ。一度だってそんなお店に連れて行ってくれたことないじゃん」
「それはお父さんがそういうの好きじゃないから」
「彼の家族には行きつけのフレンチがあるってのにさ。恥をかかないよう徹夜で練習する。お願いだから考え直して」
「だめ。もう式場にも連絡してあるし、変更はできない」
「この日のために貯金もしてきたのに、あんまりよ」
「お金出したから来れるとでも思った? そういう気遣いのないところが無理だって気づけよ」
「お母さん、あなたを産むまで10年近く待ったわ。流産も何度もして、やっと会えた子なのよ」
「だから何?」
「一人娘の晴れ舞台くらい見届けさせて」
「そういう情け話やめてくれる? 自分がかわいそうってアピールにしか聞こえない。もうパパともその方針で話はついてるから」
数分後、父が母に言った。
「俺も賛成した」
「え? どうしてなの? 母親不在の方が逆に目立つんじゃない?」
「俺が先に新郎の父親に、体調不良で欠席って伝えておいた」
「私は元気よ。勝手に病人にしないで」
「金出したから出席できると思ったんだろうが、元はと言えば俺の稼ぎだろう。私はただ親として見届けたいだけなの」
「風華が嫌がってるんだよ。空気読め」
「あの子のドレス姿を見るのが夢だったのよ」
「お前みたいな無能な専業主婦が出たところで、新郎の家族に恥をかかせるだけだろう。お前みたいなもんはスープでもこぼして、俺のメンツまで丸つぶれにするに決まってる」
「粗相なんてしません。本当に出たいんです。私だって子育て頑張ってきたでしょ」
「うるさい。30年間俺の稼ぎで食わせてもらってる分際で、偉そうなこと言うんじゃねえよ。大人しく家でテレビでも見てろ」
式当日、母は忘れ物を届けに来た。
「やばい。忘れ物した。ドレス着ちゃったから戻れない。すぐに持ってきて」
「封筒でしょ」
「そう。最後に読む手紙なの。持ってこれる?」
「今、式場についたわ。玄関に置きっぱなしだった。大事なものだろうと思って、すぐにタクシーに乗ったの」
「読んでないよね」
「封がしてあったから開けてないわ」
「あ、そう。じゃあ、勝手に来ないでよ」
「取ってこいと言ったり、来るなと言ったり、どっちなのよ」
「ありがとうくらいあってもいいんじゃないの?」
「うるさい」
「少しでいいから、中に入れてくれないかしら? せめてドレス姿を写真に撮らせてほしいの」
「撮ってどうすんのよ。見せる親戚もいないし」
「私に友達だっていないじゃん。記念に持っておきたいのよ。お願い。顔だけ見せて」
「無理。手紙を受付に預けたら帰って」
「風華。一目でいいのよ」
「マジでしつこい。パパの言う通りだわ。今までの恨み込めて、スピーチでボロクソ言っちゃおう」
「それはあなたのためにならないから、やめなさい」
「のこのこ私の式場にやってきて、母親面かよ。あと5分で出て行かないと、つまみ出すから」
「分かった」
数時間後、式が始まった。
「式、始まったぞ。風華、綺麗だ。新郎の家族もみんな上品だし。やっぱりお前を呼ばなくて正解だったな」
「無事に始まってよかったです」
「お前がいないから、親族紹介もサクッと終わって助かったわ」
「そうですか」
「料理もうまいぞ。お前が一生かけても食えないような味だ」
「良かったわね」
「とこさんもテキパキと会場を回って挨拶してる。お前には真似できないな」
「そうね」
「外資のエグゼクティブなんとかだってさ、立ち振る舞いからして格が違う。風華もいずれあんな風になるんだろうな」
「だといいですね」
「お前に比べたら月とスッポンだ。お前は一生大根でも漬けてろよ」
スピーチが終わった後、父が母に言った。
「おい、メイ子。風華のスピーチ終わったぞ。お前のことボロクソ言ってた」
「何を言ったの?」
「『母は社会に何も貢献しなかった人です』って。は、そんなことを大勢の前で」
「『式にも来ない母に感謝の気持ちはありません』って」
「ちょっと、私は来るなと言われたのよ」
「それでも来るべきだったんじゃないか。忘れ物を届けに来たけど、追い返された」
「いやあ、しかし会場みんな凍りついてたわ。風華もあんなこと堂々と言えるなんて、大した根性だよ」
「そう。悲しんでるの?」
「いいえ。風華が心配なだけ」
「お前が無能なのは事実だろう。風華は立派に自分の言葉で本心を語ったんだ。それがお前への評価だってことだよ」
「そうですね」
「返事はそれだけか。まあいいわ。俺は新しい親族と飲んでから帰る」
「分かりました」
翌日、姉は母に言った。
「結婚式、最高だった」
「良かったね。おめでとう」
「私の手紙、お母さんに聞かせたかったわ。パパもすごく喜んでた。『よく言った』って親指立ててたし」
「そう」
「会場の空気が一瞬で変わったの。みんなかわいそうにって目で見てさ、私の被害者スピーチ大成功よ」
「人様の前で言うべきじゃなかったと思うわ」
「事実を言って何が悪いわけ?」
「旦那さんは何も言わなかったの?」
「あれから二次会とかでバタバタだったし、まだ話せてない。でも特に何も言われないと思うけど」
「そっか。内容はパパから聞いたでしょう」
「うん」
「あれが私の気持ち。もう私の人生の邪魔しないでよね」
「私はただあなたのことが大事なだけなの」
「お母さんて昔からそうだよね。なんで私の気持ちが分からないの?」
「え?」
「三日だって二度と来るなって言ったのに、たまにこっそり来て廊下から見てたでしょ」
「そりゃあなたの成長を見たかったから」
「友達のお母さんはみんな若くて綺麗なのに、うちだけおばさんで恥ずかしかったし」
「ごめんね」
「本当に昔から嫌だったのよ。雨の日の送り迎えだって、うちだけボロボロの古い軽自動車だったじゃん」
「おじいちゃんのお下がりだけど、まだ乗れたから」
「ずっと私の恥なの。いい加減自覚してよ」
「そっか。今までごめんね」
「ああ、そうそう。とこさんに、二人でランチしましょうって誘われたの」
「良かったわね」
「絶対スピーチ褒めてくれるんだわ。とこさんみたいなキャリアウーマンに認められたら、もう完全に勝ち組よね。本当のお母さんがとこさんなら良かったのに」
「可愛がってもらえるといいわね」
「何その反応? 悔しいの? お母さんみたいなただの専業主婦と違って、私はちゃんと上のステージに行けるの。仕事も家庭も頑張って、言われなくてもやるし」
数日後、姉は母に言った。
「意味が分かんない。なんでなのよ」
「どうしたの? とこさんとのランチじゃなかった?」
「それがさ、『息子との結婚を許可することはできない』って言われた」
「どうして?」
「私だって理由を聞いたよ。でも『自分で考えなさい』ってそれだけ言って帰っちゃった」
「それはまた急な話ね」
「意味わかんない」
「手紙のことじゃないかしら」
「はあ? 本心を書いただけでしょ。あれの何がいけないっていうの」
「おめでたい席にはふさわしくないと思う」
「そんなこと今言われたって遅いんだけど」
「あれがいいか悪いかの判断もできないとしたら、私の子育てが間違ってたわね」
「そうよ。何もかもあんたが悪いのよ。結婚式から排除したのに、それでも私の邪魔するなんて。本当に消えてほしいんだけど」
「もう迷惑かけないようにするね」
「当たり前でしょ」
数分後、姉は父に言った。
「パパ、大変なの。とこさんに結婚を許可できないって言われた」
「はあ? 何やらかしたんだよ」
「何もしてない。褒められると思ってランチに行ったら、いきなりそう言われて。理由は『自分で考えなさい』って」
「何が問題なんだ? 風華は自慢の娘だって言うのに」
「お母さんが言うには、手紙のせいじゃないかって」
「そんなわけあるか。正直な気持ちを言って何が悪いんだ」
「だよね。感謝してない人に『感謝してます』なんて、口が避けても言えないもん。絶対にあのクソ女のせいだろう。メイ子が余計なことしたから、向こうの印象が悪くなったんだ」
「もしかして漬け物のこと?」
「それ以外に何がある? こんな貧乏臭い家の娘をもらうのが嫌になったんだ」
「ひどい。私、何も悪くないじゃん」
「あの女は昔からそうだ。何もかもぶち壊しやがる」
「パパ、お母さんに文句言ってよ」
「ああ、今すぐ電話してやる」
数分後、父が母に電話で怒鳴った。
「お前のせいで風華の結婚が壊れかけてるぞ。あの漬け物のせいでとこさんが怒ってんだ。どう責任取るつもりだ?」
「全部私のせいなんですね」
「当たり前だろ。お前は何をやらせてもだめだ。30年間ずっとそうだった。お前みたいな女はただの金食い虫だ」
「30年も迷惑をかけて、すみませんでした」
「なんだそのわざとらしい謝罪は」
「私のせいだと言われたから、謝っただけです」
「俺と風華に謝れ。土下座じゃ足りないぞ」
「もうこれ以上、何を謝ればいいのか分からなくなりました」
「はあ?」
「あなたも風華も、お体に気をつけて」
「はあ? 急になんだ。俺は謝罪しろと言ったんだ。反省してんなら一晩中土下座しろ」
翌日、姉は父に言った。
「パパ、お母さんと話した?」
「おお。昨日文句言ってやったし。あれだけ言えば大人しくするだろう」
「あの人、どこか旅行の予定とかあった?」
「あるわけないだろう」
「お母さんの部屋、抜け殻なんだけど」
「え?」
「荷物も全部なくなってる」
「物なんて元から大して持ってないが」
「台所やリビングはそのままだけど、服とか靴とか本棚の中とか、全部なくなってるの」
「電話してみろよ」
「出ない。LINEも既読がつかない」
「どういうことだろう?」
「あの女、俺に何の断りもなく出ていきやがったんだ」
「え? 嘘でしょ? 逃げたってこと?」
「卑怯者の根性なしめ」
「どうしよう」
「結婚が保留になったら、しばらくはまだ実家にいるつもりなんだけど」
「まだ許してもらってないのか?」
「とこさんの考えが分からなくて」
「何もかもあいつのせいだ。あんな無能がいなくなっても、何も困らん」
「でもパパ、どうするの?」
「コンビニがあるだろう。家事なんて外注すりゃ済む話だ」
「そうだよね。別に何も困んないよね」
一週間後、姉は父に言った。
「パパ、最近パパの部屋から異臭がするんだけど、ゴミ捨ててないの?」
「俺は仕事で疲れてんだよ。お前こそ花嫁で家事をやればいいじゃないか」
「苦手なことを我慢する時代じゃないの。家事代行を使う予定だったし。うちも家政婦に頼んでただろう。なんで来てないんだ」
「すぐやめちゃったじゃん」
「パパが洗濯物の畳み方や料理の味付けに切れて、1時間も怒鳴り続けるからでしょ」
「金払ってやってるのに、無能ばっか揃えやがって」
「冷蔵庫も空っぽだし、食べるものないよ」
「たまにはスーパーでも行って作れよ」
「やり方分かんないし」
「くそ。コンビニの弁当ばっかで、もう飽きた」
「パパ、今日会社でしょ」
「なんでなの?」
「しわしわのスーツ着てったら、上司に帰って怒られたんだよ。部下にも笑われて、上司としての威厳が丸つぶれだ」
「クリーニング出せばいいじゃん」
「よく分からないんだよ。システムとか」
「私が出しとくよ。洗濯袋に入れて置いておいて」
「朝も起きれないから遅刻だし。全部あいつの責任だ」
「そうだよね。お母さんが悪いんだよね」
「戻ってきたらただじゃかないからな」
数日後、姉はとこさんに会いに行った。
「とこさん、先日の件なんですが、ずっと考えたけど分からないんです。どうして結婚を許可できないんですか?」
「本当に分からない?」
「はい」
「じゃあ聞くわね。結婚式にお母様が来なかったのはなぜ?」
「それは体調不良で」
「一つでも嘘をつけば、会話を打ち切ってブロックする」
「え、あの、私が来るなと言いました。理由は、母が嫌いなんです」
「そう。あなたのスピーチ、あれは本心?」
「はい。母への思いを伝えました」
「お母様を『社会に何も貢献しなかった人』と表現したわよね」
「はい。専業主婦で家にいるだけの人間ですから、私はそうなりたくないんです」
「私はあれを聞いて、息子の結婚相手がどういう価値観を持っているか、はっきり分かったの」
「私は本当のことを言っただけです。あんな母親にはならないという決意を示したかっただけなんです」
「風華さん、私に憧れてるって言ってくれたわよね」
「はい。とこさんみたいになりたいです」
「でも私がキャリアを持てたのは、私の母が専業主婦して支えてくれたからよ」
「え、おばあ様が?」
「そこそこいい大学に入れたのも、病気をせず健康でいられるのも、全て母のおかげ。その母を『社会に貢献しなかった』と言ったら、私は自分の土台を否定することになる」
「それはとこさんは別っていうか」
「風華さん、毎日温かいご飯を作ること、アイロンのかかった服を用意すること、家の中を清潔に保つこと。それを30年間、無償でやり続けることがどれだけのものか、考えたことはある?」
「それは誰でもできるんじゃ」
「今のあなたとお父様に、何ができているのかしら?」
「え」
「お母様は出て行かれたそうね」
「なぜご存知なんですか?」
「お父様から連絡があったの。そちらにお邪魔してないかって」
「そうなんです。あの人は逃げたんです」
「先に質問に答えなさい。お母様がやっていたことを、あなたたちはできてるの?」
「いえ、できていません。全くと言っていいほど」
「あなたが着ていた服は誰が洗ったの? あなたは何を食べてそこまで大きくなったの? あなたがまっすぐ育つための土台は、一体誰が作ったの?」
「お母さんです」
「メイ子さんは高齢出産だったそうね」
「はい」
「嬉しかったでしょうね。あなたをその手に抱いた日は、どうだったかしら?」
「実はね、あの漬け物と一緒に、メイ子さんからのお手紙が入ってたのよ」
「え?」
「ええ。何枚にも渡る長い手紙。そこには何が書いてあったと思う?」
「私への愚痴ですか?」
「『不器用な母親ですが、娘は私の自慢です。少し気が強いところがありますが、誰よりも頑張り屋で、根は優しい子なんです。どうか娘をよろしくお願いします』って。あなたの長所が、震えるような字で何枚も何枚も綴られてたわ」
「知らなかった」
「私は羨ましかったわ。大事な我が子に食べさせるものを手作りして、時間と手間をかけられるメイ子さんが」
「はい」
「あなたが恥ずかしいと切り捨てたものに、どれだけ深い愛情がこもってたか、分かる? 私にはできなかった。キャリアを言い訳にして、息子の弁当すら作れなかったから」
「そうなんですか」
「うちの息子はあの漬け物を食べて感動してた。『これからずっとこれが食べられるなんてラッキー』って。私には作れません。何も教わってないんです」
「一つだけ聞かせて。お母様に最後に『ありがとう』と言ったのはいつ?」
「覚えてないです」
「風華さん、私は結婚を反対してるんじゃない。自分を育ててくれた人の価値が分からない人に、うちの息子を任せることはできないのよ。あなたがお母様に何をしたか、あのスピーチで何を壊したか、本当に分かるまで待ちます。それが分かった時に、もう一度話しましょう」
「とこさん、すみませんでした」
「謝るなら私にじゃないわ。もう分かるわね」
「はい」
翌日、姉はとこさんに相談した。
「とこさん、ちょっと聞きたいんですが、ご飯炊いたら父に『いつもと違う』って文句言われまして。何が悪いんでしょうか?」
「お米、浸水させた?」
「浸水? そんなのしたことないです」
「お母様はしてたんじゃないかしら。炊き上がりが違うらしいわ」
「そういえば、ご飯はいつもふっくらしてました。『いつもの漬け物は』って言われても、もうないし。洗濯しても全部しわしわで。お母様は丁寧にシワを伸ばして干してらしたのね。私、適当にそのまま干してました」
「今になって気づいたんじゃない? 当たり前の生活を送るために、どれだけ影でお母様がいろんなことをしてくれてたか」
「はい。いろんなことを思い出しました。高熱を出した時は一睡もせずに看病してくれてたし、雨が降ったら車で迎えに来てくれました」
「素敵なお母様ね」
「いるのが当たり前すぎて、いなくなってから気づくことばっかりで。パートを休んで必ず参観日に来てくれたことも、給食が嫌いな私のために弁当を毎日作ってくれたことも、全部簡単なことじゃないと今になって分かりました」
「それだけじゃないわよね。全部吐き出しなさい」
「古い軽自動車でも、来てくれることが嬉しかった。ご飯も全部美味しかった。漬け物も大好きでした。おしゃれしなかったのも、私のために貯金してたから。今になって気づけたのね」
「何もできない無能は私の方でした。ご飯も炊けない、アイロンもかけられない。彼の好きな漬け物すら漬けられない」
「その通りよ」
「パパの機嫌を取るだけで精一杯で。そんな私が、お母さんのことを『社会に何も貢献しなかった』なんて言う権利はありません」
「あなたは今、何を感じてるの?」
「自分が恥ずかしいです。ずっとお母さんのことが恥ずかしいって思ってたのに、本当に恥ずかしいのは私の方だったんです」
「それに気づけただけ、まだましね」
「とこさん、私、あのスピーチでお母さんだけじゃなくて、会場にいた全員を傷つけたんですよね」
「ええ、少なくとも私はそう感じたわ」
「お母さんに感謝することが何もないなんて。どうしてあんなことが言えたんだろう。なぜドレス姿を見せてあげなかったんだろう。今更後悔しても遅いわ」
「母が言ってくれた『自慢の娘』になれるよう、今から努力します」
「言うのは簡単よ。結果を出してこそだから」
「はい」
「今思えば、お母さんが家を出る前日に、『もう迷惑かけないようにするわね』って言ったんです。でも、あれが最後の言葉だったんですね」
「風華さん」
「はい」
「こんなところで泣き言を言っている暇があるなら、今すぐお母さんに連絡しなさい。届くかどうかは分からない。でも伝えるの」
「はい」
「大切なことに気づかせてくれて、ありがとうございます」
数分後、姉は母にメッセージを送った。
「お母さん、ごめんなさい。お母さんを恥ずかしいと思う自分が恥ずかしいってことに、やっと気づいたよ。みんなのお母さんより年上なのは、私に会うために長い間待っててくれたからなんだよね。遅いかもしれないけど、やっと分かった。ご飯も洗濯も、部屋が温かかったのも、全部お母さんがやってくれてたのにね。私のために服買わずに貯金してくれたのに。その気持ちを一度も考えなかった。スピーチであんな暴言を吐いて、式にも呼ばなくて、本当に最低だった。謝っても遅いのは分かってる。それでも言いたかった。お母さん、ごめんなさい。私を産んでくれてありがとう」
その後、結婚は破談になりました。私からお断りをし、結納金も全額返還して、彼もとこさんも受け入れてくれました。
あれから1年経ちますが、お母さんからの連絡はありません。LINEも既読がつかないままです。
「今日で母も妻もやめるね」
よっぽどそうぶち切れて出ていったのなら、諦めもつくのに。
何もしなかった父が、お米を炊くようになりました。私が仕事から戻ると、焦げた唐揚げが出迎えてくれることもあります。仕事で疲れた体で掃除機をかけ、洗濯機を回し、干す。これがどれだけ大変なことか。今、やっと身に染みています。
そんなある日、とある雑誌の1ページが目に止まりました。「田舎でスローライフ」そんな特集だったと思います。そこには、真っ黒に日焼けした私のお母さんが、泥だらけの大きな二股大根を両手で高く掲げ、口を大きく開けて笑っている写真があったのです。
見たことのない母の笑顔に、私は涙が止まりませんでした。こんなに楽しそうに笑う人だったんだ。そして、その笑顔を奪ったのは私なんだと、思い知りました。
母に会って謝りたい。その願いすら叶わず、私は毎日苦しみの中で生きていましたが、あの写真を見て、さらに苦しさが増した気がするのです。
父には、記入済みの離婚届が届きました。署名だけ。それ以外には、恨み言すらありませんでした。それがお母さんの30年分の答えなんだと。私も父も受け入れるしかなく、父は黙ってサインをして判を押していました。
何もかも母のせいにして生きてきた父が、「悪かった」と謝ることすらできないのは、母が与えた最大の罰なのかもしれません。
お母さんはきっと、初めて誰のためでもなく、自分のために生きている。私が初めてできる親孝行があるとするなら、その時間を邪魔しないことなのかもしれません。
それでも、いつか偶然でもいいから、もしいつか会える日が来たら、今度こそ「ありがとう」を伝えたい。でも、それはお母さんが決めること。今の私にできるのは、後悔という名の檻の中で、母を待ち続けることだけなのです。



