姉が正月に夫を連れて久しぶりに実家へ現れた時、俺は嫌な予感で胸がざわつくのを感じていた。俺の名前は神谷荒野、三十歳。IT関係の会社で在宅勤務をしている。もともと一人暮らしをしていたが、結婚する予定がないのなら戻ってこいと両親に言われ、二年前に実家へ戻ってきた。在宅勤務の俺にとって住む場所にこだわりはなく、両親の提案に素直に従ったのだ。父と母と三人での暮らしは穏やかで、両親とも関係は良好だった。もう歳だから実家に戻ってきてよかったと思う日々。そんな平和な日常を、姉の出現が壊していく。
姉の名前は里子。四つ年上で、三年前に結婚して家を出ている。俺は昔から姉が苦手だった。何かと上から目線で馬鹿にしてくる。食べたいものや欲しいものがあるとパシリに使われ、宿題まで手伝わされた。ひどい時は俺がもらったお小遣いを盗まれたこともある。両親に相談しても、姉は大人の前ではいい子を演じてすぐに泣く。両親も泣かれてしまっては強く責めることができず、俺は我慢するしかなかった。耐えきれなくなった俺は大学進学を機に一人暮らしを始め、以来、実家に帰る時は姉がいないタイミングを見計らっていた。姉が結婚して実家を出たことで、やっと実家に戻れるようになったのだ。姉とは十年以上会っていなかったため、もしかしたら変わっているかもしれない。そう淡い期待を抱いていたが、再会した姉は昔と何も変わっていなかった。
「え、あんた実家に戻ってきてんの? 」
久しぶりに会う俺を見て、姉は面白そうに笑った。俺が実家に戻ったことを知らされていなかった姉は、これ幸いと馬鹿にしてくる。両親には黙っておくよう頼んでいたのに、すぐにバレてしまった。俺が適当に言葉を流していると、姉は気に食わないのかいちいち突っかかってくる。不穏な空気を察した父が話題を振ってくれたが、姉はそれでも俺をからかうのをやめなかった。姉の夫である坂本裕一という男も、姉とそっくりだった。人を馬鹿にするような笑い方も話し方も、まるで同じだ。両親は「優しくていい人だ」と褒めていたが、俺にはそう見えなかった。姉夫婦とはなるべく関わらないようにしようと心に決め、その場は愛想笑いでやり過ごした。
しかし、あの正月から姉は頻繁に実家へやってくるようになった。その度に俺を馬鹿にして楽しんでいる。姉にとって俺はいいストレス発散道具なのだろう。何度か来るうちに、姉は俺がいつも家にいることを知ってしまった。
「あんた、その年で仕事もしてないわけ? 」
「だからって実家で暮らすなんて恥ずかしくないの? 」
姉は何も知らないくせに決めつけてくる。俺が「仕事は在宅でしてる。家にもきちんとお金を入れてる」と説明しても、姉は「在宅勤務?

何それ? そんなんでお金が稼げるわけないじゃない」とケラケラ笑うばかりだ。腹が立ったが、よく考えれば、まともに働いたことがない姉に俺の仕事が理解できるはずがない。姉は高卒で就職したがすぐに辞め、それからも何かと理由をつけては仕事を転々としていた。気に入らない人がいる、注意された、そんな些細なことで辞めてしまうのだ。次第に転職も厳しくなり、最終的に正社員で雇ってくれる会社はなくなり、バイトでしか働けなくなった。結婚後は専業主婦で、今は働いていない。そんな姉の生き方に口を出すつもりはないが、仕事について馬鹿にされたくはなかった。俺は必死に勉強して就職活動をして、今の会社に入ったのだ。人間関係で悩んだ日もあったが、耐えて働き続けた結果、今は楽しく仕事ができている。自分の仕事に誇りもある。なのに、どうしてそこまで言われないといけないのか。
「勝手に決めつけないでくれ。両親にだって迷惑なんかかけてないから」
強い口調で言い返すと、姉は少し驚いた顔をした。何か言いたそうだったが、話しても無駄だと思い、俺は自分の部屋に戻った。
それから数日後、珍しく姉から連絡が来た。内容は「今度の週末、夫と行くから家にいなさいよ」というものだ。普段そんな連絡は来ない。嫌な予感がしたが、どこかに出かけてもさらに面倒なことになりそうで、俺はなるべく気にしないようにした。
週末、姉は夫を連れて実家にやってきた。少しすると、自分の部屋にいた俺を姉が呼びに来る。
「ちょっと家族で話したいことがあるの。お母さんたちも待っているわ」
不気味な笑みを浮かべる姉に従い、しぶしぶリビングに向かうと、テーブルに両親と姉がかしこまって座っていた。俺が座るのを確認して、姉が切り出した。
「私たち、実家に住むことにするわ。お母さんたちも歓迎してくれた」
考えてもいなかった発言に、俺は固まってしまう。
「なんで急にそんなこと? 」
驚いて問いかけると、姉は冷たい視線を送ってきた。
「そんなの決まってるじゃない。あんたがしっかりしてないからよ。そんな人にお父さんとお母さんを任せておけないわ」
何を急に言い出すのか。両親も俺をかばってくれる様子はなく、黙っている。俺が説得するしかないと悟り、できるだけ優しい口調で語りかけた。
「父さんたちを困らせてるつもりはないし、何かあれば俺が面倒見るから、そんな急に二人で引っ越してこなくてもいいんじゃないか。それに父さんも母さんもまだまだ元気だし。大丈夫だよね? 」
そう言って両親に同意を求めると、母は困ったような顔をしながら言った。
「まあ、特に何も困ってることはないけど。でも里子が戻ってきたいなら私は嬉しいわ」
俺が姉を苦手なことは母も知っているはずだ。それなのにどうしてそんなことを言うのか。俺が黙って考え込んでいると、姉が鼻で笑いながら口を開いた。
「さっきから偉そうに言ってるけど、荒野君、ニートでしょ?
年金暮らしの両親に迷惑をかけている自覚はないの? 」
何も知らないのに口出しができることに、怒りを通り越して呆れてしまった。
「さっきも言いましたけど、在宅勤務なだけです。しっかり家にもお金は入れてます。決めつけないでください」
抑えきれず強めの口調で言うと、姉も姉の夫も不機嫌な顔をした。
「まあいいわ。気に入らないならあんたが出ていきなさい」
最初からそれが目的だったのだろう。
「俺が出ていけば、父さんも母さんも苦労すると思うけど」
冷静にそう言うと、姉は目を見開いた後、ゲラゲラと笑い出した。
「何言ってんの? ニートなんていない方がいいに決まってるじゃない。早く出ていきなさいよ」
強引に俺を追い出そうとする姉を尻目に、俺は最後に両親の方を向いて問いかけた。
「父さん、母さん、本当にいいんだな」
姉が隣で何か騒いでいるが、無視してじっと両親を見つめる。しかし、両親は顔を俯かせたまま、はっきりと返事をしなかった。その態度を見て、もうこの家にいる必要はないと感じた。俺なりに二人のためを思っていたのに、二人は俺を引き止めない。こだわってここにいるくらいなら、一人で暮らした方が気楽だ。俺は「分かった」とだけ言って、満足そうに笑う姉と姉夫を横目にその場を立ち去った。
それから一ヶ月後、俺は無事に引っ越しを終えた。本当はすぐにでも出て行きたかったが、家探しから始めたため時間がかかってしまった。友人の協力もあって、最短で住める気に入った物件を見つけることができた。両親は最後まで俺に何も言わなかった。少し悲しくも思えたが、いい機会だったのだと考え直し、俺は一人暮らしを満喫するつもりでいた。
それから二ヶ月が経ったある日、俺のスマホに姉からの着信が入った。家族の誰とも話す気にはなれず、何度か無視していたが、姉はしつこくかけ続けてくる。あまりのしつこさに、一度だけ電話に出てみることにした。
「なんで出ないのよ。何回かけたと思ってるの? 」
電話に出るなり姉は文句を言ってきた。
「一体何の用だ」
手短に済ませようと要件を聞くと、姉はもごもごと言いづらそうに話し始めた。
「ねえ、お父さんたちの年金のことなんだけど、今月から急に減ってるみたいなんだけど、何か知ってる?
」
姉の言っている意味が分からず、詳しく聞いてみると、今月入った年金が二人合わせて十万円もなかったと言う。俺は冷静に伝えた。
「何言ってるの? 二人の年金はずっとその金額だよ。あの人たち、ほぼ年金ないからね」
姉は信じられないのか嘘だと笑ったが、俺は嘘などついていなかった。父は会社に勤めていたが独立して個人事業主になり、その後きちんと年金を払っていなかったのだ。貯金も、姉が結婚するまで姉の面倒を見ていたためほとんど残っていなかった。だからこそ、両親は俺を実家に戻るように言ってきたのだ。
「え、でもじゃあ、本当に働いていたの? でも、いつも暇そうにしてたじゃない」
姉はそれでもまだ俺が働いていると信じられないようだった。俺の会社は能力で評価する会社で、しっかりと期限通りに仕事を終わらせていれば自由に働ける。技術職の俺は特にミーティングもなく、好きな時間に仕事をしていた。その姿が、姉には暇そうに見えていたらしい。真実を知った姉は言葉を失って黙り込んでしまった。もう話すこともないと思い、俺はそのまま通話を切った。
それから数日後、家でくつろいでいるとインターホンが鳴った。玄関を開けると、顔を真っ赤にさせた両親と姉夫婦が立っている。
「ねえ、戻ってきてほしいの」
母は半泣き状態で俺にすがってくる。話を聞くと、姉の夫の収入だけでは生活していくことができず、困って俺の元にやってきたらしい。
「追い出された家に戻るつもりはないよ。母さんたちだって、何も言わなかったじゃないか」
きっぱりそう言うと、両親は言いづらそうに顔を俯かせ、ぼそぼそと口を開いた。
「里子が、荒野を追い出してくれれば、いい生活をさせてあげるって」
どうやら姉が両親に、俺を追い出すように吹き込んだらしい。両親もそれを聞いて姉の収入が多いと勘違いし、お金に目がくらんだのだ。
「だって、たくさん年金があると思ったから」
両親は俺のお金を使って自由に暮らしていた。外食も多く、よく旅行にも行っていた。それを見た姉は、両親が相当な年金をもらっていると勘違いしたのだ。みんな勝手に決めつけて勘違いをし、俺の話を聞かずに追い出したのだろう。今まで家族のためにと働いて給料を渡してきたが、もうそんな家族に何かしてあげる気持ちはない。こんな家族のために働かなくてはいけない姉の夫が少し可哀想だが、似た者同士で頑張ればいいと思う。四人は必死に謝って戻ってきてほしいとお願いしてきたが、もちろん何を言われても戻る気はない。俺はその気持ちだけ伝えて、玄関を閉めた。
あれから俺は久しぶりの一人暮らしを満喫している。馬鹿にしてくる人もいないし、自分の給料を自由に使えて楽しい生活を送れている。聞いた話では、姉夫婦はしばらく夫の給料でなんとか生活していたようだが、そんな暮らしにしびれを切らした夫は出ていってしまったらしい。残された両親と姉は家を売り、今は狭いアパートで三人で暮らしているそうだ。まともに働いていなかった姉を正社員で雇ってくれるところもなく、またバイト生活に戻ったようだ。両親も、俺のお金でいい暮らしをしていたせいか贅沢する癖が抜けず、ストレスが溜まっているらしい。息子よりお金を選んだ両親を可哀想だとは思えない。何度か連絡が来たが、俺の気持ちは変わらないことを伝えて着信拒否設定にしておいた。これからは自由に、自分のために楽しく生きていこうと思う。


