あの日、商店街で見知らぬ老人にぶつかった男が、私の祖父に向かって吐き捨てた。「老いぼれは家で大人しくしてろ」。私は何も言い返せなかった。数週間後、その男の弟との見合いの席で、私は地味な黒縁眼鏡の女を演じていた。「お前みたいな女、誰が本気で愛するもんかよ」。兄は私を鼻で笑い、弟に写真を弾きつけた。だが弟は、畳に手をついて深く頭を下げた。「先日は、兄が本当に失礼なことを」。私の作り笑いが、初めて…

あの日、商店街で見知らぬ老人にぶつかった男が、私の祖父に向かって吐き捨てた。「老いぼれは家で大人しくしてろ」。私は何も言い返せなかった。数週間後、その男の弟との見合いの席で、私は地味な黒縁眼鏡の女を演じていた。「お前みたいな女、誰が本気で愛するもんかよ」。兄は私を鼻で笑い、弟に写真を弾きつけた。だが弟は、畳に手をついて深く頭を下げた。「先日は、兄が本当に失礼なことを」。私の作り笑いが、初めて...

地味な見合い写真を一瞥した瞬間、立花孝志は鼻で笑い、それを弟の悠人に弾いてやった。

「見てみろよ。すんげえブス。地味ブスとのお見合いはお前だ。地味男とブス、お似合いだろ」

メーカー立花の屋敷の大広間には、届いたばかりの見合い写真が置かれていた。その地味な服装の女性の真ん中に、一人座らされていたのは悠人だった。突き刺さるような視線、聞こえよがしの嘲笑。何も言い返さない娘を見下ろし、兄は一言吐き捨てた。

「いいか、お前には何にもないんだよ。家柄も金も後ろ盾も、何も持ってない女なんか、いてもいなくても同じ。誰がお前みたいな女を本気で愛するもんかよ」

だが、この男は知らなかった。地味ブスと嘲った娘が一体誰なのかを。娘は静かに真実を口にした。その言葉の続きを聞いた時、孝志は絶叫し、髪をかきむしり泣き叫んだ。

「は、嘘だ。嘘だろ? そんなのお前は地味な何の取り柄もない。う、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ」

見下していた女の正体を知った時、男の人生は音を立てて崩れ始める。

全ての縁は、あの一冊の本から始まっていた。

大滝元造、七十二歳。合わせた小色のジャンパーに、女物のスラックス、すり減った靴、安物の腕時計がトレードマークのごく普通の老人。午後は当てもなく町を散歩するのが近頃の日課だった。長く連れ添った妻を亡くしてから、家の中はやけに広くなった。妻は口癖のように言っていたものだ。

「あなた、人を見る時はね、肩書きじゃなくて、その人の心を見てやらなきゃ」

元造は今も毎朝、縁がほんの少しだけ欠けた桜の花が描かれた古い湯のみで茶を飲む。妻が「これが一番手に馴染むのよ」と最後まで使い続けた湯のみだった。元造にはかつて、たった一人の娘がいた。反対した結婚を押し切り、家を出た。勘当を言い渡したのは元造の方だ。相手は案の定の男で、やがて娘と幼子を残して家を捨てた。それでも娘は親の援助を乞おうともせず、貧しいながらも孫娘と二人で慎ましく暮らしていたようだが、病に倒れ、縁を切ったまま永遠に会えなくなってしまった。

その元造が今、目に入れても痛くないのが、娘の忘れ形見。引き取った孫娘の蒼だった。昼時になると二人は連れ立って、行きつけの小さな定食屋でご飯を食べる。その夜、蒼は箸を置いたまま、ぽつりと言った。

「ねえ、おじいちゃん。仲人のおばさんったら、また勝手に私のお見合いを決めてきたの。どこぞのメーカーの御曹司なんですって。私、ああいう家柄が全部みたいな人、一番苦手なのに」

「ああ。で、断らんのか?」

「私ね、結婚とかしなくていいと思ってるの。お母さんのことをずっと見てたから。なんかね、私たちって似た者同士だね。おじいちゃん、本当に自分のこと、誰にも言わないで生きてるとことか」

「さてな。わしはただの隠居じじいだよ」

「私もただの地味な孫娘です」

それ以上、元造は何も聞かなかった。この孫が幼い日に何を飲み込んで育ったのか。それを元造は誰よりも知っていた。だが、その沈黙を先に破ったのは蒼の方だった。

「なんてね。やだ、暗い。今のなし。忘れて」

「まあいいわ。みたいに、うーんと愛想をなくして、向こうから願い下げって言われればこっちの勝ちだね」

わざと明るく振る舞う。その笑顔の作り方を、元造はよく知っている。だから、苦笑いだけを返した。心の奥では、この子の作り笑いではなく本当の笑顔を引き出してくれる人間が現れてくれたらと、密かに願っていた。

その帰り道だった。商店街の細い通りで、前から来た若い男の方が元造にどんとぶつかった。

「なんだよ、じいさん。前も見えてないのかよ」

ブランドで全身を固めた若い男だった。後ろには控えめな感じの青年が一人。ぶつかったのはどちらが悪いというわけでもない。だが男は元造を上から下まで眺めてにやにやと笑った。

「これだから老いぼれってのはさ。足腰も頭も鈍ってんだろ。フラフラして邪魔するくらいなら、家で大人しくしてろって」

「ちょっと、ぶつかったのはそっちが」

「あ? 何? なんか地味な女だな。じいさんの孫か?」

蒼がぐっと言葉に詰まる。その時、後ろにいた青年が男の腕を引いた。

「兄さん、もうやめなよ。すみません。お爺さん。お嬢さんも、兄が本当に失礼を」

「はあ」

「おい、悠人、お前またそれかよ。こういう最下層連中にいちいち頭下げてさ。だからお前はいつまで経ってももう一人の方なんだよ」

言うだけ言って、男は弟の背を押して歩き去った。蒼は悔しさのあまり、もう一度睨みつけて鼻で笑った。弟はもう一度深く頭を下げてから、兄を追っていった。

「何よ、あれ。失礼な人。弟の方は良い人そうだったのに」

「うん。弟は良い男に見えた」

「どこが? 謝ってただけじゃない」

そう言う蒼の声はどこか、いつもと違っていた。元造は、さっきの兄の方の胸元に小さな社章が光っていたのを見逃していなかった。その目がほんの一瞬、散歩中の老人のものではない別の光を帯びた。

その縁談は、世話焼きの仲人夫婦が立花の家へ持ち込んだものだった。家柄は平凡だけれど、私が保証するお嬢さんなの。立花の両親は仲人の顔を立て、一度くらいはと、長男の孝志に話を回した。孝志は釣書の写真を一瞥して、ふんと鼻で笑った。写真の娘は黒縁の眼鏡をかけ、化粧もなく髪を後ろでまとめているだけ。地味な一枚だった。

「うわ、なんだよ、この女。地味すぎるだろ。写真の時点でもう願い下げだわ。それに、聞いたこともねえ家だな」

孝志には、一之瀬レイカという本命がいた。大手広告会社勤務で、業界切っての顔の広さが自慢の全身ハイブランドの女だ。孝志が欲しいのは、より自分を大きく見せるための家柄であって、名前も知らない地味な家の娘ではない。とはいえ、仲人の顔も潰せない。そこで彼は、にやりと笑って弟の悠人を呼びつけた。

「おい、悠人、明日の見合い、代わりに行ってこい」

「は? 見合い? 兄さんに来た話だろ?」

「俺が代わりに出るわけにはいかないだろ。お前に行け」

孝志は釣書の写真をぴっ、と弟へ弾いた。悠人は畳に落ちたその写真を黙って拾い上げた。どこか寂しげな顔だった。どこかで見たような気もするが、すぐには思い出せなかった。

数日後、見合いのある料亭の奥座敷に通された悠人は、一歩入ったところで足を止めた。上座に世話人の仲人。その隣に黒縁のメガネ。まとめただけの髪。襟元の詰まった濃紺色の地味なワンピースの女性が、背筋を伸ばして座っている。

「あ、あの時の」

その女性の顔を見て、悠人はようやく思い出した。商店街で兄が迷惑をかけた、あの女性だった。蒼の方にも驚きがあった。釣書には「御曹司」と聞いていたが、これは弟の方。本当の相手はあの嫌な男で、この人は身代わりに遣わされたのだろう。うんと愛想をなくして願い下げと言わせるつもりで、用意してきた台本は一瞬揺らいだが、蒼はすぐに気を引き締めた。相手が誰だろうと、やることは同じ。兄があれだけの男なら、弟もどうせ同じ穴の狢だ。あの謝罪だって、その場の気の弱い芝居に決まっている。蒼は地味で大人しい娘の顔を作り、わざとそっけなく挨拶だけを返した。

ところが、悠人は畳に手をついて、深く頭を下げた。

「先日は、兄が本当に失礼なことを。まさか今日のお相手だったとは、重ねてすみませんでした」

「あ、はい」

蒼はそっけない返事を返し、この男がどんな態度を取るのかを見定めていた。これまでの見合いの相手は、蒼がそっけなくし続けると、次第に態度が悪くなり、しまいにはスマホをいじり出すのが関の山だった。しかし、この男はスマホを見ることもなければ、態度を変えることもなく、嫌な顔を一つもしなかった。

「何この人? なんでこんなに平気なの?」

その時、悠の懐でスマホが震えた。兄からのメッセージだった。「どうだ? 地味子は想像通りだったろ。お前らお似合いだって」

悠人は画面を一度見て、スマホを胸に戻した。

「あの、本当は兄が来る予定だったんですが、ちょっと色々ありまして。俺なんかが来て、がっかりされたと思います。今日はそのお見合いの話は抜きにして、ここの料理を楽しんでいただけたら。えっと、本当に美味しいので、冷めないうちにゆっくり召し上がってください」

必死に話題を作ろうと話してみたものの、それでも座は沈黙したまま。悠人は少し困ったように頭を掻いて、ふっと口を開いた。

「あ、でも正直言って、俺こういう格式ばった店が苦手で。子供の頃、母に連れてこられた時、緊張しすぎて、お皿の飾りの葉っぱを、あれを料理だと思ってもりもり食べちゃったんです。親戚中が大爆笑で。だから今日もこの席に葉っぱが置いてないか、さっきから確認してて」

堪えきれず、蒼の口から小さく息が漏れた。ほっぺたが緩む。今日初めて見せた、作り物ではない表情だった。こらしめてやるはずだった。なのに、目の前のこの人は、突っ込むべき隙をどこにも見せてくれない。蒼は小さな怒りを、いつの間にか忘れていた。

数週間後、二人は悠人が昔から通う小さな喫茶店で待ち合わせすることが増えていた。不思議な人だ。この人の前だと、格好をつけなくていい。立花の次男でも、もう一人の方でもない。ただの俺でいられる気がする。

「悠人さんって、どうしてあんな風になれるんですか? 人を上とか下とかで見ない。正直最初は疑ってました。言って悪いけど、どうせお兄さんと同じなんだろうって」

悠人はコーヒーを両手で包んで、少し笑い、ぽつりぽつりと話し始めた。

「母の影響かもしれません。一昨年に亡くなったんですけど、うちは家柄ばかりを気にする家庭で。母は外から嫁いできた人だから、最後までよその人扱いで、何を言われても言い返さなくて、いつも台所の隅にいるような人でした。その母が最後の年に、一冊の本に出会ったんです。病院のベッドで何度も読み返してて、ある日、その本を撫でながら俺に言ったんですよ」

悠人は目を細めて遠くを見つめ、病室の母の言葉を思い出していた。

「お母さんね、ずっと考えてたの。私の人生って何だったんだろう。誰かの妻であんたたちの母さんで、一度も私のままで何者かになれなかった。でもこの本が教えてくれたの。人の値打ちはね、何を成したかでも、どこの家の生まれかでもない。目に見えない、その人の中にあるんだって。だからね、悠人。あんたは人のそういうところ、ちゃんと見てあげられる人でいてね」

それから一月もしないうちに母は逝ってしまった。だから悠人は、その本だけは今でも持ち歩いているのだと言う。悠人が鞄の中から古びた文庫本を取り出し、テーブルに置いた。

「これなんですけど。『母さんの椅子』っていうんですね。塔のトールさんっていう、作家さんの本なんです」

「え、塔のトール?」

蒼は心の声が漏れかけ、指先がカップの取っ手の上で止まった。

「後で調べたら、これ何百万部も売れて、映画にもなった本だったんですね。なのに書いた藤野さんは、一度もテレビとか雑誌とかに出てないらしくて。そんな本が、最後にうちの母の隣にいて、癒してくれた。それが俺はなんだか、えっと、うまく言えないんですけど」

悠の声が涙声になり、言葉が詰まった。蒼の目の奥がじわりと熱くなる。蒼は慌てて俯いた。今顔を上げたら、言ってはいけない何かを言ってしまう。

「い、いいお母さんですね。それと、その本を書いた人も、きっとあなたみたいな人に読んでもらえて、幸せだと思います」

穏やかな時間だった。それを引き裂いたのは、店のドアベルがたてる乾いた音だった。

「やっぱ悠人じゃん。あれ? 誰? その女」

入ってきたのは兄の孝志。その腕に、一之瀬レイカがもたれかかるようにくっついている。緩く巻いた明るい髪、隙のないメイク、全身を彩るブランドのロゴ。この古びた喫茶店の中で、その女だけが切り取られてきたように浮いていた。

「たまたま通りかかったら、お前と女が見えたんだ。もしかしたらと思ってな。レイカが見てみたいって言うからさ。もしかして、この前の見合いの地味子か?」

レイカは蒼の顔を無遠慮に覗き込み、ほんの一瞬、眉を寄せた。

「あ、お前、どっかで? いや、いいや。お前みたいな顔、どこにでもいるしな」

孝志は商店街の出来事を、もう覚えてすらいなかったのだ。蒼は俯いたまま、膝の上で拳を握った。ふと孝志の目が、テーブルの隅の古びた文庫に止まった。孝志は断りもなくそれを掴み上げる。

「はあ。『母さんの椅子』ってあれだろ。母さんが死ぬ間際まで病室で抱え込んでた、陰気臭いやつ。うわ、お前まだこんなもん持ち歩いてんの? 気持ち悪い」

「返してくれ、兄さん」

いつになく低い声で、悠は本を取り返し、胸ポケットにしまった。レイカは蒼を頭のてっぺんから爪先まで舐めるように見て、目を合わせ口の端だけでくすっと笑うと、断りもなく相席の椅子に腰を下ろした。

「ねえ、あなた。聞いたわよ。平凡なうちなんですってね。家柄もお金も、そして見ての通り、花もない。ねえ、あなた自身には一体何が残るのかしら。悠人君だって、次男とはいえ立花の人間よ。本当のあなたを見て選ばれたなんて思わないことね。何も持っていない女を、誰が本気で選ぶっていうの?」

何も持っていないお前を、誰が本気で選ぶのか。その言葉が蒼の一番深いところに刺さった。蒼の息が止まった。レイカの声に、別の声が重なる。家を出ていく父が、玄関で吐き捨てたあの声。家柄がなければ価値がない。

体が動かない。声が出ない。あの日何も言い返せなかった自分と、今の自分がぴたりと重なった。

「まってばっかり。自分の意見すら言えない、ダサい子ね。面白みも何もない。空っぽじゃない」

その時だった。

「やめてください」

低いけれどはっきりした、悠人の声だった。立ち上がり、いつもの控えめな彼とは違う態度で、まっすぐにレイカを見た。

「この人のことを、あなたは何も知らない。見ようともしていない。俺はちゃんと見てます。この人がどんなに優しいか。あなたたちが地味だと笑う、その奥にどれだけ素晴らしいものがあるか、俺はちゃんと見てるんです」

「これだからお前は。そういう貧乏臭い正義感だから、いつまでも立花家のもう一人の方なんだよ」

「ええ、結構です。俺は兄さんみたいに、人を上とか下とかで見たくないんで」

「おいおい。俺に意見するのか? できるのか、お前が?」

蒼はその背中を見ていた。自分のために、誰かがこんな風に身を挺してくれたのは、生まれて初めてだった。硬く閉まっていた喉の奥が、ふっと緩んだ。

「レイカ、行きましょう。ただ暗い店に、暗い人たち」

「ああ、そうだな。じゃあな、地味カップル」

二人が去った後、店に静けさが戻ってきた。

それから数日後、蒼いを娶りたいと、悠人は家族にはっきりと告げた。七瀬蒼さんと、結婚を前提に付き合いたいと。立花家の食卓から音が消え、父・立花蒼一郎は低い声で言った。

「悠人、その娘をこの家に呼びなさい。立花家に相応しいか、私が見極める」

悠人がそのことを蒼に話すと、蒼は行くと言った。本当は怖かった。でも、自分のために生まれて初めて身を挺してくれた人。その人の家族に、きちんと向き合いたかった。

立花家の広い座敷に通された蒼を待っていたのは、ずらりと並ぶ立花の親族たちだった。座敷の真ん中に、座布団が一つだけぽつんと置かれている。そこに蒼が座らされると、鋭い視線が四方から一斉に突き刺さった。

「あれが? 随分地味な子ね」

「七瀬? なんて、聞いたこともないわ」

ひそひそと、わざと聞こえるように囁きが座敷をぐるりと回る。逃げ場はどこにもなかった。

「ああ、なぜか。単刀直入に言う。あなたとの話は、なかったことにしてもらいたい」

「は?」

「ちょっと、話が違うじゃないか。まさか、最初からみんなの前で頭を下げさせるために呼んだのか?」

「黙ってなさい。立花は三百年続く家だ。七瀬などという家は聞いたこともない。どこの誰とも知れん家の娘を、立花に迎え入れるわけにはいかんのだよ。分かったら、このみんなの前で言いなさい。『私には過ぎたお話でした。どうか忘れてください』と。それで丸く収まる」

わざとらしいほど穏やかな声だった。その近くで、孝志がニヤニヤと笑っている。

「あれが、俺が一目でいらないって弟に押し付けたような女だぞ」

それを合図に、親族の声が追い打ちをかける。

「ほら、早く身を引きますって。悠人さんを困らせないで」

「聞こえてるの? この子」

蒼は膝の上で濃紺のワンピースの裾を、ぎゅっと掴んだ。それでも必死に顔だけは上げていた。ここで俯いたら、あの日の自分と同じ道を辿ってしまう。

だが、家柄なし、金なし、見た目も写真の時点で願い下げ。

「お前には何にもないんだよ。分かるか? 後ろ盾のない女なんか、この世界じゃいてもいなくても同じなの。誰がお前なんか本気で愛するかよ」

その言葉が、蒼の一番深いところで固く閉じていた扉をこじ開けた。耳の奥で座敷のざわめきが遠いていく。あの日の玄関の冷たい匂い。荷物を下げた父は、追いすがる母に吐き捨てた。

「誰がお前なんか本気で愛するかよ。俺が欲しかったのはお前じゃない。お前の家の金と力だ」

そして父は、玄関の隅で震えていた幼い蒼に目を向けた。

「さあ、お前も覚えとけ。俺の言うことも聞けないようなら、誰にも愛されねえよ」

父は笑いながら家を出て行った。頭を下げたまま、動けなかった。父の丸まった背中。その背中に、今自分がすっぽりと呑み込まれていく。声の出し方が分からない。

「ほら見ろよ。何も言い返せない。やっぱりその程度の女さ」

勝ち誇った笑い声が座敷に満ちた。その時。

「いい加減にしてくれ」

悠人が立ち上がり、目前の蒼の前に、庇うように進み出る。いつも穏やかなその声が、今は低くまっすぐで、少しも揺らがなかった。

「この人がいてもいなくても同じ。誰も見ていない。冗談じゃない。父さんも兄さんも、あなたたちは彼女の何を見たんですか? 地味な服。聞いたことのない家の名前。その先は、何ひとつ見ちゃいない。俺は見てます。この人がどれだけ素晴らしい人か。傷ついても、誰かのために顔を上げようとする人だ。あなたたちが一度も見ようとしなかった、この人自身を。俺は見てるんです。嫌がらせなんかじゃない」

座敷が一瞬にして静まり返った。

「お前は、三百年の家に泥を塗る気か。その娘を選ぶというなら、お前はもう跡継ぎの人間ではない。この家の式は二度と出させんぞ。それでもいいのか?」

「はい。結構です。人を見もせずに尊ぶことが、この家にいる条件なら、俺の方から出ていきます。母さんを最後までよその人扱いした、この家にもう未練なんてありません。親も兄弟もいなくて結構です。俺はこの人と生きていきます」

悠人は一瞬の迷いもなく、蒼の手を取った。

「行きましょう。こんなところ」

「悠人さん」

惹かれるまま立ち上がる蒼の、固まっていた喉の奥がふっと解けて、こらえていた温かい涙が一つ、頬を伝った。

その夜、大滝の家に帰ってきた蒼は、元造の顔を見た途端、その場にしゃがみ込んで声を殺して泣いた。元造は何も聞かず、孫娘の震える背中に、皺だらけの手を添えておいた。何があったのか、言われずとも痛いほど分かった。蒼が泣きつかれて眠った後、元造は一人書斎に立っていた。彼は古い手帳をめくり、長いことかけていなかった番号にダイヤルした。

「夜分にすまんな。わしだ。一つ頼みがある。例の件を再開してくれ。徹底的にな。ああ、頼む」

ゆっくりと受話器を置き、静かに夜空を眺めた。

弟を家から追い出してやった。立花孝志は上機嫌だった。週末はレイカと行きつけの高級ホテルのラウンジでシャンパンを傾けた。

「あいつ、最後まで格好つけちゃってさ。家も財産も捨てるんだとよ。全く、何考えてんだか」

「不似合いの二人じゃない。地味同士、貧乏でもすればいいのよ」

この二人は、世界が自分たちを中心に回っていると信じて疑わなかった。その翌日だった。専務室にいる孝志のもとに、二十年越えの大手取引先の担当役員から電話が入った。

「誠に申し上げにくいのですが、御社との今期の取引は、一旦白紙にさせていただきたく」

「あ、急に。何を言うんですか。上の判断です。御社には通知が行くと思いますので」

電話が切れた。屋台骨を支えてきた取引先が、何の前触れもなく白紙になった。嫌な予感は続いた。翌日にはメインバンクの担当者が青い顔で飛んできて、融資の一部見直しと過去の取引の資料提出を求めてきた。

「まだ調査中ですが、御社に対して、とある噂が流れておりまして。市場が少し神経質になっているようなのです」

「うちの噂? 一体どんな?」

「申し訳ございませんが、今は何も申し上げられません」

孝志は苛立たしげにペンを机に叩きつけた。

「は、何かの手違いだろう。うちは三百年の立花だぞ。すぐ収まるさ」

そう言い聞かせた。けれど、指先の震えは止まらずにいた。

同じ頃、大滝の家の書斎で、元造はとある会社の不正の証拠が記された分厚い書類をめくっていた。

「これはひどいな」

元の目がすっと細くなった。資料を引き出しにしまい、鍵をかけた。全ての情報が集まりつつあった。

その頃、悠人と蒼は借りた小さなアパートで寄り添っていた。肩書きも財産も失ったはずの悠の横顔は、なぜか晴れやかだった。蒼はずっと喉の奥に仕舞っていた言葉を、ついに口にした。

「悠人さん、聞いてほしいことがあるの」

「ん? どうしたの?」

「あなたがお守りみたいに持ち歩いてる、その本」

「あ、これ? 『母さんの椅子』」

悠人が手にした文庫を見て、蒼はゆっくりと頷いた。

「驚かないで、聞いてね」

「え? あ、ああ」

蒼はひそやかな声で告白した。

「それを書いたのは、実は私なの。塔のトールは、私のペンネーム」

「はあえ?」

悠人の目が、本を何度も何度も往復した。母が最後に撫でていた本。眠れない夜に自分を何度も救ってくれた物語。それを書いた人が、目の前にいる。

「私の母も、あなたのお母さんと同じだったの。誰にもちゃんと見てもらえないままだった人。私はその母のために、その本を書いた。母が確かにここにいたんだって、ちゃんと生きた素晴らしい人だったんだって、世界のどこかに残したくて。母が亡くなって、何も残らないのが怖くて。気づいたら書き上げてた。まだ学生だった。正直、こんなに広まるなんて思っても見なかった」

蒼はおずおずと、一番言えなかったことを口にした。

「それに、私、嘘をついてた。あの商店街で、あなたが助けてくれたおじいちゃん。あの人が、私の祖父なの。大滝元造。あけぼの綜合グループの会長。父はね、母じゃなくて、大滝の家のお金が目当てだったの。でも母は悔やんでも、実家に頼らなかった。お金を引き出せないと分かったら、父は出ていった。出ていく時、幼い私に言ったの。『愛されるのはお前じゃない。お前の背中にある金と家柄だ。それがなきゃ、お前は誰にも選ばれない』って。だから怖かったの。会長の孫だと知られたら、父の言葉通りになるんじゃないかって。近づいてくる人が私を見てるのか、私の後ろの金を見てるのか。一生分からなくなる。だから隠して。それを知る前の私を見てくれる人を、ずっと探してた。あなたは何も知らないまま、私を見て、家まで捨ててかばってくれた。だから私、あなたにだけは、全部本当のことを話したかったの」

言い終えて、蒼はぎゅっと目をつぶった。これで、この人の私を見る目も変わってしまうかもしれない。そうなることも覚悟していた。しかし。

「うわ、驚いた。正直、頭がまだ追いつかないや。でもさ、俺が好きになったのは、有名な作家さんでも、大会社のお孫さんでもない。あの料亭で、俺のしょうもない葉っぱの失敗に、ぷって笑ってくれた、目の前のあなただった。だから俺は、何も変わらないよ」

蒼のつぶった目から、涙がこぼれた。全てを打ち明けた後でも、この人は私自身を見ていると言ってくれた。選ばれたのだ。お金でも家柄でもなく、私自身が。蒼は悠の胸に体を預けて、子供のように泣いた。胸の奥に栓をしていた、一番深い傷がゆっくりと溶けていくようだった。

だが、その穏やかな夜のすぐ裏側で、立花産業は坂道を転げ落ちていた。主力取引先は次々と手を引き、銀行は融資を引き上げにかかった。専務室で孝志は青ざめた部下を怒鳴りつけていた。

「原因を調べろって言ってんだろ。なんでこんな!」

「調べはつきました。手を引いた取引先は、どこも同じ噂を聞いています。立花産業には重大な不正がある。近く摘発されると」

「噂の出所は?」

「分かりません。ただ、あけぼの綜合グループが、うちとの取引記録を洗い直しているらしいんです」

「あのあけぼの綜合が、本気で調べ始めた。それだけで、市場が揺らぎ始めたようで」

「あけぼの綜合って、あのあけぼの綜合か? なんで雲の上の大企業が、うちみたいな中堅を?」

「もう一つ、うちの大株主は、三十年前からあけぼの綜合なんです。うちの経営は最初からあそこに握られていたんです。そして、そのオーナー会長、大滝という方が、自ら動いていると」

「大滝元造? あの最後の獣と呼ばれる? 待てよ。意味がわかんねえ。雲の上のじじいが、なんでうちなんかを目をかける? 俺がそいつに何したってんだよ」

名前だけは知っていた。だがそれだけだ。メディアに一度も出ず、写真の一枚も出回らない。業界が最後の獣と呼ぶ伝説のオーナー。その顔を知る者は、ほとんどいない。孝志の背筋を、冷たいものが這い上がった。

一月も立たなかった。あれほど誇った立花産業。三百年の家には、今や誰も振り向かなくなっていた。一之瀬レイカは、当に姿を消していた。金の切れ目が縁の切れ目。会社が傾いた途端、連絡先ほど消えるものはない。追い詰められた孝志は、父・総一郎と共に、あけぼの綜合グループ本社へ向かった。全ての鍵を握る、姿なきオーナー会長に面会し、事の次第を正して事態の収束を願い出る。それしかもう道はなかった。

重厚な会長室の扉が開く。窓いっぱいに広がる街並み。回転椅子に一人の老人が腰かけていた。その姿を見た瞬間、孝志の顔が青ざめた。忘れていたはずだった。取るに足らないことだと、覚えるつもりもなかったけれど。

「あ、あんたは、あの商店街の。あの日、老いぼれと罵って、肩で突き飛ばした、あの地味な老人」

「久しぶりだな。立花産業の専務さん」

「待て、会長と面識があるのか?」

元造は机の上に、分厚いファイルを滑らせた。

「中身はもう分かっておろう。架空の発注、水増しの請求、実態のないペーパーカンパニー。抜いた金はこの数年で十数億。全ては立花孝志さん、あんたの懐だ。業務上特別背任、偽造。立場の弱い下請けを何度も踏み台にして、潰れた会社もあった。その家族がどれだけ泣いたか、あんたは考えたこともあるまいな」

「な、なんで、あんたが」

「調査の手は、当に数字を掴んでおった。わしは泳がせておっただけよ。調べを本格化させたのは、あんたがわしの一番大事なものを傷つけた、あの日からだ。この資料は、すでに摘発するべき筋に渡してある」

「大事なもの? 俺が何を?」

その時、会長室の奥の扉が開いた。背筋をまっすぐに伸ばした、一人の女性が入ってきた。孝志は息を呑んだ。

「は、なんだよ。なんでお前が?」

その瞬間、孝志の記憶の底から、もう一つの光景が競り上がってきた。商店街で、老いぼれと突き飛ばした老人の隣にいた、地味な女。そうだ、あの時の。何度もすれ違ってた。何度も目の前にいた。それなのに自分は、いつもこの女をただの地味な女と決めつけ、まともに見ていなかった。

蒼は、へたり込んだ孝志の前に歩み寄り、口を開いた。

「孝志さん。あなたに、まだ私が何者なのかお伝えしていませんでしたね」

「な、何を?」

「実は私は、ここにいるあけぼの綜合会長、大滝元造の孫娘です。それからもう一つ。あなたが陰気臭いと笑った方、あなたのお母様が死の床で最後まで抱えていらした『母さんの椅子』。あれを書いた著者は、私です」

一瞬遅れて、孝志の顔から表情というものがこそげ落ちた。

「嘘だ。嘘だろ。そんなのお前、地味な何の取り柄もない。う、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ」

孝志は頭を抱え、髪をかきむしった。あの時、一目で地味ブス、いらないと投げ捨てた女が、死の床の母がすがった本を書き、日本を泣かせた作家で、自分の会社の経営の首根っこを握る大会社の会長の、たった一人の孫娘だったという事実。崩れ落ちた孝志は、床に両手をついて、許しを乞うように蒼へすがった。

「違うんだ! あれはほんの冗談で。知らなかったんだ。俺が悪かった。許してください。何でもします。だから」

その無様な姿を、蒼は見下ろしていた。かつてこの男の前で固まって、一言も言い返せなかった。台所の隅で俯く母の背中に、自分を重ねた。でも今は、もう違う。

「私は、あなたに言われた言葉、一生忘れません。『お前には何もない。後ろ盾のない女なんか、いてもいなくても同じ。誰がお前なんか本気で愛するか』。でもね、いたんです。何も持っていない私を、一人の人間として見て選んでくれた人が。あなたこそ、最後まで何も見ていなかった。家柄と肩書きの向こうにある、人間を。ただの一度も」

それは、勝ち誇りでも復讐でもない。ただ静かな強さだった。孝志はもう、その目を見返すことさえできなかった。床にうずくまる孝志を見下ろしながら、元造が静かに口を開いた。

「それとは別に、うちは立花産業の筆頭株主であり、最大の取引先だ。年間二百八十億の取引。三十年の融資保証。本日付けで、全て白紙にさせてもらう。加えて、臨時株主総会の招集を請求する。総会では、現経営陣の総退陣を発議する。無論、専務あんたの解任もな」

孝志の膝が、がくりと折れた。二百八十億。それは立花産業の心臓そのもの。それが、たった今止まった。

「お、お待ちください! それでは、うちは!」

「三百年続いた立花の名が、潰れる。勘違いをしなさんな。あんたらを潰すのはわしじゃない。わしはただ、罪を犯した会社と同じ卓にはつけんと言っておるだけだ。世間も同じ目をしておるよ。人も金も信用も、失ったものから静かに離れていく。今、あんたの会社で起きておるのは、それだけのことだ」

元造はゆっくりと立ち上がり、窓を背にした。

「わしの家には、縁がほんの少しだけ欠けた古い湯のみが、一つある。妻が最後まで使った湯のみだ。器にしちゃ、傷物だ。だが、あれで飲む茶が一番うまい。人の値打ちはな、器の方に宿るんじゃよ。あんたは家柄だの肩書きだのと、ばかり磨いて、注がれた中身を見ようとせんかった。あんたが『もう一人の方』と呼んで追い出した次男坊。あれは、わしが出会ってきたどんな人間より、真っ直ぐな男だ。あんたは三百年の器の跡と引き換えに、一番うまい茶を、自分の手で流しに捨てたんだよ」

総一郎は、言葉もなく立ち尽くした。失って初めて、自分が何を手放したのかを思い知った顔だった。

「ま、待ってください。今一度、チャンスを」

「あんた、何か勘違いしてるな。死に失ったものは、二度と戻りゃせんわ。それとも、わしの娘に対する仕打ちの件は、勘定を済ませるか。話は以上だ。あとは世間が裁く。お引き取り願おう」

その日の午後、立花産業の本社は音を立てて崩れ始めた。あけぼの綜合グループ、立花産業との全取引を停止、臨時株主総会への招集を請求へ。速報が流れた瞬間、株価は売り気配のまま張り付いてストップ安。取引先からの解約通知は、受信箱から床へ溢れた。総務の電話、全回線が鳴りっぱなしになり、やがて誰も取らなくなった。メインバンクは融資の一括返済を通告。夕方、本社に戻った孝志を待っていたのは、正面玄関を埋め尽くした報道陣だった。

「立花専務、不正の告発について一言」

「あけぼの綜合が動いたのは、御自身の不正が原因ですか?」

浴びせられるフラッシュ、突き出されるマイク。三百年、誰もが尊敬を払ってきた立花の名は、その日のうちに日本中のさらし物になった。二百八十億という血流を断たれた会社が、尽きるまで、もう一月もかからなかった。

あの騒ぎから、しばらく経った夕方。あの小さな定食屋に、三人の姿があった。元造と蒼。そして悠人。かつて蒼が気の進まない見合いをぼやいた時と同じ席だった。

「悠人君。一つ、礼を言わせてくれ。あの日、お前さんは何の得にもならぬのに、見ず知らずのわしに頭を下げてくれた。蒼いことを、誰もが地味だと笑う中で、一人の人間として見て守ってくれた。そういう人間に会えたのは、久しぶりだったよ」

「あ、そんな大したことをしてません。母にそう言われて育っただけです。人を見た目や肩書きで測る人間にだけは、なるなって。だから、どうしても見捨てられなかったんです」

元造がふっと目を細めた。亡き妻の口癖が、耳の奥で蘇る。人はね、心を見てやらなきゃね。

「おじいちゃん、私、もう隠れるのやめる。ちゃんと私のまま生きていく。だって、こうしてちゃんと見ててくれる人がいるから」

「ああ、そうしなさい」

元造は深く頷いた。窓の外で、夕日が街を優しく染めていく。

一年後、あの立花家の堂々とした門には、「売却物件」と書かれた紙が貼られていた。三百年磨かれてきた立花の表札は、もう外されている。昔、蒼いを嘲笑った親族たちは、会社が傾いたその日から、一人残らず姿を消した。ガランとした屋敷の敷地の外で、立花総一郎は色を失った目で荒れた庭を眺めていた。家を守るため、息子の罪に薄々気づきながら目をつぶってきた。その家は、もうない。守るべきだったものが家柄などではなかったと、全てを失ってようやく知った。だが、もう遅すぎた。立花孝志は実名で報道された。業務上特別背任、偽造。下請けを何度も潰した手口は、世間の強い怒りを買った。初公判の法廷に、上申書を訴えるものは一人も現れなかった。父も親族もあの女も。人を虫けらのように見下していた男の隣には、国選の弁護士が一人、座っているだけだった。

一之瀬レイカの務める広告会社は、立花産業の広告も請け負っていた。その案件を社に持ち込んだのは、他ならぬレイカ自身。自慢の顔の広さで結んだ縁が、会社に大損害を運び込んだのだ。責任を問われた彼女は、静かに退職に追い込まれた。そして、逮捕された男の元恋人の噂は、狭い業界を、かつて彼女が誇った人脈の速さで駆け巡った。あれほど鳴り響いていた彼女のスマホは、もう音を響かせることはなかった。

季節は巡り、大滝の家には、近頃よく笑い声が響くようになった。悠人は立花の家を出たまま、戻らなかった。元造が一度だけ「うちで働かんか」と誘ったが、悠人は穏やかに首を振った。

「ありがとうございます。でも、俺は自分の力で、一からやってみたいんです。誰かの家柄や肩書きを借りるんじゃなくて」

悠人がまず動いたのは、兄の不正で潰された下請けの人たちのためだった。手を尽くして頭を下げて回り、再起の手伝いを始めた。守られるだけだった男は、いつの間にか誰かを支える側に立っていた。蒼も変わった。分厚い眼鏡で自分を隠すのをやめ、塔のトールの物語を描き始めている。今度の主人公は、いつもそんな役ばかりの、地味で優しい男なのだという。

「いいモデルさんがいるの。すぐそばにね」

他家落ちた父からは、何の音沙汰もない。あの呪いはもう溶けた。何も知らずに私自身を選んでくれた人が、隣で笑っている。誰にも見えなかった人の素晴らしさを救い上げて、物語にする。かつて自分が、そうして救われたように。

よく晴れたある日、悠は蒼を連れて、母の墓を訪れた。線香の細い煙が、まっすぐに立ち上る。

「母さん。紹介するよ。蒼さん。俺が人生で一番大事にしたいと思った人。それから、驚かないで聞いてよ。母さんが最後に何度も読み返してた、あの本『母さんの椅子』。あれを書いたのが、この人なんだ」

蒼は墓石の前にしゃがんで、会ったことのないその人に語りかけた。

「初めまして。あの本を何度も読んでくださって、本当にありがとうございました。あの本は、誰にも見てもらえないままだった、私の母のために書いたんです。だから、お母さんの最後に、少しでも寄り添えていたなら」

生きて出会うことのなかった、二人の母。たった一冊の本が、二人を結んでいた。そして今、その縁の先で、残された子供たちがこうして寄り添って立っている。

その夜、大滝の家の縁側で、元造はいつもの欠けた湯のみで茶を飲んでいた。庭先では、悠人と蒼が何やら楽しげに話している。蒼の笑い声は、もうあの夜の作り物の明るさではない。心の底からこぼれる、本当の笑顔だった。

「見ておるか。人の心を見る。お前の言う通りだったよ。それから、あの子をちゃんと見てくれる男も、ようやく現れた。もう何も心配はいらん」

耳の奥で、懐かしい声が聞こえた気がした。そうでしょ? ちゃんと人と向き合っていれば、素晴らしさを分かってくれる人は、必ず現れるものなのよ。

元造はふっと笑って、茶を一口飲んだ。穏やかな夜だった。そのささやかな団欒こそが、どんな家よりも、どんな財産よりも、この世で一番素晴らしいものだった。

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