「今日で俺たちが別れる日だって、忘れてねえよな。お疲れ様でした」——その言葉を聞いた瞬間、私は30年連れ添った夫の顔を、初めて他人のように見た。夕食の片付けをしていた、何の変わりもない火曜日の夜だった。夫はテーブルに突っ伏すように座り、目も合わせずに「離婚だ」と言った。私が「急にどうしたのよ」と聞き返すと、彼は吐き捨てるように言った。「顔も性格も、貧乏臭いところも、お前の全部が大嫌いなんだ」…

「今日で俺たちが別れる日だって、忘れてねえよな。お疲れ様でした」——その言葉を聞いた瞬間、私は30年連れ添った夫の顔を、初めて他人のように見た。夕食の片付けをしていた、何の変わりもない火曜日の夜だった。夫はテーブルに突っ伏すように座り、目も合わせずに「離婚だ」と言った。私が「急にどうしたのよ」と聞き返すと、彼は吐き捨てるように言った。「顔も性格も、貧乏臭いところも、お前の全部が大嫌いなんだ」...

「今日で俺たちが別れる日だって、忘れてねえよな。お疲れ様でした」

「……愛想がないわね。まあ、いいわ。単刀直入に言うぞ。離婚だ」

「はい?」

「30年も一緒に暮らして、もうお前にうんざりしたんだよ。顔も性格も、貧乏臭いところも、お前の全部が大嫌いなんだ」

「急にどうしたのよ、いったい」

「急も何も、ずっと思ってたんだ。今日まで私はあなたを支えてきたつもりよ。息子も育て上げたし、やっとこれから二人でゆっくりできると思ってたのに」

「支える? 笑わせんな。毎日毎日、茶色い煮物ばっかり食わせやがって。お前のせいで俺の人生、ずっと不味かったんだよ」

「それはあなたの血圧や健康を考えてのことよ」

「うるせえ! その押し付けがましい思いやりが、一番気持ち悪いんだ。俺はもっと華やかな人生を送る男なんだよ。お前みたいな底辺の味覚に合わせるのが、どれだけ苦痛だったか」

「30年も、そんなふうに思ってたの?」

「ああ。お前との時間は、人生の無駄だった。もっと早く捨てればよかったわ」

「……分かったわ。じゃあ、私はもう出ていくから」

「なんだその態度は。泣き喚いて縋るもんじゃねえのか?」

「別に、出ていけと言われたから出ていくだけよ。捨てられたからって、土下座なんてしないわ」

「強がりやがって。どうせ今頃、心の中では泣いてるんだろうな」

「そうね、泣きそうだわ。あんたに言われて、嫌でも現実を思い知ったから」

「ふん。もう知らねえ。俺はな、これから本当の愛のために生きるんだ」

「本当の愛? まさか、浮気でもしてたの?」

「浮気じゃねえよ。本気だ。前は俺の才能をちゃんと認めてくれてる。お前みたいな無能な家政婦とは訳が違うんだ」

「……そう。で、どんな人なの?」

「銀座でエステサロンを経営してるんだ。29歳で独立した、聡明で美しい女性だよ。全身ハイブランドで決めてる、俺の隣に立つにふさわしい女だ」

「へえ、珍しい名前ね。なんて読むの?」

「はあ? ……『まい』だ」

「そう。まいさんね。……で、私、その方と会ったことある気がするのだけど。銀座のエステサロンって、もしかして『エルム』って名前?」

「……なんで知ってるんだ」

「私、あそこに通ってるのよ。祐子さんて方に、いつもお世話になってて」

「はあ?! ちょっと待て、俺の連れがお前を知ってるだと? そんなはず…」

「どうかしらね。あ、そう言えば、その祐子さん、近々ハワイに移住するって嬉しそうに話してたわ。あなたと一緒にって、ね」

「……っ」

「で、その代わりに、こっちの家のことは全部私に任せて、向こうで新生活を始めるんだって言ってなかった? 退職金も全部かき集めて、ね」

「……お前、よくも俺の連れにちょっかい出したな!」

「ちょっかい? 私はただ、自分の行きつけのエステで聞いた話をしてるだけよ。あ、そうそう、その祐子さん、他にもお客さんの亭主を何人か誑し込んでるって、噂になってるわよ。あなたが何人目かは知らないけどね」

「嘘をつけ! お前が妬んでるんだろ!」

「妬む? よく言うわ。あなた、私に内緒でクレジットカードの家族カード、持ってたでしょ。あれ、私が解約しておいたから。ついでに、あなた名義のローンも、全部私が払っておいたわよ。だって、妻の私がちゃんとしないと、あなたが困るでしょ?」

「……何を言って……。俺の金を勝手に!」

「あなたの金? 30年、家庭を支えた妻としての、正当な報酬よ。さて、とりあえず離婚届は出しておくわ。あなたが勝手に書いたあの偽物じゃなくて、私がきちんと揃えた書類でね。もう裁判所には出してあるから、あとは取り下げるならどうぞご自由に」

「……ふ、ふざけんな! そんなの無効だ!」

「あら、あなたこそ、文章偽造って犯罪だって、よく知ってるでしょ? 私が黙ってりゃ済むと思ってる? 私は連れ戻されてもいいけど、あなたが刑事事件になるのは、あの銀座の美人エステティシャンとの未来がパーになっちゃうわよ?」

「……っ……!」

「私は今日から、この家を出ていくわ。あなたはここに残って、どうぞ本当の愛を育んでくださいな。ああ、でも、しばらくローンの支払いは続くから、忘れずにね。大丈夫、あなたなら、どこかの安アパートから、私みたいな年増女の成功を遠くから見守っててちょうだい」

その言葉だけを残して、裕子は静かにスーツケースのファスナーを閉めた。私は、しばらく言葉を失っていた。

「……な、なんだ、その目は」

「いえ、何て言うか、あなたがそこまで単純だとは思わなかったな、と思って。入れてきた小細工が、ぜんぶ裏目に出てるわよ」

「うるせえ! 俺は知らねえぞ、そんなの!」

「いいのよ、もう。ああ、そうだ。一つだけ、言い忘れてた。あなたは若くて綺麗なエステティシャンに夢中だけど、向こうはね、定年退職した夫の年金で、悠々自適の老後を送れる太客を探してただけよ。あなた、退職金も使い込まれて、今は私に家も金も持っていかれた。そろそろ、気づいてもいいんじゃない?」

「……っ、この……!」

「で、今度はその綺麗な人に、『本当の愛』を説教してくるといいわ。ただし、私はもうあなたに一円も渡さないから。追い出されたくなければ、素直に離婚届にサインしたら?」

「……くそ……!」

「今まで、お疲れ様でした。あ、公園で段ボールハウスでも作って、鳩に餌をあげるのよ? 案外、合ってるかもしれないわよ」

そう言って、私は初めて、彼の口がぽかんと開いたのを見た。30年連れ添って、初めて見る、間抜け面だった。

翌日、私は不動産屋に向かっていた。少し古いけど、日当たりの良い1LDKを見つけて、内見の約束をしてある。退職金の残りと、何より私自身を支えてきた30年の経験があれば、なんとかなるだろう。

夫のことは、もうよく知らない。ただ、彼が渡そうとしてきた退職金を、きっちりと半分もらった。それは事実だ。私にも、書類ひとつで他人の人生を左右する権利はないけど、妻として築いた財産は、私にも半分の権利がある。それをあいつに念押しされて、ようやく私は、自分が思っていたよりずっと、新しい生活に前向きになっていることに気づいた。

「さて、と」

私は新しい部屋のカーテンを開けて、見知らぬ街の風景を眺めた。もう、あの人のことは、何も言わないことにしよう。頭のどこかで、昨日の彼の悔しそうな顔がよぎるけど、それはそれで、ずっと昔、私が彼に抱いてた気持ちとは、別の話なのだから。

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