廊下に車椅子が置きっぱなしになっているのを見て、健一が眉をひそめた。「なあ、母さんの車椅子、ちゃんと片付けろよ」——仕事から帰ったばかりの彼の口調は、まるで私を責めるようだった。その日、私はお母さんの夕飯を作りながら、介護と会社の手伝いで手が回らなかっただけ。なのに彼は「お前は家にいるから暇だろ」と吐き捨てた。私は十八年間、彼の母親の介護を一人で続けてきた。彼は何もしてこなかった。それなのに…

廊下に車椅子が置きっぱなしになっているのを見て、健一が眉をひそめた。「なあ、母さんの車椅子、ちゃんと片付けろよ」——仕事から帰ったばかりの彼の口調は、まるで私を責めるようだった。その日、私はお母さんの夕飯を作りながら、介護と会社の手伝いで手が回らなかっただけ。なのに彼は「お前は家にいるから暇だろ」と吐き捨てた。私は十八年間、彼の母親の介護を一人で続けてきた。彼は何もしてこなかった。それなのに...

廊下に車椅子が置きっぱなしになっているのを見て、健一が眉をひそめた。仕事から帰ってきたばかりの彼は、疲れた表情のまま吐き捨てるように言った。

「なあ、母さんの車椅子が廊下に置きっぱなしだけど、ちゃんと片付けろよ」

「ごめん、すぐ片付ける」

「介護やってるんだからちゃんとしろよ。仕事から帰ってきてあんなの廊下にあったら邪魔なんだけど」

美咲は台所から顔を出し、少し感情的になって言い返した。

「確かに出しっぱなしにしてたのは悪いけど、お母さんの夕飯の準備をしてたの。私一人でやってるんだし、手が回らないこともあるわ。健一こそ、たまには手伝ってくれてもいいんじゃない?」

「はあ? 俺は仕事してるんだけど。今日だって今帰ってきたとこだし。みさは暇だろ?」

「暇じゃないよ。介護も大変だし、お母さんの会社の手伝いもしてるし」

「会社の手伝い? お母さんが自営なのは知ってるけど、小さい会社じゃん。咲が手伝えるレベルの仕事って、どうせ雑用だろ。それで忙しいって言われてもな。俺は会社で朝から晩まで働いてるんだ。お前は家にいるからストレスとかないだろ」

「そんな言い方……」

「それより、ちゃんと家のこと片付けろよ」

「分かった」

その日の夜、美咲は母親の部屋で介護をしながら、声をかけられた。

「美咲さん、健一と喧嘩したの?」

「ああ、いいえ、大丈夫です」

「あの子、機嫌が悪かったし、さっき車椅子に膝をぶつけていたの。あなたに当たってると思って」

「バレてましたか? そうなんです。少し喧嘩しちゃって。でも、大したことはないですよ。きっと疲れてイライラしているだけでしょうし」

母親は優しく微笑んだ。

「ごめんね、美咲さん。迷惑かけて。あの子が介護を全部あなたに押し付けて」

「お母さんが謝ることじゃないですよ。私、お母さんのこと大好きですから。それに介護は全然苦じゃないですし」

「美咲さん、あなたは本当に優しい子ね。十八年間も私のために尽くしてくれて、ありがとう」

「お母さん、何言ってるんですか? 私の方こそ、お母さんには本当によくしてもらってますから。お互い様ですよ」

翌日、美咲は母親の会社で事務仕事をしていた。電話が鳴り、美咲が対応する。

「お母さん、高田正司さんから期日の問い合わせです。今週は立て込んでいますが、どうしますか?」

「待たせてしまうのはいけないわ。他のスケジュールを組み直せば大丈夫だし、今週中と伝えて」

「分かりました。あと、今月の請求書を作成したので、後で確認してもらっていいですか?」

「え、もう作ったの?」

「はい。さすがに慣れましたし、こういうのは早い方がいいと思って」

「ありがとう。美咲、いつも助かるわ。でも、ここまで働いてくれているし、ちゃんとした給料を出したいの。介護だけじゃなくて、会社の仕事もやってくれてるでしょ?」

「でもお母さん、私はただお手伝いしているだけですよ。介護の延長みたいなものですし」

「あなたは立派に仕事をしてるわ。そう言ってもらえるのは嬉しいんですけど、お給料なんてもらえません。本当にお手伝い程度のことしかやってませんから。むしろ、お金をもらうような働きをしていないのにもらってしまうのは、社員の人に気が引けてしまいます」

「分かったわ。でも、いつかは受け取って欲しいの」

「分かりました。ありがとうございます」

その日も健一は遅く、帰ってこなかった。美咲がスマートフォンにメッセージを送る。

「ねえ、健一、今日も遅くなるの?」

「ああ、仕事が立て込んでて、多分泊まり込みかな? 夕飯いらないし、先に寝てて」

「分かった。気をつけてね。それにしても、最近多くない?」

「忙しいんだから仕方ねえだろ。なんだよ。俺が遅くまで働いてるのに文句か? 家計のために頑張ってるっていうのに」

「そういうつもりじゃないわ。ありがとう」

「お前さ、もっと俺に感謝とかねえの?」

「え?」

「専業主婦で養ってやってるのに、俺の相手もせず金ばっか使いやがって」

「そんな言い方……」

「ああ、もっと愛想のいい女と結婚すればよかった。家に帰っても疲れた顔のおばさんがいると、やる気なくすわ」

「ねえ、さすがに言っていいことと悪いことがあるんじゃない?」

「もう少し綺麗にしていろって言ってんだよ。お前、老けたし。鏡とか見てる? 人にどう見られてるか、もう少し気にしろよって話だろ。事実言われて切れるなよな」

美咲は何も言い返せず、その日はそれ以上会話を続けなかった。

一週間後、健一が珍しく早く帰ってきた。リビングに座り、美咲を呼び止める。

「美咲、ちょっと話がある」

「何? どうしたの?」

「実は、離婚したい」

美咲は一瞬、言葉を失った。

「え? どういうこと? 私、何か悪いことした?」

「別に悪いってわけじゃねえけど、もう気持ちが冷めた。この前も言ったけど、お前、綺麗じゃなくなったし。やっぱり男ってさ、パートナーにいつまでも綺麗でいて欲しいんだよ」

「そんな、急に……」

「いや、待って。あなた、最近帰りが遅くなって、急に私の外見を指摘するようになったわね。もしかして、他に誰かいるの?」

健一は少し動揺しながらも、開き直った。

「ああ、なんだよ。急に」

「若くて綺麗な女性を身近で見るようになって、私が不細工に見えたんじゃない? 帰りも遅いし、朝帰りも多い。しかも、あなたの仕事って、夜遅くまでやるような業務じゃないでしょ」

「なんだよ。そういうとこだけ勘が鋭いんだな」

「本当なのね」

「ああ、他に好きな人ができた。その人と再婚したいんだ。だから離婚してほしい」

「いつから浮気してたの?」

「数年前からだ」

「数年前? 全然気づかなかった」

「いや、全然気づいてなかったから、このまま気づかないと思ってたんだけどな。お前、本当に鈍感っていうか、俺に興味ないよな。まあ、十八年お前に介護を任せて浮気してて悪いけど、お互いのために別れようぜ」

美咲は怒りよりも、虚しさを感じていた。

「私、ずっと一人で介護してきたのに。確かに、あなたとちゃんと向き合えなかったわ。でも、それはあなたも私に寄り添ってくれなかったからじゃない」

「はあ。人のせいにするなよな。まあ、もういいじゃん。お互い気持ちが冷めてるんだし。それでさ、離婚後のことなんだけど。離婚するけど、介護だけは今後も続けてくれ」

「は? 何言ってるの? 離婚するのに?」

「美咲、母さんのこと好きだろう。母さんも美咲のことを娘みたいに思ってるし。離婚したら他人になるけど、美咲は母さんを見捨てられないだろう」

「健一は?」

「俺は無理。仕事もあるし。それに、介護は女の方が向いてるじゃん」

「それは違うでしょ。浮気相手の人は女性よね。彼女は?」

「彼女も無理だって。お前と違って仕事あるから。美咲は専業主婦だろ。時間あるんだし、頼むよ」

「そんなの、ふざけてるわ。私はヘルパーでもないのよ。大体、離婚したら私だって働きに出るわ。あなたと条件は同じはずなのに、自分だけ逃げるなんて」

「いいのか? お前が介護しなかったら、母さんが苦しむことになるんだぞ」

「何ですって?」

「母さんの負担も考えろよ。今更知らない人に介護されるとか、かわいそうじゃん。それに比べて美咲は付き合いが長いし、母さんの介護の仕方は分かってるだろう。母さんだって安心だしさ」

美咲は呆れて、それ以上話を続けられなかった。

数時間後、インターホンが鳴った。玄関を開けると、見知らぬ女性が立っていた。

「初めまして。健一さんの婚約者の森川麻衣です」

「あの、連絡先も教えてないんですけど。ていうか、はっきり婚約者って名乗られても……」

「連絡先は教授してもらいました。今後のこと、ちゃんと話し合っておいた方がいいかなって思って」

「慰謝料とか、そういう話ですか?」

「あは、そっちじゃなくて。お母さんの介護は、これからもお願いしますねって話です」

美咲は、目の前の女性が何を言っているのか、信じられなかった。

「あの、離婚したら赤の他人になるので、私に介護義務はないですよ。それに私だって働きに出るわけですし、仕事をしているから介護はできないというのは、無理があります」

「そうですけど、お母さんは美咲さんのことを気に入ってて、美咲さんもお母さんのこと好きでしょ? なら、美咲さんが介護する方がいいじゃないですか。だから、これからもよろしくお願いしますね」

「ふざけないでください」

「あ、そんなつもりじゃなくて聞いてるんですよ。十八年も介護してきたのに、今更投げ出すんですか? お母さん、すごく困っちゃいますね。美咲さんのせいで苦労するなんて、かわいそう」

「それは……普通に考えてくださいよ。あなたの方が原因なんでしょ?」

「私って社会でやっていける女なので、介護とか無理なんですよ。美咲さんは専業主婦だから、時間も余裕あるでしょ。私はキャリアがあるので、仕事を優先したいんです」

「それは私だって働きに出ます。でも、今はまだ働き口すら見つかってないんです」

「そりゃそうですよ。夫の稼ぎにあぐらをかいて、求人情報とか見なかったんでしょ? 自業自得じゃないですか。介護をしてると、そんな暇ないんですよ」

「言い訳ですか? これだから専業主婦って嫌われるんですよ。私は毎日会社で働いてるので充実してますし、社会的にも立場は上です。美咲さんも、介護だけじゃなくて何か生きがいがあるといいですね」

「どれだけ人を馬鹿にすれば……そんなに怒らないでくださいよ。慰謝料くらいなら払ってあげますから」

「は、それくらい払ってあげますって言われてもね。でも、あんまり期待しない方がいいですよ。だって、そんなに多く取れませんし。浮気しているのは明らかなんですよ。それなのに慰謝料が少ないわけ……」

「証拠ないじゃないですか。私たちがいつから交際していたか、実際に分かる証拠、あります?」

「数年前って聞きましたよ」

「ああ、それは本当ですかね? 証明しようがないんですから、無理ですよ。まあ、さすがに一円も払わないのはかわいそうなので、介護費ってことで払ってあげます。そうしたら、あなたも働きに出る必要ないでしょう。その辺は、二人で話し合って払ってあげてもいいねって言ってたんで。だって、専業主婦だとこの先大変ですし、かわいそうなので」

美咲は、これ以上話しても無駄だと悟り、口を閉ざした。

「あなたとは、これ以上話しても無駄のようです。失礼します」

森川麻衣が去った後、美咲は自室に駆け込み、涙が止まらなかった。しばらくすると、ノックの音が聞こえた。

「美咲さん、何かあったの? さっき、泣きながら部屋に向かってったでしょ。車椅子で作業してて、少し廊下が見えてしまって。ごめんなさい」

「お母さん、心配かけて……」

「何があったの?」

「実は……健一が離婚したいと言ってきて」

「え? 離婚? なんで急に」

「浮気相手がいるみたいです。その人と再婚したいって」

「何ですって……あのバカ息子が」

「私たちの関係は冷めていました。だから、離婚と言われても仕方ないかなと思います。でも、健一は離婚後も私に介護を続けて欲しいって……」

「ちょっと待って。あの子は介護はあの子が本来するべきなのよ。浮気した分際で何を言ってるの?」

「健一は、介護は無理だって。浮気相手の人も『介護はお願いします。私は社会でやっていける女だから無理』と」

「ふざけるな。あのバカ息子。浮気相手も完全になめてるじゃない」

「でも、実際その通りだと思います。私、資格もないですし」

「何を言ってるの? 美咲さん、あなたは何も悪くないわ。むしろ十八年間も私のために尽くしてくれた。それなのに、こんな仕打ちを許せない」

「でも、健一の要望通りのことになると思います。お母さんの介護を放り出すわけにはいかないですし」

「美咲さん、あなたは優しすぎるわ。でも、ここで負けちゃダメよ。いい? あなたは私の介護を一人でやってくれた。健一は何もしなかった。仕事が忙しいと言って、全部あなたに押し付けた。そして、離婚するけど介護は続けろ。そんな奴、私の息子じゃないわ」

「お母さん……」

「あなたには自由になる権利がある。美咲さん、悔しいでしょ?」

「悔しいです。でも、どうしたらいいか……」

「きっちり慰謝料を取りましょう」

「慰謝料でも、証拠もないし、向こうは少しだけなら払ってやるって」

「少し? 甘いわ。手切れ金みたいな金額じゃダメよ。しっかり支払わせるの。浮気の証拠があれば、多く慰謝料を請求できるわ。必要な費用は私が出すから」

「そんな、申し訳ないです」

「何を言ってるの? これは私からの恩返しでもあるのよ。だから遠慮しないで。それとも、私をあの人の手助けもしない老婆にするつもり?」

「お母さん……」

「私には長年お世話になってる弁護士がいるの。離婚案件に強い先生よ。それと、取引先に探偵事務所を経営している人がいるから、すぐに証拠を集めてもらうわ。わざわざ浮気を暴露したバカ二人よ。いくらでも証拠は手に入るはず」

「ありがとうございます」

「当たり前よ。あなたを守るのは私の務めだから。それと、仕事のことなんだけど、どこか当てはあるの?」

「あ、いえ、それがまだ全然……」

「それなら、お願いがあるの。私の会社を継いでくれないかしら」

「え? 会社を? でも、私はただのお手伝いしかしてないですし、きっと周りの反発を買ってしまいます」

「お手伝い? 美咲さん、あなたはこの十八年間、何をやってきたと思ってるの?」

「経理や書類のチェックとか、顧客対応とか、雑用くらいしか……」

「それ、全部仕事よ。美咲さん、あなたは経理も顧客対応も営業サポートも全部やってくれた。顧客からいつも『丁寧な対応ありがとうございます』って感謝されてるでしょ?」

「はい」

「それ、仕事なのよ。あなたがいなかったら、この会社は回らなかった。あなたは私の右腕だったの」

「私……仕事してたんですか?」

「当たり前でしょ。あなたは立派に仕事をしていたのよ。それをあなたはお手伝いだと思い込んで、給料を断り続けた。でも、あなたがやってきたことはプロの仕事だったの」

「そうだったんですね。私、ずっとお母さんのお手伝いだと思ってました。でも、健一は普通、長男が継ぎますよね?」

「あの子は会社を継ぐ気がなかったのよ。何度も打診したけど、『めんどくさい』って断られたわ。それに、介護を放棄した上に浮気までするような奴に会社を任せられないわ」

「従業員の方は納得されないと思います」

「それなら、すでにあなたが社長になることをみんな了承してくれてるわ。前々から話をしていたの。もちろん美咲さんの気持ちが優先だけれども、従業員三十人全員に聞いたわ。美咲さんを後継者にするつもりだって。みんな、あなたがいいと言ってたわ」

「そんなことが……」

「あなたは従業員からも信頼されてるし、顧客からも慕われている。経営者としての素質があるってことなの」

「本当に、私でいいんですか?」

「あなた以外にいないわ。これは恩返しでもあり、私の本心でもあるの」

「でも、私、専業主婦で何の資格もないし……」

「資格? 私のそばで実務をやってきたのよ。それ以上の資格があるの? 美咲さん、自信を持って。あなたは素晴らしい人よ。だから会社を継いで欲しいの」

美咲は深く息を吸い、覚悟を決めた。

「分かりました。お母さんがそこまで言ってくださるなら、会社を継ぎます」

「ありがとう、美咲さん。あなたなら絶対に大丈夫よ」

「頑張ります。それから、お母さん。でも私、離婚します」

「その決断は素晴らしいわ。例え他人になっても、あなたは私の大切な娘よ。でも、それとこれとは別。健一の介護の要求は断りなさい。離婚したら法的には赤の他人。介護義務はない。でも、あなたはこれから会社を回していかないといけないのよ。私のお世話をしている暇なんてないわ。むしろ、今まで快適に過ごせていたのはあなたのおかげ。ヘルパーを雇うとかわいそうだなんて思わないでね。私もあなたに甘えていたのだから。これからは、あなたの背中を押したいの」

「お母さん、ありがとうございます。私、十八年間ずっと我慢してきました。でも、もう我慢しません」

「そうよ。美咲さん、あなたは自由になっていいの。私が全力で守るから。健一と浮気相手には、きっちり責任を取ってもらいます。慰謝料もしっかり請求します。その援助も、私も全力で協力するわ」

数週間後、母親のところに弁護士から連絡が入った。

「美咲さん、証拠が揃ったわ」

「本当ですか?」

「健一と浮気相手がホテルに出入りしている写真も含めて、全部揃ってるわ。弁護士にも確認したけど、これなら慰謝料を請求できるって」

「ありがとうございます。でも、どれくらい請求できるんでしょうか?」

「相場は百万円から三百万円だけど、十八年間の介護という事情もあるから、もっと高額になる可能性もあるって」

「十八年間の介護も考慮されるんですね」

「当たり前よ。介護を全部押し付けて浮気した健一は、責任を取るべき」

「分かりました。きっちり請求します」

翌日、健一から連絡が来た。

「離婚届、サインしたから送るわ。どうせ、愛人の家にいるんでしょ。住所教えて欲しいんだけど」

「おう、ありがとう。手続き早くて助かるわ。じゃあ、母さんの介護よろしく頼むな。美咲優しいから、絶対やってくれると思ってたわ」

「すると思った。あ、ちょっと待ってよ。母さんは美咲のことを娘みたいに思ってるんだぞ」

「お母さんには、私から説明するから。親の介護は、あなたがやってね」

「美咲、母さんを見捨てるのか?」

「見捨てる? 十八年間、私一人で介護してきたんだけど、あなたは何もしなかったよね」

「俺には無理だ。仕事もあるし」

「じゃあ、ヘルパーを雇えばいい。費用は自分で出してね」

「ヘルパー代なんて高いんだぞ。美咲が続けてくれれば、無料なのに」

「無料? 私の労働を無料だと思ってたの?」

「いや、そういうわけじゃ……」

「結局、私のこと労働力としか思ってないでしょ。ふざけんじゃないわよ。どれだけ大変かも知らないくせに」

「とにかく落ち着けよ。話し合おう」

その数時間後、今度は森川麻衣から電話がかかってきた。

「美咲さん、ちょっと待ってください。介護、本当にできないんですか?」

「できません。でも、健一さんは美咲さんが続けてくれるって」

「それは、あなたたちの勝手な思い込みです。私、仕事があるので介護はできないんです」

「美咲さんは専業主婦だから、時間あるでしょ」

「専業主婦? 私、これから会社の社長になるんですけど」

「え、社長?」

「お母さんの会社を継ぐことになりました。だから、仕事で介護できないという理由なら、私にも介護は無理です。あなたたちで何とかしてください」

「本当に社長? 専業主婦のくせに……」

「随分失礼な言い方ですね」

「いや、そういうわけじゃなくて。でも、会社ってそんな簡単に継げるようなものじゃ……」

「お母さんの会社の実務は、介護しながら十八年間、私がやっていました。実務経験十八年といえば、十分でしょ。では、失礼します。これから介護、頑張ってくださいね」

翌日、健一が母親に電話をかけた。

「母さん、よかった。連絡ついた。聞いてくれよ。美咲がもう介護しないとか言っててさ。それだと母さんも困るだろ。だから、美咲を説得してくれないか」

「当たり前でしょ? 説得? ふざけてるの?」

「え、母さん?」

「介護を放棄して人に押し付けて、自分は外で女を作るなんて情けない。恥を知りなさい」

「いや、その、俺だって忙しくて……」

「言い訳は聞きたくないわ。あんたは介護を全部美咲さんに押し付けて、浮気した挙げ句に、介護だけは美咲さんにまた押し付けようとした。私はあんたを息子とは思わない。あんたは勘当よ。二度とうちに来るな。介護に必要なお金だけ払いなさい。今まで介護を他人に押し付けていたのだから、それくらいするのが筋よ」

「母さん、そんな、待ってくれよ」

「もう、あなたの声なんて聞きたくもない。この家からも出ていきなさい。ここはもう、あなたの帰る場所じゃないわ」

「は? 住む場所がなくなるってこと?」

「そうよ。愛人の家にでも転がり込みなさい。今もそっちの女のところにいるんでしょ? もう二度と顔を見せないで」

数日後、健一から森川麻衣に電話が入った。

「おい、麻衣、やばいって。慰謝料請求された。三百万円だって」

「私にも来た。払えないよ、こんな金額。どうすればいいんだ?」

「せいぜい十万そこらだろうから払えると思ったのに。こんなことになるなんて聞いてないわ。あなたが『妻は優しいから続けてくれる』って言ったんでしょ」

「お前が介護したくないって言ったから、元妻に頼むしかなかったんだろうが。ていうか、専業主婦のはずでしょ。社長になるなんて聞いてない」

「俺も知らなかったんだって。母さんの会社なんて小さい会社だし。でも、社長は社長じゃないか。このままじゃまずい。なんとかしないと」

翌日、健一が美咲の家に押しかけてきた。

「美咲、頼む。話を聞いてくれ」

「何の用ですか?」

「慰謝料三百万円なんて無理だ。もう少し減額してくれないか?」

「あなたが私にしたことを考えれば、三百万円でも安いくらいよ。ヘルパーさんに十八年間の介護をお願いしたら、いくらかかるか分かってる?」

「全部俺が悪かった。もう一度チャンスをくれないか?」

「何のチャンス?」

「俺、反省してる。もう一度やり直せないか?」

「浮気相手と再婚するんじゃなかったの? 私のこと、もう女として見られないんでしょ? じゃあ、一緒にいられないわ。都合が良すぎよ」

「美咲、頼む。俺、もう行くところがないんだ。麻衣とも喧嘩しちゃったし、母さんにも見捨てられた」

「それは自業自得でしょ。あなたは十八年、私の努力を見ようともしなかった。だから、私もあなたを見ないことにするわ。永遠にね」

「そこをなんとか。お金だって、介護費として九年分を払うから、慰謝料請求を取り下げてください。お願いします」

「どうしてそんなことを。取り下げる理由がありません」

「会社にバレそうなんです」

「あは、そりゃそうでしょ。払えなければ、給料差し押さえの手続きをしますから。でも、自業自得ですよね。浮気したのは、あなたなんですから」

その後、今度は森川麻衣が美咲に直接電話をかけてきた。

「美咲さん、私、騙されてただけなんです」

「騙された? あなた、健一が既婚者だと知ってましたよね」

「それは……でも、あなたは私を社会から取り残された専業主婦と馬鹿にしました」

「ええ、そうでしたね。でも今、あなたは浮気で会社での立場が悪くなって、私は社長です。立場が逆転しましたね」

「お願いします。私、この仕事が全てなんです」

「あなたは『私って社会でやっていける女』って自慢してたじゃないですか。だったら社会でやっていけばいいじゃない。どこでも働けるでしょ。慰謝料はきっちり払ってください。では、失礼します」

翌日、母親が美咲に言った。

「美咲さん、今日、取引先に息子との縁切りを伝えたわ。『息子の健一とは縁を切りました。今後、もし健一が私の名前を出しても、一切関わらないようにお願いいたします』って。複数の取引先に同じメールを送ったの」

「お母さん、ありがとうございます。もし関係者が来た時は、こちらで対応します」

「あれだけのことをしたのだから、お金だけで済むなんて考えが甘いのよ、あの子も。ああ、それとね。少し税金で取られてしまうのだけど、今まであなたに渡せなかったお給料を、こっそり貯金していたのよ」

「え、いつの間に?」

「それを受け取ってもらえない? あなたの働きを実務として扱っているのだから、お給料はやっぱり渡したいのよ。もちろん、受け取ってくれるわよね」

「お母さん、ありがとうございます」

数週間後、健一は会社で異動を言い渡された。

「麻衣、やばい。俺、左遷させられた」

「左遷? 本社から別部署に移動って、これ実質的な降格じゃない」

「母さんが取引先と色々付き合いがあったらしくて、それで俺の話を聞いたらしいんだ。『取引に影響が出るから、移動させるしかない』って説明された」

「お前が余計なこと言うからこうなったんだぞ。どうしてくれるんだ?」

「は? あなたのせいでしょ? ていうか、もう連絡してこないでよ」

「なんだって? 会社で降格されたとか、俺に責任があるってのか? ざまあみろ。母親にも会社にも見捨てられた男なんて、こっちから願い下げだ」

「ふざけんな。お前だって会社やめたんだろ。なんで、それをお前の友達から聞いたんだよ。会社で浮気がバレて、同僚にいびられまくったって。何が『仕事できる女』だよ。すぐやめるとか、甘えてるのはお前の方だろ」

「は? あんたに何が分かって言ってるのよ。こっちはキャリアを潰されてるのよ。こんなはずじゃなかったのに」

「俺だって、こんなはずじゃなかったんだ」

数週間後、健一が再び美咲に連絡をしてきた。

「美咲、頼む。もう一度だけ話を聞いてくれ。俺、もう限界なんだ」

「何でしょうか?」

「慰謝料が払えない。生活も苦しい。母さんの介護費用も高すぎる。助けてくれ」

「助ける理由がありません。それに、お母さんはこちらで引き取ってるのよ。お金だって、介護費として九年分。今まで一切介護をしていなかったから、慰謝料として請求しただけ。文句を言われたくないわ」

「頼む。俺、美咲しか頼る人がいないんだ」

「あなたには麻衣さんがいるじゃない」

「彼女は俺を捨てた。美咲だけが頼りなんだ」

「この十八年間で、一度でも私を助けてくれた? しんどい時に、少しだけ変わって欲しいって頼んだ時。あなたは『仕事が忙しい』って言ったわよね。私も今、仕事が忙しいのだから、あなたの相手なんてしてられない」

「そこをなんとか……」

「もう無理よ。だって、今、あなたと私の立場が逆になったもの。『専業主婦で、他に行く場所がない』って舐めてたわよね。でも、私には行く場所があるの。お母さんの会社を継いで社長になって、社会的にも居場所がある。ねえ、あなたは今、どんな気持ち? 見下していた私が社長になって、あなたより収入も社会的地位も全部上になって。あなたは、母親にも勘当されて、会社では降格。浮気相手にも捨てられて、会社でも立場が悪くなって。惨めよね。でも、全部自業自得。さようなら、健一。もう二度と、連絡しないでください」

「待ってくれ。美咲、美咲!」

その後、健一は慰謝料を分割で払い続けている。安いアパートで慣れない一人暮らし。もちろん生活力なんてないので、生活費もカツカツの貧しい生活だ。会社では母親に見捨てられた噂が広まり、立場がさらに悪化。地方に左遷された。これから先の生活も、厳しいものだろう。

森川麻衣は別の会社に就職するも、母親が手を回していたようで、すぐに浮気の噂が社内に広まり、同僚からも距離を取られている。慰謝料も払い続けており、生活は苦しいまま。おしゃれもできなくなり、疲れ果てた苦労人の顔になっている。

一方、美咲は母親と一緒に暮らしている。ヘルパーを雇ったことで自分の時間も持てて、今は余裕のある生活をしている。介護も手伝いつつ仕事もして、多忙だが毎日充実している。また介護かと呆れられるかもしれないが、美咲は母親のお世話が好きだ。好きでやっているからこそ、今でも母親とは親子のように仲良くしている。これからも母親の健康を祈りながら、美咲は自分らしく生きていくつもりである。

Thumbnail