閉店後の銀行ロビーに、土曜日の静けさを打ち破る怒声が響き渡った。支店長の川靴が清掃用のバケツを横に払いのける。磨いたばかりの床に、灰色の水がゆっくりと広がっていった。
「委託の分際で、お客様に話しかけるな。その年で雇ってもらえてるだけありがたいと思え」
投げつけられた濡れた雑巾が、老人の胸に当たって落ちる。若い行員が息を呑んだ。しかし老人は倒れたバケツを黙って起こし、広がった水をいつもの手つきで拭き上げ始めた。
「明日から来なくていい。お前の会社ごと変えてやる」
老人は顔を上げ、静かな声で言った。
「わしが磨いてきたのは床だけじゃありませんよ。この銀行の看板だ」
その場の誰もまだ知らない。この年寄りが、この銀行の一番上に立つ男だということを。
朝の五時半。まだ薄暗い住宅街に、目覚まし時計の音が響いた。柴田十蔵、七十二歳。庭に柿の木が一本ある古い平屋に、一人で暮らしている。三年前に妻の志乃を亡くしてから、飯も弁当もすべて自分で支度する。二人きりの五十年だった。
仏壇に線香を一本立てる。写真の中の志乃は、少し困ったような顔で笑っていた。
「今日も行ってくるよ」
玄関の焦げ茶色の古い革靴は、角がすり切れているのに鈍い艶がある。五十年の間、毎晩磨かれてきた艶だった。
家の前には「あけぼの美装」と書かれた白い軽自動車が止まっていた。運転席から男が顔を出す。清掃会社の社長、早川である。
「大将、おはようさんです」
「社長自ら毎朝の送り迎えとは、わしもいい身分になったもんだ」
「何の、うちの大事な新人ですからな」
十蔵が早川の会社で清掃の仕事を始めて、今日で三週間になる。通い先は大手銀行の支店だった。
支店の裏手で車を降りると、十蔵は紺色の作業帽をかぶり直した。整えた白髪が帽子の中に消える。帽子一つで、鏡の中の男はどこにでもいる年寄りの清掃員になった。十蔵は知っている。人は心ではなく、服装や身なりを見るものが多いということを。
通用口の前で、若い行員と一緒になった。胸の名札に「水島」とある。若者は十蔵の顔をまっすぐ見て頭を下げた。
「おはようございます」
「おはよう。今日も早いな」
「見習いなので、掃除だけは負けられません」
この三週間、この支店の中で十蔵に挨拶を返すのは、この新人ただ一人だった。
午前八時四十分。開店前のロビーで、行員たちが一列に並んでいた。その前に立つのは支店長の輪並誠、四十七歳。細身のダークスーツに銀の眼鏡。本部の営業推進部から来た出世頭で、この支店に来て十ヶ月になる。
タブレットに目を落としたまま、口を開いた。
「先週の投資信託の販売実績です。上から読みます」
穏やかな声が名前を順番に読み上げ、途中でぷつりと止まった。
「ここから下は読みません。読む価値のある数字ではないので」
輪並は顔を上げ、列の後方の公平を見た。
「水島君、あなた今月ゼロ口ですね。面白いものでね。先月お辞めになった方も今月の数字はゼロ口なんですよ。もういない人と、ここにいるあなたが同じ数字。不思議ですね」
「申し訳ありません」
「ああ、責めているんじゃありません。私はね、部下を見捨てたことは一度もないんですよ。数字にならない人には、数字を数えなくていいお仕事に移っていただく。それだけです」
「はい」
それはもう、言葉が終わるより早く返事が飛んだ。営業課長の矢代文典、三十八歳。首が短く、目が下がった愛嬌のある顔。その目は支店長の横顔だけを見ていた。
午前九時。開店した窓口で、公平は通帳の書き方が分からないという白髪の客に、一つずつ指を差して教えていた。通帳一つに十五分。その窓口の後ろを通りながら、矢代がすれ違い様に低い声だけを落とした。
「水島君、回転、回転ね。お金になるお仕事しましょうね」
客が帰るなり、矢代が公平の席に肘を乗せた。
「なあ水島、お前の窓口、裏でなんて呼ばれてるか知ってるか? 老人ホームの面会室だよ。今日も予約でいっぱいだな」
言い返すより早く、輪並がゆったりと歩み寄り、真顔のまま丁寧な声で言った。
「水島君、お年寄りのお世話がお得意のようですからね。そういうお仕事はどうです? あちらなら、あなたのゼロも立派な成果だ。“今日も皆さんお元気でした”ってね」
公平は頭を下げた。膝の上で、拳だけが白くなっていた。
昼下がり。廊下の隅で十蔵がモップ布の水を絞っていた。そこへ輪並と矢代が通りかかる。輪並の革靴が、十蔵のすぐ前で止まった。十蔵の心臓が一つ大きく跳ねた。雑巾を絞る手が止まる。
だが輪並は十蔵を見てはいなかった。目の前に人がいないかのように、隣の矢代へ話しかけた。
「矢代君、ご高齢の清掃員というのは、うちの店の見た目としてどうなんでしょうね」
「ああ、次の契約更新の時にでも、業者さんに行っておきます」
二人はそれきり歩いていった。目の前に立つ年寄りには、最後まで一度も目を向けなかった。
革靴の音が遠ざかると、十蔵は詰めていた息を細く吐いた。モップ布を絞る手に、いつもより長く力がこもった。
十蔵はこの三週間で、小さな変化をいくつも見つけていた。生け花の花が、週を追うごとに増えた。客の目に入る場所から、備品が削られ始めた。若手の島には、名札の外された空き机が三つ。この半年で若い行員が三人辞めたのだと、掃除の合間の立ち話が教えてくれた。
夜、帰りの車の中で早川が言った。
「大将、あの支店、夜の十時を回ってもまだ電気がついとるそうですわ。わしらは掃除屋です。銀行さんの中身までは知りません。知りませんがね。ゴミ箱は見えるんですわ。栄養ドリンクの空き瓶と胃薬の袋が増えとる。ああいう支店はね、中で誰かが泣い取ります」
十蔵は答えなかった。ただ膝の上の古い革靴に手を置いた。
翌日の昼前、公平の窓口に小柄な老婦人が腰を下ろした。千代、八十二歳。薄紫のカーディガンに、えんじ色の布の手提げ袋。柔らかな物腰が特徴だった。
「すみませんね。定期通帳の満期のお知らせが来たもんだから」
手提げから出した通帳は、表紙の色が薄く、背が白くすり切れていた。亡くなった夫が残した定期預金。相続を済ませて、今は千代の名義である。金額は三千万円。
「お父さんがね、こつこつ貯めてくれた分ですから。このままここに置いておこうと思って」
「はい。それでしたら、書き換えのお手続きだけで」
その画面を、離れた席から矢代が覗き見ていた。残高の桁を数えた途端、跳ねるように立ち上がる。
「お客様、ようこそお越しくださいました」
お辞儀は直角に近かった。先週、年金の相談に来た客には首だけの会釈で済ませていたにも関わらず。
「窓口ではないんですから、どうぞ。応接室の方へ。水島君、お茶」
応接室で矢代は、外貨建てのパンフレットを広げた。
「奥様、今時定期じゃお金は寝てるだけですよ。外貨で運用すれば増え方が全然違う。ご主人様の大事なお金、育てて差し上げませんと」
「はあ。でも外貨って、そのドルとか、そういう難しいことは全部こちらでやりますんで」
そこへお茶を運んできた公平が、盆を置いて言った。
「お客様、一つだけご説明させてください。こちらは預金と違って元本の保証がありません。相場が動けば、お預けになった額より減ることもあります」
矢代の笑顔が一瞬にして止まった。
「それとですね、業界の決まりで、八十歳を超えるお客様のご契約には、ご家族の同席をお願いしています。今日この場でお決めいただくことはできません」
「水島君。余計な説明はいいから」
「あら、そうなの? じゃあやっぱり息子に聞いてからにするわね。ごめんなさいね。せっかく」
千代は何度も頭を下げて帰って行った。ロビーで床を拭く十蔵の前を通る時、手提げの口からハンカチが滑り落ちた。
「奥さん、落としましたよ」
「あら。すみませんね」
千代は清掃員の十蔵にも深く頭を下げて出ていった。
三十分後、公平は支店長室に立たされていた。机の向こうの輪並は、書類から顔もあげない。
「水島君、あの定期、いくらでした?」
「三千万円です」
「外貨建てに切り替えていただけていれば、手数料だけでおよそ百五十万円の実入りです。あなたは今日それを捨てた」
「ですが、あれはご主人が残された大事な」
「それとね」
輪並は公平の言葉を遮るように続けた。
「業界の決まりの話を、お客様の前で得意げに披露する人がいますか? 決まりはね、中で守るものです。外で宣伝するものじゃない。あなたのしたことは親切とは言いません。営業妨害と言うんです」
言い返す言葉は、喉の奥で形にならなかった。
「来月もゼロなら、分かっていますね」
「はい」
「もういいですよ」
八十歳を超える客を守るこの決まりは、業界全体で定められた約束である。破れば国から罰を受ける。その約束をこの支店は“営業妨害”と呼んだ。
廊下に出た公平は、手洗いの洗面台の縁を両手で掴んだ。言い返せなかった。また頭を下げただけだった。間違ったことは何一つ言っていないのに、鏡の中の自分が情けなかった。
その夜、閉店後。十蔵はいつもの通り、シュレッダーの裁断くずの袋を交換していた。ふと手が止まった。裁断くずの中に、桃色の紙が束になって混じっている。かろうじて残った印刷文字が読み取れた。“お客様相談記録”。客からの苦情を本部へ報告するための複写式の用紙である。
十蔵はその袋の口を縛り、他のゴミとは分けて掃除用具入れの奥へ置いた。
数日後の午後二時半。閉店間際の支店に、千代が再び姿を見せた。前の日の夕方、矢代が家に電話をかけて呼び出したのである。
「奥様だけの特別なプランなんですよ。今日までのお話でして。支店長が直接ご説明しますので」
応接室には輪並と矢代が待っていた。テーブルの書類はすでに出来上がっていた。住所も生年月日も投資のご意向も、すべてきれいな字で埋まっている。残っているのは千代の名前と、印鑑の欄だけだった。
「息子にはまだ話せていないんですけど」
「ご心配なく。ご家族ご同席の規定は、応接係の私が同席することで満たしております」
輪並は最もらしい言葉で嘘を飾った。
「ごめんなさい。その前にお手洗いをお借りして、いいかしら」
午後三時過ぎ。シャッターの降りた店内の廊下を、千代は案内の札を頼りに歩いた。その先で十蔵がモップ布を動かしていた。
「あら、この前の」
閉店間際の時間に客が一人。十蔵の胸の奥で、何かが引っかかった。
「これは奥さん、今日はまたお呼ばれなすったか」
「そうなの。書くところは全部やってくださって、私は印鑑だけでいいんですって。偉い方が隣に座れば、決まりも大丈夫なんですって。親切よね」
モップの手が止まった。
「それは息子さんには、相談されましたかな?」
「それがまだなの」
千代は手提げの持ち手を両手で握った。その手を見ながら、十蔵は独り言のように続けた。
「本当はね、この前お断りしたつもりだったの。でも何度もお電話をくださるでしょう。“今日までですよ”なんて言われるとね、なんだか断る方が悪いような気がしてきちゃって。銀行の人の言うことを聞いていれば、間違いないような気もするし」
「奥さん、親切と商売は別物です。分からんもんに印鑑を押しちゃいかんよ。人に書いてもらった紙に、印鑑だけ押すなんてのはなおさらだ。息子さんに聞いてからでも、銀行は逃げません」
千代はしばらく黙って、それからほっと長い息をついた。
「そうよね。お父さんのお金だものね」
応接室に戻った千代は、椅子に座り直さなかった。
「ごめんなさいね。やっぱり今日はやめておきます。息子に聞いてからにするわ」
「あら、そうですか」
「あの、掃除の方にもね、言われたの。“分からないものに印鑑を押しちゃいけないよ”って。本当にその通りだわね」
輪並の顔から、一瞬だけ笑顔が消えた。
「掃除でございますか?」
「いえいえ。大事なお金のことですから。どうぞお気をつけて。またゆっくりご相談にいらしてください」
ロビーを抜ける時、千代は床を拭く十蔵にだけ聞こえる声で言った。
「ありがとうございます」
自動ドアが閉まり、ガラスの向こうで千代の小さな背中が遠ざかり、見えなくなった。
数秒の沈黙があった。千代に向けて九十度に折られていた輪並の腰が起き上がる。振り向いたその顔を見て、近くにいた行員が思わず息を呑んだ。輪並の目が据わっていた。頬が引きつり、結んだ口の端が細かく震えている。いつも氷のように冷静な男の、誰も見たことのない顔だった。
輪並は大股でフロアを横切った。向かう先は、ロビーの隅で床を拭く十蔵だった。
「おい、清掃員のじじいが、余計なことをするな」
割れた怒声が、閉店後のロビーの天井まで響き渡った。輪並の革靴が床のバケツを横に払い倒す。灰色の水が磨いたばかりの床に広がっていく。
「出入り業者の決まりを知らんのか? 業者はお客様に声をかけない。入場の時に誓約書を書いたはずだ」
窓口の中で、行員たちの手が一斉に止まる。
「あの契約でいくら飛んだと思ってる? 百五十万だ。お前の一年分の稼ぎより上だよ。それをドブに捨てて、客の機嫌を取ったつもりか」
その瞬間、輪並は床の雑巾を掴み上げ、投げつけた。濡れた雑巾は十蔵の胸に当たって落ちた。
「その年で雇ってもらえてるだけありがたいと思え。掃除しか能のない人間が、銀行の商売に口を出すな」
「そ、そうだぞ。身のほどってものが、あるだろう」
窓口の中で公平が腰を浮かせた。気づけばカウンターを回り、足が一歩フロアに出ていた。十蔵が公平を見た。小さく首を横に振った。公平の足が止まる。握った拳の爪が食い込んでいた。
「明日から来なくていい。お前のところの会社ごと変えてやる。業者の入れ替えなんてものはな、俺の上申一本なんだよ」
清掃の委託は本部の契約で、支店長に切る権限はない。だが下受けには“上申”の二文字だけで十分だった。
十蔵は答えなかった。倒れたバケツを黙って起こす。それからモップ布を取り、床に広がった水を拭き始めた。いつもと同じ手つきだった。
誰も声を出さなかった。罵声を浴びたばかりの年寄りが、その罵声の主の足元を丁寧に拭いていく。フロアには、モップ布が床を滑る音だけが続いた。
その光景を、矢代は見ていられなかった。
「支店長。ここまでやらなくても」
喉の奥に苦いものが競り上がってくる理由は、自分でも分からなかった。“お父さんの仕事はね、人を助けるお仕事なんでしょ”いつかの娘の声が、頭の奥で鳴った。矢代は、床を拭くその手元から目をそらし続けた。
やがて床は元の通りに光った。十蔵は胸に当たった雑巾を拾い、きちんと畳んでバケツの縁にかけた。それから輪並に向き直り、一礼した。
「お騒がせしました。床は磨いておきましたよ」
深くも浅くもない、きれいな礼だった。十蔵はモップとバケツを下げてロビーを出ていった。怒声を浴びたものとは思えない、真っ直ぐな背中だった。
公平だけが、その背中をドアの向こうに消えるまで見ていた。
その日の夕方、あけぼの美装の事務所に、支店から一本の電話が入った。“明日から例の高齢の清掃員は出入り禁止。委託契約も本部へ変更を上申する。理由は、お客様の契約に横から口を挟んだ、業者の規約違反に反する”
帰りの車の中で、早川はしばらく口を利かなかった。やがて車を路肩に寄せ、サイドブレーキを引いた。
「大将。雇い主として聞きます。何があったのか、順番に聞かせてください」
社長の声だった。
十蔵は窓の外を見たまま答えた。
「年寄りの客がな。中身の分からん契約に印鑑を押しかけとった。書類は銀行の人間が書いた白紙だ。それでわしは“待ちなさい”と言った。それが全部だよ」
「それはうちの規約じゃ黒ですわ。お客さんに声をかけたらあかん決まりです」
「ああ、分かっとった上でやった。すまんな」
早川の声が太くなった。
「大将。規約より先に守らないいかんもんがあります。目の前で年寄りが騙されかけとるのに黙って床を磨いとれという規約なら、そんなもんうちにはいりません。わしが今夜書き換えます」
それから早川はハンドルを片手で叩いた。
「それとですよ。聞けば聞くほど腹が立つ。雑巾を投げたんですか、七十を過ぎた人に。そいつだけは我慢がなりません」
怒鳴り声が狭い車の中に響いた。十蔵はふっと笑った。
「ははは。そう怒るな、社長さん。ありがとうなあ。わしのために本気で怒ってくれるのは、今時あんたぐらいのもんだ」
礼を言われて早川の怒りは勢いを失い、唸り声だけが残った。
「なんなら明日も迎えに行きますよ。出入り禁止だろうが、店の前まではただの道路ですわ」
「はは。心遣いだけもらっとくよ。明日から休業だな」
車が再び走り出す。十蔵は暮れていく町に目をやった。胸にあったのは、怒りより重い悲しみに近いものだった。あの支店では、客が財布に見えている。そして、正しいことを言う若者が叱られる側に立たされている。
同じ頃、居酒屋の奥の席で輪並が日本酒を睨んでいた。向かいは矢代である。
「百五十万ですよ、矢代君。モップを持ったじじい一人に、ドブに流された。思い出すだけで酒がまずい」
「まあまあ、支店長、あんなのは事故ですよ。事故。それより来週じゃないですか。例の優良支店の内定」
輪並の口元がようやく緩んだ。
「ふん。とって当然の賞です」
輪並は日本酒を酌み交わし、声を半分に落とした。
「それとね、矢代君。苦情の記録の整理。残りも今週中に頼みますよ」
「ああ、お客様相談記録ですね。残りも全部シュレッダーで、きれいさっぱり」
「人聞きの悪い。あれは“整理”だ」
相談記録は、国の決まりで銀行が必ず残し、本部へ報告する書類である。消すのは整理ではない。隠蔽だった。
座敷の内側で、二人の低い笑い声が続いた。
一方、夜も更けた頃。十蔵は仏壇の前に長いこと座っていた。
「なあ、志乃。わしはもう少しだけ、床を磨くことにしたよ」
それから部屋に戻ると古い手帳をめくり、黒い電話の受話器を上げた。
「わしだ。夜分にすまん。例の支店の件、思ったより深かった。ああ、明日の朝から頼む」
受話器を置くと、仏壇の線香の煙がまっすぐに立ち登っていた。
翌朝、午前八時半。輪並はいつもの時間に支店の通用口をくぐった。様子が違った。見渡したフロアには、見慣れないスーツの男たちが数人立っている。胸には本部の社員証を掲げている。近くの行員たちが声を潜めてささやき合っていた。
「本部の監査部だって」
そして、支店長室のデスクの前で、監査部員が引き出しの書類を一枚ずつ確かめ、目録に書きつけては段ボール箱へ移していく。
「何をしている。私の机だぞ」
「お手を触れないでください。保全中です」
デスクの引き出しとキャビネットには、合わせ目をまたいで白い封印紙が貼られ、日付と監査部の印が押してあった。輪並はタブレットを取り出した。指が画面を叩く。開かない。“アクセス権限が停止されています”の一行だけが表示されていた。
顔から色が抜けていくのが、自分でも分かった。フロア中の行員がこちらを見ていた。掃除用具入れの奥の、あの裁断くずの袋も、監査部の手で運び出されていった。
応接室で監査部長が一枚の紙を差し出した。
「本日付けで出勤停止を命じます。追って事情を伺います。それまではご自宅で待機を」
処分ではまだない。だが、支店長の椅子から引き剥がされたことに変わりはなかった。
「は? 事例を持つ指先が震え、次の瞬間声が破裂した」
「何なんですか? 一体。朝から人の店に押しかけて、机を漁って、自宅待機。私が何をしたと言うんです?」
「調査の内容はお答えできません」
「弁護士に相談しますよ」
「いいですね。ご自由に。お帰りは裏口からどうぞ」
その日から監査部の聞き取りが始まった。公平も別室に呼ばれ、長く戻らなかった。
数日後の夜、矢代は輪並のマンションに呼び出された。人目を避けた一室である。輪並はワイシャツ姿でグラスを傾けていた。慌てた様子はどこにもない。この男の頭の中で、犯人は本部の人事課か水島か、辞めた連中の逆恨みだった。自分の落ち度だけは、どこにも見つかっていない。あの床を拭いていた年寄りのことだけは、影も形も浮かんでいなかった。
「まあ座ってください。そんな顔をしないで。私は時期に戻りますよ。本部に人脈のない男だと思いますか?」
余裕の笑みに、矢代の肩から少しだけ力が抜ける。輪並はテーブルにスマートフォンを滑らせた。画面には几帳面な字で埋められた、千代の移行確認書。いつの間にか取ってあったのである。
「これ、君の字ですよね」
「あ、いや、おい。それは支店長のご指示で」
「指示? おかしいな。私は承認した覚えがないし、記録にも残っていない。つまりね、矢代君。このままだと君は、お客様の書類を勝手に書いた課長だ。文書の偽造。一人でやったなら主犯だ」
矢代の顔から笑いの形が消えた。
「だから、口を揃えましょうという話です。販売は水島たち現場の独断。記録の整理なんてものは、初めからなかった。ね。それで君も私も無傷で帰れる」
「……分かりました」
矢代はいつもよりずっと深く頭を下げた。テーブルの下で、矢代の親指がスマートフォンの画面を一度だけ撫でた。
数日後、輪並のマンションに、本部監査部からの出頭命令が届いた。輪並はその紙を眺めて笑った。
「本当に上等じゃないか。監査ごときが何を調べたところでな。それに、優良支店だ。直接会って弁明すればいい。数字の分かる人間なら、俺を選ぶはずだ」
出頭の朝、輪並は一番高いネクタイを締め、鏡に向かって営業スマイルの練習を一つ。鏡の中の男はまだ笑っていた。
本店八階。ヒアリング室前の廊下で、輪並の足が一度だけ止まった。すりガラスの向こうに、先に呼ばれた人影が二つ見えたのである。短い首の、あの丸い輪郭。矢代。その隣の細い影は、水島。
輪並は胃の底がすっと冷えた。心当たりはある。ありすぎるほどある。あのばあさんの契約。裁断した記録。辞めていった若手。数え始めた指を、輪並は途中で握りつぶした。
だが、俺には数字がある。支店業績一位だぞ。上は数字しか見ない。今までもそうだった。
輪並はネクタイの結び目を締め直し、口角を営業の角度まで持ち上げて、ドアを自分から開けた。
長机の向こうに監査部長と秘書室長。壁際に矢代と公平。輪並は席に着くなり先手を打った。
「はっきり申し上げて、迷惑しています。私は優良支店の候補ですよ。どこの誰かの言葉一つで、この扱いですか?」
監査部長は答えず、書類の束を机に置き、事務的に読み上げ始めた。
「調査の中間報告です。一つ、八十歳を超えるお客様にご家族の同席なく外貨建て保険の契約を強行しようとした事実。移行確認書は担当者による代筆」
「お待ちください。書類に不があったなら、それは現場の」
「二つ、本部へ報告義務のあるお客様相談記録。約一年分が裁断廃棄されていた事実。断片はこちらで保全済みです」
「知りません。私は指示していない。それは現場の判断で」
「三つ、着任十ヶ月で若手行員三名の退職。暴言的な叱責と数字の強要を、複数名が証言しています」
「指導です。指導というんです。ああいうのは、数字の作れない人間に作り方を教えて、何が悪いんですか?」
その時、部屋の扉が開いた。濃紺のスリーピースを着た白髪の老人が入ってきた。胸元に金色の徽章。片手に何か、帽子のようなものを持っている。秘書室長が立ち上がり、黙って老人の椅子を引いた。
「なんだ、役員か。随分年寄りの」
輪並は反射的に立ち上がり、腰を折った。相手が誰かは分からない。分からないが、偉いことだけは分かる。そういうお辞儀を、この男は一万回してきた。
老人は席に着くと、ただ静かに輪並を見た。
「続けなさい。指導の話をしとったんだろ」
「あ、はい。ですから、その」
輪並は用意してきた台本を最初から並べ直した。販売は現場の判断。記録の隠蔽は預かり知らぬこと。退職者の件は指導への逆恨み。誰も遮らなかった。だから輪並は喋り続けた。喋れば喋るほど助かる気がして、喋り尽くした。
「ですから、全てはこういうための数字作りに過ぎなかったということです。私から申し上げたいことは以上です」
肩で息をした。部屋は静まり返っていた。秘書室長が手元のペンを置いた。
「おっしゃりたいことは、以上ですか?」
「い、以上です」
「そうですか。では、ご紹介が遅れました。今見えられたこちらの方は、当銀行の頭取でいらっしゃいます」
時間が止まった。輪並は弾かれたように直立し、九十度に腰を折った。
「あ、はい。こ、こちらであります」
声が裏返った。
その直立の目の前で、老人が動いた。持っていたものを、何も言わずに机の上へ置いたのである。作業帽だった。
「なんだ、あの帽子? 随分汚い帽子だな。日に焼けてよれよれの」
しかし、どこかで見たことがある。あの帽子。毎朝裏口で、鼠色の作業着の、あの――
「まさか」
輪並の目が、帽子から老人の顔へ動いた。顔から、机の上で組まれた節くれだった大きな手。
あのじじい。
嘘だろ? 嘘だろ? じゃあなんで、頭取が作業着で床を……いやそれより俺は何をした? 怒声を浴びせた。バケツを払い倒した。雑巾を投げた。この人に。支店の一番上の人に。
おい、どうする? どうすんだ?
輪並は立ったまま動けなかった。顔から色が抜けていくのが、その場にいる全員にも伝わった。
「輪並君、座りなさい」
「あ、はい」
輪並は椅子に崩れるように腰を落とした。
「優良支店の審査はな、書類でやるもんじゃない。最終の候補に残った店は、この目で見る。わしはそう決めとる。今年の候補があんたの支店だった。妙だとは思っとったんだ。あんたの店の苦情はゼロ。ところが本部へ直接かかる苦情の電話だけは増えとった。紙は消せても、電話までは消せんからな」
「数字は嘘をつかんが、数字で嘘をつくものはおる。だからこの目で見に行った。あんたが欲しがった賞の審査はな、輪並君。とっくに始まっとったんだ。あんたの支店の床の上でな」
それでも輪並の口は動くのをやめなかった。
「あ、あの、頭取。雑巾の件は、その投げたと言いますか、手が滑ったと言いますか」
「ほう。バケツも滑ったか」
「あれは、その、し、しかしですね。気づけという方が無理でしょう。まさか頭取が、作業着で床を拭いているなどと、誰が思いますか?」
「そうだな。誰も思わん」
老人はあっさりと頷き、それから声を一段だけ低くした。
「だがな。わしの顔なら、本店のロビーにも毎年のディスクロージャー誌にも載っとる。あんたも何度も見とるはずだ。あんたは三週間、帽子の下のわしの顔を一度も見んかった。作業着を見て、それで人を見た気になっとった」
「しかしなあ。この場で一人だけ、毎朝わしの顔を見て挨拶をしてくれた男がおる」
その時、公平の肩が震えた。輪並はすがるように、即座に壁際へ首を回した。
「いや、矢代君からも説明を。販売は全部現場の判断だったと。そう、いつも言っていただろう。ねえ、矢代君」
矢代は俯いたまま、何も答えなかった。そして立ち上がった。
「いえ、全て支店長のご指示でした」
「な、矢代」
「販売の強要も、相談記録を裁断しろというご指示も、それから口裏を合わせろとご自宅に呼ばれたことも。全部、ここに」
矢代はスマートフォンを机の上に置いた。
「録音してあります」
「いや、何を」
矢代は深く頭を下げた。いつもの角度を計算したお辞儀ではなかった。
「私も同罪です。指示に従って、この手で書類を書きました。処分はお受けします」
輪並は口を半分開いたまま、固まった。頭の中で、ぷつりと何かの糸が切れる音がした。
「はは、なんだ。こいつも、あいつも。数字を作って何が悪い」
顔を上げた輪並は、薄気味悪く笑っていた。
「銀行は慈善事業じゃないでしょう。数字だ。数字が全部だ。本部が評価するのを、誰が埋めてやったと思ってる。私が作ったんだ。年寄りの金なんぞ、寝かせておくだけ無駄だろうが。どうせ使い道もない金だ。銀行が回してやって、何が悪い」
言い切った。部屋が静かになった。
十蔵は組んでいた手をそっと解いた。
「あんたが無駄な金と呼んだ三千万はな、あの奥さんのご亭主が五十年、汗水垂らして貯めた金だ。あの人はそれを“増やしてくれ”とは一言も言っとらん。“守ってくれ”と、うちに預けたんだ。銀行が預かっとるのは金じゃない。人の信用だよ。わしは集金係の時代から、信用一つで飯を食ってきた」
「あんたの店が売った外貨保険と投資信託、約三十八億。前を調べ直す。売り方に火があれば、誠意も償う。あんたの言う実績は、今日から全部うちの後始末だ」
そして十蔵は机の上の作業帽に目を落とした。
「わしが磨いてきたのは床だけじゃないよ。この銀行の看板だ。あんたは客を切り捨てたんじゃない。その看板に泥を塗ったんだ」
輪並の体が、椅子の上でずるりと沈んだ。頭の中に残っていた最後の答弁の台本が、音を立てて崩れた。
「わ、私は、私は首ですか? せめて、せめて依願退職の形に」
「処分は懲戒委員会が決める。当局への届け出も検討に入る。わしが今日ここで言うのは事実だけだ。あんたが一番大事にしとった数字と同じくらい、動かんものだ」
監査部長が手元の書類を閉じた。
「なお、優良支店候補の推薦は、本日付けで取り消されています」
「は、そんな」
一言に、輪並の口からは今度こそ反論は出てこなかった。監査部員が二人、輪並の両脇に立った。連れられて出ていく足は、入ってきた時の半分の速さもなかった。
ドアが閉まる。十蔵は壁際の公平に目をやった。
「水島君」
「あ、はい」
「あの日、わしが雑巾を投げられた時、君は体が前に出かけたな。わしが首を振らんかったら、あんたは飛び出しとった」
「申し訳ありません」
「謝ることがあるか? むしろ礼を言わせてくれ。こんな老いぼれのために。ありがとう。それが銀行員の本来の姿だ。数字より先に、人に誠実に向き合う心。その心を大事にしなさい」
「はい。はい」
公平の目から涙がこぼれた。何も言わず、深く頭を下げた。
数日後の午前。支店のロビーに千代の姿があった。窓口で対応したのは公平だった。
「定期の書き換え、お願いしますね。息子がね、“そのままにしときなさい”って。“お父さんのお金だもの。それが一番だ”って」
「はい。承知しました。お客様」
「先日は、店の者が大変ご迷惑を」
「いいのよ。あなたが謝ることじゃないでしょうに。これからはね、あなたにしか頼まんから。よろしくね」
その帰り道、ロビーの隅で作業着の十蔵が床を磨いていた。委託の引き継ぎまでの、最後のひと磨きである。
「あら、この前の」
「これは奥さん」
千代はえんじ色の手提げを開けると、包み紙の飴玉を二つ、十蔵の手に乗せた。
「この前のお礼。あなたみたいな人がいてくれる銀行なら、安心だわね」
十蔵は飴玉を両手で受け取った。
「頂戴します。だがね、奥さん。安心の種なら、わしじゃありませんよ。この店には、あんたの味方がちゃんとおりますよ」
十蔵は窓口の公平を目で示した。
「分からんことは、あの窓口で聞きなさい。何時間でも付き合ってくれますよ」
「ふふ。あの素敵な行員さんね」
千代は窓口を振り返り、深く頷いた。十蔵はモップで床を一拭き磨き上げると、帽子を取ってロビーに一礼した。五十年磨いてきた看板に対する、深い深い礼だった。
一ヶ月後、懲戒委員会の結論が出た。輪並誠、懲戒解雇。客への不適切な販売とその隠蔽。当局への届け出も行われた。
銀行の世界は狭い。輪並は最終面接で支店業績一位の実績を語ると、面接官は感心したように頷き、経歴の紹介を取りやめ、二度と連絡をしてこなかった。二社目も三社目も同じだった。都内にいる妻からは、電話が一本あった。それきりである。
「お年寄り相手に、そんなことをしてたの」
それが最後の言葉だった。妻子は実家から戻らなかった。ローンの払えなくなったマンションは売っても、ローンが消えきらなかった。住まいは駅から遠い安アパートに変わった。
数ヶ月後、輪並はリフォーム会社の営業車に乗っていた。拾ってくれたのは、経歴を調べない会社だけだった。尋ねる先は、一人暮らしの年寄りの家。玄関先で輪並は口角を営業の角度に上げる。
「奥様だけの特別なプランなんですよ。今日までのお話でして」
セリフは銀行の頃と同じだった。変わったのは、扉の向こうである。
「ちょっと待ってくださいね。息子に聞いてからにしますから」
三軒回って三軒とも断られた。四軒目では、奥から出てきた家族がスマートフォンを構えていた。
「おじさん、さっきから録音してますからね。警察に相談しますよ」
「い、いや、待ってください」
その月のうちに、輪並は営業成績最下位で契約を打ち切られた。アパートの部屋で、輪並は今夜も缶チューハイを片手に、ただただテレビを見つめていた。
「数字を作って何が悪い? 俺は支店業績一位だぞ。運が悪かっただけだ。あのじじいさえいなけりゃ」
誰もいない部屋で、輪並はこれからも後悔をし続けていく。何が間違っていたのか、何が原因だったのか、どう向き合えば良かったのか。自力で気づく、その時まで。
一方、矢代には減給と降格の処分が下り、営業から外れてロビーの案内係になった。録音の提出と、包み隠さぬ証言が考慮された形だった。
十五年前、矢代もまた窓口で年寄りの客に時間をかけては、叱られてばかりの若手だった。“老人ホームの面会室”。それは元々、若い日の矢代の窓口につけられたあだ名である。
生き延びるために、矢代は人の顔色を読む技術だけを磨いた。そして気づけば、昔の自分と同じ若手に、同じあだ名を自分の口で言っていた。
録音は保身のために取ったものである。だが懲戒の席で矢代は、取引を持ちかけず、自分から処分を求めた。理由を聞いた同僚に、一度だけこう漏らしたという。
「怒声を浴びたじいさんが、黙って床を拭き上げたんだ。怒鳴った男の足元だぞ。あの背中を見てたらさ、昔の自分を思い出しちまったんだよ。あの頃の俺は、間違ってなかったんじゃねえかって。間違えたのは、その後の十五年の方じゃねえかって」
「娘に聞かれたことがあってさ。“お父さんのお仕事は、人を助けるお仕事なんでしょ”って。この何年か、答えられなくなった。顔色ばっかり読んで十五年やってきて、人の顔を見るのを忘れてたんだよな」
今の矢代は、朝一番にロビーに立ち、杖の客が入ってくれば椅子を運ぶ。胸ポケットの手帳には、客に頼まれた用事が書き並べてある。
「お父さんのお仕事は?」と娘に聞かれて、矢代は答えた。
「案内係りだ。いい仕事だぞ」
その顔にあの計算されたお辞儀の角度は、もうなかった。
見て見ぬふりをしていた社員たちにも、注意と研修が課された。“知らなかった”では済まない。それがこの銀行の新しい当たり前になった。
支店が売った三十八億の外貨保険と投資信託は、一見残らず調べ直された。行員が一件ずつ客の店を訪ね、頭を下げ、売り方に問題のあった契約は元に戻された。時間も金もかかった。それでも、銀行はやり切った。
そして春。本店の講堂で、頭取の授与式が開かれた。今年の頭取賞は、創設以来初めて支店ではなく人に送られることになった。壇上に呼ばれたのは水島公平。本部に新しくできた“シニアのお客様相談窓口”。時間がかかっても構わない。分からないことを分かるまで説明する。その窓口の、一人目の担当に選ばれたのだった。
マイクの前で、公平は深く息を吸った。
「僕は、この仕事の一番大事なことを、研修でもマニュアルでもなく、掃除の人に教わりました」
講堂の後ろで、温かいどよめきが起きた。
「お客様の顔を見て挨拶をする。分からないまま印鑑を押させない。それだけのことを、僕はこれから何十年もやっていきます」
講堂に駆けつけた公平の両親が、誰よりも大きな拍手をしていた。その拍手の中で、控え席の十蔵は目の縁を深くしていた。
式の後、講堂の隅で招かれた早川と秘書室長が、湯飲みを片手に並んでいた。三十六年前、同じ年にこの銀行へ入り、当時貸付課長だった十蔵に鍛えられた二人である。
「お前も、結局何も聞かなかったんだな」
「聞かんよ。わしらはあの人にそう教わったからな。“人様の事情は、床に落ちても拾うな”と」
二人は短く笑って、湯飲みを軽く合わせた。
あけぼの美装の委託は切られるどころか、翌月から本店の清掃も任されることになった。その話に、早川は一つだけ冗談を返した。
「ありがたいお話ですがね。うちの一番腕のいい七十二歳の新人が、つい先日やめてしもうたばかりでして。人手不足ですわ」
秘書室長が、遠慮なく笑った。
数日後の夕方、十蔵の家の前に早川の軽自動車が横付けされた。
「大将、それで次はどちらの支店へお伺いしましょうか?」
「はは、廃業だよ。清掃員は当分はな」
「おお、当分ですか?」
二人は顔を見合わせて笑った。
「なんだ。あの支店の床が一番光っとったのは、大将が拭いた三週間ですわ」
「そうか。またよろしく頼む」
「はは、いつでも歓迎するよ」
家に入ると、十蔵は仏壇に線香を一本立てた。
「行ってきたよ。若いのがいい顔で働くようになってなあ。年寄りの客が安心して座れる窓口もできた」
写真の中の志乃は、微笑んでいた。五十年前、初任給で革靴を買ってくれた日と同じ顔だった。
それから十蔵は玄関へ行き、五十年使った革靴の隣に、日に焼けた紺の作業帽を並べておいた。
「靴と作業着は違っても、やってきたことは同じだった。どっちもよう働いてくれたよなあ、志乃」
窓の外で、庭の柿の木が新しい芽を吹き始めていた。十蔵は思い出したように、ポケットの飴玉を一つ、口に放り込んだ。とても甘かった。しかし口の中では、深い味わいと余韻が残った。



