あれ、もう捨てたわよ。あんな安物のベビー服。
電話の向こうで義兄嫁の直美さんが笑った。手作りなんて貧乏臭いし、正直迷惑なのよね。
私は何も言わずにスマートフォンをテーブルへ置いた。通話はスピーカーになっている。私の目の前には義父の正斗さん、義母のかず子さん、そして義祖母の千代子さんがいた。三人とも黙って電話を聞いている。直美さんはそれに気づいていない。
みささん、次からはさ、もう少しまともなものにしてくれない?ベビーカーとかブランド物とかあるでしょう?
私は静かに尋ねた。
直美さん、その袋の中まで確認しましたか。
え?あのベビー服?
私は三人の顔を見てから続けた。
あれ、私からのプレゼントじゃありませんよ。
電話の向こうが静かになった。
私の名前はみさ。五十二歳。これは十二年前の出来事だ。当時四十歳だった私は、三年間付き合った直と結婚することになった。同じ頃、直の兄の達也さんも結婚を控えていた。相手は直美さん。私より二歳年上で、明るく華やかな女性だった。
みさちゃん、これから本当の姉妹みたいになるんだね。分からないことがあったら何でも聞いてね。
最初の直美さんは本当に優しかった。だから私は思った。義実家との付き合いもきっとうまくいく、と。
ところが、私が直と結婚した頃から直美さんの態度が少しずつ変わっていった。
新婚旅行から帰った日、私たちは義実家へお土産を持っていった。そこには八十歳を過ぎた千代子さんも一緒に暮らしていた。
みさちゃん、お帰り。
千代子さんの好きな粒あんのおまんじゅうです。
まあ、嬉しい。
千代子さんは私をとても可愛がってくれた。しばらくすると直美さんがやってきた。家族の前では、みささん、新婚旅行は楽しかった?と笑顔で話しかけてくる。
ところが帰り際、二人きりになると、私が渡したお土産を見て鼻で笑った。
こういうの、駅の売店でも売ってそうね。
ごめんなさい。
それから直美さんの声が急に低くなった。
もう私のこと、姉さんって呼ばないでくれる?あなたも結婚したんだから、少しは立場を考えてね。
私は驚いた。ついさっきまで家族の前では笑っていた人だ。何かを怒らせたのか、そう思った。でも違った。これが始まりだった。
義母のかず子さんの誕生日、家族で食事へ行った。直美さんからの贈り物は高級ブランドのバッグ。私は手作りのカバンを渡した。以前、かず子さんが「もっとおしゃれなカバンが欲しいわ」と言っていたのを覚えていたからだ。
まあ、素敵。
かず子さんはとても喜んでくれた。すると直美さんも、みささん、本当にね。今度、私にも教えて、と笑った。私はほっとした。
でもお手洗いへ行くと、直美さんが追いかけてきた。扉が閉まった瞬間、笑顔が消えた。
何、あれ?
え?
手作りのカバン?小学生じゃあるまいし、ダサすぎる。
言葉を失う私へ、直美さんは笑った。
一緒にいると、貧乏臭さが移りそう。
その日から私ははっきり分かった。直美さんには、家族へ見せる顔と私へ見せる顔がある。
直にも相談した。でも「兄貴の奥さんだし、なるべく揉めない方がいいよ。二人きりにならなきゃいいだろ」とだけ言われた。私も大事にしたくなかった。だから我慢した。
千代子さんが「みさちゃんが来ると楽しい」と言ってくれることが、義実家へ通い続ける理由だった。
そんな中、私は妊娠した。直と私は心から喜んだ。ただ年齢のこともあり、安定するまでは義家へ知らせないことにした。話したのは直と千代子さんだけ。
しかし残念ながら、その子を生むことはできなかった。私はひどく落ち込んだ。千代子さんは何も聞かず、私の手を握ってくれた。
泣きたい時は、泣けばいいんだよ。
その優しさに何度救われたか分からない。
しばらくして、今度は直美さんが妊娠した。しかも男の子。義実家へ報告に来た直美さんは、家族の前では幸せそうに笑っていた。
実は、子供が生まれたら皆さんと同居できたらと思っていて。さらに家族が増えるので、少しリフォームできれば、と控えめに提案した。
義父の正斗さんが言った。
そこまでしなくていいよ。自分たちの家を建てればいい。必要なら資金は援助するから。
直美さんは「そんな、悪いです」と遠慮していた。でもその直後、台所で二人になると、私の耳元で笑った。
聞いた?家のお金出してもらえるって。最初から同居なんてする気なかったのよ。
私はあ然とした。さらに直美さんは続けた。
これで新築の家、一流企業の夫、それに男の子。私の将来は安泰だわ。
そして千代子さんのいる部屋を指さした。
あのおばあさんと仲良くしたって、何の得もないのに。
さすがに私は言った。
そういう言い方、やめた方がいいですよ。
すると直美さんは私の顔へ近づいた。
神様って、ちゃんと見てるのね。
にやりと笑って。
だって、あなたより先に私に赤ちゃんをくれたんだから。
私は息を飲んだ。どうして、どうしてこの人が私のことを知っているの?
その日の帰り、千代子さんに呼ばれた。
みさちゃん、直美さんに何かされてるんじゃないのかい?
私は驚いた。千代子さんはずっと気づいていたそうだ。家族がいる時だけ直美さんの声が変わること。私が来ると妙にこちらを意識すること。そして、私の流産を知っていたのは、千代子さんとの会話を廊下で聞いていた可能性が高いこと。
私は初めて、これまで言われたことを全部話した。千代子さんは静かに私の手を握った。
よく我慢したね。でも、もう我慢しなくていい。
その言葉だけで、涙がこぼれた。
数ヶ月後、直美さんは無事に男の子を出産した。義家は初孫の誕生を心から喜んだ。正斗さんから「私は何か特別なお祝いを送りたい」と相談された。
そこで、赤ちゃん用の服を作ることになった。生地を選んだのはかず子さん。私はそれを縫い上げ、胸元には赤ちゃんの名前を刺繍した。最後の一針は正斗さんとかず子さんにも入れてもらった。
決して高価ではない。でも三人で「元気に育ってほしいね」と言いながら作った、世界に一つだけの服だった。私は手紙を添えて、直美さんの実家へ送った。
ところが一週間経っても連絡がなかった。そこで私は義家から電話をかけた。正斗さん、かず子さん、千代子さん、三人がいる前で。
あんな安物のベビー服、とっくに捨てたわよ。
電話口で直美さんは笑った。
手作りなんて貧乏臭いし。次はもっとまともなものにして。
私はスピーカーへ切り替えた。
直美さん、その袋の中まで確認しましたか。
してないけど。
そうですか。私は続けた。
あれ、私からのプレゼントじゃありませんよ。
え?
作ったのは私です。でも、お願いしたのは正斗さんです。
電話の向こうが静まった。
生地を選んだのはかず子さん。赤ちゃんの名前を刺繍したのも、三人でやりました。そのこと、手紙にも書いてあります。
嘘。
直美さんの声が震えた。その横でかず子さんが顔を伏せた。正斗さんは何も言わなかった。
一番悲しそうだったのは、怒っている人ではなかった。黙っている人だった。
電話口で直美さんが慌て始めた。
違うの。母が間違えて捨てたみたいで。
私は言った。
さっき、自分で捨てたって言いましたよ。
沈黙。
みささん。
突然、声が優しくなった。
お願い、もう一度だけ同じ服を作ってくれない?
あまりの変わりように、私は笑いそうになった。
分かりました。
でも、はっきり言った。
正斗さんとかず子さんの気持ちのためです。直美さんのためではありません。
一ヶ月後、直美さんは赤ちゃんを連れて義実家へ来た。作り直した服を着せて。
ほら、ぴったりでしょ。
と笑っている。まるで何もなかったかのように。
やがて千代子さんが「私にも抱かせてもらおうかね」と手を伸ばした。その瞬間、直美さんが反射的にその手を払った。
汚い手で触らないで。
部屋が凍りついた。直美さん自身も、自分が何を言ったのか気づいたのだろう。
違うんです。そういう意味じゃ……
千代子さんは静かに笑った。
いいんだよ。
そして訪ねた。
直美さん、そんなにこの家が好きなら、本当に一緒に暮らすかい?
え?
前に同居したいって言ってたんだろ?
直美さんの顔が引きつった。
それは……何か困るのかい?
十秒ほどの沈黙。誰も助けなかった。
ついに直美さんは「本当は、同居するつもりなんてありませんでした」と認めた。義家から家の資金を出してもらうためだったことも。
千代子さんは頷いた。
そうかい。私は得にならない人間だから、仲良くする必要もなかったんだね。
直美さんが青ざめた。あの言葉まで知られているとは思わなかったのだろう。
そこで初めて達也さんが口を開いた。
直美。
低い声だった。
みささんに謝れ。俺たちは家族へ嘘をついた。みささんを影で傷つけた。流産した人間を笑った。俺たちが気持ちを込めた服を、中も見ずに捨てた。
達也さんは妻をまっすぐ見た。
誰もお前を悪者にしてない。お前が隠してたものが、全部見えただけだ。
直美さんは何も言えなかった。
千代子さんが最後に言った。
直美さん、もうこの家に来なくていいよ。
その後、達也夫婦は別居し、時間をかけて話し合った末に離婚した。詳しい事情を私は追わなかった。もう十分だったからだ。
それから十二年。私は五十二歳になった。直との間には二人の娘がいる。さと、ひまり。二人とも千代子さんが考えてくれた名前だ。
「美しく咲くって書いてみな。いい名前がいいね」と笑っていた。
今年、千代子さんは九十二歳。今も元気だ。縁側に座り、娘たちが庭で遊ぶ姿を眺めている。
千代子さん、見て。
さとが泥で作ったお団子を差し出す。
はい、どうぞ。
千代子さんは受け取り、「まあ、美味しそうだね」と笑った。
その顔を見ながら私は思う。
直美さんはいつも人を見ていた。この人と仲良くすれば得か。この人には媚びた方がいいか。この人なら傷つけても困らないか。
でも家族は、損得で選ぶものではない。
私が千代子さんを大切にしたのも、何かをもらいたかったからではない。ただ大好きだったからだ。
だから今も、私たちのそばには千代子さんの笑顔がある。
人によって顔を変えれば、いつか本当の顔は見つかる。けれど誰にも見られていなくても、大切な人を大切にしていれば、最後に残るものは案外そういう関係なのかもしれない。



