銀座の高級フレンチの個室で、女がシャンパングラスを掲げてこう言い放った。「月収10万の貧乏人は、帰った方が身のためよ」。その瞬間、個室の空気が凍りついた。私、宮本誠一は派遣営業として医療機器を納品する42歳。半年前に亡くなった父の遺言を果たすため、あえて現場に潜り込んでいた。だが、その夜の会合で同席した2人の女医は、私の身分を知るや否や嘲笑を始めた。「派遣ぃ?…

銀座の高級フレンチの個室で、女がシャンパングラスを掲げてこう言い放った。「月収10万の貧乏人は、帰った方が身のためよ」。その瞬間、個室の空気が凍りついた。私、宮本誠一は派遣営業として医療機器を納品する42歳。半年前に亡くなった父の遺言を果たすため、あえて現場に潜り込んでいた。だが、その夜の会合で同席した2人の女医は、私の身分を知るや否や嘲笑を始めた。「派遣ぃ?...

銀座の高級フレンチの個室。シャンパングラスを掲げた女が、蹴るように言い放った。

「月収10万の貧乏人は、帰った方が身のためよ」

隣の女がケタケタと耳障りな笑い声を響かせる。「マジ受ける。派遣営業さんに高級レストランは早かったかな」

吊るしのスーツを着た男は、反論もため息もなく、ただ静かにグラスを置いた。2人はその沈黙を、負け犬の諦めだと思っていた。会計を押し付け、挨拶もなく去っていくその背中を。

だが翌日。

「皆様、ご紹介します。こちら宮本誠一様。この病院の新しいオーナーでございます」

「え、嘘だって。月収10万って……」

崩れ落ちる2人を前に、男は静かに告げた。

「ええ、確かにいました。嘘はついてませんよ。ドルですけどね」

見下されていたのは、彼女たちの頂点に立つ男だった。月収10万という、たった1つの言葉が何を暴き、何を変えていくのか。これは1人の男が、亡き父との約束を果たすまでの物語。

朝の通用口を抜ける男の首からは、神聖メディテック日本・派遣営業という身分証が揺れていた。色あせた吊るしのスーツに、片落ちの黒い営業鞄。手首の腕時計は、両替店の安物だった。男の名は宮本誠一、42歳。今日も医療機器メーカーの派遣営業として、武蔵の中央病院に超音波装置の搬入を運んでいた。

「神聖メディテックさん、いつも早くから助かります」

「いえ、配線まで含めて、こちらでセッティングしておきますね」

柔らかい受け答えに、若い看護師が表情を緩めて去っていった。搬入の合間、誠一の目は廊下を掃く患者や看護師をさりげなく追っている。誰がどんな顔で診察を待ち、どの医師がどんな声で患者に接するのか。ただの納品では決して見えてこないものがあった。

その時、ポケットでスマートフォンが震えた。同じ会社の営業課長で、高校からの親友、渡辺拓也だった。

「午後の呼吸器モニターの搬入、予定通りで頼む。それと、無理してないか?」

「無理も何も、搬入をしてるだけだ。気楽なもんだよ」

「気楽ね。お前みたいな男が、わざわざ派遣に潜り込んで見たいものが、本当にあるのか?」

「あるさ。外からしか見えないものが必ずある。親父の口癖でな」

半年前に亡くなった父の声が、まだ耳の奥に残っている。人を肩書きで判断する者は、患者のことも肩書きで判断する。務めていた職場を離れ、派遣の職人まで頭を下げたのは、その遺言を忠実に守るためだった。

「お前のそういう生真面目なところ、昔から変わらないよ。まあ、もう少しの辛抱だ。せいぜい気楽な派遣さんでいろ」

「ああ。今の俺はただの神聖メディテックの派遣社員、宮本だ」

通話を切り、誠一は搬入車のハンドルを握り直した。地味な派遣営業の顔の下に何があるのかを、この病院の誰もまだ知らなかった。

午前の検査が一段落した3階の廊下を、誠一は搬入を終えた台車を押しながら歩いていた。長椅子には診察を待つ患者が並び、消毒液の匂いとお茶の湯気が一緒に天井へ立ちのぼっている。配線を確かめながらも、意識の半分はいつも患者たちの表情に向いていた。

ふと、長椅子の端で初老の男が1人、背を丸めて腹の辺りを抑えていた。脂汗をかき、浅い呼吸を繰り返している。

「失礼します。加減が悪いんじゃありませんか」

「いや、受付は済ませたんだが、呼ばれるまで待っててと言われてね。さっきから腹が痛くて。彼これ1時間かな。だんだん脂汗が出てきてね」

誠一は窓際から車椅子を1つ借りてくると、男の傍に静かに寄せた。

「立てますか? 無理はなさらず。これに腰かけてください。背中、支えますから」

「すまないね。あんた、ここの人かい?」

「ええ、ただの搬入の業者です。でも、辛い時に身分は関係ありませんよ」

男をそっと車椅子に座らせると、誠一は通りかかった看護師を呼び止め、痛みの強さと続いている時間を手短に伝えた。看護師は一瞬、決まり悪そうな顔をして男を診察室の方へ運んでいった。

患者を順番でしか見ない受付。気づいても足を止めない看護師。この病院の冷たさは、どこから来ているんだろうな。胸の内で、その疑問が小さくくすぶった。

その時、廊下の奥からハイヒールの硬い音が2つ近づいてくる。誠一はさりげなく台車を壁際に寄せ、柱の影に身を引いた。白衣をなびかせて歩いてくるのは2人の女性医師だった。長い髪の女が、高級腕時計を見せつけるように腕を組んでいる。

「ねえ、由香、今月の学会、また私が座長ですって。困っちゃう。優秀すぎるのも大変」

後ろの茶髪の女が、ブランド品のバッグを揺らして追従した。「さすが沙織、呼吸器内科のエースだもの。私なんてまだまだ」

内科医を務める北条沙織、33歳。有名大学医学部卒を何より誇る女だった。隣で機嫌を取るのは、消化器内科の篠崎由香、31歳。表向きは2人とも優秀な先生で通っている。

そこへ、患者の付き添いらしい中年女性がおずおずと声をかけた。

「あの、北条先生。先ほどの母の検査結果のことで、もう少し詳しいご説明をいただけませんか?」

「予約は取ってある? 私たち医者の時間がどれだけ貴重だと思ってるのかしら? いちいち噛み砕く暇はないの」

「そこを、ほんの少しだけでも……」

「先生は午後もお忙しいんです。付き添いの方はもう少しお待ちくださらないと」

2人は女性を置き去りにして、硬い靴音を響かせながら廊下の角を曲がっていった。残された女性が居場所のない手を胸の前で握りしめている。柱の影から見ていた誠一は、ゆっくりと息を吐いた。

説明を求める家族を簡単に切り捨てるか。あれがこの病院の医師の顔とはな。声に出せない言葉が、口の中で苦く溶けた。父の言葉がまた胸をかすめる。人を肩書きで判断する者は、患者のことも肩書きで判断する。

搬入を片付け終えた頃、拓也からメールがあった。

「お疲れ。今夜、急で悪いんだが、会合に付き合ってくれないか? 女医が2人来るんだ」

「へえ、どこの病院の?」

「うちが担当してる武蔵の中央病院の先生方でな。前から付き合いのある先生に頼まれて組んだ席なんだ」

「ほお。お前も医院で大変だな。断るか?」

「いや、行くよ。顔だけ出す」

「おお、珍しいな。お前が即答とは」

「ただの付き合いさ。期待はするなよ」

通話を切り、誠一は窓の外へ目をやった。女医という言葉を聞いて、思わず見てみたくなった。今夜会う相手が、自分のことを何も知らないままで、どんな顔を晒すのかを。

その夜、銀座の路地裏にある高級フレンチの個室で、誠一と拓也は先に席について2人を待っていた。柔らかな照明が白いクロスを照らし、グラスの足が淡い光を弾いている。やがて、ハイヒールの軽い足音と濃い香水の匂いが廊下の向こうから近づいてきた。

「お、来たみたいだぞ」

扉が開く。入ってきたのは、昼間、3階の廊下で患者の家族を切り捨てた女医の2人だった。だが向こうは、あの搬入業者を見ていた男が今ここに座っているとは、まるで気づいていない。

「初めまして。消化器内科の篠崎由香です。同じく内科の北条沙織です。よろしくお願いします」

「わあ、素敵なお店。お2人とも、こういうところ慣れてらっしゃるのね」

「いえ、普段は立ち食いそばですよ。今日は奮発しました」

「あら、ご冗談。病院営業の方って、接待でいいお店ご存じでしょう」

「で、お仕事は医療機器と伺ったけれど」

「神聖メディテック日本で営業課長しております。渡辺です」

「営業課長さん? じゃあ、お医者様とのお付き合いも多いんですね。いいじゃない。ねえ、沙織」

「ええ、うちの病院にもよく出入りしてらっしゃるわね」

渡辺の挨拶が済むと、その視線が隣の誠一へと移った。安物の腕時計の辺りで、沙織の目が一度、わずかに止まった。

「で、お隣の方は。課長さんのお連れだから、やっぱり同じような立場の方?」

「同じく神聖メディテック日本で、派遣営業しております。宮本です」

「派遣ぃ? 派遣の営業さんが、会合に来てるんだけど」

「やだ。てっきり課長さんと同僚の方かと思っちゃった。紛らわしい」

「ふーん。派遣ね」

長い髪をかき上げ、沙織は隠そうともしないため息をついた。

「ねえ、渡辺さんのところってボーナス高いんでしょ? ぶっちゃけ年収どれくらい?」

「いや、普通ですよ。お2人のような先生方には、とても及びません」

「またご謙遜。ねえ、先生って呼ばれると悪い気しないわよね、沙織」

「当然でしょ。私たちそれなりに勉強してきたもの。庶民とはかけてきた時間が違うの」

2人の笑い声が個室にこもる。話を振られなくなった誠一は、同じ卓にいながら、まるで一脚の空いた椅子のように扱われていた。グラスが空いても、誰も気を払わない。

やがて、由香の目が退屈しぎみのギャンブルでも見つけたように、誠一へと向いた。

「そういえば宮本さんは、派遣の営業さんのお給料って、私知らなくて。差し支えなければ参考までに……ねえ、沙織、聞いて気まずくなったら宮本さんに悪いじゃない」

「あら、フォローのつもり? 篠崎先生、それはさすがに」

「ええ、構いませんよ。そうですね。ザッと計算すると……」

場の視線がふっと誠一に集まった。誠一はグラスを置き、ほんの少し間を取る。

「月収10万くらいでしょうか?」

一瞬、個室がしんと静まった。由香が自分の耳を疑うように首をかしげる。

「え、ごめんなさい。聞き間違いかしら。今いくらって?」

「月に10万ほどです」

「10万? ええ、月収で?」

「ええ、嘘はついてませんよ。ドルですけどね」

「ち、違う! 今のは聞き間違いでしょ!」

「いえ、間違いありません。月収10万ほどの小遣い銭です」

「小遣い銭って! お前、月収10万の小遣い銃を持ってるのか!」

「ええ、私にとっては、これくらいがちょうどいいんです」

「ふ、ふざけるな! 私たちが今、どれだけの思いで。月収10万って……私の研修時代より少ないんですけど!」

「本当、それ。というか、それで生活できるの? 家賃とかどうしてるの?」

「まあ、質素にやってますよ」

「質素に、ですって! アルバイトの学生さんでさえもっと稼ぐでしょうに。40を過ぎて月収10万。ねえ、それってお小遣いとかじゃなくて、本当にそれが全部なの?」

「ええ、それが全部です」

「信じられない。派遣の営業なんて、コンビニの方がまだ時給いいわよ」

沙織はもはや嫌悪感を隠そうともしなかった。ワイングラスの足を指先で弄びながら、値踏みするような目で誠一を上から下まで眺め回した。

「通りでその吊るしのスーツも、その時計も、全部納得だわ。最初に見た時から、なんとなくそうじゃないかなと思ってたのよね」

「やだ、沙織ったら。でも、分かる。匂いで分かるもの。そういうの」

シャンパンを抜こうとした店員の手が、気まずさにわずかに止まった。拓也が何か言いかけたが、誠一の視線に止められる。それでも2人の嘲笑は止まらず、由香が笑いながらとどめのように身を乗り出した。

「ねえ、沙織。はっきり言ってあげたら。こういうの、お互いのためよ」

沙織はグラスを置いた。そして、これ以上ないほど涼しい顔で言い放った。

「月収10万の貧乏人は、帰った方が身のためよ」

由香がケタケタと耳障りな笑い声を響かせる。誠一は表情を1つ変えず、グラスの水を口に運んだ。怒りは不思議なほど湧いてこない。ただ、この2人が半年後に自分が背負う系列病院の現役の医師なのだという事実だけが、鉛のように胸の底へ沈んでいった。

メインの皿が下げられた頃、沙織と由香は申し合わせたように席を立ち、化粧室へと向かった。鏡の前で口紅を直しながら、2人は声を潜めて笑い合う。

「ねえ、沙織、会計どうする?」

「決まってるでしょう。当然、無効よ。でもさ、本当に払えるのかしら。月収10万でこのフレンチ」

「それよ。ちょっと試してみたくない? 払えなかったら、それこそいい笑い話だわ」

「由香、本当に性格悪い」

席に戻った2人は、一口お茶をすすると、わざとらしく腕時計に目をやった。

「ああ、お腹いっぱい。私、明日も早いから。医者の時間は貴重なの」

「お会計、そちらでお願いできる?」

誠一が口を開く前に、2人はバッグを肩にかけ、フロアスタッフの制止すら素通りして出ていった。残されたのは5桁の伝票と、リップの跡が薄く残ったグラスだけだった。

「悪い、宮本。俺が誘ったばかりに、こんなことになって」

「気にするな。お前のせいじゃない。しかし、ひどいもんだな。仮にも医者が人様に対して言う言葉か」

「いや、さ。財布の中身で人を試す手口に、ちょうどいい標的になれたってことだ。それに、父の教えを試すのにもな」

その日も誠一は、派遣営業として武蔵の中央病院の3階に機器を運んでいた。午前の検査を終え、患者で長椅子は埋まっている。配線を整えていた誠一は、ふと待ち合いの隅で若い母親に気づいた。腕の中の幼い子が、ぐったりと泣きじくっている。

「失礼します。お子さん、随分辛そうですね」

「すみません。熱が高くて。さっき受付で聞いたら、まだ30分は待ってって。この子、じっとしていられなくて」

「そうですか。少しこちらへ。窓際なら風が通って、いくらか楽かもしれません」

誠一はベンチの端を示し、母親が腰を下ろすのを待って、自分の上着を畳んで子の背に当ててやった。泣き声が少しずつ収まっていく。

そこへ、廊下の奥からハイヒールの硬い音が2つ近づいてきた。沙織と由香である。2人は誠一の顔を見るなり、足を止めた。

「あら、昨日の派遣さんじゃない。こんなところで何してるの?」

「やだ、本当だ。月収10万の。まさかうちの病院に出入りしてたわけ?」

「ええ、神聖メディテック日本の派遣で、こちらに機器を納品させていただいてます」

「ふうん。世間って狭いのね。昨日の今日で顔を合わせるなんて」

由香はくすくす笑いながら、母親の腕の中の子に目を移した。その目がすっと冷たくなる。

「ところで、その子、さっきからうるさいんだけど。ここ、具合の悪い人ばっかりなの。もう少し静かにしてもらえる?」

「すみません。熱が高くて、ぐずってしまって」

「お母さん、お気持ちは分かるけど、診察には順番があるの。皆さん、同じように具合が悪くて待っていらっしゃる。あなたのお子さんだけ特別、というわけにはいかないのよ」

「特別になんて、そんなつもりは……」

「お静かに。それがここのルールですから」

冷たく言い置いて、沙織は背を向けようとする。さも当然の正論を述べたという涼しい顔だった。

だが、子供の額に手を当てた誠一が、静かにその背へ声をかけた。

「先生、順番より先に、この子を見てあげていただけませんか? 額がかなり熱い。微熱という温度ではありません」

「なんですって?」

「ぐったりして、反応も鈍くなってきています。順番を待っている場合ではないように見えます」

「派遣の営業さんが、医療に口出し? ネットの知識が何か知らないけど、迷惑なのよね」

「そうよ。素人が不安を煽らないでくれる? 順番は順番、規則は規則なの」

その時、母親の腕の中で、子の体がびくっと不自然に痙攣した。誠一の表情が変わる。

「お母さん、すぐ看護師さんへ。急いで!」

「あ、はい!」

ただならぬ声に、母親が処置室へ駆け出した。ほどなく看護師が駆け寄り、子を運び込み、廊下が一気に慌ただしくなる。規則を盾にした手前、沙織と由香は引っ込みがつかないまま、その場に立ち尽くしていた。

やがて戻ってきた母親が、誠一に深く頭を下げた。

「あなたが気づいてくださらなかったら、痙攣を起こしかけていたって先生が。本当にありがとうございました」

「お子さんが無事で何よりです。大事になさってください」

廊下の角でその様子を見ていた看護師長が、誠一に歩み寄り、声を落とした。

「神聖メディテックさん、さっきの判断、本当に的確でした。お恥ずかしい話です」

「いえ、ただ、目の前にいただけです」

その言葉を、沙織と由香は離れた場所で冷ややかに聞いていた。

「何あれ? 派遣のくせに看護師長に取り入っちゃって。点数稼ぎしてらんない」

「ああいうの、1番嫌いなのよ」

聞こえよがしの嫌味を残し、2人は去っていった。だが誠一は振り返らない。胸に残ったのは怒りではなく、規則の一言で切り捨てられかけた、あの子の暑い額の感触だった。あの子の異変に、医者である2人は規則を盾に順番を解いた。足りないのは肩書きでも学歴でもない。目の前の患者を1人の人間として見る目だ。胸の内に苦いものが広がっていく。だが、その胸の底では、これまでとは違う熱が静かに燃え始めていた。

その日の午後、業務の合間を縫って、誠一は人のいない院長室へと招かれた。重厚な木製のデスクの向こうで、田所院長が静かに指を組んでいる。武蔵の中央病院の院長であり、誠一の亡き父が生前最も信頼を置いていた男だった。

「現場はいかがですか?」

「想像していた以上でしたよ、院長。今日も、熱を出した子が危うく見過ごされるところでした」

「そうですか。もしかして、北条先生と篠崎先生ですかな?」

「ええ。患者からのクレームも、院長の耳には届いてはいないでしょう」

田所は静かに引き出しを開け、秘匿の集計表を滑らせた。2人の医師の名の横に、苦情の件数が綺麗に並んでいる。誠一はその数字を黙って目に焼きつけた。

「私の前では、よくできた医師なのです。だからこそ、タチが悪い」

「外からしか見えないものが、必ずある。親父の言葉の意味が、ようやく腹に落ちました」

窓の外へ視線を移した誠一の脳裏に、半年前の病室が蘇える。骨と皮ばかりの手を握ったあの夜、父はかれた声で繰り返した。人を肩書きで判断する者は、患者のことも肩書きで判断する。患者にとって本当に必要な医療とは何か。自分の目で見極めろと。

「親父、あんたが言い残した言葉の意味が、今なら分かるよ。自分でこの病院に潜り込んでみて、初めて腹に落ちた。診察室の中だけ見ていたら、一生気づけなかった」

やがて誠一はゆっくりと田所に向き直った。

「院長、ただ見ているだけなのは、もう終わりにします」

「よろしいのですか?」

「ええ、十分すぎるほど見せてもらいました。あの2人だけの問題じゃない。患者を順番でしか見ない受付も、痛みに気づかない現場も、クレームが握りつぶされる仕組みも。この病院全体が、どこかで患者の顔を見失っている」

「おっしゃる通りです。私の目も行き届かず、申し訳ございません」

「いえ、体制は整ってますから、院長先生も動きにくいでしょう。しかし、次は私の立場で、この病院そのものと向き合います。そのために、親父は俺に現場を見ろと言ったんでしょうから」

田所は深く頷いた。全理事から挨拶を託された日のことを、思い出しているようだった。

「お父上も、きっと同じ選択をなさったでしょう。あなたという方を残してくださったことに、私は今、心から感謝しております」

「買いかぶりですよ。俺は俺にできることをやるだけです」

静かに席を立った誠一の横顔には、1つの覚悟が静かに座っていた。

その頃、沙織と由香の関心は思わぬ方向へと向いていた。きっかけは、あの会合である。

「ねえ、由香、考えてみたら腹が立たない? あの月収10万の派遣を私たちの前に連れてきたの。あの渡辺とかいう営業課長でしょ」

「本当、それ。医者との会合に、よりによって派遣を混ぜるなんて。私たちの格を何だと思ってるのかしら」

「神聖メディテックの渡辺ね。ちょうどいいわ。うちの病院、あの会社から医療機器をたくさん入れてるもの」

「沙織、何か思いついた顔してる」

「うんふ。営業マンの評価なんて、取引先の一言でどうにでもなるのよ」

2人の意図はすぐ行動となって現れた。渡辺が定例の機器説明に訪れる度、申し合わせたように冷ややかな態度を浴びせるようになる。沙織は神聖テック社宛てのレポートを送り付けた。提案内容が的外れ、患者ニーズを理解していない。対応能力が著しく低い。担当の即時交代を求む。武蔵の医療グループという大口取引先の名を背負ったその書面は、本社の役員フロアをたやすく動かした。

数日後、渡辺は本社の会議室へ呼び出された。向かいには、腕を組んだ営業本部長と人事担当が険しい顔で座っている。

「渡辺、武蔵の中央病院から君に対する正式な抗議文書が届いている。読みなさい」

「拝見します……べ、別に心当たりはありません。納入記録もプレゼン資料も、全て本部の承認を得たものです」

「先方の主張を裏付ける事実が1つもない。だが、向こうは取引停止までちらつかせている。武蔵グループはうちの売上の柱だ。組織として対応せざるを得ない」

「営業課長から営業へ、1階級の降格。武蔵の中央病院の担当からは外れてもらう。これは決定事項だ」

渡辺はしばらく何も言えなかった。指先で書面の角を揃え、ゆっくりと報告書を閉じる。

「……分かりました」

抗議も釈明も、それ以上は口にしなかった。会議室を出て、誰もいない非常階段の踊り場で、渡辺は壁に寄りかかって長く息を吐いた。ポケットのスマートフォンには、誠一からの何でもないメッセージが1件届いている。何度か開こうとして、結局開かずにしまった。

宮本には言えないな。あいつはもうすぐ、あの病院のトップに立つ男だ。親友に降格を覆してもらうなんて、男として許せない。これは俺が自分の力で晴らす。胸のうちでそう自分に言い聞かせた。20年積み上げてきたものが、紙切れ数枚で覆える。その理不尽を、渡辺はたった1人でその胸に飲み下した。窓の外では、夕暮れの空がゆっくりと色を失っていった。

その頃、病院では。

「ねえ、本社から連絡来たって。渡辺さん、降格ですって」

「あら、そう。当然の結果よね。実力のない営業マンなんて、いくらでも代わりが効くもの」

「沙織って、本当に怖い。ちょっとやりすぎじゃない?」

「やりすぎ? 向こうが私たちを見下したのが悪いの。派遣を連れてくるような無神経な男に、罰が当たっただけよ」

2人は何の罪悪感もなく笑い合った。自分たちが踏みにじった相手が、半年後に自分たちの運命を握る男の、たった1人の親友だとは、まだ知るよしもなかった。

数日後の朝、武蔵の中央病院の大会議室には、内科医から外科の若手、看護師長、事務までが顔を揃えていた。半年前から空席だった理事長の座。その新理事長を、今日この場で全職員に披露するという。最前列には、当然の権利のように沙織と由香が並んでいた。

「噂の新理事長、いよいよご紹介ね。最初の挨拶で、しっかり点数を稼いでおきましょう」

「どんな大物かしらね。やっと私たちの実力に見合った上司が来てくれるってわけ」

「派手すぎず、でも印象に残る一言がいいわ。もう考えてあるの」

会議室の隅には、降格の引き継ぎのために呼ばれた渡辺が、誰とも目を合わさず末席で背を丸めていた。やがて、田所が壇上に立ち、いつもより姿勢を正す。

「皆様、本日はご紹介申し上げたい大切な方をお招きしております。前理事長がお亡くなりになって以来、ご心配をおかけしてまいりました。後継者の件です。では、新理事長、お入りください」

会議室の後方の扉が、内側から静かに開いた。一斉に振り返った先に立っていたのは、仕立ての良いスーツに身を包んだ男。だがその顔は、院内の廊下で何度も見かけたあの男だった。

「あの方は……先日、廊下でお会いした神聖メディテックの宮本さんですか?」

事務と看護師たちのざわめきが、波紋のように最前列へ広がる。

「皆様、ご紹介申し上げます。こちらは宮本誠一様。武蔵の医療グループの新理事長でいらっしゃいます。つまり、この病院のオーナーです」

「え……ええ、嘘でしょ?」

「宮本理事長は、前理事長の遺志に基づき、就任に先立つこの2週間、あえて医療機器の派遣営業として現場をその目でご覧になってこられました。ご無沙汰しております……というほど皆様と面識もありませんが、改めまして、宮本誠一です」

その瞬間、事務が真っ先に席を立った。

「これは大変なご無礼を申し上げました。理事長。廊下で失礼な対応がございましたら、どうかお許しください」

「最前列にいた私まで、ご挨拶が遅れまして申し訳ございません」

階段を1段ずつ下りるように、地位の高い順から頭が下がっていった。その中で、2人だけがまだ立てずにいた。沙織は腰を半分浮かせ、白くなった指で机の縁を掴んだまま、震える声を絞り出した。

「そんなの嘘よ。だって、あいつは派遣営業よ。月収10万って、自分でそう言ったじゃない」

「ああ、お2人とも、こちらにいらしたんですね」

ゆっくりと最前列の前まで歩み出た誠一が、2人の顔を順に見据えた。

「ええ、確かに言いました。月収10万というのは、嘘はついていませんよ。ドルですけどね」

「ど……ドル? 嘘。月収10万ドルって……そんな」

「随分驚いているようですね。そんなに収入が重要ですか? 父が残した言葉でしてね。人を肩書きで判断する者は、患者のことも肩書きで判断する、と。あの夜の会合も、廊下でのあの子の一件も、よく見せていただきました」

膝の上で、由香の手が小刻みに震える。

「どうしよう、沙織。私たち、なんてことを……」

「あれは、この人が悪いんじゃ」

「ハロー効果というそうです。肩書きが立派なら中身も立派に、軽ければ中身も軽いと見做す。お2人の物差しは、見事にその典型でした」

「何を言って。私たちは実力でこの地位にいるの。ちゃんと自分の物差しで来たんだから」

「ええ、お2人とも優秀な医者だと聞いています。だからこそ、1番見過ごせないのは、その物差しを患者にまで当てていたことです。とても重要なことなので、お伝えしておきます。患者と同じ目線に立てない医師は、これから先、何も築き上げることはできません」

崩れかけた由香の肩を、沙織が反射的に掴もうとして、自分の手まで震えているのに気づき、慌てて袖の中へ隠した。プライドだけで築いてきた城が、ほんの数分で崩れていく。その様子を、全会場の全てが息を殺して見守っていた。

誠一は末席でうつむいている渡辺へ、ちらりと視線を送った。待っていろ。お前の件は聞いている。これからきっちり晴らす。――胸の内で、親友だけに届く声でそう告げ、誠一は田所に目配せをした。

「お2人は、この後、院長室へ。理事長から、じきじきにお話があります」

窓の外を、救急車のサイレンが通り過ぎていく。その音が遠ざかった頃、2人はようやく震える足で立ち上がった。院長室の重い扉が閉まると、室内の空気がぐっと張り詰めた。デスクの向こうに腰を下ろした誠一の傍らに、田所と事務、そして人事部長が控えている。その正面に立たされた沙織と由香は、先ほどまでの傲慢さをすっかり失い、うつむいた顔で身を寄せ合っていた。

誠一は1冊の書面を静かに机の上に滑らせた。

「まず1つ目。お2人が連名で神聖メディテック日本宛てへ送られた、この評価レポートについてです」

「それは……正当な業務上の評価で」

「提案が的外れ、患者ニーズを理解していない。対応能力が著しく低い。この内容を裏付ける具体的な事実を、1つでも示せますか?」

「それは……」

「示せませんね。当然です。渡辺課長の納入記録も提案資料も、全て本社の承認を得たものです。私が1つ1つ目を通しました。このレポートは虚偽の内容に基づくものと認定されました」

「そんな……勝手に」

「グループ理事長室から、神聖メディテック日本へ正式な抗議文書を送りました。渡辺課長の降格処分は即日撤回されます。お2人が会合の仕返しで1人の営業マンの20年を踏みにじろうとした件は、これで終わりです」

その一言に、由香の方がぴくりと震えた。自分たちの放った悪意が、目の前の男の親友に向けられていたのだと、ようやく気づいたのだ。誠一はわずかに声を落として続けた。

「彼は、私の高校からの友人でしてね。心配をかけるまいと、降格のことを私には一言も言わなかった。お2人は、そういう人間を、紙切れ1枚で落とし入れようとした」

「知らなかったんです。あの人が、理事長の知り合いだなんて」

「知り合いかどうかで、やっていいことと悪いことが変わるんですか? それがお2人の物差しなんですよ」

返す言葉を失った2人に、誠一は2枚目の書面を差し出した。

「2つ目。お2人の院内での処遇です。給与体系の見直し、資格手当ての精査、ご担当いただく患者数の再配分を行います。合わせて、院内での指導役は外れていただきます。人事部長、よろしいですね」

「処分内容、承知しました。即日、人事に反映いたします」

「待ってください。私は何年もかけて、こんな地位を築いてきたんです。こんな屈辱、受け入れられません」

「屈辱、ですか? 私がどれだけの努力をしてここまで来たと。その努力は本物でしょう。私もそこは疑っていません。ただ、その努力は一体誰のためのものでしたか? ご自分のプライドのためですか? それとも、あなたを頼って病院へ来る患者さんのためですか? お2人の今の医療は、成績にしか向いていない。私にはそう見えました」

沙織は唇を噛んでうつむいた。反論の言葉を探すように視線を泳がせるが、何も出てこない。その沈黙を誠一は静かに見つめてから、ふと声の調子を柔らげた。

「ですが……医師として、やり直す機会をもう1度だけ差し上げます。患者目線を1から学び直していただく研修プログラムを受けてもらう。それを終えた時、お2人がどんな医師になっているか、私はそれを見たい」

「私は、こんなところで誇りを曲げたりしませんよ」

「それは、このプログラムを受けてからおっしゃってください。学ぶか、ご自分で別の道を選ぶか。決めるのは、お2人自身です。私は強制しません」

冷たく突き放すものでもなく、甘やかして許すものでもない。ただ選択肢だけを差し出して、誠一は口を閉じた。沙織は最後のプライドにすがるように顔を背けたまま動かない。だが、それまでずっと俯いていた由香が、ふいに肩を震わせて顔を上げた。

「私は……私はどうすればいいですか? 教えてください。理事長」

その声に、沙織が驚いたように隣を見た。誠一は初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「あなたの目には、まだ何かが残っているようだ」

「私、ずっと本当は……ちゃんと患者さんと向き合いたかったのに。いつの間にか、沙織の隣にいることばかり考えてて」

「分かりました。篠崎先生、明日からあなたには、別のメンターについてもらいます。篠崎先生のメンターには、神聖メディテック日本の渡辺課長を予定しています。医療機器の販売現場から、患者ニーズというものの基本を学び直していただきましょう」

「渡辺さん……あの、私が傷つけた人……」

「ええ、あなたが頭を下げるべき相手の1人です。学びはそこから始めるのが1番早い」

由香は涙を拭いながら、何度も深く頷いた。その隣で、沙織はまだ硬く口を結んだまま、誰とも目を合わせようとしない。プライドという名の最後の壁が、彼女の中でまだ崩れずに残っていた。

研修プログラムが始まって1か月が過ぎた。由香はメンターとなった渡辺について、医療機器の納入現場を回る日々を送っていた。最初の日、由香は待合室で深く頭を下げることから始めた。

「渡辺さん、本当に申し訳ありませんでした。私たちが流した嘘の評価で、あなたの20年を踏みにじってしまいました」

「頭を上げてください、篠崎先生。降格は撤回されました。もう過ぎたことです」

「でも、私……」

「謝罪は受け取ります。その上で、1つだけ。これからは、患者さんに向き合うチームとして、一緒に学びましょう。私もまだまだ学ぶ側ですから」

その日から由香の目に映る景色は、少しずつ変わっていった。渡辺が機器を1台納める度に、その先にどんな患者がいて、どんな不安を抱えているかを、丁寧に語って聞かせる。「業者」という仕事が、ただ物を売るのではなく、患者の暮らしを支えるためにあるのだと、由香はこの時初めて知った。

私、医者なのに。機械を売る人より、患者さんのことを考えていなかった。胸のうちに、苦い後悔が滲んだ。ある日の回診で、由香は受け持ちの高齢患者の前に、これまでとは違ってゆっくりと腰を下ろした。

「加減はいかがですか? 眠れていますか? 不安なこと、何でも聞かせてください」

「先生、今日は随分優しいんですね。前は忙しそうで、声もかけられなかったのに」

「すみませんでした。これからは、ちゃんとお話を聞かせてください」

患者のしわだらけの手が、由香の手をそっと握り返した。「ありがとう」と小さくこぼれたその一言が、由香の胸の奥でずっと固まっていた何かを溶かしていく。

一方、沙織は初日から誰とも目を合わせようとしなかった。プライドという最後の壁が、彼女を孤独にさせていた。ある日の昼下がり、誰もいない医局で、沙織は1人、退職届の用紙を前に座っていた。そこへ、由香が静かに入ってくる。

「何の用? 私を笑いに来たの?」

「沙織、私、思い出したの。私たちがどうして一緒に医者になりたかったのか」

「やめてよ。今更、青臭いこと」

「青臭くて、何が悪いの? 私、ずっと忘れてた。人を助けたくて、この道を選んだはずなのに。いつの間にか、肩書きとお金とプライドのことしか考えてなかった」

「……あなたは、私よりずっと優秀よ。だからこそ、もったいない。その腕を、患者さんのために使ってほしいの」

沙織は何も答えず、ただ握りしめた退職届の角が、くしゃりと折れた。その夜、1人病院に残った沙織は、自分の受け持ち患者のカルテを、初めて1枚ずつ丁寧に読み返していた。検査の数字の向こうに、生身の人間の暮らしがあることに、今頃になって気づかされながら。

季節が変わり始めた頃、誠一は理事長室で、田所から1枚の報告を受けていた。

「篠崎先生、変わりましたな。患者さんからの評判も、見違えるようです」

「ええ。あの人は、元々いいものを持っていた。それを思い出しただけです」

「北条先生は、まだ時間がかかりそうですが」

「いいですよ。プライドの高い人ほど、本当に変わった時は根が深い。焦らせる必要はありません」

それから数週間が経ったある朝、理事長室の扉が控えめにノックされた。入ってきたのは沙織だった。少し痩せた顔で、しかし、以前のような傲岸さはもうそこになかった。

「理事長、1つだけお話ししたいことがあって、まいりました」

「どうぞ」

「あの夜、月収10万だとおっしゃった。嘘ではないにしても、どうしてわざわざあんなことを?」

「それは、人がどう変わるか、それが見たかった。肩書きや収入を語った時、相手が自分にどう接するか。それで、その人の本当の姿が見えるものですから」

「私は……最低の姿をお見せしました。申し訳ございませんでした」

「ええ。ですから、こうして謝罪に来られた。それは、あなたの心が変わったからだと思います」

沙織は長く俯いたまま、やがて絞り出すように頭を下げた。プライドの城を、自らの手で崩した瞬間だった。

「でも、まあ、少しは……ですけどね。人は、すぐ変われない。相変わらず意地悪ですね」

「ええ、でも、私なりに改めて患者さんたちと向き合って、色々と気づけることはありました。おかげ様で」

「そうですか」

「渡辺さんにも、謝らせてください。それから、私が冷たくした患者さんたちにも。1からやり直したいんです」

「いつでもどうぞ。やり直すのに、遅すぎるということはありません。これからに期待していますよ」

窓の外では、季節外れの温かな日差しが白い廊下にゆっくりと差し込んでいた。月収10万円という、たった1つの嘘が暴いたのは、2人の女医の本性だった。だが今、その同じ言葉が、2人が自分自身を見つめ直す最初の鏡になっていた。

季節が一巡りした春の朝、武蔵の中央病院の理事長室で、誠一は襟元の桜のピンバッジにそっと指を触れた。亡き父が好んでいた、ささやかな印だった。正面の田所が笑みを浮かべて頭を下げた。

「理事長、改めておめでとうございます」

「ありがとうございます。父の残した言葉を、できる範囲で形にしていくだけですよ」

エントランス脇に新しく設けられたブースの前で、休憩中の渡辺がコーヒーを2つ抱えて誠一の隣に並んだ。名盤には、「宮本誠之助患者支援基金」と掘られている。

「お前、本当に基金まで作ったんだな。立派なもんだ」

「経済的な事情で必要な医療を受けられない患者さんたちを、グループの判断で支える仕組みだ。肩書きや収入で医療を測らない。そういう病院にしたかった」

「親父さんの遺言に対する、お前なりの答えってわけか」

「ああ。多分、これが俺なりの答えだ」

しばらく無言でコーヒーをすすってから、渡辺が少し照れたように声を落とした。

「あのさ、宮本。俺、篠崎さんと付き合うことになった。先週、向こうから告ってくれてな」

「おいおい、マジかよ」

「やっぱ驚くよな」

「いや、あの一件以来、彼女と一緒に仕事してたら、なんか……こう、いいものもたくさん見えてきちゃってな」

「いい話じゃないか。あの人は、ちゃんと自分の足で立ち直ったからな。お前が支えてやってくれ」

「ああ。あの時お前が動いてくれなかったら、俺も腐ってたし、彼女も気づけなかった。改めて、礼を言う」

由香は今、患者の声に耳を傾ける医師として現場に立っている。そして沙織もまた、あの日を境に、1枚ずつカルテを読み込み、患者の名を覚え、ゆっくりとだが確かに変わり始めていた。プライドではなく、目の前の1人のために手を動かす。その当たり前を、彼女は今学び直している。

午後の回診で3階の廊下を歩く誠一に、長椅子の年配の患者たちが嬉しそうに会釈を返してくる。あの冷たかった廊下に、今は穏やかな空気が流れていた。窓辺で足を止めた誠一は、外の桜を見上げ、誰にも聞こえない声で、そっと語りかける。

親父。あんたの言いたかったこと、俺なりに守れたと思うよ。人を肩書きで測らない。それだけのことが、こんなにも難しくて、こんなにも大事だった。

桜の花びらが1枚、窓の外を静かに横切っていった。人の値打ちは、月収でも肩書きでも、飾りでもない。目の前の相手を、ただ1人の人間として見られるか。その一点に、全ては宿るのかもしれない。

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