披露宴の真っ最中、新郎がマイクを握った。「やっぱり、貧乏女は無理です」。純白のドレスの私の前で、彼はそう言い放った。スーパーの半額シールを追う女はきつい、今日でこの茶番は終わりにすると。二年間信じてきた男が、招待客の前で私を捨てた。なのに、会場を出る直前、彼は一瞬だけ振り返った。その目に、涙が光っていた。なぜ泣くの?捨てる人が、どうして泣くの?来賓席の隅で、ある親子が笑みを交わしていた。彼が…

披露宴の真っ最中、新郎がマイクを握った。「やっぱり、貧乏女は無理です」。純白のドレスの私の前で、彼はそう言い放った。スーパーの半額シールを追う女はきつい、今日でこの茶番は終わりにすると。二年間信じてきた男が、招待客の前で私を捨てた。なのに、会場を出る直前、彼は一瞬だけ振り返った。その目に、涙が光っていた。なぜ泣くの?捨てる人が、どうして泣くの?来賓席の隅で、ある親子が笑みを交わしていた。彼が...

披露宴会場の華やかな空気が、一瞬で氷のように固まった。純白のドレスを纏ったさき子の前で、新郎の田辺俊也がマイクを握りしめ、静かに、しかしはっきりと宣言した。

「やっぱり、貧乏女は無理です」

招待客たちの視線が一斉に田辺へと注がれる。さき子の手からブーケがぽたりと床に落ちた。

「え、俊也さん……」

「俺、主人になったし、もうちょっとレベル上げたくて。スーパーの半額シールを追いかける女とか、正直きついんですよね。今日でこの茶番、終わりにします」

田辺は乾いた笑みを浮かべ、マイクを置くと、そのまま会場の出口へ向かって歩き出した。だが、扉の手前でほんの一瞬立ち止まり、振り返った。その目に、さき子だけが気づいた。涙が光っていたのだ。

「ということで、皆さん、今日はお時間取らせてすみませんでした」

田辺はすぐに前を向き、足早に会場を去った。来賓席の隅で、二人の男女が口元に薄い笑みを浮かべていた。

「上出来だ」

「お疲れ様」

さき子が二年間信じてきた男は、なぜ結婚式の舞台で全てを壊したのか。その涙の意味を知る時、財閥会長の祖父が静かに動き出す。

朝六時。閑静な住宅街の一角に、古い一軒家が建っていた。季節の花が咲く玄関先。台所では、夜ジャージ姿の老人が土鍋に火をかけていた。ことこと、ご飯が炊ける音だけが静かに響く。

大和竜介、六十八歳。財界でその名を知らない者はいない、大和ホールディングス会長。だが、その朝の食卓には質素なおかずが並んでいた。昨夜の残りの煮物と納豆、小さな味噌汁。食卓に座る前に、竜介は決まって棚の上の写真を順番に見る。一枚目は若き日の妻、すみ子。二枚目は娘の結婚写真。そして、その隣には幼い頃の孫娘、さき子。小さな両手を真っ黒に汚して、庭の土で遊んだ日の写真だった。

「さき子も、もう二十四か……」

朝食を終えた頃、インターホンが鳴った。玄関から入ってきたのは黒崎光一、五十八歳。元警察官僚で、常に冷静な判断を下す男だ。

「失礼します。会長、橋本高産に不審な動きが。ここ数ヶ月、通常の帳簿には出ない資金の流れが確認されています。系列再編の情報を、外に流そうとしている可能性がございます」

竜介はしばらく黙ったまま、庭の梅の木を見つめた。

「まだ動くな」

「よろしいのですか? 橋本はかなり危うい動きをしています」

「今動けば、橋本は尻尾を切って逃げる。証拠が揃うまでは、こちらから手は出さん」

「承知しました」

黒崎が去ると、竜介はふと数年前の記憶を辿った。同じ家の食卓で、向かいに座ったさき子が湯飲みを置いて言ったのだ。

「おじい様、私、大和の名前を使いたくないんです」

「ほう」

「お父さんとお母さんを亡くしてから、ずっとおじい様に守られてきました。本当に感謝しています。でも、私はそろそろ自分の力で生きたいんです。普通の会社で普通に働いて、自分の足で歩きたい。大和の名前があれば、誰も本当の自分を見てくれない。私は、私を見てくれる人と出会いたい」

しばらく沈黙が続いた。

「分かった。お前の意見を尊重しよう。ただし、何かあったらすぐに言え。私はいつでもお前のおじいちゃんだ」

「はい」

さき子が微笑んだ。その笑顔は、亡き娘によく似ていた。

三年前、さき子は就職先の総務部に配属された。中堅企業で、さき子は「佐田さき子」として誰にも正体を明かさず、目立たず働いていた。派手さはないが、目の前の仕事を丁寧にこなす。それがさき子という人間だった。昼休み、自作の弁当を静かに広げる。卵焼きとほうれん草のおひたし、鮭の塩焼き。飾り気はないが、丁寧に作られた弁当だった。

そこに、経営企画部の田辺俊也が通りかかった。当時二十六歳、明るい目をしたお調子者の男だ。

「あ、さき子さん、今日も弁当偉いなあ。その卵焼き、一個もらっていい?」

「え? あ、どうぞ」

田辺は遠慮なく卵焼きを一つ取って、口に放り込んだ。

「うまっ。なんでさき子さんの卵焼きって、こんなにうまいの?」

「お世辞が上手ですね」

「本当のことだって。ねえ、明日も作ってきて。一個分多めに」

「ちょっと図々しくないですか?」

笑いながら経営企画部へ戻っていく田辺の背中を、さき子は見送った。変な人。でも、嫌いじゃなかった。それから田辺は何かと理由をつけては、さき子の席に顔を出すようになった。

三ヶ月後の金曜の夜。同期の飲み会の帰り道、田辺だけがさき子の隣に残った。

「あの、俺、さき子さんのこと好きなんですけど」

「え?」

「だって、ずっと言えなかったんだもん。さき子さん、なんか話しかけづらい雰囲気あるから」

「普通はもっと雰囲気ってものが……順番がおかしいです」

「じゃあ、付き合ってくれますか?」

さき子は思わず笑った。田辺の笑い方は、どうにも憎めないものがあった。

「もう、話したそばから。じゃあ、よろしくお願いします」

「え、本当に? よっしゃあ!」

ガッツポーズをする田辺を見て、さき子はまた笑った。こんなに笑ったのは、母を亡くして以来、久しぶりだった。

ある日の夜、さき子のマンションのエントランスで、田辺がビニール袋を差し出した。

「今日さ、スーパーで鮭に半額シール貼ってあってさ、つい買っちゃった。二つ」

「二つも? 俺、酒を買っても料理しないから。はい」

「なんで二つ買ったんですか?」

「なんか手が勝手に。さき子さんにあげたら、先に喜ぶかもと思って」

「喜ぶかも、って……この人は本当に変な人だ」

そう思いながらも、その屈託のない笑顔に温かさを感じていた。

ところが半年が過ぎた頃、田辺の表情に時々影が見えるようになった。机に置かれた薬の袋。電話で何かを話す時、声を落とす様子。さき子は気づいていたが、無理には聞かなかった。田辺もまた、何も言わなかった。辛いことがあるほど笑顔でごまかす。それが田辺俊也という人間だった。

ある日、さき子の部屋で田辺がぽつりと言った。

「さき子さ、もし俺がいつかすごく落ち込んでいたら、肩を貸してくれる?」

「はい。いつでも」

「ありがとな。まあ、そんな日来ないと思うけど」

交際から一年半が過ぎた頃、田辺がさき子の部屋に来て、座ったまましばらく黙っていた。

「さき子、俺、給料も安いし、器用でもないし。多分、一生半額シール追い続けると思うけど」

「はい」

「結婚してください」

さき子の目から、自然に涙がこぼれた。

「はい」

二人は静かに抱き合った。窓の外に、街の明かりが広がっていた。そんなプロポーズの夜、田辺のスマートフォンに見知らぬ番号からメッセージが届いた。田辺は画面を見て、わずかに顔を曇らせた。

「どうしたの?」

「いや、仕事の連絡。気にしないで」

同じ頃、別の場所。都内の高級レストランの個室で、ワインを傾ける男がいた。橋本義之、五十五歳。表向きは不動産管理業の社長で、大和ホールディングス系列の一社を取り仕切る男だ。向かいには娘の橋本花梨、二十八歳が座っていた。

「花梨、次の就職先、決まったぞ。お前が前から狙ってた田辺のいる会社だ」

「やった! パパ、ありがとう。半年前に交流会で見た時から、ずっと気になってたの」

「ただし、お前にやってもらうことがある」

「え? 何?」

「いずれ話す。まずはあの会社に馴染め。誰にも嫌われるな。お前は笑っているだけでいい」

「楽勝。私、人に好かれるの得意だもん」

花梨はワインを口に運んだ。グラスの中でルビー色の液体が、ゆっくりと揺れていた。

その数週間後、さき子と田辺の結婚式まであと半年となった頃、総務部に新しい派遣社員が現れた。

「皆さん、初めまして。橋本花梨です。よろしくお願いします」

明るい声がフロア中に響いた。花梨は初日から誰とでも打ち解け、昼休みには輪の中心にいた。

「さき子さんって呼んでいいですか? 私、さき子さんみたいな人に憧れるんですよね」

「そんなことないですよ」

満面の笑み。白意のかけらもなかった。しかし、給湯室で二人きりになった瞬間、花梨が独り言のように呟いた。

「うざ」

「え? 今の……」

さき子は戸惑った。聞き間違いだろうか。でも、確かに聞こえた。

花梨は卓越したコミュニケーション能力で、さき子と田辺の関係をすぐに知ることとなった。その夜、花梨は実家で父に電話した。

「パパ、聞いて。あの女、田辺君と結婚するって。私、悔しい。なんであの女なの? 私の方が可愛いのに」

「花梨。お前の出番が近づいてきたな」

「そうね。もう待てない。あの貧乏女」

花梨が総務部に来てから二ヶ月が過ぎた。彼女は社内で人気者だった。誰にでも明るく、誰に対しても気が利く。さき子に対しても、表向きだけは相変わらず明るかった。だが、給湯室で二人きりになるたびに、花梨は別の顔を見せた。

「さき子さんって、本当に地味ですよね。褒めてるんですよ。化粧も薄いし、服も同じようなものばっかりだし。田辺さん、よくさき子さんで満足できますよね。私だったら無理だな」

廊下から他の社員の足音が近づいてくると、花梨は瞬時に満面の笑みになる。

「あ、お疲れ様です」

そんなことが何度か続いた。ある日、さき子は田辺に相談しようかと迷った。でも、思い直した。田辺は仕事で何かを抱えている。最近明らかに表情が暗い。家に来る回数も減り、電話も短くなっていた。

「田辺さんに、これ以上心配をかけたくない」

結婚式まであと一ヶ月。準備は順調に進んでいた。ある日、田辺がさき子の部屋を訪れた。

「さき子、俺と結婚してくれて、ありがとな」

「何? 急に」

「いや、なんとなく」

田辺の声は、いつもより少しだけ低かった。帰り際、玄関で振り返って、もう一度言った。

「さき子、本当にありがとう」

「うん」

扉が閉まった後、さき子はしばらくその場に立っていた。なんだろう? 今の。胸の奥に、小さな違和感が残った。でも、さき子はその違和感を、自分の不安のせいだと思った。

そして、結婚式当日。小さな教会で、さき子は純白のドレスに身を包んでいた。親族席に、竜介の姿はない。さき子の意思を尊重し、竜介は家から祝福を送ると伝えてあった。会社の同僚や友人が数十人、参列した。来賓席の隅に、橋本と花梨が並んで座っていた。

「さき子さん、本当に綺麗ですね」

「ありがとう」

花梨は社交辞令のように褒め言葉を送った。披露宴が始まり、乾杯、来賓挨拶。華やかな時間が流れていく。だが、新郎の田辺は終始無表情だった。さき子はそれに気づいていた。でも、結婚式の緊張のせいだと自分に言い聞かせた。そして、ケーキ入刀が終わったその時、田辺がふらりと立ち上がった。

「すみません。ちょっといいですか?」

司会者の手からマイクを取る。会場が不思議そうにざわついた。田辺はさき子の方を見ないまま、口を開いた。

「俺、今日この場で皆さんに言わせてもらいます」

「え?」

「やっぱり、貧乏女は無理です」

会場が一斉に凍りついた。さき子の手からブーケがぽたりと落ちる。

「俺、主人になったし、もうちょっとレベル上げたくて。スーパーの半額シールを追う女とか、正直きついんですよね。サキ子さん、付き合って二年かな? 俺も成長したってことじゃないですか? 今日でこの茶番、終わりにします」

乾いた笑い声が会場に響いた。「え、嘘でしょ?」「何言ってんの?」

さき子は動けなかった。立ちすくむのがやっとで、頭の中は真っ白だった。

「ということで、皆さん、今日はお時間取らせてすみませんでした」

田辺はマイクをテーブルに置き、そのまま出口へ向かって歩き出した。扉の手前で、ほんの一瞬立ち止まった。さき子は確かに見た。田辺の目に光るものがあった。

だが、田辺はすぐに前を向き直し、足早に会場を出ていった。来賓席の隅で、橋本がゆったりとワインを口に運んだ。

「上出来だ」

花梨が田辺の消えた扉を見つめて、小さく呟いた。

「お疲れ様」

「これで、決まったわね」

「ふふ。え、私のものね、パパ」

「ああ」

二人の口元に、薄い笑み。誰も、その表情に気づいてはいなかった。

会場の外では雨が降り始めていた。さき子はドレス姿のまま、呆然と曇り空を見つめていた。そこへ、一台の黒塗りの車がゆっくりと止まる。後部座席から、竜介が降りてきた。

「さき子」

家にいた竜介は、式場スタッフから知らせを受け、すぐに車を回させた。何かあればすぐそばにいてやりたい。その一心で、雨に濡れた街を駆け抜けてきた。

「おじい様……」

竜介は自分のジャケットを脱いで、さき子の肩にかけた。

「乗りなさい」

車が走り出し、激しい雨が容赦なくフロントガラスを叩いた。

「おじい様……」

「うん」

「最後に泣いていました。一瞬だけ。あの人、泣いていたんです」

「そうか」

竜介は何も言わなかった。ただ、さき子の肩をそっと支えていた。

結婚式から二週間後。都心の高級マンションの一室。広々としたリビングに、田辺は抜け殻のように虚ろな表情で座っていた。

「ただいま」

花梨が買い物袋をいくつも抱えて入ってきた。

「ねえ、俊也、見て見て。今日、銀座でこれ買っちゃった」

返事はない。

「ああもう、反応薄いんだから」

その時、インターホンが鳴った。入ってきたのは橋本だった。ソファーに座り、高らかに言った。

「花梨、やったな。さき子を引き剥がせて、ようやく一区切りだ。パパに褒められちゃったよ。田辺、お前もよくやったぞ。あの式での演技、なかなかのものだった」

田辺の拳が、テーブルの下で強く握りしめられた。

「これでお前の母親の治療も、引き続き支援してやれる。お願いします」

「ただし、お前にはもう少し働いてもらうぞ。大和系列の再編情報。もう少し詳しいものが欲しい。お前の部署なら取れるはずだ」

「え? 橋本さん、俺、もう……」

「いいか? 田辺。お前は俺に借金がある。そして、その借金を返せない。断れば、母親の治療を止める。それだけだ」

「……はい。分かりました」

「分かれば結構」

翌日、田辺は一人で病院へ向かった。病室のベッドには、田辺の母が眠っている。痩せた頬、点滴のチューブ。意識はほとんど戻らない状態だ。重い病気だった。最新の治療を受けるには、月に何百万もかかる。田辺の給料では、到底足りなかった。

「田辺さん、できるだけの処置は施しました。あとは、意識が戻るのを待ちましょう」

担当医師が去った後、田辺は母の手を取った。

「母さん、ごめん。俺、最低な男になった。さき子を傷つけた」

田辺の目から涙がこぼれた。母の手を握ったまま、しばらく動けなかった。

「でも、母さんを失うわけにはいかなかった。これだけが、俺の理由だ」

結婚式の二週間前の記憶が蘇る。都内の高級ホテルのスイートルーム。橋本が田辺を呼び出していた。

「田辺、お前、いつまで借金返さないつもりだ? お前の母親の治療費、俺が立て替えてやってるんだぞ。今月分も、来月分もな。だが、お前が俺の言うことを聞くなら、猶予を与えてやる」

「何を……」

「さき子と別れろ。結婚式の当日、徹底的に貶めろ。彼女が二度と立ち上がれないくらいに振ってこい。お前の借金はチャラにしてやる。そして、代わりにうちの娘と付き合え」

「ふざけないでください!」

「はあ? 何勘違いしてる? いいのか? 断って」

「……い、いいか、田辺。庭師は身を売ってなんぼなんだよ」

「は?」

「例えだよ。お前は庭師だ。俺の庭で、俺の指示通りに働く。つまりな、期待以上の仕上がりを見せること。それがお前の役目だってことだ。断れば、母親の治療は今月で打ち切る。そうなったら困るのは、お前だろ。選べ。さき子か、母親か」

「……分かりました」

田辺の目から、悔しさをこらえた涙が一筋こぼれた。

それから一週間後、田辺は誰もいない深夜のオフィスにいた。自分のパソコンを開く。画面に表示されたのは、大和系列の社外秘の資料データと、今後の再編計画だった。田辺は指が震えながらも、その資料をUSBにコピーした。

「今なら、まだ戻れる……」

そう思った瞬間、母の顔が浮かんだ。しかし同時に、さき子の笑顔も浮かんだ。

「俺はもう戻れない。仕方ないんだ」

どれだけ自分に言い聞かせても、二人の顔は田辺の胸から消えてくれなかった。

橋本のオフィスへ、田辺はUSBを差し出した。

「上出来だ。次もよろしくな」

田辺は無言で部屋を出た。扉が閉まった後、橋本が花梨に声をかけた。

「花梨、あいつ、もう少し絞め上げろ。情報をもっと欲しい」

「ええ。もう自由にさせてよ。私と結婚したいんだもの」

「はあ?」

「だって、優しいし、不器用だし、私のこと大事にしてくれるし。パパ、私を結婚させて」

「うーん。お前が幸せならそれでいい。だが、田辺の手綱はお前が握れよ」

「分かった」

花梨は悪びれもせず、嬉しそうに笑った。

結婚式から一ヶ月後。竜介の家のリビングで、さき子が竜介と向かい合って座っていた。

「おじい様、確かに俊也さんは式をめちゃくちゃにしました。けれど、私には本心だったとは思えません」

「ほう」

「あの人は、ああいうことを言う人じゃないんです。二年間一緒にいて分かるんです。何かあったはずなんです」

「そうだったとして、お前はどうしたい?」

「私、知りたいんです。本当の理由を」

竜介はしばらくさき子を見つめた後、リビングの隅に立っていた黒崎に指示を出した。

「黒崎。田辺俊也の周辺を全て調べろ。それと、橋本さんとの繋がりも調べろ」

「はい。かしこまりました」

「おじい様。橋本さん?」

「お前と同じ会社に、橋本の娘がいるな。以前から橋本の動きが気になっていた。系列の情報を外に流そうとしている節があった。橋本の娘が派遣されたタイミング。そして今の田辺との関係性を見るに、お前が傷つけられた件と無関係とは限らん」

「そんな……花梨さんが?」

さき子は湯飲みを握りしめた。

三日後、黒崎が急いで報告に来た。

「田辺の母親は重い病気で長期入院中です。月の治療費は約百万円。田辺の給料では、到底払える額ではございません。ところが、治療費はきっちり支払われ続けている。誰かが田辺の代わりに支払っているということです。我々は以前から橋本の動きを追ってまいりましたが、田辺を中心に調査し、元の繋がりを見たところ、芋づる式に出てまいりました。田辺は橋本から多額の借金をしております。さらに大和系列の機密情報が、橋本高産経由で外部に流れた形跡があります。加えて、橋本の娘が結婚式の翌日から田辺の自宅に出入りしている記録もございます」

「え……花梨さんが?」

「どうやら、それを盾に俊也さんを……」

さき子の目から涙がこぼれた。

「お母様の治療費を握られて、逆らえなかったんだ」

「それに花梨さんは、以前から何かと私を貶していました」

「まさか、そんな事情が……」

「バカな男だ。相談すれば、いくらでも助けてやったものを」

「私のせいです。私が大和の名前を伏せていたから、俊也さんは頼れる相手がいないと思って……」

「違う。お前のせいではない。橋本が田辺の弱みにつけ込んだ。田辺がお前に相談をすべきだった。それだけだ。さき子、お前が決めろ。田辺を許すかどうか、橋本と娘をどうするか」

さき子はしばらく考えた。

「俊也さんのことは、まだ決められません。ただ、お母様を見捨てたくはありません。それと、橋本さんたちの行為は、絶対に許せません」

「分かった。黒崎、証拠を完全に固めろ。表に出すタイミングは、私が決める」

「承知しました」

その夜、さき子は思った。俊也さんはきっと、今も一人で抱え込んでいる。結婚式で見た田辺の涙の違和感。それが確信へと変わった夜だった。

結婚式から三ヶ月後。さき子は新しい職場に移っていた。同じ会社の別部署で、総務部からは離れた。新しい同僚はさき子の事情を知らない。さき子はまた「佐田さき子」として、目立たず静かに働き始めていた。

ある日の朝、さき子の自宅マンションのポストに白い封筒が入っていた。差出人に、二人の名前が並んでいた。田辺俊也、橋本花梨。中から出てきたのは、結婚式の招待状だった。

さき子は震えながら、しばらく動けなかった。やがて力強く招待状を握ったまま、ゆっくりとマンションを出た。

同じ頃、カリンと田辺のマンションのリビング。

「ねえ、俊也さんにも招待状送ったから」

「は? そんなの、やめろって言っただろう」

「え? なんで? 私の勝利を見せつけたいじゃん、お前」

田辺は震えながら拳を握った。しかし、ここで怒れば橋本に告げ口されてしまう。静かに怒りを沈めるしかなかった。

「ねえ、なんで怒ってるの? もう関係ない人じゃん」

「……なんだって」

「あ、それと、せっかくだから、うちの会社で一番偉い人も呼んじゃおっかな」

花梨はスマートフォンで大和ホールディングスの会長名を検索した。しかし、さき子がその孫娘だとは、情報も出てこなければ知る由もない。

「大和ホールディングスの会長が来てくれたら、超すごくない?」

「来るわけないだろう。会長が」

「分かんないじゃん。とりあえず招待状送ってみるね」

「自由すぎるだろ。さすがにやめろって、本当に」

「うん」

花梨がスマートフォンの画面をタップした。田辺は両手で顔を覆って、大きなため息をついた。

一方その頃、さき子は竜介の家を訪ねていた。リビングで、竜介と向かい合って座った。

「おじい様。俊也さんと花梨さんから、結婚式の招待が届きました」

「行くのか?」

「はい。あの日、俊也さんが見せた一瞬の涙。あれが本物だったのか確かめたいんです。それと、花梨さんと橋本さんに伝えたいんです。私はもう、あの日のまま立ち止まってはいないって」

竜介はしばらくさき子を見つめた。

「分かった」

「おじい様。橋本さんたちへの制裁は、おじい様にお任せします。でも、私もただ座っているつもりはありません。あの場に、私自身の足で立ちます。逃げも隠れもせず、俊也さんとも花梨さんとも橋本さんとも、まっすぐ向き合ってきます」

竜介は再びさき子を見つめた。

「分かった。行け」

「ありがとうございます。おじい様」

「さき子。お前は強くなった」

「いえ、私はただ、自分の現実と向き合いたいだけです」

さき子の目から涙が一筋こぼれた。

「でも、ありがとうございます。おじい様がいなければ、私は……」

「それでいいんだ。人に頼ることも、弱さを見せることも、その人の強さだ。お前はそれが分かっておる。田辺にも、教えてやらんとな」

「はい」

さき子が部屋を出た後、竜介は黒崎に声をかけた。

「黒崎」

「はい」

「準備しろ。当日の動き、全てだ」

「承知しました」

「橋本との取引データ、音声の記録、情報漏洩の証拠。全部、当日に持ってこい」

「もちろんです。すでに揃っております」

竜介は湯飲みを置いた。

「あの男に、終わりの時間を教えてやろう」

結婚式当日。都心の高級ホテルの大宴会場。シャンデリアが輝き、生花が乱れる豪華な会場には、二百人を超える招待客が集まっていた。さき子の時とは比べ物にならない規模だった。純白のドレスに身を包んだ花梨が、満面の笑みで会場を見渡している。胸元には父から送られた大きなダイヤモンドのネックレスが、ギラギラと輝いていた。一方新郎の田辺は終始無表情で、心ここに在らずといった様子だった。会場の隅に、ベージュのワンピースにシンプルなパールのネックレス。さき子が一人、静かに席についていた。

披露宴が始まり、入場、乾杯、来賓挨拶と、華やかに時間が流れていく。来賓席で誇らしげに微笑む橋本の姿もあった。花梨のスピーチが終わると、司会者が会場の入り口に目を向け、声を弾ませた。

「続きまして、本日は新婦・花梨様の強いご希望により、特別なゲストにお越しいただいております。なんと、大和ホールディングス会長、大和竜介様のご登場でございます!」

一瞬、会場が静まり返った。次の瞬間、堰を切ったようにざわめきが広がる。

「やった! 来てくれた!」

無邪気に手を叩く娘の横で、橋本の顔が青ざめていく。

「花梨、お前、会長を招待しただと?」

「うん。サプライズだよ。パパ、驚いた?」

橋本は一言も聞かされていなかった。胸騒ぎが止まらない。なぜ会長が応じたのか、疑問でならなかった。

会場の扉が静かに開く。入ってきたのは、夜のコのスーツに安物の革靴を履いた老人。財界の重鎮とは思えない地味な姿だが、その背後には群青のスーツに身を包んだ黒崎が控えていた。竜介がゆっくりと歩を進めた途端、会場の空気が変わる。誰もが息を飲み、その姿を目で追った。

「会長、今日は本当にありがとうございます」

花梨が近づいたが、竜介は答えなかった。花梨を一瞥もせず、そのまま通り過ぎていく。

「あれ?」

竜介の足が止まったのは、さき子の前だった。

「さき子」

「おじい様」

さき子が立ち上がって、深く頭を下げる。会場が再びざわめいた。

「おじい様? え、佐田さんが会長の孫娘って……」

花梨の手からワイングラスが滑り落ちた。テーブルの上で、乾いた音を立てて割れる。

「なんだと? 佐田さき子が、大和家の孫娘だと?」

「ま、待て。私たちはよりによって、その婚約者を潰し、娘と結婚させたということか?」

「ねえ、パパ。なんで会長がさき子さんに……」

「黙れ、お前は」

竜介がさき子の隣に立ち、ゆっくりと会場全体を見渡した。低く、しかしよく通る声で、静かに口を開いた。

「皆様、本日はお祝いの席にお邪魔して申し訳ない。私、大和ホールディングス会長、大和竜介と申します。こちらのさき子は、私の孫娘でございます」

会場が再びざわめいた。竜介の視線が、確かに橋本へと向いた。

「そして、皆様には唐突で申し訳ございません。橋本義之さん、並びにその代表である橋本花梨さん。君たちが大和系列を裏切ったこと、全て把握しております」

一瞬、橋本の頭の中が真っ白になった。なぜ会長がそんなことを。どこから漏れた? だが、表情には出さない。長年修羅場を潜ってきた男だ。橋本はゆっくりと愛想笑いを作った。

「あ、あの、会長。失礼ですが、今日はお祝いの席でございます。一体、何のお話を……」

「私は今日、お祝いに来たのではない」

「はあ?」

「皆様、せっかくのお祝いの席に、このような話を持ち込むことを、心よりお詫び申し上げます。ですが、どうしても今日この場で明らかにしなければならぬことがございます。しばし、お時間をいただきたい」

竜介の視線が、再び橋本へと向いた。

「大和系列の再編情報。社外秘の資料が、橋本高産経由で競合二社に流れていた。これは、どう説明する?」

今度は橋本の愛想笑いが固まった。何もそこまで掴んでいるのか。背中にじっとりと汗が滲む。それでも、まだ崩れるわけにはいかなかった。

「そ、それは何かの間違いです。うちはそんな情報を扱ったことすら……」

「資料を流したのは田辺俊也。彼の母親の治療を盾に、お前が脅して情報を渡させたのだろう」

会場が再度ざわつき、田辺の身体がびくりと震えた。

「ま、待ってください。仮にそれが事実だとしても、それは田辺君が勝手にやったことで、私は何も……」

「お前と田辺の取引の音声、すでに抑えてある。言い逃れは、もう聞かん」

橋本はよろけて、椅子の背に手をついた。花梨が田辺に声をかける。

「ねえ、俊也、どういうこと? なんで会長がパパを……」

ようやく顔を上げた田辺の目が、竜介とさき子を捉えた瞬間、見開かれていく。さき子が大和家の孫娘。そして、全てバレていた。田辺は力なく椅子に座り直すと、全てを悟ったように顔を両手で覆った。

会場の隅から、黒崎が静かに前へ進み出る。その手には、分厚い書類の束が握られていた。

「橋本義之さん。本日付けで、橋本高産は大和系列より除名となります。並びに、貴社が大和系列との取引において不正に得た利益、並びに今回の情報漏洩による損害賠償、総額四百八十億円。本日付けで、全額返済を請求いたします。不正があった場合の即日支払いは、契約書にございます。払えない場合は、橋本の全資産を即差し押さえます。なお、不正融資、情報漏洩に関する諸々の証拠は、すでに警察に提出済みです」

「なんで……そんな……」

橋本の体が震え始め、足元がもつれて床に膝をついた。

「パパ! ちょっと、どうなってるの? 俊也、助けてよ!」

しかし、田辺は立ち上がり、ふらふらと会場の中央へ歩み出た。

「と、どこ行くの?」

田辺はゆっくりと振り返り、招待客全員に向かって深く頭を下げた。

「皆さん。私からも、お話しさせてください」

「ちょっと俊也、お前はもう黙れ!」

田辺は初めて花梨に向かって、冷たい声を出した。

「俺は二年間、さき子と付き合っていました。結婚式の日、俺は彼女の前で『やっぱり貧乏女は無理』と言って、全てを壊しました。あれは、嘘です。一言残らず、全部嘘でした」

会場がざわつく中、震える声が全体に響く。

「俺の母は重い病気で長期入院しています。最新の治療には、月に三百万円かかる。俺の給料では、到底払えなかった。橋本さんに借金をしました。返せなくなった俺に、橋本さんは要求した。大和系列の機密情報を盗め。さき子と結婚しろ。断れば、母親の治療を止めると。俺は、さき子を守りたかった。さき子を巻き込みたくなかった。だから、あの日、最低の男を演じました」

田辺の目から涙が一筋こぼれた。田辺はゆっくりとさき子の前へ歩み寄り、膝をついた。

「さき子。ごめん。本当にごめん」

額を床に擦りつける土下座だった。

「あの日、お前を傷つけた瞬間、俺の人生は終わってた。許してくれなくていい。一緒にいてくれなんて言わない。でも、これだけは言わせてくれ。俺が愛したのは、お前だけだ」

田辺は号泣した。会場全体に、その泣き声が響き渡る。やがて、さき子がゆっくりと口を開いた。

「田辺さん、顔を上げてください」

田辺が顔を上げると、さき子は静かに続けた。

「あの日、あなたが一瞬泣いたこと、私、見ていました。だから、あなたが何かを抱えていることは、ずっと感じていました。本当のことを、いつか話してくれる日を信じていました」

「さき子……」

「お母様の治療費は、もう心配しないでください。私の祖父が、引き継いでいます」

「え? ちょっと、何これ? 私の結婚式よ!」

だが、誰も花梨を見なかった。橋本は床に膝をついたまま、ぶつぶつと呟く。

「終わりだ……俺は終わりだ……」

さき子はゆっくりと立ち上がり、竜介の方を見た。

「おじい様、もう結構です。帰りましょう」

「ああ」

さき子は田辺をもう一度見下ろした。

「田辺さん、お母様を大切にしてください。そして、今度こそ、自分を大切にしてください」

そう言うと、振り返って会場全体に向かって深く頭を下げた。

「皆様、本日のお祝いの席をこのような形にしてしまったこと、心よりお詫び申し上げます」

会場には、誰一人として声を発する者はいなかった。ただ、成り行きを呆然と見つめていた。さき子は竜介と共に、ゆっくりと会場を歩き出した。扉が閉まった。会場には、花梨の叫び声と、橋本の呟きと、田辺の嗚咽だけが残された。

翌日。警察の取調室。机の上に分厚い証拠資料が積まれている。橋本は捜査員の前で背筋を伸ばし、必死に取り繕った。

「私は何も知らなかったんです。あれは、娘が勝手にやったことです」

捜査員が別の書類を取り出した。

「橋本さん。あなた自身が田辺さんに『庭師は身を売ってなんぼ』と発言したのが、音声に残っているのですが」

かつて自分が田辺に投げつけた言葉が、今、自分自身を縛りつける首輪となって戻ってきた。

化粧が崩れ、髪も乱れた花梨が、捜査員の前で叫んでいた。

「知らない! 私は何も知らない! パパに言われてやっただけ!」

「お父様は別で、全部娘の独断だったと言っていますが」

取調室を出た廊下で、二人の親子がばったりと出くわした。

「パパ! なんで私のせいにするのよ!」

「お前が田辺に本気になったのが悪いんだろうが。お前みたいなバカ娘は、最初から失敗作だったんだよ」

「失敗作? パパ、私のこと、ずっと道具だと思ってたってこと?」

橋本は答えなかった。ただ、目をそらした。花梨の目から、涙がこぼれた。

数ヶ月後。橋本は実刑判決を受けた。花梨は執行猶予付きの有罪判決を受けたが、社会的には完全に居場所を失った。やっと見つけた仕事は、駅前の小さな居酒屋のホールスタッフだった。

ある日、二番テーブルに若いカップルが座っていた。男女がメニューに目を落としたまま、低い声で囁き合う。

「うざ。この店員、可愛いぶってんだけど。なんか店員なのに、上から目線だよな」

花梨の手が止まった。かつて自分が、誰にも聞こえないと思ってさき子に向けて吐いた言葉だった。花梨は何も言えなかった。ただ、伝票を握りしめて、その場に立ち尽くしていた。

閉店後、誰もいない店内で、花梨は一人床を拭いていた。

「私……何やってんだろう」

スマートフォンを開く。連絡先には何百人もの名前が並んでいた。だが、今電話できる相手は、一人もいなかった。窓の外、駅前の華やかな明かりがガラス越しに揺れている。でも、その光はもう、花梨には届かなかった。

同じ頃。橋本は刑務所の独房で、ただ天井を見つめていた。コンクリートの壁、鉄格子の向こうから差し込む薄い光。畳一条分の空間に、自分しかいない。かつては銀座の高級クラブで取り巻きに囲まれ、財界の人脈を巧みに操り、娘には何百万ものバッグを買い与えていた男。それが今は、安物の作業着に身を包み、味のしない食事を黙々と口に運ぶ毎日だった。

「どこで、間違えた?」

天井に向けて呟いた言葉は、コンクリートに吸い込まれて消えた。答えは、誰も返さなかった。

半年後。春。都内の総合病院の病室。ベッドで田辺の母が、ゆっくりと目を開けた。長い眠りから、意識が戻った瞬間だった。

「母さん!」

握りしめた母の手は痩せていたが、温かかった。

「俊也……私、どれくらい眠ってたの?」

「長いよ。すごく長い」

田辺の目から涙がこぼれる。母は息子の顔を見て、すぐに気づいた。こんなにやつれた表情をしている息子を、見たことがなかった。

「やっぱり、何かあったのね」

「……話したくないなら、いいのよ。でも、俊也」

「うん」

「あなたが今、本当に大切にしたいものは、何?」

「母さんの命と……それと……」

言葉が続かない。

「それなら、私はもう大丈夫よ。母さんのことは、もういいから。あなたが本当に大切にしたいその人に、心からのお詫びをしてきなさい」

田辺の頬を、涙が伝った。

数日後。公園。桜の季節だった。田辺はさき子に一通の手紙を送った。最後に一度だけ会ってほしい。指定された場所は、二人で何度も訪れた桜並木のある公園のベンチだった。

約束の時間。やがて、向こうからさき子が歩いてくる。何も言わず、田辺の隣に静かに腰を下ろした。

「さき子。母の治療のこと、本当にありがとう」

「いいえ。おじい様にお願いしただけです」

田辺はしばらく俯いていた。やがて、ゆっくりと顔を上げる。

「さき子。俺は、もうお前の前に現れない」

「え?」

「お前をあんなに傷つけた俺が、また隣に立つ資格はない。俺はこれから、自分の罪とずっと向き合う。さき子。お前は、お前の幸せを掴んでくれ。それが、俺の願いだ。ありがとう。二年間、本当に幸せだった」

田辺はそれだけを残して、さき子に向かって深く頭を下げた。そして、前を向いて、力強く歩き出した。

しばらくの間、さき子はベンチに座ったまま、桜の木を見上げて思い出していた。卵焼きを頬張りながら「うまっ」と笑っていたあの頃。半額シールの鮭を「さき子さんが喜ぶかも」と差し出したあの夜。プロポーズの日、不器用に「結婚してください」と言った彼の笑顔。

さき子の頬を、一筋の涙が伝った。

「あなたと過ごした日々を、私は宝物にして生きていきます。ありがとう。さようなら」

桜の花びらが、ひらりとさき子の手のひらに落ちた。

春。竜介の家。朝。台所で、さき子が土鍋に火をかけていた。ことこと、ご飯が炊ける音だけが、静かに響いていた。

「おお、いたのか」

「おはようございます、おじい様」

竜介は棚の前に立った。いつもの三枚の写真。愛しい妻と、愛しい娘。幼いさき子。そして、新しく一枚増えていた。竜介とさき子が、庭の梅の木の下で並んで撮った写真だった。竜介の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。

食事を終えて縁側に出ると、庭の梅の木が朝の光の中で白い花を咲かせていた。

「綺麗ですね、おじい様」

「ああ。風が強い年ほど、花は美しく咲く。お前の名は『さき』か。すみ子がつけたな。さき子、お前はお前の春を、ちゃんと咲かせなさい」

「はい」

春の風が、庭を抜けていった。人は弱い。誰もが、守りたいものの前で道を踏み外しそうになる。それでも、自らの過ちと向き合えた時、人はもう一度、人間に戻れる。

さき子の朝は、今日もまた始まっていく。梅の木が、朝の光の中で静かに揺れていた。

Thumbnail