「掃除ババーの娘がどうなろうと、俺の知ったことか」——義父がそう言い放ったのは、顔合わせの席だった。私たちはすでに結婚式を終えていた。式の間、義父はずっと愛想よく笑っていたのに、入籍の話になった瞬間、豹変した。私の母を「底辺の仕事の女」と呼び、私の顔を平手打ちした。「娘は妊娠してるんですよ」と伝えると、義父は鼻で笑った。「だからなんだよ。関係あるか?」。その一撃で顔が腫れ上がった。母は清掃員…

「掃除ババーの娘がどうなろうと、俺の知ったことか」——義父がそう言い放ったのは、顔合わせの席だった。私たちはすでに結婚式を終えていた。式の間、義父はずっと愛想よく笑っていたのに、入籍の話になった瞬間、豹変した。私の母を「底辺の仕事の女」と呼び、私の顔を平手打ちした。「娘は妊娠してるんですよ」と伝えると、義父は鼻で笑った。「だからなんだよ。関係あるか?」。その一撃で顔が腫れ上がった。母は清掃員...

「掃除ババーの娘がどうなろうと、俺の知ったことか」

義父のその言葉が、すべての始まりだった。顔合わせの席で、私たちはすでに結婚式を終えていた。なのに、義父は式の間ずっと愛想を振りまいていたのに、入籍の話になると突然豹変した。娘のことを「底辺の仕事の娘」と呼び、平手打ちをしたのだ。

「娘は妊娠してるんですよ。そのこともご存知でしたよね」

私がそう言うと、義父は鼻で笑った。

「だからなんだよ。関係あるか?」

「顔合わせでも随分なご挨拶でしたのに。結婚式でもまだ文句が言いたりませんか?」

「あの一撃で、娘の方の顔が腫れ上がりました」

すると義父は、ますます声を張り上げた。

「当たり前だろう。掃除ババーの娘がどうなろうと、俺には関係ない」

「私の職業を明かすまでは穏やかに話してたのに、突然怒り出しましたね」

「当たり前だ。結婚式まで盛大にやってやって、うちは1億近くも譲ってやってるんだ。それなのに、清掃員の娘が嫁に来るだと? 冗談じゃない」

「清掃員の何が悪いんですか? あなたが普段使うトイレだって、誰かが掃除してるんですよ」

「あんなものは底辺のする仕事だ。そんな奴の娘が身内になるなんて、我慢ならん」

「仕事に上も下もないと思いますが」

「あるだろう。俺は立派な銀行員だぞ」

「あら、自分で立派だとおっしゃるんですか? 随分と自己肯定感が高いこと」

「底辺が生きるなよ。お前の体からは、トイレ用洗剤の匂いしかしねえんだよ」

「だとしたら誇りですね。恥じることはありません」

「とにかく結婚は認めん」

「でしたら、なぜ結婚式が終わった後に反対なさるんですか? 式の途中はニコニコと愛想を振りまいてましたよね」

「まだ入籍してないからだよ。式は思い出にあげてやったが、入籍は許可しない」

「それはあなたが決めることではございません。結婚は成人した男女であれば、当事者同士の同意のみですることが可能ですからね」

「俺の息子は、許可なしに結婚するような親不孝者じゃない。俺が駄目と言えば絶対に従うんだよ」

「それだけ高圧的に育ててきたなら、お父様が怖いかもしれませんね」

「お前、その余裕な態度は何だ? 強がってるのか?」

「あなたのような立派な方に強がったところで、清掃員の私がどうなるんです?」

「確かにそうだな」

「ただ、私は人間的にあなたに負けているとは思っていません」

「はあ?」

「ステータスと人間性は別だという話をしただけですが、そんなに驚くことですか?」

「お前、何が言いたいんだ?」

「あなた様にお前と言われる筋合いはありませんが、お答えさせていただきますと、銀行員の犯罪者もいれば、清掃員の善人もいるということが言いたかっただけです」

「エリートのババアめ」

「私をババアと言うには、あなたは若すぎますよ」

「お前は、ああ言えばこう言うな」

「ああ言いません」

「なるほどな。お前ら清掃員は、仲間で暇な時に喋ってばっかりだから、そんなに口が立つのか」

「そうかもしれませんね。会話は大事なコミュニケーションですから」

「田舎のばあさんが、格好つけて英語使うな」

「私の出身地をご存知なんですか?」

「知らないが、どうせ山育ちだろう」

「はい。山でも海でも結構です。私があなた様にお願いしたいことは、一つだけ。若い二人の幸せを邪魔しないでください」

「黙れ。お前の差し図は受けん」

「お前というのはやめてください」

「お前はお前だろう」

「女は執念深い生き物だということをお忘れなく」

「うるせえ女だな」

その日の夜、私は婚約者の大地と電話で話していた。

「病院どうだった?」

「MRIまで取られたけど、何ともなかったよ」

「良かったわ。びっくりしたわね」

「うん。精神的ショックの方が大きいかな。この世には言葉が通じない人間が一定数いるの。そういう人と分かり合おうとするのは時間の無駄よ」

「でも、大地のお父さんだよ」

「大地君は、あなたのためにお父さんに怒鳴ってくれたでしょ。あれが答えだと思うけど」

「そうだよね」

「二次会はどうするの?」

「せっかく集まってくれてるし、顔だけ出すよ。具合が悪くなったらすぐ帰るから」

「わかった。無理しないでね」

数日後、大地が私の家に来て謝った。

「お母さん、うちの父が本当にすみません」

「あなたが謝ることじゃないわ。気にしないで。検査の結果も異常なかったみたいだし」

「でも、僕がもっと早く止めに入っていれば、七に痛い思いをさせずに済んだのに」

「ええ、あの瞬間私も目を疑ったわ。娘の方をフルスイングで叩くなんてね」

「親父は剣道部だったんです。手癖が悪くて」

「だから急所に当たったのね」

「本当に許せない。すぐに警察に行きましょう。傷害事件です。絶縁して、治療費と慰謝料も請求します」

「気持ちは嬉しいけど、少し待ってちょうだい」

「なぜですか? あんな奴に情けをかける必要はありません」

「警察沙汰にしたら、あの子の傷に塩を塗るわ。まずは七の心のケアを優先したいの」

「それはそうですが」

「それに、ただ警察に突き出すだけじゃ生ぬるい。私が責任を持って教育するから、任せて」

「教育って、何をされる気ですか?」

「それは見てのお楽しみ。止めないでね」

「止めません。僕だって許せない気持ちは同じです。でも気をつけてください。相手は狂ってますから」

「心配ないわ。ゴミ掃除には慣れてるもの」

「分かりました。俺は七のそばにいます」

翌日の早朝、私のもとにLINEが届いた。義父からだ。

「おい、大(だい)起きろ」

大地が寝ぼけた声で言った。

「なんだよ。まだ朝の5時だぞ。俺はイライラして一睡もしてないんだ」

「知らねえよ。昨日あんなことしておいて、よく連絡できるな。七は一晩中泣いてたんだぞ。もうあんたなんか父親とも思いたくねえよ」

「ああ、俺こそが被害者だぞ。あの女のほほ骨が硬すぎて、手首を捻挫したわ」

「自分の娘くらいの女性を殴って、病院行けよ。頭の方な」

「親に向かってなんだ、その口は。誰のおかげで就職できたと思ってるんだ」

「普通に面接して実力で就職したけど」

「ああ? 俺が裏から手を回してやったんだよ」

「嘘だろ?」

「まあいい。今から母親と嫁を再教育してやる」

「は? やめろよ。これ以上二人に関わるな。七は絶対安静なんだぞ」

「余計な口出しをしたら、お前の会社潰すからな」

「は? どういうことだよ」

「お前の会社の経理部長が、先週うちの銀行に融資相談に来てたろ。どうやら他の銀行に断られたらしいぜ。確かに資金繰りは厳しいけどな。メインバンクに断られて、うちが最後の頼みの綱なんだよ。融資担当者にあることないこと吹き込んでやるよ。そうなれば、お前は職を失うな。子供も生まれるのに」

「おい、卑怯だと思わないのか?」

「こういうのを権力って言うんだよ。嫌ならババアと嫁に行っておけ。俺様の言うことは絶対だ」

「七は妊娠してんだぞ。昨日のお前の暴力で流産したらどうするんだ?」

「大体、結婚前に妊娠とは、不潔な女だな」

「結婚を前提に付き合ってたんだ。そんな言い方するな」

「散りがる女のことはどうでもいいが、嫁は嫁いだ瞬間から家の者なんだよ。文句あるなら、会社への融資を止めるぞ。3秒で決めろ」

「父さんにそんな権限ないだろ」

「融資部に同期がいる。そいつが不倫してることを、俺だけが知ってるんだ」

「人の弱みを握るなんて最低だな。でも俺はそんな脅しには屈しない」

「はあ。じゃあ、好きにしろ」

大地は電話を切った。しかし、それで終わらなかった。

数時間後、今度は私のところに義父からLINEが届いた。

「おい、嫁。謝罪のLINEの一つもないのか」

「謝罪とは、私が殴られた件ですか?」

「そうだ。貴様の顔が硬くて手が腫れた。被害者は俺だ」

「被害者は私です。診断書も取りましたよ」

「掃除ババアの娘の顔なんてどうでもいい。それより、お前、週末俺の家に来い」

「お断りします。行く理由がありません」

「たまった洗濯物と掃除をやれ。あと草むしりだ。嫁が来たからには、家事はお前の仕事だ」

「私は嫁じゃありません。それに、今は安静で動けないんです」

「はあ? 安静だと? 病気じゃないんだから甘えるな。昔の女は田んぼで産み落としてすぐ働いたぞ」

「いつの時代の話ですか? 知識が古すぎます」

「口答えするな。吐いた唾は飲み込めよ」

「本当にデリカシーがない方ですね」

「俺らの時代は熱があっても働いてたわ。とにかく来い。這ってでも来い。来なかったら、大地の会社潰すぞ」

「夫の会社への業務妨害ですか?」

「融資の話があるんだよ。俺の一言で倒産させることもできるんだぞ。お前がサボれば、旦那は無職だ。いいのか?」

「強迫も大概にしてください」

「うるせえよ。土曜の朝8時に来い。遅刻は許さん」

私は大地に相談した。

「大地、お父さんからLINEが来た。週末掃除に来いって」

「行かないと、大地の会社を潰すって」

「ごめん。俺のところにも来てた。マジで狂ってるな」

「悔しいけど、私行くしかないのかな。私のせいで大地の仕事がなくなるのは嫌」

「だめだ。絶対に行くな。ほほも腫れてるし。お腹の子もいるんだぞ。万が一のことがあったらどうする?」

「でも、このままじゃ大地が」

「本当に無視してていい?」

「行く必要もない。今はお腹の子のことだけを考えよう」

「分かった。ありがとう」

しかし、義父はますますエスカレートした。翌日にはこんなLINEが来た。

「おい、底辺のばあさん。生きてるか?」

「早朝から失礼ですね」

「娘のせいで手が痛いから、整形の費用をよこせ。あと慰謝料100万用意しろ」

「娘が暴力を受けましたが、こちらが払うのですか?」

「俺の手は高級なんだよ。エリート銀行員の手だぞ。掃除の娘の顔とは価値が違う」

「相変わらず随分と自己評価が高いんですね」

「嫌ならいいぞ。その代わり、娘の旦那が無職になるだけだ。どうやら、お前が来なかったら融資を止めるって話だな」

「子供たちには関係ないし、あなたの息子でもあるんですよ」

「関係あるね。連帯責任だ。あと、娘も教育しておけ。俺の誘いを無視しやがって」

「七は体調が悪いと聞いております。何にお誘いしたんでしょう?」

「うちの家事をさせるんだよ」

「はい。妊娠初期の大事な時期ですよ。安静で動けないというのに」

「病気に決まってんだろ」

「金を払うか、体で払うか選べよ」

「体でとは、どういう意味ですか?」

「労働だよ。お前、俺の銀行で掃除してるよな。俺も今から行くから、玄関で待ってろ。靴磨きさせてやる」

「それは清掃員の業務外です」

「俺がルールだ。文句あるなら、遠藤(えんどう)に言って首にしてもらえ」

「遠藤と知り合いなのですか?」

「まあ、そうだな」

「それはすごいですね。ビックリしました」

「5分後に着くから、玄関で待機してろ」

数分後、義父は銀行に現れた。しかし、人の目があるからと靴磨きは中止になり、今度は3階の男子トイレに来いと言われた。

「そこなら清掃は終わっています」

「俺が汚すから、掃除しろ」

「具体的にどこが汚れていますか?」

「全部だよ。床も便器も全部だ。洗剤を10本使っても終わらないレベルだな」

「分かりました。他の方の迷惑になりますね。すぐに再清掃します」

「あと、さっき廊下で擦れ違った時、なんで挨拶した?」

「挨拶は社会人のマナーですので」

「ゴミが人間に話しかけるな。部下に知り合いかって聞かれたじゃねえか。次俺が通る時は、壁と同化して気配を消せ」

「忍者にはなれませんが、努力します」

「口答えすんな。清掃会社に電話して、即首にするぞ」

「肝に銘じます」

数日後、今度は大地の実家でパーティーが開かれることになった。

「おい、嫁。銀行の役員が来る、大事なパーティーだ。お前、そこで給仕しろ」

「私がですか?」

「メイド服を用意したから、来て酒を注げ。若い女がいた方が場が盛り上がるんだよ」

「本気でおっしゃってるんですか? 妊婦にメイド服を着せるなんて、何を考えてるんですか?」

「まだ3ヶ月だろ。エリートたちの相手ができるんだぞ。光栄に思えよ」

「お断りします。妊娠中の負担は胎児に悪影響ですし、常識で考えてありえません」

「はあ。俺の顔を潰す気か。大地の会社がどうなってもいいんだな」

「またその脅しですか? 権力を振りかざして、恥ずかしくないんですか?」

「泣けば済むと思うなよ。当日来なかったら、入籍は許可しないし、お前の実家ごと潰してやる」

「母は関係ありません」

「お前の母親は、俺のビルで掃除してるよな。清掃業界にいられなくしてやる。母親を路頭に迷わせたくなければ、這ってでも来い」

私は母にLINEのスクショを見せた。母は言った。

「行かなくていいし、着なくていいわ。お腹の子を守ることが最優先よ」

「でも、私のせいで大地の会社が潰れたら」

「大丈夫。お母さんに任せなさい。動画を見たよ。トイレの床を拭いてるやつ。お母さんもひどい目に会ってるなんて、耐えられない。どうしてあんな人の言いなりになってるの?」

「私が考えもなくそうしてると思う?」

「ううん、思わない」

「私が小学校の頃、みんなに無視された時、お母さんが毎日通学路に立って、ニコニコとクラスメイトに微笑みかけてたよね」

「懐かしい。そんなこともあったわね」

「あの時は、怒鳴り込んでくれた方がまだいいのにって思ったんだけど、違った。どういう意味か、今になって分かったの」

「うん」

「敵意を持って接してくる人に対して、敵意を向き出しにするのは心理的に難しいんだよね。あれを毎日続けてくれた結果、みんな普通に話してくれるようになったの」

「あれは相手が子供だから通用したけど、今回は手ごわいわ」

「だから心配なんだよ」

「今回もお母さんを信じなさい。安心して、私が全部まとめて片付けるわ。あなたはスマホの電源を切って、ゆっくり寝てればいいの」

「お母さん、ありがとう」

パーティー当日。母は私の代わりに義父の家へ向かった。

「うちの娘を勝手にメイドにしないでいただけますか」

「ああ、しつけだよ。しつけ」

「妊婦にメイド服など、言語道断です。娘は欠席させます」

「はあ? ふざけんな。誰が酒を注ぐんだよ。俺のメンツが丸潰れだ。息子の会社潰すぞ」

「でしたら、私が代わりに伺います」

「お前がババアのメイド服なんて、誰が見たいんだよ。吐き気がするわ」

「メイドではなく、給仕として伺います。迷惑はかけません。あと、例の慰謝料100万もお持ちします」

「おお、それなら面白いかもな。銀行の役員の前で、底辺清掃員の土下座ショーか。最高の余興になるわ」

「私を見物にするのですか?」

「嫌ならいいぞ。娘を引きずって連れてくるから」

「だから私が行くと言ってるでしょう」

「よし、決まりだ。格好はもちろん作業着な。一番汚いやつで来い」

「承知いたしました。楽しみにしております」

パーティー当日の朝。母は義父の家の庭に立っていた。義父は2階のテラスから指示を出した。

「庭の真ん中で叫べ。『私は底辺の女です。食べ物を恵んでください』って言え」

母はその通りにした。義父は笑いながら動画を撮っていた。

「みんな汚いババアだなって顔してるぞ。これで満足か? 恥ずかしいだろう。俺に逆らったことを後悔してるか?」

「いえ、仕事ですので」

「強がるなよ、ゴミが」

数分後、今度は別の部下が翼を走らせた。

「おい、奥田を見たか?」

「見ました」

「お前の母親って、本当に恥知らずだよな」

「よくこんなひどいことができますね。あなたは悪魔ですか?」

「人聞きが悪いな。これは教育だ。お前が俺の命令を無視してこないから、代わりに母親が泥水をすすってるんだよ。全部お前の責任だ。悔い改めな」

「私のせいにしないでください。母を見下して楽しんでるだけじゃないですか」

「うるせえよ。むしろ感謝しろ。仕事を与えてやったんだから」

「本当に救いのないクズですね。このこと、絶対に許しませんから」

「負け犬がキャンキャン吠えるな。次は生まれたガキにも掃除させるからな。おむつ一丁で便器を磨かせたら面白いだろう」

「私の子供には指一本触れさせません。あなたごときに、家族は壊させない」

「口だけの女だな。楽しみにしてろ。母親の次はガキの番だ」

その時、出迎えのアナウンスが流れた。

「新しいお客様がいらっしゃいましたよ」

「はあ? 誰だよ。招待客は揃ってるはずだぞ」

「私がお呼びしましたので」

「ああ、掃除ババアが呼べるわけねえだろ」

しかし、その瞬間、義父の顔色が変わった。

「え? 嘘だろ。田中遠藤? なんで呼んでないのに」

「おい、やべえ。遠藤が俺のことを汚いって見てるぞ。隠れろ。柱の裏に行け」

義父は慌ててテラスから下りた。そして、母と遠藤の会話を聞いて、さらに動揺した。

「なんで遠藤が頭を下げてるんだ? おい、お前、何か知ってるんだろう? うちでパーティーしてたら、遠藤が来て、あのばあさんに頭下げてたんだ。何がどうなってる?」

「当然の光景です。母はサオ寺グループの会長ですから」

「会長? 誰のことだ?」

「私の母のことです」

「はあ? 町内会長に遠藤が頭を下げるか。本当に鈍いですね」

「お父さんの務める銀行、どこですか?」

「奥銀行だ。お前だって知ってるだろう」

「じゃあ、奥グループの系列会社はいくつあります?」

「100社は超えるな。それがどうした?」

「その頂点に立つのが、私の母ですよ」

「はあ? 母の父、つまり私の祖父が母を会長に指名しました。ああ見えて、旧帝大出のバリキャリなんですよ」

「さすがにその冗談は通じないぞ」

「ネットを見ればすぐに分かる情報です。だから言ったじゃないですか。後悔しても知りませんよ、って」

「信じられん。直接あのばあさんに聞いてみる」

義父は母のもとへ向かった。

「どういうことか説明しろ」

「遠藤と目があった瞬間、どこかへ逃げたくせに、偉そうですね」

「グループの会長というのは本当か?」

「はい」

「嘘だろ? ただの清掃員だよな」

「自分の持ちビルですから、綺麗にしていただけです」

「あんたの持ち物? このビルはね、亡き夫と最初に建てたビルで、私たちの原点なんですよ」

「嘘だ」

「掃除はすべての基本です。私は初心を忘れないために、毎日自分の手で床やトイレを磨いているのです」

「でも、あんな格好してたら、誰だって清掃員と間違えるに決まってるじゃないか」

「それでいいんです。その方が、その人の本質が分かるでしょ? それはあなたの本性も、嫌というほど見えましたよ。遠藤とは久々に会ったので、すべてお話ししておきました」

「すみません。知らなかったんです。許してください。靴でも便器でも舐めます」

「そうですか。では、明日からお願いします」

「許してくださるんですか? さすが心が広い。今後は息子ともども、長くよろしくお願いいたします」

「はい。あなたが職を失うから、清掃の仕事を紹介してあげようとしただけです。許すなんて、一言も言ってませんよ」

「申し訳ありません」

「あなたのような父親のいる家に娘をやるのは迷いましたが、大地君も縁を切ると言ってますし、安心しました」

「ちょっと待ってください。大事な一人息子なんです」

「大事なのに、倒産なんて脅したんですか?」

「それは、つい勢いで」

「その上、息子が選んだ相手をメイドにして、見物にしようとしたのは誰ですか?」

「あれは、ちょっとした悪乗りと申しますか」

「あなたに命令されたとはいえ、悪乗りして私を蹴った部下もいましたね。あなたたちは明日から来なくていいです。自主退職ですから、退職金も出ませんよ」

「定年まであと2年です。何とかしてください。秘書でも運転手でも、何でもさせていただきますから」

「しつこい。お前ら全員首だと言っただろ。大人しく引っ込め」

「では、明日からトイレ掃除頑張ってくださいね」

義父は、最後の頼みとして大地に連絡した。

「お前の母ちゃんに言ってくれ。首になりそうなんだ」

「義父のピンチを救うのも、嫁の仕事だろ」

「私を嫁じゃなくて奴隷扱いしようとしたのに、助けて差し上げる義があるでしょうか?」

「母親そっくりの小賢しい女だな」

「母に似てるのは光栄です」

「大地と結婚したいんだろう」

「はい。しますよ」

「認めんぞ」

「あなたの許可は不要です。今までのことは謝る」

「普通は、あれだけのことを言われたら謝罪の一つや二つでは済みませんよ」

「銀行員の退職金がいくらか知ってるのか?」

「さあ。興味ありません」

「息子の会社に口聞きしたのは俺だぞ。今すぐ首にしてやることだってできるんだからな」

「その件ですが、大地が上司に確認しました。そんな事実はないし、お父さんのことも知らない。『君の実力で入ったんだよ』と言われたそうです。失礼ですが、お父さんは出世コースから外れてますよね。なのにどうしてそこまで偉そうにできるのか不思議だったんですが、虚勢を張ってただけなんですね」

「ふざけやがって」

「あれだけのことを言われたんです。最後にこのくらい言わせてもらっても、良くないですか?」

「良くねえよ」

「私には随分強気なんですね。さっき母にはペコペコしてたのに。LINEのスクショを母からもらいました。『便器を舐めるほど反省してる』ようには、とても見えないので、そのように母に伝えておきますね」

「待ってください」

「母と遠藤は、月に一度ワインを飲む仲です。今さら言い訳しても、無駄だと思いますよ」

「七ちゃん」

「気持ち悪いんですけど。出産祝いは何がいいかなって?」

「銀行員としての道が閉ざされたからって、義父の線で近づこうとしないでくれます? 安静で吐いてるんだよね。ジジイがトイレ掃除してあげるよ」

「本当に吐き気が悪化する。二度と連絡してこないでください。母の許可が下りたので、やっと夫婦でブロックできます」

「待って、七ちゃん」

「ああ、吐きそう」

数日後、義父は警察へ出頭した。母の差し入れを受けて、義父は言った。

「終わった。息子からも嫁からも絶縁されたよ」

「お気の毒なことで」

「本当にそう思うなら、どうにかしてくれよ」

「思ってません。社交辞令でした。大体、俺を騙したのはそっちじゃないか」

「清掃員だと名乗ったのは自分だろ。『仕事はしてるのか』と聞かれたので、『清掃員やろ』と言っただけです」

「その割には、銀行の重役と親しげに話してたじゃないか」

「私はグループのトップとして、各所に清掃員として潜入してるんです。この制服を着てるだけで、相手の本音が透けて見える。見下す人、感謝する人。本当にそれぞれで面白いものですよ」

「悪趣味じゃねえか。騙された社員もかわいそうだよ」

「バケツで水をかけた役員がいましたが、それは犯罪です。相手が私だろうとパートの仲間だろうと、許しませんよ」

「うるせえな」

「それと、先ほどは最終職を紹介すると言ってしまいましたが、あれは間違いでした。あなたは娘への傷害罪で逮捕されます。目撃証言もありますし、診断書もあります」

「ここまでするか。俺は娘の父親だぞ」

「こういう時だけ身内扱いしないでいただけますか。被害届を出すのは、大地君たっての願いなんです。『最後くらい親父が正しいことをする背中を見たい』と、そう言ってました」

「俺だって、大地が17歳の時に妻を失って、そこから頑張ってきたんだ」

「お涙頂戴的なことをおっしゃってますけど、奥様の死去後すぐに女性と交際して、家にはほとんどいなかったと聞いてますが」

「それは」

「珍しいほど擁護の余地がない方ですね。おかげでこちらも、スパッと切り捨てられます。ありがたいことです」

「最後にお願いします。銀行とは言いません。どんな企業でもいいんです。どこか再就職先を紹介してくれませんか?」

「あなたを紹介した私の顔が泥だらけになるのは嫌です。まずは警察へ出頭なさったらどうですか?」

「はい。行ってきます」

翌日、私は母に言った。

「お母さん、やっと終わったね。守ってくれてありがとう」

「お疲れ様。こっちこそ、無理させちゃってごめんね」

「ううん、平気。それより大地が、父親があんなことになって少し落ち込んでるみたい」

「大地君も辛かったでしょうね」

「でも、ずっと私のそばにいてくれたの。お父さんが押しかけてくるかもしれないからって、休みまで取って寄り添ってくれてたんだよ。素敵な人じゃない?」

「さすが七の選んだ人ね」

「うん。頼りになるなって思った。ところで、お父さんはどうなったの?」

「逮捕よ。余罪も見つかったらしいわ」

「信じられない。元から犯罪者だったんだね。大地がショックだろうな。大丈夫かな?」

「すべてはあの人の責任よ。大地君には関係ない」

「そうだね」

「大地の会社への融資は大丈夫かな?」

「もちろん正規の手順で通るから安心して。そもそも、融資部でもない窓際銀行員のあの男に、口出しする権限なんてなかったんだから」

「え? それであんなに偉そうにしてたの?」

「そう。銀行員ってだけで、あれほど言われる人もいないわよね」

「なんか落ち着いたら、胃がすっきりしてきた。安静も終わったかも」

「じゃあ、嫌なことを忘れて、美味しいもの食べましょう。もちろん、あなたたちの支弁でね」

その後、義父は銀行を懲戒解雇され、過去の横領も発覚。被害総額は8000万円。懲役7年の実刑判決で、冷たい壁の中へ。退職金は0円。賠償金とローンで借金は1億5000万円。家族はすべてを失い、刑務所暮らしとなった。刑務所では「泥棒銀行員」と受刑者からいじめられ、一番嫌がっていたトイレ掃除を毎日させられているとか。「俺は偉いんだ」と泣き叫んでも、誰もビビらないし、助けてくれもしないだろう。

絶縁した大地はもちろん、部下からも嫌われていた義父に、面会に来る人は誰もいなかった。誰からも愛されず、孤独に朽ちていく、惨めな末路だった。

一方、大地は父との決別を糧に仕事に励んでいる。母の銀行からの融資も受け、会社で高く評価されたそうで、給料も上がった。私も無事に女の子を出産。母も夫も娘にメロメロで、大地は「あんな親父にはならない」と育児に協力的だ。母が磨いた床のように、曇りのないこの幸せを、家族みんなでずっと守っていきたい。

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