ミクが熱を出した。額に手を当てると、ひどく熱かった。一歳になったばかりの娘は苦しそうに泣きじゃくり、私は震える手で着替えと診察券をバッグに詰め込んだ。そこへ、数日前から泊まり込んでいる義母がのんびりと現れた。「さなさん、今日大事な用事があるから、車出してちょうだい」耳を疑った。娘が泣き叫んでいるこの状況で、そんなことを言うのだ。「高が熱くらいで騒ぎすぎなのよ」その瞬間、義母も母親なのだから寄…

ミクが熱を出した。額に手を当てると、ひどく熱かった。一歳になったばかりの娘は苦しそうに泣きじゃくり、私は震える手で着替えと診察券をバッグに詰め込んだ。そこへ、数日前から泊まり込んでいる義母がのんびりと現れた。「さなさん、今日大事な用事があるから、車出してちょうだい」耳を疑った。娘が泣き叫んでいるこの状況で、そんなことを言うのだ。「高が熱くらいで騒ぎすぎなのよ」その瞬間、義母も母親なのだから寄...

ミクが熱を出した。額に手を当てると、ひどく熱かった。一歳になったばかりの娘は苦しそうに泣きじゃくり、私は震える手で着替えと診察券をバッグに詰め込んだ。早く病院へ連れて行かなければ。

そこへ、のんびりと義母が現れた。数日前から泊まり込んでいる義母は、いつものように当然の顔をしている。

「さなさん、ちょっといい?今日大事な用事があるから、車出してちょうだい」

耳を疑った。ミクが泣き叫んでいるこの状況で、そんなことを言うのだ。

「すみません、お母さん。ミクが熱を出していて、病院に連れて行かないと」

「高が熱くらいで騒ぎすぎなのよ。あなたが車を出してくれなきゃ、私はタクシーを呼ばなきゃいけなくなるでしょう」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。義母も母親なのだから、私の気持ちに寄り添ってくれると思っていた。だが、その期待は見事に裏切られた。義母にとっては、自分の用事の方が、熱を出した孫よりも大事らしい。

「いくら何でも、今回は無理です。ミクの方が優先です」

私はそう言い切ると、娘を抱きかかえて家を飛び出した。義母は交通費がもったいないと不満そうにしていたが、構っている余裕はなかった。

病院で診てもらうと、幸い軽い風邪で、数日安静にしていれば問題ないとのこと。ほっと胸を撫で下ろした。家に戻ると、義母は結局タクシーを呼ばず、用事を諦めたらしかった。私はミクをベッドに寝かせ、その日のうちに一息ついた。

だが、その夜、事の顛末を聞いた夫のユトが私を攻め立てた。

「お前、なんで母さんを送ってってやらなかったんだよ。楽しみにしてた買い物に行けなくて、母さん悲しんでたじゃないか」

呆れた。自分の娘が熱を出して寝込んでいるのに、ユトは心配する素振りを一切見せない。むしろ、義母の用事を優先すべきだったとさえ言う。

「ただの風邪で騒ぐくらいなら、母さんの用事を優先するべきだったんだよ」

「あなたの子供が心配じゃないの?はっきり言わせてもらうけど、父親失格よ」

「なんだと?誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ。金も稼げない専業主婦が偉そうに口答えするな」

その言葉で、私のユトへの愛情は完全に冷めきってしまった。もう、この親子と関わっていたら、私だけでなくミクにまで悪影響が出る。私は、自分と娘を守るため、離婚を決意した。数日後、ミクの熱もすっかり下がり、元気な姿を取り戻した。その日は休日でユトも家にいたが、家事も育児も手伝う気配はなく、ソファでスマホをいじっている。私はミクに着替えをさせていると、義母がいつものように荷物を抱えてやってきた。もはや自分の家とでも思っているかのような態度だ。

「さなさん、お腹空いたから何か買ってきてちょうだい。あなたの料理じゃ口に合わないから、お願いね」

この人にとって、私は何でも言うことを聞いて当たり前の存在なのだろう。申し訳なさという感情が一切感じられない。もう何も言い返す気もなかった私は、黙って立ち上がろうとした。

「そうそう。ようやくあなたも自分の立場が分かってきたのね。気が利いて助かるわ」

それは明らかな嫌味だった。すると、今まで黙ってやり取りを見ていたユトが口を開いた。

「じゃあ、このまま同居しようよ。俺も母さんがいてくれると安心だし、母さんもいつでもミクといられていいじゃないか」

「あら、それいいわね。ここにいれば、何かあってもさなが面倒見てくれるし」

二人は私の意見を聞く様子もなく、勝手に話を進めて満足そうにしている。この親子にとって、私は飯使いか何かでしかないのだろう。だが、もはや私にとってはどうでもいいことだった。一切の反応を示さずに黙っている私に、ユトが話を振ってくる。

「俺の決めたことに文句ないよな。ここでは大黒柱の俺に決定権がある」

「なら、離婚だぞ」

そう言って、ユトは義母と一緒に見下すようにニヤニヤと笑った。おそらく、私が黙って言う通りにすると思っているのだろう。私はそんな二人に向かって、笑顔で言い返した。

「助かる。あなたからそう言ってくれるなら、問題なく離婚ができるね」

そう言って、私はユトの前に離婚届を差し出した。当然、私の名前は記入済みだ。まさか私が離婚を考えているとは思ってもいなかったのだろう。ユトはそれまでの余裕の表情から一転して、慌てた顔で尋ねてきた。

「ちょ、ちょっと待て。本当にいいのか?」

「もちろん。すぐにサインしてもらうわよ」

私が本気だと気づいたのか、ユトは明らかに動揺を隠せない様子だった。

「今の生活に何が不満なんだよ。何不自由なく生活できてるんだぞ」

「不満だらけよ。今もそうだし、昔ユトがギャンブルしてた時も、全部そう」

今まで我慢してきたものが、その瞬間、全て爆発した。実はユトに対する不満は、今に始まったことではない。結婚してすぐ、彼に百五十万円ほどの借金があることが分かった。原因はギャンブルだった。ユトは昔からギャンブル好きだったらしいが、結婚するまでその事実を私に隠していたのだ。

打ち明けられた時は衝撃だったし、どうして黙っていたのかという苛立ちも芽生えた。だが、これから先のことを考えると、まずは借金を返すのが最優先だと思った。せっかく夫婦になったのだから、こういう時こそ支え合うべきだと考え、私は彼の借金を肩代わりした。

そして、無事に借金を返し終えてしばらく経った頃、私の妊娠が発覚した。家族が増える喜びを感じたのも束の間、ユトはまたやらかしてくれた。

「そういえばお母さん、ユトが仕事やめたって知ってました?」

私がそう言うと、義母は初耳だったようで、驚いた様子で手で口元を覆った。ユトは罰の悪そうな顔でうつむき、完全に黙り込んでしまった。都合が悪くなると何も言わなくなるのは、彼の得意技だった。

私の妊娠が発覚した直後くらいから、ユトは仕事が嫌だと愚痴をこぼすようになった。子供ができれば、普通はやる気が上がるものだと思っていたが、彼は度々仕事を休むようになっていった。そして、ユトは私に何の相談もなく、突然仕事を辞めてきたのだ。当時の彼は危機感を全く持たず、どうにかなるだろうとあっけらかんと笑うだけだった。私はこの先どうなってしまうのか、不安で仕方なかったのを覚えている。

「でも、今はちゃんと働いてるんだから、何も問題はないでしょう?」

義母は焦りながらも、なんとか話を流そうとする。仕事をやめたとはいえ、今は自分の力で働き、家族を支えてきた夫に文句を言うなとでも言いたいのだろう。

「誰が今の仕事を紹介したと思ってるんですか?」

私の言葉に、義母は敏感に何かを感じ取ったようだ。その通り、今の仕事はユトが見つけてきたものではない。当時、どうしたらいいか悩んだ私は、父に相談することにした。営業を長年続けて役職にもついていた父は人脈が広く、大手企業との繋がりもいくつか持っていた。事情を知った父は、最初こそ仕事を紹介することに抵抗があるようだった。ギャンブルが原因で借金を抱えた人間に、何のためらいもなく仕事を紹介できるかと言われれば、確かに悩んでしまうだろう。

だが父は、私と生まれてくる孫の将来を案じ、ユトがギャンブルをやめるという条件で、仕事を紹介してくれたのだ。ユトは何度も父に頭を下げて感謝の言葉を述べていた。彼も私も親になるのだから、いつまでもふらふらしていられない。生まれてくる子供のために、しっかり気を引き締めていこうと約束した。あの時は、これからユトも心を入れ替えて頑張ってくれると信じていた。

その後、無事に再就職したユトは、最初の頃こそ真面目に働いていた。ミクが生まれたことで、彼の気持ちにも確実に変化が訪れたのだと思っていた。しかし、結局またすぐに会社への不満を口にするようになり、私やミクを理由にして会社を休むようになってしまった。

「だけど、私、お母さんにはすごく感謝してるんですよ」

私がそう言うと、義母は不審そうな顔をした。

「だって、お母さんの躾のおかげで、ユトに騙されていたことに気づけたんですから」

義母はまだ何のことだか分からない様子だったが、ユトは一瞬で理解したのか、体を震わせてうつむいた。彼は二度とギャンブルはしないと誓ったのに、その約束をたやすく破ったのだ。

「そ、そんなの信じられるわけないわ。ユトに限って、そんなことありえない。証拠を出しなさいよ」

義母は認めたくないのか、声を荒げて詰め寄ってくる。私は黙って、いくつかの封筒や紙を見せた。それは全て、ユト宛てに届いた請求書だった。

「お母さんが掃除の仕方を徹底的に押し付けてくれたおかげで、彼に騙され続ける前に見つけられました」

本人は隠しているつもりだったのだろうが、皮肉なことに、義母が掃除の仕方にケチをつけたおかげで、棚の隙間から偶然発見することができたのだ。最近になって帰りが遅かったり、休日出かけていたりしたのも、全てギャンブルのためだった。そして、また新たに百万円近い借金をしていたのだ。

まさかバレているとは思わなかったのか、ユトは驚きを隠せず目を見開いたまま動かない。義母もこれには何も言えず、ただユトの横顔を見つめていた。

「ちなみに、このことはお父さんにも全て話してあるから。顔に泥を塗られたって、すごく怒ってたわよ。言い訳を考えておいた方がいいんじゃない?」

私の言葉に、ユトは完全に言葉を失っていた。そうなるくらいなら、最初から誠実に生きていればいいのに。するとユトは、突然泣きついてきた。

「頼む!これまでのことは謝るから、お父さんをなんとかしてくれ」

「この人はどこまで自分の都合だけで生きるつもりなんだろう」と、情けなくなってくる。さらに、離婚を考え直して欲しいだの、自分がいなくなったら私とミクが生活できなくなるだの、あれこれ理由をつけて思いとどまらせようとする。

「言っておくけど、私だって育児手当もらってるんだからね。それを生活費に当てていたのよ。それに、もうこのことは弁護士の先生にお願いしてあるから」

実は私は専業主婦でも何でもない。ただ、出産のため育児休暇を取っているだけだ。休んでいるからお金をもらえていないと思い込んでいるユトを見て、知識がないというのは愚かだなと改めて思った。男を選ぶ時、私はもう少し賢くあるべきだったのだろう。

離婚を決意した日から、私はすでに準備を始めていた。弁護士の話では、慰謝料や養育費も請求できるとのことだった。両親も実家に戻って来いと言ってくれていたので、住む場所にも困らない。私はその事実を二人に全て突きつけた。ようやく自分たちの置かれている状況を理解したのか、二人は揃って顔面蒼白になった。

「ユト、あなた、私のこと専業主婦って言ったわよね。私は一度もあなたに寄生したつもりはないし、人を悪く言う前に自分の行いを正したら?」

それだけ言い放つと、私はあらかじめ用意していた荷物とミクを連れて、家を後にした。

その後、私はユトに、かつて肩代わりした額と同じ百五十万円の慰謝料と養育費を請求した。彼は「こんな額払えるか」と逆切れしていたが、全て自業自得なので、私の知ったことではない。また、ユトはこれまでの勤務態度が原因で、会社を首になったらしい。驚いたのは、彼が父に頭を下げて、また仕事を紹介してくれと頼みに来たことだ。父は「最後の情けだ」と言って、友人が経営する県外の住み込みの仕事を紹介したそうだ。なぜそんなことをするのか父に問い詰めると、父は笑いながらこう言った。

「信頼できる人物の元に置いておけば、慰謝料や養育費を払わずに逃げ出すことはできないだろう」

私を飯使いとして散々利用していた義母は、結局元の家に戻った。だが、これまで家事を全て私に押し付けて楽をしてきた分、元の生活に戻るのに相当苦労しているようだった。

一方、私は実家に戻ったことで、日中は母がミクを見てくれることになり、仕事に復帰することができた。片親になって寂しい思いをさせてしまうか心配していたが、両親が育児を手伝いながら愛情を注いでくれているので、大丈夫そうだ。この先どうなるかは分からないけれど、たった一人の大切な娘のために、私は生きていく。ただ、それだけだ。

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