「ははは、中卒野郎の嫁なんてどうせブスだろ」。その言葉が披露宴会場に響いた瞬間、空気が凍りついた。私はその場にいた一人として、あまりの傲慢さに言葉を失っていた。結婚式の主役は、倉庫で黙々と働く派遣の不動さん。そして嫌味を浴びせたのは、大口取引先の御曹司である営業課長の木島だった。誰も止められない中、入場曲が流れ、扉が開く。スポットライトの先に立っていたのは、息を飲むほど美しい花嫁だった。木島…

「ははは、中卒野郎の嫁なんてどうせブスだろ」。その言葉が披露宴会場に響いた瞬間、空気が凍りついた。私はその場にいた一人として、あまりの傲慢さに言葉を失っていた。結婚式の主役は、倉庫で黙々と働く派遣の不動さん。そして嫌味を浴びせたのは、大口取引先の御曹司である営業課長の木島だった。誰も止められない中、入場曲が流れ、扉が開く。スポットライトの先に立っていたのは、息を飲むほど美しい花嫁だった。木島...

木島孝志はグラスを片手に、声を上げて笑った。物流会社セントラルロジスティクスの営業課長であり、実家が大口取引先の木島運送ということもあって、この場で誰も逆らえる者はいなかった。

「ははは、中卒野郎の嫁なんてどうせブスだろ。結婚式の披露宴に出てくるのが楽しみだわ」

周囲の出席者が凍りつく。誰も彼を止められない。木島はひとりで得意げに笑い続けた。

その時、入場曲が流れ始めた。会場の照明がゆっくりと落ち、スポットライトが扉の前に集まる。やがて扉が開き、会場の全員が息を飲んだ。

扉の向こうに立っていたのは、圧倒的なオーラをまとった一人の女性だった。完璧に整えられたヘアスタイル。隙のないドレス姿。木島の手からグラスが滑り落ちた。ガシャンと音を立てて割れる。

女性は花道をまっすぐ歩き、木島の前で足を止めた。そして、にっこりと微笑んだ。

「どうも、ブスです」

「う、嘘だろ……お前、なんで……」

木島の顔が完全に強張った。しかしこの男はまだ知らなかった。この結婚式が、自分にとって人生最悪の日になろうとしていることを。

すべては、あの小さな定食屋から始まった。

早朝の冬の空はまだ暗く、吐く息が白い。くたびれた作業着の男が、古い軽自動車のハンドルを握っていた。不動太地、三十三歳。カーラジオから天気予報が小さく流れている。

向かう先は物流会社セントラルロジスティクスの第三倉庫。倉庫群の中でも最も忙しく、最も人手が足りない現場だった。

倉庫に到着した太地は、黙々と荷物の仕分けを始める。フォークリフトの音、ベルトコンベアの唸り。額に汗が滲んでも手は止めない。昼休み、他の作業員たちが自販機のコーヒーで一服する中、太地はベンチの端で二百九十八円の弁当を静かに食べていた。

「あの人、変わってますよね。どこの部署なんですか?」

「さあ、派遣って聞いてるけど、いろんな現場を回ってるらしいよ」

誰も太地のことを深く知らない。気づけばいつの間にかそこにいて、気づけばいつの間にかいなくなっている。存在感の薄い地味な男。それがこの倉庫での共通認識だった。

しかし太地には、現場に立ち続ける理由があった。中学を出てすぐに働き始め、工場、倉庫、配送を点々としながら独学でプログラミングを学んだ。眠れない夜を削って書き続けたコードが、やがて一つのシステムになった。現場の非を、太地は誰よりも知っていた。どこに無駄があるか、どこで人が疲弊するか。数字じゃわからない。体で覚えるしかない。

午後の作業中、フォークリフトを運転していた若い作業員が操作を誤って、荷崩れを起こしかけた。

「うわ、すみません!」

「大丈夫。慌てなくていい。一回降りて、フォークの角度を見直してみな」

「は? はい……」

「この棚、奥行きがあるから、いつもより五センチ手前で止めるといい」

「あ、本当だ。すごい楽になりました」

「うん。よかった」

太地はそう言って、また自分の作業に戻った。若い作業員が、その背中を不思議そうに見ていた。

「あの人、本当に派遣の人だよなあ……」

会議室の椅子に座って部下に指示を出すだけの人間に、現場の人間はついてこない。それを太地は自分の体で知っていた。誰もやりたがらない清掃や棚の整理まで毎日こなす。太地にとってそれは、自分が何者であるかを忘れないための儀式のようなものだった。

その日の午後、倉庫に一台の黒い高級車が滑り込んできた。

「おい、ライン出荷遅れてんだろう。なんで昼までに終わってねえんだ」

「すみません。あの、人手が足りなくて……」

「言い訳すんな。お前らの段取りが悪いんだろう」

営業課長、木島孝志。出荷先であるこの倉庫を、我が物顔で振る舞う男だった。上等なスーツ、磨き上げた革靴。現場とは明らかに違う空気をまとっていた。

「木島さん、おはようございます」

「ああ、所長。三番ライン、誰が回してんの?」

「あ、えっと、今日は若い作業員が担当しております」

「遅れてんじゃねえか。ベテランにやらせて、ちゃんと管理しろよ」

「はい。しかし人手不足もあり、解消するまで少し時間が……」

「なんか文句でもあんのか」

「はい。すみません」

所長でさえ、木島には逆らえない。木島の実家、木島運送はセントラルロジスティクスの大口取引先。万一機嫌を損ねれば、取引に影響が出ないとも限らない。木島はそれを分かった上で、自分の立場を利用していた。

その時、倉庫の奥で黙々とダンボールを積む太地の姿が目に入った。

「おい、お前。おい。お前、どこの部署だ? 見ない顔だな」

「派遣です。いろんな現場を回ってます」

「派遣ね。学歴は?」

「中卒です」

木島の口元に笑みが浮かんだ。

「ふうん。中卒の派遣か。よく入れたな。いや、中卒だから派遣なのか。俺は木島。営業課長だ。ああ、お前に名前を覚えてもらっても意味ないか。派遣でしかも中卒じゃな」

「はい」

「『はい』って。何も面白くねえやつ」

木島はそれだけ言うと、太地に背を向けて歩き去った。靴のコツコツという音が倉庫に大きく響いていた。

「大丈夫すか、不動さん?」

「うん。別に」

「あの人、マジで容赦ねえから。不動さん、あんなこと言われてよく我慢できますね」

「怒っても、何も変わらないからな」

「先月もパートのおばちゃん、あの人に怒鳴られて辞めちゃったし。所長も何も言えなくて」

「そうなのか」

「マジでやばいっすよ、あの人。誰も逆らえなくて」

「うん」

太地はダンボールを一つ抱え、ゆっくりと歩き出した。その表情には怒りはなかった。かと言って、諦めでもない。不思議なほど静かだった。

太地には見えていた。所長がなぜ何も言えないのか。なぜパート従業員が辞めるまで追い詰められたのか。数字の上では見えない歪みが、ここにある。それを確かめるために、自分はここにいる。

それ以降、木島は太地を見かけるたびに声をかけるようになった。

「おい、中卒。その積み方じゃ効率悪いだろう。高校も出てないと、こういうのもわかんねえの」

またある日は、こう言った。

「派遣の分際で休憩長いんだよ。お前の代わりなんていくらでもいるんだからな。俺はいずれ木島運送の社長になる男だ。お前みたいな底辺とは違うんだよ」

いつもそうだった。木島は自分より下だと思った人間に容赦しない。学歴、肩書き、家柄。それが木島にとっての物差しだった。太地はその度に「はい、すみません」と短く答え、黙って仕事に戻った。言い返すことは一度もなかった。

ある日の昼休み、同僚が太地にこっそり耳打ちした。

「不動さん、あの人に何言われても耐えるの、辛いっすよね。俺ならマジ無理っすよ」

「そうかな。とりあえずは、大丈夫ってとこかな」

「大丈夫って? あの人ますますひどくなってるじゃないですか。昨日も若い新人が研修中にミスしたって、人前で三十分くらい怒鳴られて」

「三十分も?」

「マジっすよ。あの新人、トイレで泣いてたって。次誰が標的になるかわかんないっすよ」

「そうか」

太地は弁当の蓋を閉じ、空を見上げた。何を考えているのか、その表情からは読み取れなかった。

その夜、太地はアパートの机に向かい、ノートを開いた。日付、木島の発言、その場にいた人間、全員の名前。パート従業員が辞めた経緯。所長が目を背けている理由。取引上の事情。一つ一つ、丁寧に書き込んでいく。

「やはり、このままにはしておけないな」

ただ、記録だけが静かに積み重なっていた。

その日の仕事帰り、いつもとは違う道に迷い込んだ太地は、見覚えのある商店街にたどり着いた。子供の頃、母に手を引かれて歩いた道だった。シャッターの閉まった店が増えている。しかしその一角に、小さな暖簾が揺れていた。

柏木食堂。母がここで働いていた。母が亡くなってから、もう二十年以上足を踏み入れていなかった。この日はなぜか呼ばれるように足が向き、少し戸惑いつつも暖簾をくぐった。

「いらっしゃいませ」

ホールに立っていたのは、分厚いメガネをかけた地味な女性だった。声は少しだけ緊張していて、盆を持つ手がかすかに震えていた。

「ここで、前に……おばあさんがやってた店ですよね」

「ああ、祖母ですか。今、入院していて」

「そうですか」

太地は何か言いかけて、口をつぐんだ。一瞬迷ったが、知らない店員に「母がここで働いていたんです」とは言えなかった。

「昔、子供の頃にここへ来てたんです」

「そうなんですか。祖母が聞いたら喜びます」

女性はそう言って、少しだけ笑った。どこか慣れない、不器用な笑顔だった。

壁のメニューに一つの文字を見つけた。肉じゃが定食、六百五十円。

「肉じゃがをお願いします」

「はい。少々お待ちください」

しばらくして、肉じゃが定食が運ばれてきた。太地は箸を取り、じゃがいもを一つ口に運んだ。

その瞬間、太地の箸が止まった。甘すぎず、辛すぎず。出汁が芯まで染みて、体に染み込む優しい味わい。これは……知っている。この味を。母が作ってくれた肉じゃがと、全く同じ味だった。喉の奥がぎゅっと閉まる。目を閉じると、台所に立つ母の後ろ姿が見えた気がした。

「ごちそうさまでした」

「あ、ありがとうございます。お口に合いましたか?」

「はい。とても」

本当は聞きたかった。この肉じゃがは、誰のレシピですか、と。しかし聞けなかった。もし、ただの偶然だったら。その方が怖かった。しかし忘れることのできない優しい味なのは、確かだった。

それから太地は何度もこの店を訪れるようになった。ある雨の日、傘を持たずに店を出た太地を、女性が慌てて追いかけてきた。

「あの、お客さん。傘、これを使ってください。また今度返してもらえればいいので」

差し出されたのは、花柄のビニール傘だった。太地はその笑顔を見て、自分はもう肉じゃがだけを食べに来ているわけではないことに気づき始めていた。

それから少しずつ、二人は言葉を交わすようになり、やがて太地は女性に交際を申し込んだ。彼女の名前は、柏木さやか。

「私でいいの?」

「ええ。あなたがいいんです」

「私、不器用だし、地味だし、取り柄もないけど」

「それでいい。そのままのさやかさんがいい」

さやかのメガネの奥の瞳に、涙が光った。

二人の交際は穏やかだった。さやかは太地の過去を深く聞くことはなかった。太地もまた、さやかの過去を無理に聞こうとはしなかった。ただ、さやかは時々不思議なことを言った。

「パリのパン屋さんってね、朝三時からバケット焼いてる店があってね。焼きたてを食べられるの」

「へえ。美味しそうだな。行ったことあるのか?」

「うん。昔ちょっとね、仕事で」

さやかは少し照れたように言って、話を変えた。太地はそれ以上聞かなかった。

ある夜、閉店後の静かな店内で、二人はカウンターに並んでお茶を飲んでいた。

「ああ、そうだ。太君、もしよかったらスマホの待ち受け、これにしていいよ」

差し出されたスマホには、さやか自身が映っていた。分厚いメガネ、エプロン姿。髪は無造作に結んで、顔の半分が前髪で隠れている。

「これ、自分で撮ったのか?」

「うん。これがいいと思って」

「なんでもっと表情がはっきりわかるのに……」

「うーん。ちゃんと映った写真だとね、なんか落ち着かないっていうか」

太地は少しの間、さやかの顔を見た。何か事情があるのだろうと思った。でも聞かなかった。聞かれたくないことは聞かない。それが二人の暗黙のルールだった。

「わかった。これにする」

「ふふ。ありがとう」

太地にとっては、普段通りのさやかの顔が、世界で一番見ていて落ち着く顔だった。

交際から半年。太地はさやかにプロポーズした。

「さやか、俺と結婚してくれないか?」

「うん」

二人は定食屋の閉店後に、いつものカウンターに並んで座っていた。特別な場所ではなかった。小さな指輪だった。でも、そこで出会った二人にとっては、一番ふさわしい場所のように思えた。

それから数日後。昼休みの倉庫の休憩室で、太地は仲のいい同僚に少し照れ臭そうに報告した。

「実は、結婚することになって」

「え、マジっすか? おめでとうございます。不動さんに彼女いたんだ。全然知らなかった」

「まあ、あんまり言ってなかったから」

ちょうどその時、休憩室に所長が通りかかった。

「おお、不動君、結婚するのか。おめでとう」

「ありがとうございます」

その会話を、廊下を歩いていた木島が聞きつけた。

「へえ。中卒の派遣が結婚ね」

その一言で、休憩室の空気が一瞬で変わった。

「相手はどんな女だよ。見せろ」

「関係ないでしょう」

「なんだよ。もったいぶって。いいから見せろって」

木島は太地の横に回り込み、スマホの画面を覗き込んだ。ロック画面にはさやかの写真が設定されている。分厚いメガネ、ノーメイク。前髪で半分隠れた顔。エプロン姿で、定食屋のカウンターで少しだけ笑っているあの不器用な笑顔。

「うわ、何これ? ブッサ。なんだこのデカメガネ。顔まともに映ってねえじゃん。よっぽどブスだから前髪で隠してんだろう。中卒にはブスがお似合いか。こりゃ底辺夫婦爆誕だな」

周囲の作業員が目を背ける。誰も何も言えなかった。木島は笑いながら自分のスマホを取り出した。

「ちょっと待って。これ撮っていい? 現場のグループラインに送ったらウケるじゃん」

「やめてください」

「え、なんで? 別にいいだろ。結婚報告しなきゃなんねえじゃねえの」

初めて感情を露わにした太地に、木島は面白がるように続けた。

「へえ、いつも無口なお前が。やっぱ嫁のことになると、さすがに怒ったか。つーかさ、この女、本当に結婚する気あんの? 中卒の派遣と結婚して、この先どうすんだろうな。まあ、釣り合いは取れてるか。ブスと底辺」

「ははは。笑いすぎて腹いてえわ。なあ、みんな」

同僚の一人が、口を開きかけた。

「木島さん。それは……」

「何? お前も何か言いたいの? 笑えっての?」

「いや……」

同僚はそれ以上何も言えずに、口をつぐんだ。

「まあいいや。なあ、不動。結婚式やるんだろう? 俺も行ってやるよ。そのブスの花嫁、見てみたいわ」

「木島さん、いいだろ。部下の結婚式に顔出すくらい。それとも、来ちゃまずい理由でもあんの?」

所長が太地に申し訳なさそうに目配せした。木島運送の御曹司に「来るな」とは、誰も言えない。太地はしばらく黙っていた。来るなと言うのは簡単だった。だが、それでは何も変わらない。この男はこの先も、同じような悪態を繰り返すだろう。別の現場で、別の誰かに対して。

太地はゆっくりと顔を上げた。

「どうぞ」

「はっ。太っ腹じゃん。楽しみにしてるわ。どうせブスだろうけど」

木島はそう言い残して、笑いながら休憩室を出ていった。休憩室に沈黙が落ちる。

「すみません。止められなくて」

「いいよ。気持ちが嬉しかった。ありがとう」

太地は静かにスマホをポケットにしまった。ロック画面のさやかが、そこで小さく笑っていた。

その夜、太地のアパート。太地は木島のことをさやかに話すべきか迷っていた。黙っていることもできた。でも結婚式に来る以上、さやかに伝えないわけにはいかない。

「実は、職場にちょっと面倒な先輩がいてさ」

「どう? どんな人?」

「結婚式に来ることになったんだけど、そいつが写真見てさ。君のことを悪く言ったんだ」

「悪くって……その、なんて言うか……」

太地は言葉を濁した。言えない。あんなことを言われたなんて、言いたくなかった。

「ブスって言われたんでしょう」

「え? なんで笑えるんだよ」

「太君の待ち受け画面、あれ自分で言うのもなんだけど、うん。割と地味だわ。顔も見えないし」

「さやか……」

「言いたい人には言わせておけばいいの。私は太君がいてくれれば、それでいいの」

さやかはけらけら笑いながら、お茶を注いでいる。太地はその横顔を見て、少しだけ救われた気がした。同時に思った。この人の強さは、どこから来るのだろう、と。

それから数日後の夜。二人は招待客のリストを作っていた。

「この前言ってた面倒な先輩ってのが、この人。木島孝志」

さやかの手が、ほんの一瞬だけ止まった。

「孝志……」

「知ってるのか?」

「うん。なんか昔、同じような名前の人がいたような、いなかったような」

「昔?」

「うん。気のせい。なんでもない」

さやかはそう言って、笑顔でリスト作りを続けた。

その夜、太地は外に出てスマホを手に取った。画面をしばらく見つめた後、一つの番号に電話をかけた。

「俺だ。夜分にすまない」

「いえ、社長。何かありましたか?」

「セントラルの第三倉庫に出向している木島運送の木島孝志。調べて、ある資料をまとめておいてくれ」

「あの噂の方ですね。承知しております」

「あと、木島運送の社長、木島孝志の父親と近いうちに会いたい。日程を調整してくれ」

「結婚式の前にですか?」

「いや。式の後でいい」

少し間があった。

「ついにお気持ちが固まりましたか?」

「うん。俺がこの会社の現場に立ったのは、こういう人間を見つけるためでもあった。出向の手続き、それから取引の見直し。式の後すぐに動けるように準備しておいてくれ」

「かしこまりました」

「それと、藤堂さん。もう一つ大事なことが」

「何でしょう?」

「結婚式、来てもらえますか?」

「もちろん。喜んで」

「ありがとうございます」

太地は電話を切った。奥の部屋から、さやかの静かな寝息が聞こえてくる。太地はもう一度ロック画面のさやかを見つめながら、心に決めた。この人を傷つけた男には、ちゃんと現実を見せる。

同じ夜。太地が寝静まった後、さやかは台所で湯呑みにお茶を注いでいた。湯気がふわりと立ち上がる。

木島孝志。頭の中で、その名前が繰り返されていた。忘れていたわけじゃない。ただ、思い出す価値もない名前だった。自分がブスと笑われたことは、何とも思わない。木島という男に何を言われようと、何の感情も湧かない。

でも、太地が笑われたこと。自分の大事な人が、ニヤニヤと見下されていること。それだけは許せなかった。

さやかは湯呑みを置き、ふっと小さく息をついた。

「ごめんね、太君。結婚式の日、一回だけ私のわがまま聞いてもらうね」

何のわがままか。誰に向けたものか。それはさやかにしかわからない。湯呑みの湯気が、ゆっくりと天井に消えていった。

結婚式当日。ホテルの披露宴会場。白いクロスのかかった丸テーブル。花で飾られた高砂。柔らかな照明。小さくても、温かみのある会場だった。出席者はそれほど多くない。太地の同僚たち、定食屋の常連客、さやかの数少ない友人。

その中に、木島がいた。木島はグラスを傾けながら、余裕たっぷりに周囲を見回していた。上等なスーツ、磨き上げた革靴。いやに堂々としていた。

「ははは。どんなのが出てくるか、今から楽しみだわ」

隣に座った同僚が居心地悪そうに目を伏せている。木島だけが笑っていた。

やがて司会者が、花嫁の入場をアナウンスした。

「それでは、新婦の入場です」

会場の照明がゆっくりと落ちる。スポットライトが扉の前に集まり、ゆっくりと扉が開いた。

その瞬間、会場が息を飲んだ。

扉の向こうに立っていたのは、圧倒的なオーラをまとった一人の女性だった。ウェディングドレスに身を包んだその姿は、非の打ち所のない完璧なメイクのさやかだった。すらりと伸びた背筋、隙のないヘアスタイル。そして、分厚いメガネの奥に隠されていた、息を飲むほどの美貌。それはもう、定食屋のさやかではなかった。

花道の向こうで、太地が目を見開いた。

「さ、さやか……知らなかった」

いつも分厚いメガネの奥で不器用に笑っていたあのさやかが、こんなにも美しい姿で自分の前に立っている。ウェディングドレスを着たからではない。何かが決定的に違った。これまで自分が知っていたさやかとは、まるで別の人間がそこに立っているようだった。

会場がざわめく中、木島だけが凍りついていた。ガシャン。木島の手からグラスが滑り落ち、シャンパンが白いクロスに広がる。

「う、嘘だろ……」

しかし木島には、その音が聞こえていなかった。

さやかは花道をゆっくりと歩いた。しかし高砂には向かわなかった。まっすぐ木島の前に歩み寄り、足を止めた。そして、にっこりと微笑んだ。

「どうも、ブスです。十五年ぶりですね、木島君」

木島の脳の奥で、何かが弾けた。

十五年前。放課後の校庭。サッカー部の声がしていた。告白の返事を聞くために、木島はある女性を呼び出した。いつも窓際の席で本を読んでいた、クラスで一番気になっていた女性だ。

「ごめんね、木島君。人を馬鹿にするようなことを言う人は、どうしても好きになれないの」

「あ? たったそれだけの理由で? 俺が御曹司だって知ってんだろう」

「そういうことよ。それに、家柄なんて関係ないわ」

セーラー服の裾が夕風に揺れた。木島はその背中を、ただ見ていることしかできなかった。その女性こそ、柏木さやかだったのだ。

その後、卒業と同時に姿を消した彼女が、パリコレのランウェイを歩くモデルだと知った時、木島はすぐにわかった。彼女だと。

そして現在。ウェディングドレスのさやかが、目の前に立っている。

「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ……」

木島の心の声が、何度も反芻された。この女があの前髪で顔半分隠れた写真の女? ブスだから隠してると笑った女が、さやか?

「お前……お前は……」

木島は震える声で、しかし早口でまくし立てた。

「俺は全部知ってる! 全部見てた! お前がパリで何をしてたか、どの雑誌に載ったか、全部!」

「雑誌……?」

「パリコレのトップモデル、さやか。ミラノでデビューして、各国の雑誌を飾った。シャネルもディオールも……ああ、俺のさやか!」

会場が完全に静まり返った。木島の声だけが響いている。出席者たちは顔を見合わせた。同僚たちは口を開けたまま固まっている。

親族席のおじいさんが、隣の女性にそっと耳打ちした。

「あの男、何か言うとるんじゃ。さやかちゃんがパリなんじゃ?」

「おじいちゃん、パリコレよ。パリコレ。たまにテレビで見るじゃない。モデルさんが歩くやつ。あれよ」

「ほう。なんじゃ、ようわからんけどすごいんかな」

太地が驚きを隠せないまま、静かにさやかを見た。さやかは小さく頷いた。本当のことだと。

木島は一方的にさやかに近づいた。

「なあ、さやか。なんでこんな男と結婚するんだ? 中卒の派遣だぞ。お前にはもっとふさわしい相手がいるだろう。俺は木島運送の御曹司だ。金も地位もある。お前が望むものは全部用意できる。今からでも遅くない」

会場の出席者たちが、信じられないものを見る目で木島を見つめていた。結婚式の最中に花嫁を口説いている。

さやかは一歩も動かなかった。

「木島君。高校の時、あなたを振った理由、覚えてる?」

「え?」

「人を馬鹿にする人は好きになれないって、言ったよね」

木島が言葉を失う。木島が振られたのは生まれて初めてで、それ以来誰にも負けたことがなかった。唯一振られた相手のセリフを、彼が忘れているはずはなかった。

「で、でも! こんなの男との生活で幸せになれるはずがないだろう! 君はあのさやかだよ! 絶対に不自由させないから!」

「へえ。十五年経っても、まだ同じことしてるんだね」

さやかの声は穏やかだった。怒ってもいない。責めてもいない。ただ静かに事実を告げていた。それが、かえって木島には堪えた。

「木島君はずっと人を肩書きで見てきた。学歴で、家柄で、見た目で。でもそれって、本当は自分に自信がないからじゃないの」

木島の口が開いたまま、閉じなかった。

さやかはゆっくりと太地の隣に歩み寄り、そっと手を取った。

「この人は確かに中卒よ。派遣で、ボロボロの軽自動車に乗ってる。でもね、彼の口から誰かの悪口を聞いたことは一度もなかった。私の経歴なんて気にしない。ありのままの私を愛してくれた。それだけで、十分なのよ」

「さやか……」

太地はさやかの手を、静かに握り返した。

木島の顔が大きく歪んだ。

「ふ、ふざけるな! お前はパリコレのトップモデルだぞ! それが中卒の派遣とありえねえだろう! どこまで行っても底辺は底辺なんだよ! 俺は木島運送の御曹司だぞ! こいつとは格が……」

木島がそう言いかけた、その時。

「もうよろしいのでは?」

静かな声が、会場に響いた。会場の全員が入口を振り向くと、一人の男が立っていた。仕立てのいいスーツ、銀縁のメガネ。品のある佇まい。会場の空気が一変した。

「な、なんだよ、お前は」

「失礼いたします。不動ホールディングス副社長の藤堂と申します」

「ふ、不動ホールディングス? あ、親……」

藤堂は太地に静かに視線を送った。それを確認して、太地は小さく頷いた。

「こちらにいらっしゃる藤堂太地さんは、弊社の代表取締役社長でございます」

会場が水を打ったように静まり返った。

「はあ……?」

「ご存知の通り、セントラルロジスティクスは弊社の子会社にあたります。つまり」

藤堂はメガネの奥から、静かに木島を見た。

「木島さん。あなたが今まで『中卒の派遣』と呼んでいた方は、あなたの会社の親会社のオーナーです」

木島の体が固まった。会場がざわめいた。

「え、社長? あの派遣の不動さんが……」

同僚たちが顔を見合わせる。さざ波のように、声が広がった。

「嘘だ。嘘だろ? こいつが、こいつが社長……」

太地は静かに立っていた。白いタキシードに身を包んだその姿は、あの倉庫でダンボールを積んでいた男とは同一人物とは思えないほど、凜としていた。

そして、もう一人。

「え? 太君が社長?!」

さやかも知らなかったのだ。太地はさやかに向き直った。

「すまない、さやか。本当は、もっと早く話すべきだった」

「いいえ。私もずっと隠してたから、お互い様ね」

さやかは泣き笑いの顔で、太地の手をぎゅっと握った。太地も、その手を離さなかった。

会場のどこからか拍手が起きた。一つ、また一つ。やがてそれは小さな会場いっぱいに広がった。その音の中で、木島はただ一人、立ち尽くしていた。

太地が木島に向き直った。会場は沈黙している。太地の声は静かだった。怒ることも、声を荒げることもなかった。

「木島さん。僕はこの会社の現場を、自分の足で回ってきた。あなたがどういう人間か、自分の目で見た。人を学歴で笑い、立場で踏みつける。毎日のように、それをずっと見ていた」

「う……」

「パート従業員を泣かせて、辞めさせた。所長も同僚も、誰も逆らえなかった。そして、彼女の——僕の妻の写真を見て笑った。それも、大勢の前で」

静かな声だった。しかしその言葉の一つ一つが、会場に確かに刻まれていった。太地は小さく息をつき、藤堂に視線を送った。

藤堂は革のフォルダーを開き、一枚の書面を取り出した。

「木島さん。ご報告があります。お父様、木島高志様より、本日朝お電話を頂戴しました。読み上げます。『孝志につきましては、本日付けで木島運送の後継者から外し、平社員として一から出直させる所存です』」

「お、親父が……後継者から外す……?」

「お父様はこうもおっしゃいました。『息子には、人の上に立つ資格がありませんでした』と」

「嘘だ。嘘だ、嘘だ……」

木島はその場に、崩れ落ちるように座り込んだ。

「もう一点。本日この会場での『中卒の派遣』『底辺』『ブス』などの発言は、全て会場内のカメラに記録されております。弊社の顧問弁護士に引き継ぎます。名誉毀損及び業務妨害での告訴も検討中です。過去にハラスメント被害に遭われた元パート従業員の方々からも、すでに複数の証言をいただいております」

「ま、待ってくれ。頼む。謝るから。謝るから、それだけは……」

藤堂は静かにフォルダーを閉じた。

「木島さん。本日は、ここまでにしましょう」

その時、会場の入口にもう一つの人影が現れた。白髪の、貫禄のある初老の男性。深く頭を下げたまま、ゆっくりと会場に足を踏み入れる。

木島運送社長、木島構造だった。

構造は息子には目もくれず、まっすぐ太地とさやかの前に進み出た。そして、深く頭を垂れた。

「不動社長、奥様。息子が本当に、本当に申し訳ございませんでした。私の育て方が間違っておりました。会社の名前を渡してやることだけが親の勤めだと思っておりました。中身を育てることを、怠っておりました。お恥ずかしい限りです」

静まり返った会場で、老人の声が震えていた。

「お、親父! やめてくれ! 俺は!」

「孝志。お前は明日から、うちの倉庫で一作業員として働いてもらう。ゼロからだ。給料も、新人社員と同じ額からだ」

「な……!」

「嫌なら出ていけ。木島の家からも、会社からも」

木島は口を開けたまま、声も出せなかった。構造はもう一度太地とさやかに深く頭を下げ、息子の腕を掴んで、ゆっくりと会場を後にした。

引きずられるように歩く木島の足元から、何かがぽとりと落ちた。名刺だった。「営業課長 木島孝志」と書かれたその名刺は、会場の床に裏返ったまま。もはや、誰にも拾われることはなかった。

会場の扉が静かに閉まる。やがて、親族席のおじいさんとおばあさんがゆっくりと立ち上がり、ぱちぱちと拍手を始めた。

「ええ、終わったか。ええ、白状の場だったわ」

それに釣られるように、一人、また一人と拍手が広がっていく。しかし、真実を知る者たちの間では、余興ではなかったことはわかっていた。

「不動さん。いえ、社長」

「いいよ。今まで通り、不動さんで」

「不動さん。あの、おめでとうございます」

「ありがとう」

太地は同僚たちに、静かに頭を下げた。拍手はしばらく鳴りやまなかった。その中で、さやかは太地の手をぎゅっと握っていた。太地も、その手を握り返した。

「ありがとう」

「こちらこそ」

ただ、互いの手の温もりだけが、確かにそこにあった。

後日。木島運送の本社倉庫。木島はボロボロの作業着姿で、フォークリフトの操作研修を受けていた。かつて自分が「中卒の派遣」と笑った、まさに同じ仕事だ。指導役は、二十歳そこそこの若い作業員だった。

「木島さん、フォークの角度、もうちょっと手前で止めて」

「は? はい」

「もう一回。ああ、だめだめ。なんで言われたことやらないんすか?」

「すみません」

革靴ではなく安全靴。上等のスーツではなく、油の染みた作業着。木島は額に滲む汗を、軍手の甲で拭った。

休憩時間。他の作業員たちが談笑する中、木島は一人、ベンチの端で二百九十八円のコンビニ弁当をかき込んでいた。その寂しい背中に、声をかける者はいなかった。

木島はブツブツとつぶやき続けていた。

「ふざけやがって……あの女、頭おかしいんだよ。あんな男選ぶとか。親父も親父だ。俺をこんなところに……」

かつて木島の周りに群がっていた取り巻きたちも、女性たちも、誰一人として連絡を寄越さなくなっていた。業界ではもう、噂が広がっていた。運輸の元御曹司が、自分のところの倉庫で平社員になっている、と。

それでも木島はつぶやき続ける。

「俺は悪くねえ。俺は、何も悪くねえんだ……」

冬の風が、灰色の空の下でゆっくりと吹いていた。

結婚式から数日後。太地とさやかは、病院の廊下を並んで歩いていた。

「おばあちゃん、太君に会いたがってたの。結婚の報告、ちゃんとしなきゃ」

「緊張するな……」

「大丈夫よ。おばあちゃんは優しい人だから」

「いや、そういう問題じゃなくて……」

さやかは不思議そうな顔をしたが、すでに病室の前についていた。二人は並んで、ドアをノックした。

白い病室のベッドに、小さな祖母・春が横になっている。顔色は悪くないが、体は随分と細くなっていた。さやかの顔を見た瞬間、春の顔がぱっと明るくなった。

「ああ、さやちゃん。来てくれたのかい?」

「おばあちゃん。具合はどう? 今日はね、紹介したい人がいるの。私、結婚したの。この人、不動太君」

太地がベッドの横で、深く頭を下げた。

「不動太地です」

「まあ。結婚。それはそれはおめでとう」

春は目を細めて太地を見た。そして、その顔がゆっくりと変わった。

「不動……太、太君。まさか、あの太君?」

春のしわだらけの手が、かすかに震えている。

「お久しぶりです。おばあちゃん」

「覚えてるのかい? 私のこと?」

「忘れるわけないです」

「え? 何? 二人、知り合いなの?」

春はゆっくりと言った。

「もう知り合いなんてもんじゃないよ。この子のお母さんはね、昔、うちの食堂で働いてくれていたんだ。優しい人でね。太君を一人で育てなきゃいけなかったから。太君はいっつもね、厨房の隅っこに座って、お母さんの背中を見てたの。大人しい子でね、絵を描いたり、本を読んだり」

「なんか、恥ずかしいな」

春が、くすくすと笑った。その笑い声は小さかったが、病室を温めるようだった。

「じゃあ、太君が子供の頃にお店に来てたって言ってたの、あれ……?」

「母が亡くなってから、ずっと来れなかった。でもある日ふらっと寄ったら、おばあちゃんの代わりにさやかが立ってて。よかった」

二人は何も言わずに目を合わせて、小さく笑った。あの日から始まっていたのだ。全てが。

しばらく静かな時間が流れた。

「太地君。うちの肉じゃが、大好きでしょう」

「はい。大好きです」

「あれはね、太地君のお母さんのレシピなのよ」

「え? そうなの?」

「太君のお母さんが、うちで働いていた時にね、教えてくれたんだ。『太地の一番好きなおかずなんで、是非メニューに入れてください』って」

頭の中で、何かが繋がっていく音がした。あの日、仕事帰りに迷い込んだ商店街。一口食べた瞬間、箸が止まったあの味。母がここで働いていたから。母がレシピを残したから。春がそれをさやかに教えたから。

太地はさやかを見た。さやかは、メガネの奥の瞳に涙を滲ませながら、太地をまっすぐ見ていた。

母の味が、ここにあった。自分が知らないまま、ずっと。出会う前から、繋がっていた。

「お母さんはね、いつも言ってたんだよ。『太地は優しい大人になります』って。その通りになったね」

太地は、堪えきれない涙が溢れてきた。母は知っていたのだろうか。自分のレシピが、二十年の時を超えて、息子の隣に座る女性の手に渡ることを。そんなわけはない。でも、まるで導かれたようだった。あの商店街に迷い込んだのも、暖簾をくぐる気になったのも、全部。母に引き寄せられていたのかもしれない。

春は二人の手を、そっと重ねた。

「結婚おめでとう。二人とも、末永くお幸せにね」

「ありがとうございます」

「太君。これからも、よろしくね」

「ああ。こちらこそ」

病室には、冬の午後の光が静かに差し込んでいた。

人の価値は、学歴でも、見た目でも、肩書きでもない。ただ一つ、どう生きるか。それが人生を、より良い方向へと導いてくれる。

太地とさやかは、お互いの顔を見合わせて、優しく微笑んだ。

Thumbnail