お正月の親戚の集まり。俺は台所でルミおばさんの特大の船盛りをつまみ食いしてから、居間へ戻った。すると、いきなり夫のケトが立ち上がって、俺の脇腹を思いきり蹴り飛ばした。
「うわあ、やめて。痛いのやだよ」
倒れた拍子に顎まで打った。廊下だから誰も見ていない。ケトは酔った顔でにやにやしながら言った。
「お前が悪いんだろうが。せっかくのめでたい正月に恥をかかせるから気合を入れてやったんだ。嫁の分際で俺らの酒を待たせるなんて何様のつもりだ。早く酒持ってこい、このクズが」
「はいはい。ただいま参上します」
「1分遅れるごとに、帰ってから1発ずつ追加で蹴り入れるからな」
「分かった。じゃあお酒とお料理、すぐお持ちしますね」
「これはしつけだ。分かってるな」
「分かってますよ」
俺が立ち上がろうとすると、ケトがさらに続けた。
「今日は特に機嫌がいいんだ。酔ってるからな」
「ええ、分かってます」
「さっきの件、誰にも言ってないだろうな」
「言うわけないじゃん」
「俺は優しい夫で通ってるんだ。黙ってろよ」
その夜、ケトはあと1時間ほど飲んでから帰ると言った。
「先に車に乗って温めておけ」
「了解。本日も運転手として頑張ります」
「エンジン温めるついでにアイスを買ってこい。一番高いやつだ」
「分かった。ついでに脇腹を冷やすための氷も買ってきていいかな。なんかさっきの蹴りで腫れてきてるんだよね」
「そんなの唾つけときゃ治るわ。甘えんじゃねえよ」
「もし警察に止められて、このアザが見つかったら警察沙汰になるのは嫌なんだけど」
「警察とか物騒なこと言うな。夫婦間のことには警察は介入できねえんだよ。民事不介入って知ってるか?」
「ケトって法律にも詳しいんだね。じゃあ安心だ」
「だから何の心配もせずに、これからも俺のサンドバックでいろ」
「お役に立てて何より。じゃあコンビニ行ってくるね」
コンビニから戻ると、車の中でルミおばさんから電話がかかってきた。
「リッカちゃん、どこ? おせちを用意したのにどこにもいないから」
「今、車でコンビニに来てます」
「なんで?」
「ケトがアイスを食べたいそうです」
「うちの冷凍庫にいくらでもあるわよ」
「高級アイスしか食べないんですって」
しばらく間があって、ルミおばさんの声が低くなった。
「あのね、ケトは私にとってずっと可愛がってきた甥よ。でも、私には隠さないでほしいの」
「何をですか?」
「今日、廊下で思いきり蹴られてたよね」
「え、見てたんですか?」
「笑い事じゃないでしょ。倒れたあともヘラヘラ笑ってたわよね。どうして平気でいられるの?」
「いつものことなんで」
「さっさと離婚したほうがいいわ。あと病院と警察にも行きなさい」
「そうですね。考えておきます」
「何を呑気なことを言ってるの? 笑ってやり過ごしたって何も解決しないわ」
「私だって楽しくて笑ってるわけじゃありません。痛いです。苦しいです。今すぐ逃げ出したいんです」
「だったら今すぐ行動しないと」
「今じゃないんです。分かってください」
「でも、取り返しのつかない事態になったらどうするの?」
「そうならないために頑張ってるんです」
「どういう意味?」
「アイスが溶けると怒られちゃうので、また戻ります。話はその時に」
「分かった。気をつけてね」
翌日、ルミおばさんがお礼の電話をかけてきた。
「ケト、昨日はありがとうね。お酒のお土産までいただいて。おばあちゃんも孫たちが集まって喜んでたわ」
「ルミおばさんこそお疲れ様。相変わらず料理が上手で食べすぎちゃったよ」
「リッカちゃんはほとんど食べられなかったみたいだけど」
「あいつはいいんだ。気にしないで」
「良くないわよ。嫁だろうと女だろうとお腹は空くの。なんかおばさん、今日はやけに突っかかるね」
「別にそんなことないわ」
「もしかしてリッカに何か言われた?」
「いいえ、何も」
「ほら、あいつおしりだから、余計なこととか言ってないかなと思ってさ」
「すごくいい子よ。ニコニコしてて可愛いし」
「そうだったらいいんだけど。ケト、絶対にリッカちゃんの笑顔を奪っちゃだめよ」
「あいつは幸せだから大丈夫です。家でもいつも笑ってるし」
「だったらいいの。ただ、もし笑顔が消えた時は覚悟しなさいよ」
「釘をさしておけば悪さもしないでしょ」
「まさか俺が浮気するとか思ってる?」
「思ってないわ。浮気くらいむしろ可愛いものよ」
「いや、マジで身の潔白だから」
数分後、ケトが疑わしそうに言った。
「お前、ルミおばさんに何か言ったか?」
「言ってないよ。どうしたの?」
「なんか変なんだよ。珍しくLINEが来た」
「昨日のお礼じゃない? お酒とかも持っていったから」
「今まで一度もそんな連絡なかったのに」
「久しぶりに会えて嬉しかったんじゃない?」
「なんか含みがあったんだよ。リッカの笑顔がどうとかさ」
「私の100万ドルのスマイルで魅了しちゃったかな?」
「調子に乗るな。お前が笑っていられるのは俺が養ってやってるからだろう」
「ですね。感謝してます」
「俺は今日から仕事始めだって言うのにお前は暢気でいいな」
「お疲れ様です」
「なんだその薄っぺらい言葉は?」
「気持ちは込めたつもりなんだけど」
「むしゃくしゃする。今夜も覚悟しておけ」
「脇腹はやめてね。折れてるから」
「ああ、もしかして病院行ったのか?」
「うん。あまりにも痛くて我慢できなかった。医者には何も言ってないよ。いつも通り転んだことにしておいた」
「ならいいが。その病院には二度と行くな」
「どうして?」
「毎回転んだって言うと怪しまれるだろう」
「じゃあ、もう蹴るのやめてよ」
「お前へのいら立ち度合いで力加減が変わるんだよ」
「じゃあせめてもう少し手加減してほしいな」
「お前の態度次第だ」
「うん。分かった。気をつけるね」
三日後。俺はルミおばさんに電話をかけた。
「ルミおばさん、ちょっと予定を前倒しなんですけど、一旦避難させてもらっていいですか?」
「リッカちゃん、どうしたの? 何かあった?」
「昨日、機嫌がかなり悪くて、起き上がれないほどやられちゃいました」
「はあ。だからすぐに逃げろって言ったでしょ。今度は何に切れたの?」
「おでんを作ったんですけど、辛子を買い忘れたんです」
「たったそれだけで」
「はい。今回は短絡的でしたね」
「笑い事じゃない」
「すみません」
「いくら目的のためだとはいえ、私が止めるべきだった」
「私も受け身は上達した方だと思ってたんですが、やっぱり男性の本気ってすごいです」
「もう黙っておけない。妹にも報告するから」
「お母さん、ショック受けちゃいますね」
「気にすることなんかないわ。すぐに迎えに行く」
「甘えさせてもらいます」
「まさか頭を打ったの?」
「はい。吐き気が止まらなくて」
「良くない症状ね。まずは病院よ。救急車を呼ぶわ」
「お願いします。もうこれで最後なので」
五時間後。病院の待合室に、ルミおばさんが怒鳴り込んできた。
「この恥知らず!」
「ルミおばさん、いきなり何ですか?」
「あなた、リッカちゃんに何をした?」
「いや、普通に仲良くやってますけど」
「普段から手をあげてるわよね」
「ないない。絶対にありえない」
「こんな状態にしておいて、まだ言い逃れする気? もしかしてリッカちゃんと一緒にいるの? どこ?」
「病院よ。入院することになったわ。脳震盪だって。よほど強く打ったのね」
「一晩中吐いてたのか? 知らなかった。あいつ、寝相が悪いからベッドから落ちたのかな?」
「あんたがやったんでしょ?」
「違うよ。リッカがそう言ったのか?」
「言ってないわ。いつまでも口止めできるなんて思わないことね」
「何の話をしてるんだ。俺がやったって言いたいわけ?」
「そうよ」
「違う。大事な妻にそんなことするわけないじゃん」
「私は見たの。お正月、うちの廊下で蹴ってるところを。リッカちゃんに止められて黙ってたけど、あの日からずっと腹が煮えくり返ってるわ」
「あれは教育だから」
「そういう言い訳をするのも分かってた。でもリッカちゃんは28歳の大人よ。口で言えば分かる」
「俺たち流のコミュニケーションってやつだよ」
「それを世間や警察が納得してくれるといいわね」
「ちょっと、警察って何だよ。これは夫婦の問題だろ。部外者が口を出すな」
「まさか民事不介入とでも言いたいの?」
「そうだ」
「法律に詳しいあなたに教えてあげるわ。これは民事なんかじゃない。刑事事件よ」
「リッカが嘘をついて作り上げてるかもしれないだろ。身内の俺のことは信じてくれないのかよ」
「証拠ならあるわ。山ほどね。今まであなたが家でやってきたことは、全て撮影されてるの」
「嘘だろ? あいつ、俺を警察に突き出すつもりでそんなものを?」
「それもあるけど、そんな単純な話じゃないわ」
「じゃあどうして?」
「それはリッカちゃんから聞いたほうがいいわ。元気に回復すればの話だけどね」
「リッカは危ないのか?」
「頭を強く打ってるのよ。なぜ無事だと思えるの?」
「俺はそんなつもりでやったんじゃない。勝手に吹っ飛んだんだ」
「じゃあ、同じことを警察や裁判所でも言いなさい」
「ちょっと待てよ。そこまで大事にするのか?」
「当然でしょ。絶対に逃さないわ」
「身内から犯罪者が出て困るのはおばさんだろう。不動産会社を経営してるんだし、悪い評判が立てば仕事がしづらくなると思うよ」
「なぜ? 私とあなたは今日から他人よ。何の影響もないわ」
「母さんも怒ってるし、縁を切ると泣いてたわ」
「どうして母さんにまで言うんだよ」
「なぜ私を責めるの? 悪いのはリッカちゃんを苦しめたあなたよ。こんなことが世間に知られたら会社も首になる。そうしたらリッカを養っていけない。まだ夫婦でいられると思ってるの?」
「俺は離婚しないぞ」
「だったら家庭裁判所で決めてもらいましょう。よかったじゃない。あなたの大好きな民事不介入事案よ。それと、高徳寺さんにはもう知らせてあるから」
「うちの社長のこと言ってるのか?」
「もちろん。そこら中にいる名前じゃないでしょ」
「嘘つけ。はったりだろ。俺をビビらせようとしても無駄だぞ」
「なら信じない? メールを見てみたら解雇通知が届いてるはずだから」
「そんなわけない。どうせ脅すならもっとマシな嘘をつけよ」
数秒後、俺のスマホに通知が届いていた。本当に解雇通知だった。
「なんで届いてるんだ? 今日付けだぞ。これで信じた?」
「なんでルミおばさんが社長と…元彼女なの?」
「はあ。こんな時に冗談を言ってる場合か」
「本当よ。三十年以上前だけど、二十代の時に付き合ってたの。今はビジネスパートナーとしてたまにお茶するくらいよ」
「じゃあ、俺が入社できたのっておばさんのおかげ?」
「少なからずあるかもしれないわね。私にとってあなたは可愛い甥だったから、高徳寺が気にかけてくれた可能性はある」
「そんなあなたは、親にも叩かれたことないはずよ。なのになぜこんなことをしたの?」
「理由なんかない。スカッとするんだ」
「最低ね。リッカはいつも笑ってた。私のストレス解消になればと思って我慢してたんだ。これは夫婦の共同作業なんだよ」
「ふざけたことを言わないで。リッカと話がしたい。病院を教えてくれ」
「だめよ。何をするか分からないもの」
「二人で話せば、きっと分かってもらえる」
「どの道話し合いは必要だと分かってるわ。回復したら連絡するよう伝える」
二日後、ルミおばさんから連絡が来た。話せるようになったらしい。
病院のベッドで、リッカは静かに言った。
「心配かけちゃった? ごめんね」
「心配どころか迷惑かけやがったな」
「え?」
「お前がベラベラ喋るから、おばさんが騒ぎ出して大事になったじゃねえかよ」
「そんなことになってたんだ」
「しかもうちの社長にまで話が行って、首になったんだぞ」
「それは大変だったね」
「他人事みたいに言うな。俺のピンチだぞ。全力でどうにかしろよ」
「そろそろ私も解雇を出そうかな」
「は? 何の話だ」
「離婚しましょう」
「ふざけんな。俺は認めないぞ。勝手なことするな。お前みたいな便利なサンドバックを手放すわけないだろ」
「うん、だよね。サンドバック代わりだからね。ねえ、どうして私があんなに蹴られても罵倒されても笑っていられたか分かる?」
「俺の愛の鞭を喜んでたからだろ」
「違うの。あなたを確実に刑務所にぶち込むためよ」
「はあ?」
「あゆみって名前、覚えてるわよね」
「誰だそれ?」
「とぼけないで。あなたが三年前に付き合ってた彼女よ」
「ああ、あの女か。それがどうした?」
「彼女は私の中学時代からの大親友なの」
「はあ」
「ずっと行方不明で心配してた。二年やっと見つけたけど、精神病院の閉鎖病棟にいたわ。あなたのせいで心が壊れて、言葉も話せなくなってたの」
「なんだよそれ。俺は関係ない」
「彼女が回復して全てを話してくれたの。サンドバックにされた日々のことをね」
「何の証拠があって言ってるんだ?」
「そう。肝心のそれがないの。あゆみは警察に行ったけど、証拠が足りなくてあなたは不起訴になった」
「当たり前だ。俺は何もしてない」
「悪いことしたよね。あゆみを傷つけたでしょ」
「してないって言ってるだろ」
「それを確かめるために、私があなたの妻になったのよ」
「は? 偶然で会ったと思ってた」
「そうでしょ。行きつけの居酒屋が同じで、たまたま話が合って…全部計算よ。あなたの好みの女を演じて近づいたの。ニコニコして男に尽くして従順な私。どうだった?」
「嘘だろ? じゃあ俺と結婚したのは?」
「あゆみの復讐。それだけのためよ。当然、あゆみは知らないし、こんなことを望んでない。でも私の気が収まらなかった」
「そんなことのために自分の人生を棒に振ったのかよ」
「親友の人生を奪ったあなたを地獄に落とさないと、バランスが取れないじゃない」
「だからってここまでやるか」
「私たちは一緒に笑って一緒に泣いてきたの。そんな存在が突然消えて、再開した時に壊れてた。どうやって許せというの?」
「あゆみはあゆみ。お前はお前だろ。割り切れ」
「そうはいかない。もう民事不介入なんて言わせないわ。確実に実刑にするためには、決定的な証拠となる被害が必要だった。そのためにずっと耐えてきたの」
「狂ってやがる」
「ルミおばさんには、命に関わるからやめろって反対されたけどね。でもあゆみの無念を晴らすには、私が犠牲になるしかなかった」
「あなたが蹴ってくれたおかげで、証拠のストックがどんどん増えていったよ。極めつけは全治三ヶ月の重症。これでもう言い逃れはできない」
「ちょっと待ってくれ。一旦話し合おう」
「私はもう十分すぎるほど耐えたと思う。最後の蹴りは痛かったけど、これで終わりだと思ったら、自然に笑みがこぼれたわ。だからあの時、笑ってたの」
「あなたは今日から容疑者になる。裁判は原則公開だから、氏名も公表されるわ」
「嘘だろ」
「これだけの証拠があれば、不起訴になることもない。あゆみの時みたいにはいかないわよ」
「待ってくれ。ごめん。悪かった。調子に乗ってただけなんだ」
「今さら謝るくらいなら、あんなことするんじゃないわよ」
「もっと早く止めてくれてたら、やめてた」
「ん? 私、言ったよ。何度もやめてほしいって」
「あれは弱すぎたっていうか…」
「最初の頃は泣きながら言ったこともあった。なんで泣いてたか分かる? 痛いから? 違うの。あゆみがこんな目に会ってたのかと思ったら、悔しくて悲しくて泣けてきたのよ」
「もう分かった。いくらだ? いくら払えば許してくれるんだ?」
「百兆円」
「ふざけるな。現実的な額を言え」
「本気よ。国家予算規模のお金じゃないと納得しない」
「金じゃないってことか」
「心の底から反省しなさい。そして二度と誰も愛さず、一人で孤独に朽ちて。それが私とあゆみの願いよ」
「そこまで恨まれるほどのことか。俺の自由だろ」
「やっぱりさっきの謝罪は上辺だけだったのね」
「調子に乗るなよ。優秀な弁護士をつけて逃げ切ってやる」
「私、たくさんの証拠動画を持ってるでしょ。そのコピーを全てルミおばさんに送ったの」
「あっそ。どうせ親戚に見せて俺を非難するんだろ。身内から縁を切られるくらい上等だよ」
「身内だけで済めばいいけど」
「どういうことだ?」
「ルミおばさんが言ってた。データをもらったのはいいけど、スマホとかパソコンとかよく分かんないから、流出したらどうしようって」
「嘘つけよ。バリバリパソコンで仕事してるじゃねえか」
「私に言われても困る。まあ、将来あなたの大事な人がその動画を見ないことを祈るしかないわね」
「一生残るってことか。それはちょっとまずいな」
「まあ、七、八年後のことを今心配しても仕方ないけど」
「何の話だよ。驚かすなよ」
「過去の判例よ。あなたは暴行の常習性があるし、反省の色もない。実刑は免れないわね」
「嘘だろ。無理だ。刑務所なんて行けるか」
「大企業の社長だって、悪いことをすれば檻の中よ」
「助けてくれ。俺が悪かった。何でもするから」
「悪いけど、サンドバック係はもうやめたの」
「頼む。人生も心も一からやり直すから助けてくれ」
「無理よ。あなたが蹴り飛ばしたのは私じゃなくて、自分の人生だったのね」
「そんな…」
「本当に哀れな男。ダサいし、キモいし。あなたに使った時間を返してほしいわ」
「リッカ、頼む。怖いよ」
「情けない。今まで散々偉そうなこと言ってたけど、中身は大したことなかったわね」
「ごめんなさい。プライドも捨てる。生まれ変わる」
「あなたのプライドなんて、最初から薄っぺらかったわ。丸めて捨てて、二度と視界に入れたくもない。ブロックするわ」
「おい、リッカ、今の暴言は許すから返事してくれ」
数分後。ケトはルミおばさんに電話していた。
「ルミおばさん、助けてくれよ。リッカからブロックされて、俺の声が届かないんだ」
「何をどうしてほしいか、言ってみな」
「警察だけは勘弁してほしいんだ」
「はい、アウト。最後の最後まで欲深いね。呆れても言えないわ」
「だって俺は、家族を失わないで済むよう全力を尽くす。最後に寄り添ってくれるのは家族しかいないんだから」
「そうだけどね。あんたが刑務所から出てきた時、誰もいないのよ。その道をあんたは今選んだの」
「だってリッカは離婚するって言うし、母さんだって怒ってるんだろ。もうどうしようもないじゃんか」
「それでも本当に反省して心を入れ替えたら、一人くらいは待っててくれる人がいたかもしれないね。今さらそんなことを言われたって、もう遅いけど」
「問題です。道を歩いていたあんたは、買ったばかりのスマホを排水溝に落としました。あなたならどうしますか?」
「はい? いきなり何なんだ? 心理テストか?」
「いいから答えなさい」
「そりゃ大事なものだし、必死にどうにかして取るよ」
「落としたらどんな気持ちになるかしら?」
「落とさないようにちゃんと持ってればよかったな、とか後悔したり反省もするだろうね。でも今のあんたは、排水溝にスマホを落としたまま、それを人に知られない方法ばかり考えてる。そんなことしたってスマホは戻ってこない。格闘してる間に浸水してデータも消える。すべきことは決まってるのに、排水溝の前に立ってずっと文句を垂れてるだけの無能なのよ」
「壊れたらまた買えばいいだけだ」
「スマホはそうね。でも人間は違う。修理も交換もできない。そのくらい分かってるよ」
「だったらどうして、スマホ以下の扱いができたの? リッカは壊れないと思ってたんだ」
「あんたが覚えておくべきことは一つだけでいい。お前ごときが傷つけていい人間は、この世に一人もいない」
「そこまで言うか」
「私はあの子の明るい笑顔が大好きなの。いいお嫁さんと一緒になれたねって嬉しかった。でも復讐の鬼に変えたのはあんたよ」
「俺はどうすればよかったんだ?」
「教えてあげる義理はないわ。子供の頃から可愛がってきたあんたは、もういない。排水溝の中に沈むスマホをずっと眺めてなさい」
「おばさん、あら、大変」
「何?」
「親戚の小さな子が遊びに来てるんだけど、あんたの動画をアップロードしちゃったみたい。やだ。どうしましょう? 消し方が分からないわ」
「すぐに消せ。削除ボタンだ」
「どこ? どこ? 全然分からない」
「わざとだろう。ふざけんな。あんなものが出たら終わりだ」
「消し方が分からないから、このままにしておくわね」
その後、元夫の転落劇は予想通りの結末を迎えた。親戚だけに送ったはずの動画が、手違いによって拡散してしまったのだ。特定犯によって、彼の過去の悪行まで全てさらされることになった。高徳寺社長から正式に懲戒解雇を言い渡され、退職金もゼロ。さらに傷害罪で逮捕され、八年の実刑となった。
「是非、受刑者のサンドバックにしていただきたいと思います」
出所後も、DV夫のレッテルは一生消えず、まともな職にはつけないだろう。義両親は真実を知ってショックを受けていたが、「息子とは縁を切るから、あなたは幸せになって」と涙ながらに謝罪してくれた。
私は今、ルミおばさんや高徳寺さんのサポートを受け、新しい生活をスタートさせている。あゆみも退院を目指して頑張っている。ケトが傷害罪で刑務所の向こうにいると言ったら、安心したように笑っていた。でも、私のことを話すと怒るし苦しむから、これは墓場まで持っていくつもりだ。
心と体の傷も癒え、今は本当に心から笑えている。男らしさって、力を誇示することではなく、大切な人を守ることだと思う。そんな当たり前のことに気づけない男に、明るい未来なんて来るはずがない。
最近、キックボクシングを習い始めた。ある人物の顔を浮かべると力が自然と入り、「いい蹴りだね」とトレーナーから褒められている。
