「今週末、ちょっと家を空けることになったんだ。」夫の健一がそう言ったとき、キッチンに立っていた私は、心のどこかで小さな違和感を覚えていた。最近、彼が週末ごとにゴルフ旅行へ出かけることが増えていたからだ。「最近多くない?どうかしたの?」と聞くと、彼は「向こうは勢いのある企業だから、断れないんだよ」と、どこか芝居がかった口調で答えた。その言葉に、私は言い知れぬ不安を感じたが、それ以上追及すること…

「今週末、ちょっと家を空けることになったんだ。」夫の健一がそう言ったとき、キッチンに立っていた私は、心のどこかで小さな違和感を覚えていた。最近、彼が週末ごとにゴルフ旅行へ出かけることが増えていたからだ。「最近多くない?どうかしたの?」と聞くと、彼は「向こうは勢いのある企業だから、断れないんだよ」と、どこか芝居がかった口調で答えた。その言葉に、私は言い知れぬ不安を感じたが、それ以上追及すること...

「今週末、ちょっと家を空けることになったんだ。」

まなみはキッチンから振り返り、夫の健一を見た。最近、そういうことが増えている気がする。

「最近多くない?どうかしたの?」

「ゴルフ旅行に誘われてな。友人の社長さんが主催らしいんだ。」

「そうなんだ。」

「向こうは勢いのある企業だから、断れないんだよ。同業だからこそ、仲良くしておかないと。」

「別に、嫌なら行かなくてもいいと思うけど。」

「そう言うなよ。こっちは会社を背負う立場なんだ。父さんから会社を任されてるんだから、できることは何でもやらないと。」

まなみはため息を飲み込んだ。

「あんまり無理しなくていいよ。お父さんだってプレッシャーをかけるつもりはないだろうし。休日くらいはゆっくりしないと体が持たないよ。」

「気遣ってくれてありがとう。でも、やっぱり父さんの後を継ぐっていうのは、どうしてもプレッシャーがあるんだ。父さんは一台でこの会社を大きくした偉大な人だからな。」

「お父さんも、運が良かっただけだって言ってるよ。コンサル業を始めて最初にうまくいって、そこから人脈が広がったのが大きかったって。」

「父さんが作り上げた人脈とノウハウがあるから、俺たちはこの会社で働いていられるんだ。」

「それはそうかもしれないけど、あなたが必要以上に背負う必要はないのよ。私だって専務として支えるつもりだし。」

「ありがとう。それは本当に心強いよ。でも、甘えてばかりもいられない。会社の中には、俺が専務の旦那だから社長になれたんだって言う奴もいるみたいだし。」

「言いたい人には言わせておけばいいわ。あなたが社長になるのは、父と株主の人たちが決めたことなんだから、胸を張っておけばいいのよ。会社が大きくなると、いろんな人が勝手なことを言うようになってくるわ。」

「この前なんて、私とあなたが離婚寸前だって噂が流されたりしてたんだよ。」

「そうなの?」

「そうそう。嘘すぎる話だろ?」

「だから、周りの意見になんて流される必要はないの。」

「うん、分かってる。でも、とりあえず今回の旅行には行かせてもらう。約束してしまったから、今さらなしにはできないし。」

「そうね。でも、気をつけてね。」

「何がだ?」

「そういう旅行で、羽を外しすぎるのはダメってこと。あなたはうちの社長なのよ。要は看板であり顔なの。そんなあなたが変な騒動に巻き込まれたら、株価とか信頼に直結するからね。」

「ああ、それは分かってるよ。俺が変なことをするわけないだろう。」

「まあね。それじゃあ、週末は気をつけて行ってきてね。」

「ありがとう。」

翌日、今度はまなみの父が電話をかけてきた。

「まなみ、今週末にご飯でも食べないか? 健一君も呼んで、妻と私の4人でどうだ? 私の知り合いがワイナリーをオープンしたんだ。そこにはレストランも併設されていて、とても美味しいと評判らしい。」

「へえ、そうなんだ。」

「昔からワインには目がないだろう? ワインの味は保証できる。」

「別にいいけど。そうやって毎週毎週お誘いされてもね。」

「しょうがないだろう。こっちは仕事がなくなって退屈なんだ。」

「会長として、やることがあるでしょ?」

「ないよ。社長に比べたら、やることなんて何もない。ただ会社に席を置いてるだけの飾りだ。」

「だったら、趣味とか好きなことをしたらいいじゃない。お金も時間もたくさんあるんだから、なんだってできるでしょ。」

「趣味も何も、俺にはないよ。ずっと仕事ばかりをやってきた人生だ。それはお前だって分かってることだろ。」

「確かに、家でも仕事の話しかしてなかったもんね。」

「そんな俺から仕事がなくなってしまったんだ。そうなると、楽しみはまなみたちとの食事しかないんだよ。」

「そんなに言うなら、社長を続ければよかったのに。」

「こんな年寄りがいつまでも社長にいたら、会社に迷惑だと思ったんだ。それに、あの時はまだ何か趣味ややりたいことが見つかると思ってたんだよ。でも、ゴルフも旅行も、何もかも楽しめなかった。本当に仕事しかなかったんだと思い知ったよ。」

「勝手に絶望しないでよ。週末のご飯にはちゃんと行くからさ。」

「本当か? それは良かった。でも、健一は来れないからね。」

「知り合いの社長さんとゴルフ旅行ですって。」

「みんなゴルフも旅行も好きだよな。」

「普通はそうなんじゃない? ただ、少なくとも健一は楽しみにはしてないわ。付き合いで行くだけだから。」

「付き合い? そんなの行く必要ないだろう。」

「やっぱりこの業界は人脈が大事だから、断れないのよ。」

「俺が作った人脈があるから、そんなことしなくても。」

「それに頼りたくないのよ。」

「私もその気持ちはよくわかるわ。でも、無理はしてほしくないな。」

「健一も、社長としてのプレッシャーを感じてるみたい。」

「そうか。やっぱり、人生を間違ったかもしれないな。」

「何を言い出すのよ。」

「社長なんて肩書きに左右されないくらいの人間じゃないと、トップは務まらないと思ってるんだ。」

「そんなのお父さんの考えでしょ。いろんな人が上に立てばいいのよ。それぞれに得意不得意があるんだから。健一じゃないとできないことだってあるのよ。」

「それはお前も同じだろ。」

「もうそれは済んだ話よ。大丈夫。健一はきっとやってくれるから。」

「まあ、それならいいんだがな。とにかく、週末のご飯には私が行かせてもらうからね。」

「そうか。母さんもきっと喜ぶよ。それじゃあ、体調にだけは気をつけるように。」

二ヶ月後、まなみは秘書の金丸を社内の一室に呼び出した。

「金丸さん、ちょっと聞きたいことがあるの。」

「あら、専務、どうかされましたか?」

「おかしな噂を耳にしたから、ちょっと聞きたくて。」

「噂?」

「あなたが、うちの夫と不倫をしてるって噂よ。」

「あらあら、変な噂が流れてるんですね。でも、そういうのって気にしない方がいいですよ。秘書をやらせてもらってるので、そういう噂が流れるのはよくあることじゃないですか。だから気にしない方がいいですって。私も、この程度の噂でいちいち反応なんてしてないわ。あることないこと言われてきたから。」

「でも、これはちょっと毛色が違うのよね。」

「どういうことですか?」

「あなたが言ってたって聞いたの。この手の噂って、出所が曖昧だったり、全く関係のない人間が適当なことを言ったりするのが普通だったの。でも、この噂に関しては、しっかりと金丸さんから聞いたって人が多数いたのよ。」

「ふーん。それで、どうするんですか?」

「何が?」

「私が流してたとして、どうするんですか? 車内の風紀を乱すようなことはやめてもらえる?」

「どういうつもりかわからないけど、できればそっちで揉めて離婚してほしかったんだけどね。まあ、しょうがないか。」

「何?」

「すみません、専務。それ、噂じゃなくて事実です。」

「変なことを言わないで。」

「信じられないかもしれないですけど、私は社長とお付き合いをさせてもらってます。お互いに愛し合っていて、将来も約束してるんですよ。」

「はあ? そんなわけないでしょ。健一は私と結婚してるのよ。」

「残念ですけど、あなたたちの関係はもう終わってるんです。社長は秘書の私を選びました。社長夫人にいずれはなるとか言ってたのは、そういうことだったのね。」

「そうですよ。だって、私が妻になるんですから。」

「そんな勝手なことは許さないわよ。社長夫人は私のもの。負け犬は尻尾を巻いて消えなさい。まずは健一と話をさせてもらうわ。」

まなみはその場を離れると、すぐに健一に電話をかけた。

「健一、今どこ? 社長室にいる? 話があるの。」

「悪い、今は出先だ。LINEで済ませてくれ。」

「さっき金丸さんと話をしたの。あなたと不倫をしてるって堂々と言ってたわ。これって本当のことなの?」

「あいつがそう言ったのか。」

「ええ、将来も約束してるって言ってたわ。」

「そうか。弁明の一つでもしてみたら?」

「いや、そんなのはしないよ。俺はいつ子のことを愛してる。あいつとこの先一緒にいたいと、心から思ってるよ。」

「何それ? どうしてそんなことを言うの? 私たちは愛し合ってたはずなのに。」

「それはお前の思い込みだよ。」

「え?」

「俺は社長になるためにお前と結婚した。そうした方が手っ取り早いと思ってな。」

「嘘?」

「嘘なんかじゃない。これが真実だよ。それなのに長い間勘違いしてて、見てられなかったぜ。お前に嫁面をされるのは、本当に気持ち悪かった。でも、それに耐えたおかげで今の地位があるんだ。」

「自分で言ってて恥ずかしくないの? 自力で出世できないって言ってるようなものよ。」

「お前だって、父親の力で出世してただろう。そんなお前にとやかく言われる筋合いはない。」

「私はあんたとは違うわ。」

「黙れ。お前とはもう終わりだ。ってことだから、離婚して出ていけ。」

「家から追い出すって言うの?」

「家はお前が住んでいいぞ。出ていくのは会社からだよ。」

「はあ?」

「お前の存在が邪魔なんだよ。元嫁に会社をうろつかれると鬱陶しいんだ。お前が嫌がるのなら、株主総会を開いて役員から解任してやるよ。」

「会長は私の父なの、分かってる?」

「会長なんて、単なる飾りだよ。あんなやつに何ができるって言うんだ。」

「そう。あんたがそう出るなら、分かったわ。じゃあ、さっさと私の前から消えろよ。」

「はいはい。」

まなみは電話を切り、静かに呟いた。

「勝った。これでようやく面倒な奴がいなくなって、本格的に会社を自分のものにできるぞ。」

翌日、会社の会長室に健一が呼び出された。

「健一君、話は聞いたぞ。」

「会長、どうかされたんですか?」

「うちの娘を裏切っておいて、よく言えるな。」

「裏切り? そんなことしてませんよ。」

「娘を幸せにすると言っただろ。」

「そんなものは口だけですよ。本気でそんなことをするつもりはありませんでした。私としては当たり前のことをしただけであって、裏切りなんて、そんな大層なことではないですから。」

「開き直るのか。」

「ずっと社長になるためだけに仕事をしてきました。そのためにはまなみと結婚して、あんたに気に入られる必要があったんだ。そのためだけに人生を費やしてきた。そしてあんたは一線を退き、俺が社長になれた。まなみを追い出せば、会社は俺のものになる。この時がついにやってきたんだ。」

「目通りってわけか。」

「そうですね。残念ですが、あなたは外から指を加えて見ておいてください。別に会社をぶっ壊すつもりなんてないですよ。俺の手腕でこの会社をさらに大きくしてみせます。あんたの二代目なんて、俺のプライドが許しませんからね。」

「息巻いてるところ申し訳ないが、お前には無理だよ。」

「何だと?」

「私が最初からお前を社長にするつもりだったと思うか?」

「どういうことですか?」

「私はずっと、まなみを社長にしようと思っていた。可愛い娘だからな。非常にくだらない。その娘を利用して社長になったお前が言うな。だが、別に血の繋がりで選んだわけじゃない。私はこの会社を心から大事に思っている。だから、社長になる人間はその素養がないと無理だと思っている。まなみにはその素養があると、近くで見ていたからな。実際、あいつの経営センスで救われたことは数多くあった。本人にも社長業が向いていると伝えていたよ。だからこそ、私は次期社長はまなみだと決めていた。」

「じゃあ、なんで俺にしたんですか?」

「まなみがお前を推薦してきたんだ。あいつはお前の夢を応援したいと言った。そして、必ずまなみも含めて全員でお前のことを立派な社長にして見せると、お願いしてきたんだ。だから私はまなみの願いを聞く形で、お前を社長にした。あいつはそこまでお前のことを思ってたのに。そのまなみを裏切るなんて。」

「そんな経緯があったなんて、知りませんでしたよ。」

「当たり前だ。そんなことを本人に言うものか。そもそも、お前は社長になるべきではなかった。」

「だとしても、俺は社長です。この会社の最高権力者なんですよ。会長であっても、俺に叶うことはできません。」

「お前はすぐに社長ではなくなる。近々、緊急の取締役会が開かれる。そこでお前を代表取締役から解任させるよ。そして株主総会で取締役からも解任させるから。」

「俺を引きずり落とすつもりですか? でも、そんな簡単にいくわけが…」

「取締役たちとはもう話し合い済みだ。」

「はあ? だって、あいつらは俺の言いなりですよ。」

「まなみと私が他の取締役たちにお願いをして、できるだけサポートしてほしいと頼んでたんだ。そうやって一枚になってやっていこうとな。だが、彼らはお前ではなく、私たちに従っていただけだ。それを勘違いするな。」

「そんな…」

「でも、いきなり解任なんて…」

「お前の不倫相手が、あちこちでお前との関係をペラペラと話していたよ。」

「それは知ってます。そのせいで我が社の信用が落ちる可能性が大きい。そうなる前に、お前のことをこの会社から追い出すんだ。」

「待ってください。それでしたら、今すぐに関係は解消しますよ。」

「そんなことで済む話ではないんだ。君の解任はもう覆らないだろう。今のうちに荷物をまとめておいた方がいい。」

「ちょっと待ってくださいよ。」

「待つわけがないだろう。今すぐに私たちの前から消えろ。そして二度とその顔を見せるな。」

その十分後、まなみは金丸に連絡を入れた。

「金丸さん、私と健一は離婚することになります。」

「あら、そう。それじゃあ、さっさと手続きを済ませてね。」

「分かっていますよ。その際には、あなたにも慰謝料を請求させてもらいますから。」

「私にも? 当たり前でしょ。あなたも不倫の当事者なんだから、慰謝料を支払う責任はあるはずですよ。」

「そうやって、ちょっとでも嫌がらせをするのね。」

「どういうこと?」

「だって、あなたは専務だったんだから、お金はあるはずでしょ。それなのに、私から金を取ろうなんて。」

「お金が目的じゃないわ。あなたには自分のやったことの責任を取らせないと。」

「私は幸せになるためにやったのよ。」

「だからって、何をしていいわけじゃないわ。既婚者に近づくなんて、許されないことよ。」

「まあいいわ。どうせ健一がまとめて払ってくれるから。」

「そういう約束でもしてるの?」

「してないわよ。でも、社長なんだから、それくらい簡単でしょ。」

「どうだろう? 本人に聞いた方がいいと思うわ。」

「なんでよ。」

「だって、あの人はもうすぐ社長を解任されるから。」

「は?」

「ついさっき、うちの父から解任すると伝えられたみたいよ。」

「父って、あなたの会長の?」

「そうよ。取締役会と株主総会を開くんだって。父は一線を退いたけど、株主とも役員とも強い繋がりを持ってる人だからね。父の一声で多くの人が動くっていうのは、今も昔も変わらないのよ。健一はそのことを分かってなかったみたい。」

「じゃあ、本当にあの人は社長を解任されるの?」

「もちろんよ。あなたたちのやったことで、会社がどれだけのマイナスイメージを持つか分かってる? それは決して看過できるものじゃないわ。だから株主や役員も解任に動いてるのよ。でも、そんなのはあなたたちには関係ないわよね。二人とも愛し合って一緒になったんだから。」

「でも、社長を解任されるなんて思ってなかったわよ。」

「そんなの知らないわ。それと、あなたは今後どうするの? あなたのやったことは、秘書という職務上許されないことよ。解雇にはならなくても、配置転換や処分が下ると思うわ。」

「首にはならないのね。」

「ならないけど、あなたはこの会社にいられる? みんなあなたのことを白い目で見るわよ。あなたが振りまいた噂のせいでね。それはどうするかは任せるけど、辞めることをお勧めするわ。」

二週間後、健一は正式に解任された。まなみは新社長に就任した。

「無事に解任されたわね。」

「なんだよ。連絡してくるな。」

「次の社長には私が就任することになった。そもそも私がなる予定だったんだけどね。私がバカなことをしたせいで会社に迷惑をかけてしまった。だから、その償いのためにも仕事を頑張ろうと思ってる。」

「そんなの勝手にしろ。俺にいちいち言ってくるな。自分が社長になって、俺が無職だから馬鹿にしてるんだろう。」

「馬鹿にはしてるけど、それは無職のことじゃないわ。いい年して若い女に入れ込んで自滅してることを馬鹿にしてるのよ。」

「お前…」

「ちゃんと慰謝料も支払ってもらうからね。」

「これで俺に勝ったつもりになるなよ。」

「あら、どういうこと?」

「会長は、お前の方が優秀な人間だって俺に向かって言い切ったよ。」

「そうね。お父さんは昔から私のことを高く評価してくれたから。」

「お前の方が下だって、俺が証明してやる。」

「へえ。まだそんなやる気があるんだ。」

「当たり前だ。」

「勝負するなら、その前にちゃんとやることをやってよね。」

「何を言ってるんだ?」

「あんたが会社のお金を使って金丸さんと遊んだりしてたっていう証拠が出てきた。その分は損害賠償請求をさせてもらうからな。まずは責任をしっかりと取らないとだめよ。じゃないと、私を倒すとかのスタートラインにだって立てないからね。」

「ああ、そうかよ。別に、それくらい払ってやるよ。」

さらに二週間後、健一からまなみに激昂した電話がかかってきた。

「余計なことをするんじゃねえよ。」

「突然何? 慰謝料に関することかしら?」

「違うよ。お前のせいでこっちは大変なんだ。」

「あら、何が?」

「せっかくこっちは仕事を見つけられたのによ。」

「ええ、もちろん知ってるわよ。あんたが別の仕事を見つけたみたいなことを言ってたからね。どの会社か調べさせてもらった。そしたら、あんたの友人の社長さんの会社だったわ。」

「そうだよ。事情を話したら、入れてくれるってことになったんだ。しかも、かなりいい条件だったみたいね。俺がそっちで社長としてやってた経歴を高く評価してくれたんだよ。なのにお前らがその話を潰しやがったんだ。どうしてこんなことをするんだよ。」

「バカねえ。そんなの許さないに決まってるでしょ。」

「なんでだよ。」

「役員規約には競業避止条項があるでしょ。」

「そんなのあったか?」

「やっぱりあんたはちゃんと見てなかったのね。そこには、退任後に同業他社で働くことを禁止って、しっかりと書いてあるから。もちろん、二年間の条件付きではあるけど。」

「待ってくれよ。職業選択の自由があるはずだ。」

「あるわよ。でも、これは条件的に認められるの。うちは父が作り上げた人脈とノウハウを使って、ここまで会社を大きくした。あんたはそのノウハウも熟知してるし、人脈だってあるはずよ。それらを使って同じ業種の会社で働かれたら、うちにとっては大きな損失になるの。それを防ぐために、二年間は同業で働くことを禁止って決めてるの。それで、お父さんが過去に痛い目にあったみたいでね。そんな向こうの会社にも、私からその旨を伝えさせてもらった。そしたら、すぐにその話をなかったことにしてくれたわ。迅速に動いてくれて、本当にありがたかった。」

「じゃあ、俺はこれからどうすればいいんだ?」

「普通に、うちとは違う業種のところで働けばいいじゃない?」

「でも、そういうところだと一からのスタートになるだろう。」

「当たり前でしょ。普通はそういうもんよ。あんたは親父の力を借りたくせに。」

「まだそんなことを言ってるの? お父さんはそんな甘いことを許す人じゃない。私が今の地位にいるのは努力と実力よ。あなたのように誰かを利用したわけでもない。だから、責められる理由は何一つないわ。こっちは慰謝料と損害賠償で大変なんだぞ。なのに、こんなことしやがって。そのせいで金が払えなくなったらどうするんだ?」

「払えないわけないでしょ。あんたは私や会社を裏切ったのよ。それについてはしっかりと罪を償いなさい。払えないなんて言い訳は、絶対に聞かないからね。」

「俺はただ、幸せになりたかっただけなのに。」

「そんなの私だって一緒よ。でも、私はあんたと二人で幸せになろうと思ってた。そして、会社の人たちや取引先の人たちも、みんなで幸せになるためにはどうしたらいいかを考えてた。あんたとはそこが全然違ったわ。自分の幸せのために人を貶めるようなことをしていいわけがないでしょ。こんなことをするから、今不幸のどん底にいるのよ。」

「クソが。」

「でも、これであんたが私に勝つことはなくなったわね。」

「なんでだよ。」

「こちらがしっかりと注意をしておいたから。あなたの友人の社長さんは、二年後もあなたのことを採用することはないでしょうね。うちとは揉めたくないって、はっきり言ってたから。」

「マジかよ。」

「だから、この勝負はあんたの負けよ。犬は尻尾を巻いて消えてちょうだい。そして二度と私の前に現れないで。」

その後、健一は他の会社で転職活動をしたそうだが、社長なんて経歴は別業界では通用するわけもなく、どこからも採用されることはなかった。とはいえ、まなみや会社への支払いはあるので、仕方なく、以前アルバイトをしていた深夜の警備の仕事をするようになったとのこと。ただ、昼夜逆転の生活は年齢もあり、思った以上に負担が大きかったみたいだ。元気だった様子は見る影もなくなり、今はガリガリに痩せてしまって、よぼよぼの状態で仕事をしているらしい。今回の件で一気に老け込んでしまったみたいで、これから一人で生活していかないといけないのに、やっていけるのだろうか。

ちなみに金丸さんは、健一とは結婚しなかったみたいだ。会社を辞めてからは、まなみへの慰謝料の支払いもあったので、パパ活を利用して荒稼ぎしたそうだ。でも、その実態は単なる結婚詐欺だったみたいで、相手の男性から訴えられて逮捕されてしまったのだとか。テレビで金丸さんが連行されている場面を見た時は驚いたけど、まあ、そういう結末もあるかと、ちょっと腑に落ちた。

一方のまなみは、社長として会社を切り盛りしている。自分のせいで会社に迷惑をかけてしまったので、それを取り返すために頑張っている。ただ、父の言う通り、自分は社長に向いていたようで、楽しく仕事ができていて、会社の業績もとても好調だ。仕事は楽しく、みんなの力になりたいと思っているが、自分の幸せも考えた方がいいかなとも思っている。だから休みの日は、いろいろな趣味にチャレンジをしている。じゃないと、親子揃って引退後に退屈な日々を過ごすことになりそうだから。この前やった陶芸がとても楽しかったので、今後父も誘ってやってみようかなと思っている。

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