「遺産は全部、あけみさんに渡すわ」
義母のかず子は私の顔も見ずに言った。隣では義弟の嫁であるあけみさんが、勝ち誇ったように口元を緩めている。
「え、聞こえなかった?この家も、残ったお金も、全部よ。それと、今日から私がお母さんと一緒に暮らします」
あけみさんは私に向かって微笑んだ。
「だから、さち子さん。早く出て行ってくださいね」
私は黙って二人を見つめた。十七年間、食事を作り、入浴を手伝い、病院へ付き添い、夜中に呼ばれれば起きてきた。その私に向かって、出て行けと言うのか。
「わかりました」
私がそう答えると、あけみさんが鼻で笑った。
「意外とあっさりなんですね。もっと泣いて、『介護してきたのに』って恩着せがましく言うのかと思いました」
私は唇を噛んだ。悲しかったからではない。笑いそうになったからだ。
「さち子さん、震えてますよ。そんなにショックだったんですか?」
「いいえ」
私は荷物を取りに立ち上がり、最後に義母へ言った。
「お母さん。本当にそれでいいんですね」
「しつこいわね。早く出ていって」
「わかりました」
私は笑顔で頷いた。
「では、今日から私がしてきたことも全部、あけみさんにお願いしますね」
二人はその言葉の意味を、まだ分かっていなかった。一ヶ月後、義母から何度も電話がかかってくることになるとも知らずに。
私の名前はさち子。五十二歳。夫の浩司と大学生の娘のみ咲がいる。義母のかず子と同居を始めたのは十七年前のことだった。
ある日、かず子が自宅の階段から転落した。命は助かったが、足に後遺症が残り、車椅子での生活になった。当時、義母は一人暮らし。義弟の優太は建築関係の会社に勤めており、実家から職場までは遠かった。
「母さんを一人にはできない」
浩司が悩んでいるのを見て、私から提案した。
「私たちが一緒に暮らそうか」
「さち子、本当にいいのか?」
「私は在宅で仕事をしてるし、介護の経験も少しあるから」
私は昔、祖母の介護を手伝ったことがあった。介護は大変だ。でも、家族が互いに感謝し、無理をさせないよう支え合えば続けられる。そう思っていた。
古かった義実家は、車椅子でも暮らせるよう大規模なリフォームをした。段差をなくし、廊下を広げ、浴室にも手すりをつけた。費用の大部分は浩司と私が負担した。その際、今後の管理や支払いの都合もあり、家の名義は浩司にした。家具や家電も私たちが新しく買い揃えた。
そしてかず子が退院し、同居生活が始まった。
最初の頃、私は安心していた。この程度なら仕事と両立できそうだと。
甘かった。
私は在宅でアクセサリーや小物を作るハンドメイド作家をしている。注文が入れば納期がある。趣味ではない。仕事だ。でも、かず子にとっては違った。
「さち子さん、お茶」
「今仕事中なので、少し待ってもらえますか?」
「家にいるんでしょう。すぐ持ってきなさい」
ある日、私をわざと部屋から呼び出し、戻ると納品直前だった作品が机の上で壊されていた。
「お母さん、何をしたんですか?」
「邪魔だったから片付けただけよ」
「これは商品です」
「そんな子供の工作みたいなものが」
頭に血が登った。それでも私は介護を放り出しはしなかった。浩司は何度も謝ってくれた。
「さち子、本当にごめん。母さんには俺から言う」
そしてかず子にも注意してくれた。
「さち子の仕事を邪魔するな。自分でできることまで頼むな」
み咲も小さい頃から私を見ていた。
「おばあちゃん、ママは仕事してるだけでしょう?」
幼い娘に言われるとかず子は不機嫌そうに黙った。私は浩司とみ咲が味方でいてくれたから続けられたのだと思う。
そんな中、義弟の優太が結婚した。相手があけみさんだ。
「初めまして、あけみです。よろしくお願いします」
いつも笑顔で、愛想がいい。かず子は初対面からあけみさんを気に入った。私たちが結婚した時には「勝手にすれば」だったかず子が、
「優太のお嫁さんなら安心だわ。早く孫の顔も見たい」
と大喜びだった。浩司は複雑そうだった。義母は昔から、なぜか優太だけを甘やかしていたからだ。
やがて優太夫婦には蒼太が生まれた。ところが、優太が長期の海外出張へ行くことになると、あけみさんは頻繁に蒼太を連れてきた。
「ちょっとお願いします。今日は仕事があるんです」
「私はお母さんに頼んでるんですけど」
かず子は「可愛い孫なんだから、私が見るわよ」と簡単に引き受ける。でも、実際に面倒を見るのは私だった。泣けば私。食事も私。トイレも私。かず子はしばらく相手をすると「疲れたわ」と自分の部屋へ戻ってしまう。
最初は腹が立った。でも、蒼太に罪はない。小さな蒼太は次第に私の仕事部屋へ来るようになった。
「さち子おばさん、何作ってるの?」
「イヤリングよ」
「僕もやりたい」
「じゃあ、このビーズを並べてみる?」
蒼太は夢中になった。その姿を見ていると、追い返すことなどできなかった。
年月が流れ、蒼太は高校生になった。あけみさんも以前ほど子育てに手がかからなくなったのか、頻繁に我が家へ来るようになった。義母の話し相手になり、優太や蒼太の写真を見せ、楽しそうに会話する。
私は仕事があるため、必要以上には混ざらなかった。すると義母は少しずつ言うようになった。
「あけみさんは優しいわ。話をちゃんと聞いてくれる。それに比べてさち子さんはいつも仕事」
私は反論しなかった。十七年間の介護より、月に数回の世間話の方が価値があるというなら、もう好きにすればいい。そう思い始めていた。
そんなある日、義母が病院から帰ると、私とあけみさんを呼んだ。
「検査で少し悪いところが見つかったの」
大きな病気ではなかった。しかしかず子は急に相続が心配になったらしい。そしてあの言葉を口にした。
「遺産は全部、あけみさんに渡す。さらに、これからはあけみさんたちと暮らす」
あけみさんも笑顔で言った。
「お母さんのことは私に任せてください。さち子さんはもう必要ありませんから」
その瞬間、私の中で何かが軽くなった。怒りではない。解放だった。
私はその日のうちに必要な荷物をまとめた。浩司へ連絡すると、すぐに迎えに来てくれた。
「母さんがそんなことを……」
浩司はしばらく黙り、やがて言った。
「じゃあ、俺も出る」
「え?」
「さち子を追い出した家に、俺だけ残る理由がない」
「でもお母さんは?」
「あけみさんが面倒を見るんだろう」
珍しく浩司の声には怒りが滲んでいた。娘のみ咲も「やっと出たんだね」と笑った。以前から「あんな人、放っておけばいい」と言われていたのだ。
私たちは浩司の実家の近くに新しい部屋を借りた。久しぶりの夫婦二人の生活。朝起きても誰にも呼ばれない。仕事中に「お茶」と叫ばれることもない。作品作りに集中できる。たったそれだけなのに、毎日が驚くほど穏やかだった。
そして一ヶ月後、義母から電話があった。一度切った。また鳴る。三度、四度。さすがに出ると、かず子の焦った声が聞こえた。
「さち子さん?」
「はい」
「なんでこんなことになってるのよ」
私は少し笑った。
「なんでって、私はそこにいないので分かりません。あけみさんが何もしないの?」
予想通りだった。私が出た直後、あけみさんは本当に優太と蒼太を連れて引っ越してきたらしい。ところが、食事は作らない。掃除もしない。もちろん介護もしない。
「私は話し相手になるって言っただけです」
そう言っているそうだ。優太も怒った。職場まで一時間以上かかり、毎朝早く出なければならない。蒼太も学校が遠くなり、不満を募らせていた。
さらに、家の家具や家電は、浩司が業者を手配してほとんど運び出した。電話口でかず子が叫ぶ。
「冷蔵庫まで持っていくなんて、非常識でしょう」
「私たちが買ったものですから」
「この家は私の家よ」
「違いますよ」
私は静かに答えた。
「リフォームした時に、浩司の名義になっています」
電話の向こうが静まった。
「え?」
「家具も家電も、私たち夫婦が買いました。それに、浩司から書類が届いていませんか?」
「届いたわよ。家賃を払えって、何なの?」
「住み続けるなら当然でしょう」
私は深く息を吐いた。
「お母さん、私は十七年間、お母さんのお金が欲しくて介護をしていたんじゃありません。家族だと思っていたからです。だから食事を作った。病院へ連れて行った。夜中でも起きた。仕事を止めてでも、必要な時はそばにいました」
義母は何も言わない。
「でも、家族じゃないと言ったのはお母さんです。あけみさんを選んで、私に出て行けと言いました。だったら、私は少しだけ言います。家族ではない人間に、家族の役目だけを求めないでください」
数日後、優太から浩司へ連絡があった。
「兄さん、悪かった。やっぱり母さんとの同居は無理だ」
私たち夫婦も呼ばれ、久しぶりにあの家へ行った。一ヶ月前とは空気がまるで違った。疲れきった優太。不満そうなあけみさん。げっそりした義母。そして蒼太。
優太が頭を下げた。
「さち子さん、戻ってきてもらえないかな?」
私が答える前に、浩司が言った。
「無理だ、兄さん。今まで十七年間、さち子に介護を任せてきた。お前も『ありがとう』と言うだけだったよな」
優太は黙った。
「あけみさんも同じだ。介護していない人間ほど、簡単に口を出す。母さんも、さち子がやってくれることを当然だと思いすぎた」
義母が小さな声で言った。
「さち子さん、悪かったわ。遺産だって、やっぱりあなたに」
「いりません」
私は即答した。
「私は自分で働いています。あなたの遺産をもらうために十七年間暮らしたわけではありません」
そして、あけみさんを見た。
「欲しいと言ったのは、あけみさんでしょう。なら、最後まで責任を持ってください」
あけみさんは目をそらした。
「私は……そんな大変だと思わなくて」
「でしょうね。見ているだけなら、介護は簡単に見えますから」
結局、かず子は施設へ入ることになった。最初は「嫌だ」と騒いだが、もう誰も同居を申し出なかった。優太夫婦も元の生活へ戻った。ただ、以前と同じ夫婦関係ではなくなったそうだ。
蒼太は時々、私のところへ遊びに来る。ある日、小さなケースを差し出してきた。
「さち子おばさん、これ」
中には手作りのイヤリングが入っていた。
「蒼太が作ったの?」
「うん。昔、教えてもらったから」
少し歪な形だった。でも、とても丁寧に作られていた。
「ありがとう。大切にするね」
蒼太は照れくさそうに笑った。私もまた笑った。
十七年間、私は義母のためにたくさんの時間を使った。後悔しているかと聞かれれば、少し違うと思う。私は家族を大切にしようとした。間違っていたのは、その善意を当然だと思った人たちだ。介護をやめて、私は家族を捨てたのではない。家族という言葉を使って、私だけに我慢を求める生活を終わらせたのだ。
そして今、誰にも邪魔されない仕事部屋で、好きな作品を作りながら思う。
大切にしてくれる人を、私も大切にする。これからは、それで十分だ。



