夜明け前の築地は、まだ暗闇と冷たい空気に包まれていた。早朝四時の匂いが市場全体に染み渡る中、発泡スチロールの箱を三段に積んだ旧式の自転車が、きしむ車輪の音を立てながら静かに角を曲がってきた。サドルに腰を据えているのは、擦り切れた前掛けを巻いた痩せた背中の老人だ。
海原宗介、七十三歳。銀座の高級料理店「気流庵」の厨房に、六十年もの間、毎朝最高の魚を届け続けてきた魚屋の親方だった。
「宗さん、今朝も一番乗りっすね」
仲買人の声に、宗介は軽くうなずいた。
「おう、今日も気流庵に行くからな。中トロ、あの一番奥のやつをくれ」
「あれ、今朝の最上等ですよ。相変わらずすごい目利きだ」
十三歳で漁村を出てから六十年。魚と職人の手だけは見続けてきた。安物のゴム長靴に、擦り切れた腕時計。誰の目にも町の隠居老人にしか映らないが、その目だけは別人のように鋭かった。
「宗さん、あんたが選ぶ魚はなぜか味が違う。うちの商売はあんたの目利きで持っているようなもんだ」
「大げさだよ。ただ、坊主に握らせてやれる魚かどうか、それだけを見ているんだ」
選び抜いた本マグロ、活け締めの真鯛、鮮やかな車エビ。発泡スチロールの箱に氷と共に丁寧に詰め、自転車の荷台に縛り直す指先は、しだれた跡で真っ白だった。だが、その動きには一切の迷いがない。
坊主とは、銀座気流庵の若手板前、霧谷蓮のことだ。中卒で住み込みの修行に入って九年。先代の大将、仙代気流庵像が「百年に一人の逸材」と惚れ込んだ青年だった。
宗介の脳裏に、四十五年前の冬の朝が浮かんでいた。資金繰りに行き詰まり、店を畳む覚悟で頭を下げに来た若き料理人、幻現造。宗介はその男に言ったのだ。
「あんたの腕は本物だ。銀座の明かりは俺が消させない」
そう言って自身の貯金を投じ、毎朝自転車で魚を運び始めた。あの遠い日から、今日まで。
「現造さん、あんたとの約束だけは四十五年経った今も、まだ守れているよ」
家を出る前、台所で握り飯を渡してくれた妻、八重子の声が耳の奥に残っている。「あなた、今日も気流庵さんのところに行くんでしょう。蓮ちゃんによろしくね」。五十年連れ添った妻は、自分の生き方を全て理解した上で、なお毎朝送り出してくれる。それがこの男にとって、何よりの誇りだった。
銀座の街がまだ眠ったままの早朝を、宗介の自転車はきしむ車輪の音と共に静かに走り出していた。
銀座気流庵の裏口に到着する頃には、空が白み始めていた。築地百年を超える数寄屋造りの店構えの裏手に自転車を寄せ、慣れた手つきで発泡スチロールの箱を下ろす。重い箱を抱えた腰の奥に、鈍い痛みが走った。
「ふう。まだまだやれるぞ」
先代の死去から二年。二代目大将はこの間に、若い職人を次々と入れ替え、SNS重視の路線で常連を遠ざけてきた。残った古参は、味方の老職人と霧谷蓮の二人だけだった。
裏口の引き戸が開き、白い板前服をきちんと着込んだ若い板前が頭を下げて出てきた。
「宗さん、おはようございます。いつもありがとうございます」
「坊主、今日はいいのが入ったぞ。中トロ、目玉も澄んでいる極上だ。寝かせ加減には気をつけるんだぞ」
「はい。ありがたく捌かせていただきます」
宗介と霧谷の間に交わされる短い挨拶だけが、過ぎ去りし日の気流庵の空気を今に残していた。
その時、店の表階段から、けたたましい笑い声が降ってきた。サングラスを額に引っかけた男が、両腕を広げながら厨房に入ってくる。二代目大将の義流員せ矢、四十二歳。後ろには、店内見学に訪れた取引先の若手社長が二人、にやにやと続いていた。
「おお、ちょうど良かった。見てくださいよ。これ、うちの裏口名物、令和の不老者」
取引先の若手社長たちが声を上げて笑った。せいは宗介の擦り切れた袖口を指でつまみ、見せつけるように引っ張る。
「このじいさん、六十年もうちに通ってるらしいんですけど、未だに自転車ですよ。エコっつうか、貧乏っつうか」
「へえ、自転車、今の時代にすごいですね」
「親父の代からの付き合いなんで、残してあげてるんですよ。こっちは」
霧谷の顔が一瞬で曇った。宗介の胸の奥で、四十五年前の現造の笑顔がちらりと過ぎった。現造さん、あんたの息子は……。
宗介はそう心で呟いたが、声には出さず、魚の入った発泡スチロールの箱を霧谷に手渡し直した。
「あれ、この魚、色がちょっと悪くないですか? SNS映えしないんですよ、この赤」
派手な腕時計の文字盤を見せつけるように腕を回しながら、せいは箱を覗き込んだ。
「大将、これは最上の本マグロです。写真映えしないかもしれませんが、その分、色合い、そして脂の乗りが抜群ですよ」
「はあ。中卒の坊主が俺に講釈ですか? いや、受けるんですけど。おい、坊主。お前さ、このじいさんに毎朝ぺこぺこ頭下げてんだろ。見苦しいからやめろよ。高が魚屋だぞ」
「大将、宗さんは仙台の……」
「親父の話はいいから。お前さ、九年も住み込みやって、まだ古い感覚が抜けないわけ?」
霧谷の握りしめた拳が白く震えた。日常的に投げつけられている言葉ではあるが、自分の目の前で宗介本人を貶められたのは初めてだった。宗介は静かに霧谷の肩に手を置いた。
「坊主、いいんだ」
「でも……」
「大将の気に召さないようでしたら、別の品に取り替えますが」
「いいですよ。今日はこれを使いますわ。だよね、宗さん」
派手なジェルで固めた前髪をかき上げながら、せいは薄笑いを浮かべた。
「シニアの目利きとか、もう令和には合わないんで。新時代についてきてもらわないとね」
そして取引先の二人を振り返り、わざとらしく肩をすくめた。
「こういう昔気質の人、扱いが難しいんですよ。親父の残した宿題っつうか」
「大将、それは大変ですね」
取引先二人の笑い声が厨房に響き渡る。奥にいた味方の老職人が唇を噛んだまま俯いた。他の板前たちも、誰一人として声を上げられなかった。せいは二代目と言うだけで、完全に店を支配していた。
「それでは、今日はこれで失礼します」
背中で霧谷が涙をこらえる音が聞こえていた。それでも七十三歳の老人は背筋を伸ばし、霧谷の肩に静かに手を置き直して自転車へ向かった。
「坊主、明日もいいのを持ってくるからな」
「はい。宗さん、お待ちしています」
自転車をこぎ出した宗介の胸に、亡き現造の最後の言葉が蘇っていた。「宗さん、あの連をどうかよろしく頼む」。現造さん、すまない。俺にできるだろうか。そんな宗介の呟きが、朝日の差す銀座に消えていった。
それから数日が過ぎた。銀座気流庵の裏口に着いた宗介を待っていたのは、若い板前ではなく、店の事務方の若い社員だった。事務員は一枚の通告書を差し出し、視線を泳がせながら早口で告げた。
「宗さん、すみません。大将からの通告で、来月から仕入れ単価を三割カットでお願いしたいと。この値段でやれないなら、他の業者に切り替えるそうです」
唐突な三割カット。宗介は今までも、長年の付き合いで漁師や仲買人の利を削ってでも、良質な魚を仕入れてきた。三割カットともなると、魚そのものの質を落とすしかない。その行為は、先代現造が生涯誇りにしてきた「銀座の最高峰」という看板を、二代目が自ら剥がしにかかっているのも同然だった。
宗介は通告書を懐に静かに納め、軽く会釈だけを返した。
「大将には、考えさせてくれとお伝えしてくれ」
「あ、はい。お伝えしておきます」
その時、裏口の引き戸の奥から、せいの声がわざと聞こえるように響いてきた。
「おいおい、考えさせてくれだって。いやはや。シニアの返事って遅くて困るんですよね。そういう営業方法はうちでは通用しないんで、決められないなら即終了で」
「即ですか?」
「そうそう。いい加減こっちにスピードを合わせてね」
突き放すように吐き捨てると、せいは厨房の奥へと戻っていった。残された宗介は、しばらく裏口の戸口に立ち尽くしたまま動けなかった。腹の底で何かが小さく音を立てる。怒りとも諦めとも違う、低く重い音だった。
その時、半開きの引き戸の向こう、厨房の奥から聞き慣れた青年の震える声が漏れてきた。
「お返しします。これは俺の刃ですから」
霧谷の声に、宗介はそっと引き戸の隙間に目をやった。せいが霧谷の柳刃包丁を取り上げ、笑いながら別の若手に放っているところだった。
「蓮君、お前は今日から皿洗いね。包丁はもう触らなくていいから」
「大将、俺はまだ修行の……」
「あのね、お前の包丁、古いんだよね。料理人として輝かないの。本当に分かってないんだね、お前」
そしてせいは、霧谷の柳刃包丁を調理台の隅の、ほこりをかぶった木箱の上に乱暴に放り投げた。
「お前の包丁なんて、そこのゴミ箱の上で十分だろう」
九年間、毎晩一日も欠かさず研いできた青年の刃が、ガラクタの上に転がる音が耳に届いた。
「大将、なんてこと……」
霧谷は悔しさで涙が滲んだ。
その夜、自宅の小さな茶の間で、宗介は珍しく低い声を漏らした。
「八重子、あの坊主、皿洗いに回された」
「蓮ちゃんが? 一体なぜ?」
「料理人の命である包丁まで投げ捨てられた。ふざけている。おそらく坊主の才を妬んでいるんだ、あの大将は」
「そんなことを……」
八重子は静かに茶を注ぎ直し、湯のみを夫の前に置いた。五十年連れ添ってきた妻は、夫のこの低い声を過去に数えるほどしか聞いたことがなかった。湯のみに目を落としたまま動かない夫の手を、八重子はしばらく見つめていた。
「あなた。四十五年前のあの冬、あなたが貯金を投げ打って現造さんの店を救ったあの日、私覚えてますよ。あなたが帰ってきて、『あの男の連を絶対に銀座から消させない』って、泣きそうな顔でおっしゃった夜のこと」
「八重子……」
「現造さんが守りたかったものを、息子さんがご自分の手で潰そうとしている。そして現造さんが百年に一人の逸材と惚れ込んだ蓮ちゃんが、今、居場所を奪われてる。あなた、もう決めているんでしょう。私はあなたの判断についていきます」
その一言で、宗介の腹の底にあった思いが、はっきりとした輪郭を持ち始めた。
「八重子。長い間、よく辛抱してくれた」
「いいえ。一番辛抱していたのは、あなたですよ。明日の朝、私もご一緒してよろしいかしら」
「お前が? どうして」
「蓮ちゃんの顔を見ておきたいの。あの子の包丁が戻る日まで、私もそばにいてあげたいから」
「そうか。じゃあ、明日は二人で行こう」
縁側の月明かりが、二人の白髪を薄く銀色に染めていた。
翌朝の築地は、いつもより風が強かった。宗介は仲買人の親方に、いつもとは違う注文を出した。
「親方、二番手のマグロをくれ。色は悪くないが、目玉の針が一息のやつだ」
「宗さん、なんかあったんですか? あんた、一番手しか触らないでしょう」
「いいんだ。値段の良さに合わせるだけだ」
「値段って、まさか気流庵さん? 魚は値段じゃない。あなたがそう教えてくれたでしょう」
「三割カットを飲むなら、それなりのものしか届けられん。それでいいのよ」
「……あなたがそう言うなら」
仲買人は困った顔のまま、それでも宗介の指で示された箱を黙って差し出した。鯛も活け締めではなく、その日の水揚げ品。エビも車エビではなく、海外産のエビ。素人が見れば違いが分からないかもしれないが、職人の手に乗せれば差は歴然だった。
その日の夜、銀座気流庵のカウンターでは、せいが満面の笑みを浮かべていた。仕入れ単価が下がった分、利益率が跳ね上がる。そんな計算が頭の中で踊っていたのだ。
「やっと話の通じる爺さんになったわ。最初からこうしときゃいいんだよ」
板場の隅で、霧谷蓮が皿洗いの手を止めた。冷蔵庫から取り出された本マグロの切り身を横目でじっと見つめる。色艶、脂の走り方。九年間、毎朝魚を扱ってきた青年の指は、その魚に小さく触れた瞬間、呼吸を止めた。
「宗さん、これ、わざと格を落としてる。こっちの値段の下限を試してるんだ」
先代が「魚は職人を選ぶ」と口癖のように言っていた意味が、今はっきりと分かる。冷蔵庫の扉を閉める手のひらで、青年は静かに拳を握り直した。
その夜の客席には、銀座界隈で名を知られた料理評論家、老舗ホテルの総料理長、財界の重鎮たちが並んでいた。二十年来の常連、舌の肥えた者ばかりだった。
突き出しの一切れを口に運んだ評論家が、箸を止めた。
「大将、今夜の本マグロ、悪くはない。しかし、気流庵の格ではないね。現造の頃の、あの切れのすごみが今夜はない」
「そ、そんなはずは」
「いやはや、気流庵が二番手の魚を出す日が来るとはな。まあ、私はもう来ないかもしれん」
カウンターの空気が、わずかに、しかし確実に冷えた。隣の席で盃を掲げていた財界の老臣が無言で席を立つ。続いて評論家が暖簾をくぐり、総料理長は黙って勘定を済ませ、重鎮は深いため息と共に店を後にした。玄関の石畳を打つ下駄の音だけが、虚しく響いた。
「ま、待ってください!」
せいの顔がさっと引きつった。慌てて笑顔を作り、場を取り繕おうとするが、もう誰の足も止まらない。その夜、店の後の厨房で、せいは携帯電話を耳に押し当てて怒鳴っていた。
「宗さん、今日のあの魚、なんで二番手なんですか?」
「大将のご指定の仕入れ単価でご用意できる最上のものを、本日はお届けいたしました」
「言い訳すんな! いぼれが手抜きしてんじゃねえぞ! 明日からは元の質のものを入れろ。値段はそのままでな!」
「大将、魚は値段なりの格しかお届けできません」
電話の向こうで、せいが何かを踏み倒す音が漏れていた。宗介は静かに通話を終え、自宅の縁側に座り直した。今夜の出来事は、前触れに過ぎなかった。
数日後の早朝。築地場外の薄暗がりに、宗介の自転車がいつものように現れた。だが、その朝の市場の空気は、いつもと少しだけ違っていた。仲買人の親方衆、魚河岸の幹部までが揃って通路の脇に立ち、宗介の自転車が通る瞬間に静かに頭を下げていく。
「会長、今朝もお元気で」
その一言が、薄明かりの中にぽつりと落ちた。会長。この場に居合わせた者のうち、それが誰のことか分からないものは、誰一人としていなかった。宗介は人差し指を口元に当て、いたずらっぽく目を細めた。
「内緒だ。今朝も俺はただの魚屋の宗さんだ」
「へい。かしこまりました」
築地という町では、知る者だけが知っていた。あの自転車の老人が、年間売上四千八百億円の水産流通グループを、たった一台の自転車と裸一貫から築き上げた男だということを。
その日の昼下がり。宗介の懐の携帯が低く震えた。耳に当てると、ひどく緊張した男の声が流れてくる。
「親父、ご無沙汰しております。今です」
「おお。元気にやってるか?」
「銀座の話、業界に流れてきました。親父、お一人で抱え込まないでください。あの店ですね。四十五年前、現造さんが命をかけて守られた、あの連の」
「ああ、現造さんの連だ。自分の親父の誇りを知らずに踏みつけている」
「ようやく動かれるのですね」
「お前の手はまだ汚さん。今はまだだ」
「お言葉をいただければ、私はいつでも」
「ああ。そう遠くはない」
電話の向こうで、今が深く息を飲む音が聞こえた。たった一言の「そう遠くはない」が何を意味するか。宗介の高志ほど、深く理解できる男はこの国にいない。
その夜、宗介の自宅の書斎には、手書きの招待状が届いていた。差出人は、銀座の隣町で気流庵の系列の店を継いだ若い板前の主人だった。「海原会長。父の代から会長のお名前は伺っております。一度、是非……」便箋の最後に書かれた一文は、二代目の連を継ぐ覚悟を語っていた。
宗介はそれを丁寧に折り直し、書斎の壁の写真の前に立つ。古い木の写真には、まだ若かりし頃の宗介ともう一人、白い割烹着を着た若い料理人が肩を組んで笑っていた。仙代の気流庵、本名・義流員像。せいの父である。
「現造さん。あんたが惚れ込んだ、あの百年に一人の逸材を、今、あんたの息子が踏みにじっている。俺は、あんたとの約束を守るために、もう一度動くよ」
窓の外の星明かりが、書斎の畳に薄く広がっていった。
その朝、銀座気流庵の裏口に着いた宗介を待っていたのは、店の表階段の上で腕組みをしながら立っているせいの姿だった。後ろには店の事務と若い板前数人が、申し訳なさそうに視線を落として並ばされている。戸口の隅では、霧谷蓮が私物を詰めた小さなダンボール箱を抱えて、唇を噛んでいた。
「宗さん、今日でちょうど良かったわ。記念日になりますね。中卒の坊主、本日付けで解雇です。お前みたいな時代錯誤は、もういらないんで」
「大将、俺はまだ修行の途中で……」
「修行? 時代遅れの言葉、もう出さないでくれる?」
腕組みのまま、せいは鼻で笑った。霧谷の握りしめた拳の関節が白く浮き上がっていた。九年間、毎朝四時に起きて磨いた包丁。毎晩遅くまで叩き続けた、まだ少年だった自分が写したノート。それら全てが、たった一言で切り捨てられようとしていた。
「先代に、顔向けができません……」
その時、裏口の戸を慎ましやかに開けて入ってくる人影があった。髪を綺麗に結い、地味な紬の着物に派手な羽織りを重ねた老婦人。宗介の妻、海原八重子だった。
「蓮ちゃん」
八重子はそう呼ぶと、戸口をまっすぐに歩いて霧谷の前に立った。しだれた両手で、若い板前の頬をそっと包んだ。
「あなたは、うちの主人と私の孫みたいなものよ。うちにいらっしゃい」
「女将さん、すみません。俺、こんな情けない姿で……」
「何を言うの? 包丁を取り上げられた人が、頭を下げる必要なんてどこにもないのよ」
老婦人の柔らかな声が、戸口の空気を一瞬で温めた。それを見ていたせいが顔色を変えた。
「はあ。誰ですか、この方? 家族同然とか、意味わからないんですけど」
「俺の妻だ。妻が坊主を連れて帰ると申しております」
「ああ、はいはい。じゃあ、おぼれっ子ファミリーで仲良くお引き取りくださいよ。それと、お伝えしておきます。今日限りで、取引を終了します」
「はあ? それはこっちの……」
その言葉を聞いたせいは、自分から言おうとしていたことを先に言われた苛立ちを表したが、すぐに満面の薄笑いを宗介に向けた。
「取引終了、どうぞ。わざわざ手間が省けましたよ。シニアの目利きは、うちでは間に合ってますんで」
宗介は深く一礼すると、筋の通った声で告げた。
「お世話になりました。先代には長く可愛がっていただきました。そのご縁に、これで区切りをつけさせていただきます」
「うわ、いちいち長いなあ。蓮と、中卒坊主、まとめて消えてくれて清々しますわ」
その時、店の表通りから、低い排気音が三つ重なって近づいてきた。せいの薄笑いがふっと止まる。黒塗りのセンチュリーが三台、縦に並んで気流庵の店前に静かに止まったのだ。要人警護のような車列に、通行人が足を止めてざわめき出す。戦闘者の後部ドアが開き、隙のない濃紺のスーツ姿の壮年の男が降り立った。両脇には秘書とSPが二人。男は迷いのない足取りで暖簾をくぐって、土間まで歩いてくる。そしてサマー姿の老人の前に歩み出て、深々と腰を折った。
「会長、お迎えに参りました」
その一言が、銀座気流庵の厨房に低く、しかし全方位に響いた。せいの手にしていた包丁が、ぴたりと止まる。
「はあ? ……一体誰のことを言ってるんだ?」
せいの声を完全に無視し、壮年の男はもう一度宗介に向かって深く頭を下げ直した。
「東方水産株式会社、代表取締役の今野孝志と申します。私どもの創業者にして名誉会長、海原宗介様をこちらでお預かりいただきまして、誠にありがとうございました」
厨房の入口には、黒塗りの車列に気づいた通行人や、ざわめきを聞きつけた近隣の店主たちがぞろぞろと集まり始めていた。
「東方水産の創業会長、あの海原宗介?」
「年間四千八百億円の、業界の最高権威が?」
「銀座から豊洲、全国の漁港まで、卸す権限を握っているあの?」
ざわめきが波のように厨房の中まで押し寄せた。せいの顔が、見る見るうちに青ざめていく。
「ま、待ってくださいよ。そのサマーのじいさんが……魚屋の宗さんが?」
今度は、せいの方をようやくちらりと見合った。冷たい能面のような視線だった。
「冗談を申し上げる立場の人間ではございません。弊社グループは年間売上四千八百億円、国内有数の水産流通を取り仕切っております。その全ての出入りに最終的な裁可を下ろされるのが、創業会長の海原宗介様でございます」
「おい、待て……」
今度は、宗介自身の声だった。声の温度を一段深く落として、せいに語りかける。
「気流庵さん。あなたは、お父様から『宗介さん』というお名前を何度も聞かされて育ったはずです」
せいの動きが、その名前で凍りついた。
「そう。四十五年前の話だ。先代の気流庵様は、開業からわずか三年で資金繰りに行き詰まり、店を畳む寸前まで追い詰められた。仕入れ業者には逃げられ、銀行には見放され、ご家族と無理心中するまでお考えになったと、現造様ご自身が後年、酒の席で何度も語っておられたそうだ」
厨房を覗き込む人々が息を飲む。せいの額に、汗の玉が浮かんでいた。
「その現造様の店を、たった一人救った人物がおります。当時まだ二十代後半、駆け出しの仲買人だった一人の男が、自身の貯金と故郷の漁村を担保に組んだ借金、その全てを現造様の店に注ぎ込みました。全国の漁港を掛け回り、最高の魚を集め、毎朝自ら自転車で銀座まで運び続けた。それを現造様の店が黒字に転じるまで、丸三年。三年間、休まずにです。現造様は生涯、その方を『命の御仁』と呼び続け、亡くなる直前までお子様にこう言い残されたと伺っております。『俺が今こうして店を上げていられるのは、宗さんのおかげだ。あの人がいなかったら、お前も俺もこの銀座にはいない』と」
せいの喉から、声にならない音が漏れた。父の声が、何度も何度も繰り返したあの言葉。宗さん。宗さん。宗さん。幼い頃から、父が酒に酔うたびに口にしていた、顔の見えない御仁の名前。
「ま、まさか……」
今野は宗介に向かって深く一礼した。
「その駆け出しの仲買人が、私どもの創業会長、海原宗介様でございます」
厨房に完全な静寂が落ちた。経済記者がボイスレコーダーを取り落とした。財界の重鎮が両手で顔を覆った。せいは、両手を調理台について、そのまま土間の上にずるずると崩れ落ちた。
「う、嘘だ。嘘だろ……親父が言っていた宗さんって、あんたが? だって親父はあんたを『御仁の宗さん』とは一言も。ただの魚屋だって……」
宗介はゆっくりと向き直った。土間に膝をついたせいの正面に立ち、しだれた手を自分のサマーの胸元に静かに当てた。
「気流庵さん。お父さんは、あんたに私の正体を最後まで明かさなかった。それは私が頼んだことだ。『あんたの息子は、あんたの店の連だけを見て育ってくれればいい』と。現造さんは、その約束を墓場まで守ってくれた」
その声は震えていなかった。怒りもなかった。ただ四十五年分の友情の重みだけが、その一言一言に深く沈んでいた。
「義流員さん。あんたのお父さんが命がけで守った連の意味を、あんたは最後まで分からなかった」
厨房の片隅で、霧谷蓮が声を殺して泣いていた。八重子が、その肩をそっと抱き寄せた。気流庵の厨房に、針の落ちる音さえ立たない静寂が満ちた。
静寂を破ったのは、今野の冷やかな声だった。
「気流庵さん。これより、業務上のお話を申し上げます」
秘書が銀の盆に載せた一通の封書を差し出す。封筒には、東方水産ホールディングスの社章が深く型押しされていた。
「本日付けで、東方水産ホールディングスは銀座気流庵様との一切の取引を停止いたします。同時に、全国系列の水産卸業者、流通業者に対し、貴店への供給停止を周知いたします。本日中に、銀座から豊洲、全国の漁港まで、全ての動脈が止まります」
「ま、待ってくれ。それじゃあ、うちは……」
「すでに、貴店向けの最高級魚介類は、別の流通先に取り替え済みでございます。先ほど、有楽町の死定様と年間三十億円、五年間の特別供給契約を締結いたしました」
経済記者が思わず声をもらす。
「三十億円、五年で百五十億……」
銀座の仕入れ勢力図が、たった一夜で書き変わった。
「東家様には、若手の有望店舗に最高の魚を回していただく予定です。銀座の味は、これから先、職人の手で守られていきます。そして、本日お預かりいたしましたこちらの若い板前は……」
今野は、八重子に寄り添って泣いている霧谷蓮を静かに振り返った。
「こちらで、本格的な板前修行を再開していただきます。先代の気流庵蔵像様が『百年に一人の逸材』と惚れ込んだ若手を、必ず世に出させていただきます」
霧谷の頬を、新しい涙が伝った。
「う、嘘だろう。仕入れも、坊主も、全部……」
その時、調理場の電話がけたたましく鳴り始めた。続いて二台目、三台目。事務室の固定電話、せいのスマートフォン、店の予約専用回線。全ての電話が、同時になり出していた。震える指で受話器を取ったせいに、馴染みの仲買人の声が響いた。
「申し訳ない。お宅とは取引できないことになりました。会長の指示です」
「会長の指示って何だよ! 待て!」
「恵沢商店? お前のとこもか?」
「今後、貴店向けの卸は一切お受けできません」
「金座飲食組合からの通達です。当方の取引を一時凍結いたします」
「大将、申し上げにくいのですが、私どもも本日付けで辞めさせていただきます。先代の心を、もうこれ以上汚すわけにはまいりません」
受話器を握る手が震え、額にはにじんだ脂汗が光っていた。そして、厨房の入り口で見ていた経済記者が、すでに記事を打ち始めていた。投稿された一文が、またたく間に拡散していく。
「銀座気流庵、二代目による創業の魂への冒涜」。四十五年前に店を救った命の御仁を、息子が追い出した代償である。SNSのフォロワー数が、一刻一刻と減っていく画面を、せいは呆然と眺めるしかなかった。
静かに歩み出た宗介が、土間に崩れたままのせいの正面に立った。
「気流庵さん。一つだけ伝えておく。俺の手は、魚と人を見るためにある。肩書きだけで人を見る相手に、最高の魚はもう回らないのです」
せいの唇が、声にならない震えを刻んでいた。土間に両手をついたまま、せいは深く頭を垂れていた。
宗介は背を向けて店を出ようとし、ふと足を止めた。視線の先、調理場の隅の、ほこりをかぶった木箱の上に放り投げられたまま忘れられた、一本の柳刃包丁がある。せいに取り上げられた後、誰にも触れられることもなく放置されていた、霧谷の刃だ。
宗介は静かに歩み寄り、箱を両手でそっと取り上げ、深く一例してから胸に抱いた。
「これは、坊主の刃だ。お返しいただく」
せいはもう、何も言わなかった。土間に額を付けたまま、両肩が小さく震えているだけだった。
やがて、せいの喉から絞り出すような声が漏れた。
「お、お願いします。海原会長。もう一度、もう一度だけチャンスをください。俺は、親父が一番大事にしていた人を、毎朝踏みつけてたんですね」
土座のまま、せいの声が初めて子供のように崩れた。額を土間にすり付ける音だけが、厨房に響く。宗介はその姿を、しばらく無言で見下ろしていた。怒りでも哀れみでもない。ただ静かな間が、長く落ちる。
「気流庵さん。『知らなかった』では済まない。あんたのお父さんは、生涯私の名前を出さずに、『宗さん』とだけ呼び続けた。なぜか分かるか? あんたに、目の前の人を肩書きや財力で見るのではなく、まっすぐに見られる人間に育って欲しかったからだ。現造さんは、それを願いながら、そうしていたんだ」
「だ、だって親父は、本名の宗さんとは別人だって……」
せいの声が、途中で途切れる。額が土間に押し付けられたまま、動かなくなる。一筋の涙だけが、早朝の光に鈍く光っていた。
「御仁と分かっていたら、態度が違ったのか? チャンスなら、毎朝何度もあった。あの本マグロの一切れに、坊主の包丁の一本に、その一言に、あんたが答える機会はいくらでもあった。ただあんたは、その全てを土足で踏みつけた。あんたが売っているのは料理じゃない。見えだ」
その一言が、厨房の柱と柱の間をゆっくりと巡った。続けて宗介は、抑えた声で最後の宣告を置いた。
「この店の暖簾は、もう降りる。現造さんの連は、私が責任を持って預からせてもらう」
宗介は霧谷の柳刃包丁を胸に抱いたまま、八重子と霧谷を伴ってゆっくりと厨房を後にした。三人の影が暖簾をくぐり、銀座の朝の光の中へと消えていく。土間に額を付けたままのせいと、全ての通話を切られた電話機の沈黙だけが、厨房に取り残されていた。
「うっ、親父。俺は……」
一人の大人のつぶやきが、厨房に虚しく響いた。
その日の夕刊の一面には、銀座気流庵の経営危機を報じる大きな見出しが踊った。「仕入れルートの全面停止」、「銀座飲食組合からの除名」、「銀座飲食店連盟からの注意処分」。経済記者の取材に、今野はこう答えていた。
「東方水産ホールディングスとして、当該店との取引再開の予定はございません。業界の信用は、職人と客への敬意の上に成り立っております。その敬意を欠いたものには、最高の魚はお届けできません」
数日のうちに、気流庵の店内からは若い板前と仲居が一斉に去った。SNSのフォロワー数は半数以下に落ち、月の終わりを待たずに銀座中央通りの暖簾は静かに外され、テナントの看板が付け替えられていった。今野からの報告として、宗介の元にはその後の義流員せ矢の足取りが、淡々と届けられていた。倒産処理が進み、店舗の保証金も、従業員の退職金支払いに消えた。銀座飲食組合からの正式な除名。母親と親族からの絶縁状。SNSで集めた数万人のフォロワーは、数百人にまで激減していた。
「親父。当該店の大将は、地方の親族筋に身を寄せたとの情報がございます。現造様の連は、我々が引き取って別の若手店舗に貸す方向で動きます」
「現造さんの連は、あんたに任せる。坊主みたいな若いのにもう一度、灯りを灯してくれ」
その夕暮れ、自宅の縁側で宗介は深く長い息を吐いた。胸の奥に長く詰まっていた何かが、ゆっくりと解けていく感覚があった。妻が入れる番茶の湯気が、これまでで一番美味しそうに見えた。
「あなた、お疲れ様でした」
「八重子。長く待たせたな」
「待っていたのは私じゃなくて、銀座の若い職人さんたちです。あの子たち、これからはちゃんとした仕事ができますね。現造さんも、きっとお喜びですよ」
縁側の正面に、足音が一つ近づいてきた。前掛けに包丁一本だけ携えた、若い板前の姿である。霧谷蓮が深々と頭を下げ、肩を震わせた。
「宗さん、女将さん。俺、こちらでう一度、修行させていただくことになりました。先代の包丁を取り戻していただいて、本当にありがとうございました」
「坊主。お前の手には、お前の刃が一番似合う。焦るな。俺はお前の包丁が描く線を、ずっと見ているからな」
「は、はい。会長」
「いや、宗さんだ」
「はあ。俺は、最後までただの魚屋の宗さんでいい」
縁側の三人の影が、夕日の淡い色の中でゆっくりと一つの絵に溶けていった。長い、長い銀座の六十年の戦いが、たった一日で形を変え、今、静かな週末を迎えていた。庭先で鳴く一匹の蜩の声だけが、この日の特別な静けさをそっと包み込んでいた。
季節が変わり、銀座の街路樹が新しい葉を揺らす頃。有楽町裏の小さな店の奥では、白い割烹着をまとった若い板前が、鋭い目つきで本マグロの柵に向き合っていた。皿洗いの修行に逆戻りすることなく、本気の修行を再開した霧谷蓮の指は、季節を重ねるごとに確かな線を紡ぎ始めていた。あの朝、宗介自らの手で取り戻された柳刃包丁は、研ぎ澄まされて白木の鞘に収まり、青年の前掛けの腰に戻されている。
その夕暮れ、店の小座敷に宗介と八重子が静かに腰を下ろしていた。出された突き出しの一切れを口に含んだ宗介が、口元に薄く笑みを浮かべる。
「旨みを覚えやがったな」
「あら、本当? 現造さんの味に、若さがちょっと加わっていますね」
「ありがとうございます。今の私があるのは、宗さんと奥様のおかげです」
「それでいい。受け継ぐとは、ただ真似ることじゃない。育てることだ」
その同じ日の朝、東方水産ホールディングスのプレスリリースが、業界を再び静かに揺らしていた。
「気流庵記念・若手板前奨学基金設立」
中卒・高卒で和食の道に入る若い職人に、住み込み修行中の生活費と一級の包丁一本を支給する制度。設立趣意書には、こう記されていた。
「四十五年前、銀座の片隅で店を畳もうとしていた一人の若き料理人がいた。その男は、名も知らぬ仲買人に救われ、店を守り、生涯その御仁を『命の御仁』と呼び続けた。本基金は、その御仁との友情に捧ぐものである。志ある若き職人が、肩書きや学歴や財力ではなく、ただ腕と心だけで評価される世界を、私たちは信じる」
設立者に名を連ねたのは、海原宗介ただ一人。亡き気流庵像への、長い、長い告げだった。
その夕方、宗介の懐の携帯が、いつもの低い震えを伝えた。
「親父。業界全体が会長のご判断に従っております。基金への賛同企業は、すでに五十社を超えました。現造様も、きっとお喜びです」
「ああ。お前と、坊主と、あの店の若い者たちが、これから先の銀座を作っていくんだ。俺はな、まだしばらく自転車を漕がせてもらうよ」
「親父。いつまでもお元気で」
通話を終えた宗介は、座敷の窓に銀座の風景を眺めた。隣で八重子が静かに茶を注ぎ直す。
「八重子。明日の朝も、いつも通りだ」
「ええ。あなたの目利きを、あの子たちが待っていますよ」
「俺の仕事はまだ続く。魚と人を見るのが、俺の生きがいだからな」
老いた男の口元には、長く張り詰めていた緊張の後に訪れた、穏やかな充足の表情が確かに浮かんでいた。明日もまた、早朝の築地に、きしむ車輪の音が響く。坊主の包丁が描く線が、今より一段深くなるその日まで、自転車の老人は銀座の路地を走り続ける。
