窓際に置かれた古い金属製の机の上で、木の作業服を着た男が静かに座っていた。男の名は宮本建吉、六十三歳。机の上には書類トレイが二つと茶碗、そして会社の支店から回されてきた中古のパソコンが一台。建吉は冷めた茶を一口含み、胸ポケットの中の手帳の感触を確かめた。擦り切れた茶色い糸の表紙の手帳は、七十四歳で引退した前社長の吉三郎が建吉に託した私物だった。
「人は技術を作り、技術は人を作る。俺はこの一冊とこの作業服だけで四十一年やってきた」
吉三郎はいつもそう言っていた。建吉がその言葉を反芻していると、廊下の向こうから若い足音が近づいてきた。
「おはようございます。宮本さん、朝早いですね」
「おはよう。お前も早いな」
「あの……今朝、お伝えしたいことがあって」
桂銀太、二十八歳。吉三郎が生前、五年かけて直接育てた弟子だ。今日はその表情が少し硬い。
「私、もしかしたら近いうちに整備チームの体制が変わるかもしれないという噂を聞きました。新社長の赤嶺さんが、ユニコーン・コアを丸ごと海外クラウドに置き換える計画らしいです」
建吉は息を飲んだ。ユニコーン・コアとは、この会社の組織運営システムのことだ。前社長が退任し、新社長が就任してまだ三ヶ月しか経っていない。
「ユニコーン・コアが無くなるなら、整備チームも要らないってことで、解体されるんですか」
「赤嶺が海外ベンダーを呼んでるのか」
「はい、三週間連続で週末も帰っていません。その会議には私も星組の誰も呼ばれていませんでした」
建吉は桂をまっすぐに見つめた。
「それを朝早くわざわざ言いに来たのか」
「いいえ、宮本さんに何かを期待しているわけじゃないんです。ただ、何も言わずに消えたくなかっただけです」
「……分かった。来てくれてありがとう」
桂は深く頭を下げると、勤務時間だからと部屋を出て行った。三月の太陽はまだ低く、窓の外に淡い光が差していた。
机の電話が鳴った。
「はい、宮本です」
「本社の庶務管理部の江島です。宮本さん、お久しぶりです」
「江島さん、戻ってきたんですか」
「はい、おかげさまで。あの、お忙しいところ恐縮ですが、お聞きしたいことがありまして」
「何でしょう」
「特許と従業員発明規程についてなんですが。特許書類を整理していたら、共同発明を含めて登録数が十九件あると分かりまして」
建吉は苦笑した。江島はまだ三十代で規程の会議に出席していた若手だったが、今では本社の庶務管理部長まで務めている。電話の向こうで誰かに呼ばれたのか、江島は慌てて通話を切った。二十五年前のあの会議で、建吉はこの男の地図をここまで育ててきたのだ。窓の外では太陽が少しずつ昇っていた。
その朝、建吉の元に人事部からメールが届いた。件名は「面談のお願い」。指定された場所は本社六階の大会議室で、社長の和津、専務の赤嶺、人事部長の小田原が同席するとあった。建吉はメールを印刷し、静かに引き出しにしまった。
十時、建吉が大会議室の扉をノックすると、中から女性の声がした。「どうぞお入りください」。長い会議机の向こうに三人の男が並んで座っていた。中央に和津、右に赤嶺、左に小田原。机の中央にはペットボトルのお茶と、一台の小型レコーダーが置かれていた。
「宮本さん、お忙しいところ恐縮です。今日は率直にご相談があって参りました。当社では顧問制度を抜本的に見直すことにいたしました。組織を守る責任がありますので、宮本さんには“全体最適”という言葉をご理解いただければと思っています」
和津の言葉に、建吉は何も言わず両手の指を机に軽く置いた。
「顧問制度はもう駄目でしょう。固定タスクも無いのに固定費だけがかかる。現場のスタッフを見回しても、正直なところ回っていません」
赤嶺がタブレットの数字を指で叩いた。建吉は静かにうなずいたが、その低く優しい視線は和津をまるで初めて見るかのように捉えていた。やがて建吉は口を開いた。
「企業を技術で未来に導く責任があると言いながら、個人の情義で会社を動かしているようには私は耐えられません。これは上の決定です。“上”とは投資ファンドのことです。私が社長になってから当社はファンドの傘下に入りました。取締役会の半数以上はファンドが派遣した社外取締役です。創業者は今期でほぼ退任しました」
「分かりました。しかし、私の四十一年とユニコーン・コアの三十年は、現行の規程どおりに扱っていただきたい」
「規程も見直すべきです。組織としてご理解ください」
「さきほど江島さんが話していた規程の見直しとは、退職金規程と発明規程のことですか」
「全面的にです。“前例が無い”と言わせないのが私の方針です」
「分かりました」
和津は建吉の言葉を承諾と受け取ったようで、満足げにペットボトルの茶を一口飲んだ。
「宮本さんは金属業界四十年、機関整備維持管理部長として十五年、それ以前は機関開発部のチーフエンジニアとして二十年。つまり四十一年、同じ種類の仕事をされてきた。ユニコーン・コアを長年担当してきたのも事実でしょう。ですが、そのユニコーン・コアは終わりです。海外クラウドに全面的に置き換えます。この決定事項は経営会議に提出済みです」
赤嶺はタブレットの画面を建吉に向けた。建吉は画面を見ず、赤嶺の顔をじっと見つめた。
「ユニコーン・コアの内部例外処理をすべて海外クラウドに渡すおつもりですか」
「そうですね、五月までにそれを紙にまとめて引き継ぎ資料として出してください。古くさいやり方で申し訳ありませんが、お得意でしょうから」
「引き受けます。ただし、私と同じくらい頑固な人間が一人必要です」
「例外処理で文書化されていないものはもう不要です。今の現場は海外ベンダーの標準実装で回っています」
建吉は答えなかった。床で、右の手がそっと胸ポケットを撫でた。布越しに硬い感触が伝わる。その時、扉がノックされ、秘書が入ってきた。
「失礼します。東日本輸送機械工業の島村部長が、再来週に挨拶に来られます」
「赤嶺君、頼む」
「分かりました」
島村新一郎。二十年来の知己であり、ユニコーン・コアに守られてきた東亜テクノス最大の取引先の幹部だ。建吉は静かに頭を下げて会議室を出た。今日は何も言わなかった。だが、何も承諾してはいない。
四月の終わり、建吉の元にまた車内メールが届いた。特許手当の廃止に関する通知だった。「来年度より特許手当および業績手当は段階的に廃止する」。事務的な一文を二度読んでから、建吉は引き出しにしまった。その夜、宿舎の談話室の前で桂と会った。
「宮本さん、来月から整備チームを外れることになりました」
桂の手にはまだ開けていない出張用のカバンがあった。
「いつ決まったんだ」
「今日の朝、部長から伝達がありました。次の担当は社内ヘルプデスクと深夜の工場巡回警備、月十回。あと、古いエラーログの紙整理だそうです」
建吉は桂の手にある開けられていないカバンの蓋を黙って見つめた。
「宮本さん、大丈夫です。ここまで使ってもらえただけで十分です」
「そんなことを言うな」
声は低く、しかし明確だった。
「お前は拾われたんじゃない。お前が自ら選んだんだ。ありがとう」
桂は深く頭を下げた。建吉はそっと肩を叩いた。
数日後の朝、建吉の机の電話が鳴った。江島からだった。
「宮本さん、規程の改訂を調べましたら、やはりおかしな点がいくつかありました。不利益変更の同意手続き、労使協議、労使報告の形跡が全部見つからないんです。関連部署に当たって再確認しています。特許手当の廃止通知も同じです。就業規則の変更周知手続きが行われていません。職務発明規程にも潜航技術の記載がありません」
建吉は江島がここまで調べてくれたことに感謝した。
「すみません、江島さん。無理を言って」
「いいえ、私の仕事です。ところで宮本さん、ユニコーン・コアの引き継ぎ資料は誰に渡すんですか」
「赤嶺さんに紙で渡す予定だ。君にも一部を控えとして送っておく。本社監査部に提出する記録として」
「承知しました。実は、同じような報告が複数の工場から意見箱にも寄せられていて、本社監査部が正式な調査を進めています」
電話を切った後、建吉は引き出しから古いノートを取り出し、ボールペンの先を紙に押し付けた。ユニコーン・コアの内部例外処理を手書きで書き始めたのだ。あの会議以来、毎晩二時間、三十年にわたる暗黙知を順番に書き起こしていた。部屋の隅には妻の位牌があり、湯の沸いていないポットが置かれていた。「清さん、これでいいですか」と、誰にともなく声をかけながら、彼は空白を埋め続けた。
二週間後の朝、建吉は分厚いノートの写しを抱えて赤嶺の机の前に立った。赤嶺は面倒そうに顔を上げた。
「ああ、宮本さん。何の用ですか」
「引き継ぎ資料です。二百八十七項目あります」
「ああ、あれですか」
赤嶺はノートの写しを手に取り、最初のページを五秒だけ見た。
「いや、これはいりません。本当にいりません。宮本さん、もうKPIの時代ですから、紙の資料はやめてください。前の社長にも言っておきましたが、そういうのは全部海外ベンダーの自動処理に吸収されますから」
赤嶺はノートの写しを机の横の裁断機に突っ込んだ。機械音がフロアに響いた。三十年の暗黙知が細断される音だった。建吉は何も言わず、ただその様子をじっと見つめていた。そして静かに机を離れた。廊下の窓から差す光が、建吉の作業服の襟にわずかな影を落としていた。既に建吉は江島の元にもう一部を速達で送り終えていた。
五月の連休明け、桂の異動が正式に発表された。翌日、桂が建吉の机の前に立って異動辞令の写しを渡した。
「宮本さん、すみません」
「お前が謝ることじゃない」
「でも、来週からヘルプデスクの研修が始まりますので、星組での仕事は今日で終わりです」
建吉はポケットの上から手帳の表面を指でそっと撫でた。
「桂君、さっき渡したあのファイル、ユニコーン・コアの内部例外処理が全部入っている紙の資料だね。“あ、はい。机の引き出しにまだあります。持ってきましょうか?”“いや、いい。何かあった時のために持っていてくれ”」
桂はそう言って自席に戻った。夕方の鐘が鳴る少し前、桂が再び建吉の机に来た。
「宮本さん、少しだけお話ししてもいいですか。星組に来てからの五年間で、いつからか気付いたことがあるんです」
桂は座って建吉を見上げた。
「人は技術を作り、その技術が人を作る。ユニコーン・コアは宮本さんと前の吉三郎社長が長い時間をかけて作ったものですよね。私、毎日使ううちに、この三十年間、少しずつあなたたちに作られてきたような気がするんです」
建吉はすぐには答えなかった。
「すみません、別れ際に変な話をして」
「いや、変じゃない」
建吉の声は低く、静かだった。
「自分でその答えに辿り着いたのなら、それで十分だ。ありがとう」
「はい。あなたは二十八歳か。まだまだ先が長い。この先、どんな場所に行っても、自分の技を守り続けなさい」
「はい、覚えておきます」
桂は深く頭を下げ、体を整えてフロアを出て行った。建吉は桂の背中が廊下の角に消えていくのを静かに見守っていた。一人になった建吉は、胸ポケットから手帳を取り出し、両手で包むようにして最初のページを開いた。そこには吉三郎の字で一行だけ書かれている。「人は技術を作り、技術は人を作る」。四十一年前、吉三郎の手から初めて受け取った時と同じ色のインクだった。建吉は静かに手帳を閉じ、ポケットに戻した。心の中心に、少しだけ重い感触があった。
その時、机の上の社内便に一通の封筒が入っているのに気付いた。差出人は東日本輸送機械工業の島村部長。中には短い文が書かれていた。「貴社の圧延組織機構の維持管理体制に関する品質保証強化の措置をお願いしたい」。詳細は別添の文書にあった。建吉は封筒を静かに引き出しの奥にしまった。明日も同じ時間に出社する。それだけだ。
五月の終わり、新社長就任から六ヶ月目の午後二時、建吉は再び大会議室の扉をノックした。廊下の鏡に自分の姿が映った。四十一年、この一着の作業服だけで働いてきた。心の中心には一つだけ確かなことがあった。あの言葉は桂に届いただろうか。建吉は静かにうなずき、扉を開けた。長机の向こうには前回と同じ三人。机の中央にはレコーダーと、辞職願らしき書類が一枚、辞職規程の写しが置かれていた。
「宮本さん、お時間をいただきありがとうございます。早速ですが、本日の結論をお伝えします。顧問制度の廃止に伴い、宮本さんには来月末をもって退職していただきたい」
建吉はもう一度話す必要はないと思っていた。
「分かりました。退職金については、この金額で。規程に基づいて」
和津が辞職願の用紙を建吉に滑らせた。建吉はそれを受け取り、一目見た。四百八十万円。「これは任意退職の最低額です。前例はいくらでもあります。PDCAサイクルに乗らない部門を閉じるための最低コストとしては合理的でしょう」
赤嶺がタブレットの数字を指で叩いた。「もし旧規程に従えば、四十一年の勤続だと約三千二百万円になりますが、それは旧規程です」。和津は茶を一口飲み、口元をわずかに歪めた。前職時代の癖がまた出ていた。建吉の唯一の不満は退職金だけだ。低く抑えた声が漏れた。小田原は手元の書類に視線を落としたまま動かない。「いいんじゃないですか。シンプルで、株主に説明しやすい。赤嶺は肩を揺らして同意した。
建吉は辞職願の用紙をゆっくりと二つ折りにし、胸ポケットに入れた。机の下で右の手がポケットの上から手帳の感触を確かめた。布越しに、はっきりと伝わる。
「分かりました」
その瞬間、会議室の空気が奇妙に止まった。
「おや、本当に話が早いですね。笑ってしまいました」
赤嶺の声には満足げな響きがあった。「本当に、こういう古株は扱いやすいんですよ」。赤嶺は腹を抱えて笑った。その時、外からノックがあり、扉が開いた。廊下の向こうから、薄いスーツを着た女性が書類鞄を手に部屋に入ってきた。
「失礼します。本社庶務管理部長の江島と申します」
「江島さん? 今日は何の御用で?」
「社長、赤嶺専務、人事部長のお三方にお時間を頂戴したいと思いまして。当社の特許管理者の意見書、従業員発明規程、顧問法律事務所の見解をまとめて参りました」
江島は三冊の分厚い書類を机の上に静かに置いた。
「宮本建吉氏は、自社単独で十二件、共同発明として七件、合わせて十九件の特許権者です。従業者発明規程に基づき、過去十年間に登録された特許から生じた利益相当額、約二億三千万円が推定されます」
「何をおっしゃっているんですか。当社のデータベースには過去の発明者の情報が入っていますが、人事データベースとの連携が長年確立されていませんでした。待ってください。当社の法務担当として申し上げます。退職金規程の今回の改訂は、労働契約法第十条の合理性要件を満たしていません。職務発明規程の改訂も、特許法第三十五条第六項の従業者意見聴取手続きを経ていません。訴訟提起された場合の当社のリスクは極めて高いと判断しました」
和津の膝がわずかに震え始めた。椅子の重心が後ろにずれる。喉仏が二度、大きく上下した。空気を飲み込むような不自然な動きだった。額と首筋に脂汗がにじんでいる。机の上で用紙を握っていた右の手は白くなり、やがて指が滑った。用紙がリノリウムの床に落ちて乾いた音を立て、わずかに跳ねた。隣の小田原は椅子を脇にずらし、視線はもう和津と江島の間にはなく、手元の書類に釘付けだった。
沈黙が五秒、十秒と続き、赤嶺のタブレットの画面は自動的に消えた。指はもう数字を叩いていない。
「これは、ちょっと待ってください。規程の改訂は赤嶺……いや、赤嶺和永がファンドの方針として進めていたことでは」
和津の声は掠れていた。
「ちょっと待ってください、社長。改訂を指示したのは社長自身でしょう?私はデジタル化対応の部分を伝えただけです。デジタルトランスフォーメーション対応はあなたが計画されたと説明しましたよ」
「社長がデジタルトランスフォーメーション対応を私の名前で作れと指示したのはあなたでしょう?ファンド本部から新しい報酬を持ってきたのは、あなたじゃないですか。それは社長が事前承認していたから形式的なものでした」
「し、しかし、証拠は……」
赤嶺の声は弱々しく途切れた。机の端を強く握っている。江島が静かに続けた。
「失礼します。当社の取締役会議事録と法務レコーダーの音声は、すべて自動的にサーバーへ転送されています。本日の面談の録音も同様です」
和津の視線が机の中央のレコーダーに落ちた。江島は落ち着いた口調で続けた。「過去六ヶ月の監査記録と本日の面談を含む全ての面談記録は、現在本社監査部で処理されています。ちなみに、法務レコーダーの音声は、規程に基づきファンド本部の法務部でも定期的にバックアップされています」。和津の顔から最後の血の気が引いた。
建吉は机の上の辞職願を静かに半分に折り、もう一度半分に折って胸ポケットに入れた。そして内ポケットの上から手帳の感触を確かめた。「吉三郎さん、あの言葉は桂に渡しました。ユニコーン・コアは他の誰かに引き継がれようとしていますが、これから先は私のやり方で守っていきます」。建吉は静かに椅子から立ち上がった。
「では、退職の手続きについては、人事の方で調整していただけると助かります」
建吉は静かに会議室の扉を開けた。部屋を出る前に、一度だけ振り返った。和津は椅子に座ったまま両手で顔を覆い、肩を震わせていた。赤嶺はタブレットを膝に置き、画面の暗い反射に青白い顔を映していた。小田原はもう二人を見ていなかった。建吉は何も言わずに扉を閉めた。廊下の窓の外では、五月の太陽がもうほとんど真上に来ていた。
退職から三週間後の六月末、建吉は社宅の台所でラジオを聴きながら湯をすすっていた。「電子部品メーカーの東亜テクノスで、社内開発の機械制御システム『ユニコーン・コア』に大規模な障害が発生したとの情報が入っています。同社の主要取引先である自動車部品メーカーは、生産計画への影響を懸念しています」。建吉は湯のみを置き、そっと胸ポケットを押した。布越しに手帳の感触がいつものように伝わる。携帯電話が鳴った。
「はい、宮本です」
「宮本さん、桂です。ユニコーン・コアが止まりました」
桂の声には僅かに焦りが混じっていた。「昨夜十一時頃に最初のアラートが出て、午前二時にコア内部の例外処理が崩壊しました。赤嶺専務が徹夜で対応していますが、お手上げ状態です。私の手元に引き継ぎ資料がないので何もできません。あっ、はい。以前頂いたファイルを机の隅にこっそり保管してあって、昨夜のうちに復旧できる部分は何とかしました。ですが復旧率は三割ほどです。もう一部は江島さんが保管しています」「えっ、宮本さん、いつからこの準備を?」
「お前が戦うと聞いた時からずっと書いていた。ありがとう」
電話を切った後、建吉は身支度を整えて社宅を出た。その日の午後、建吉は本社庶務管理部の会議室で江島と向かい合っていた。
「宮本さん、ではこの資料を桂さんに届けてください。本社部で精算が付けば、彼ならある程度復旧できるはずです。もちろん、すぐに準備します」
江島は机の上に一通の封筒も置いた。東日本輸送機械工業の島村部長宛てだった。「今朝、島村部長から当社の取締役宛てに文書が届きました。同社からの取引継続の要請に対し、当社は誠実な対応を求めてきました。組織システムの再構築の見通しが立たない場合、継続取引に基づく信頼関係は崩壊したと判断し、合理的な予告期間六ヶ月をもって取引を終了するとの通知でした。島村部長らしいですね。誠実さであっても、予告期間は六ヶ月ですか。はい。他にも四社から緊急の取引中止通知と外部調達開始の通知が来ています。赤嶺専務もさすがに動揺しているようで、車中でアジャイル開発で巻き返すと言っていたそうですが、もう誰も聞いていません。タブレットを落として画面を割ったそうです。今朝の取引停止通知で社長がかなり参っていまして、ファンド本部からは近く調査チームが来日すると連絡が入っています」「調査チーム?」
「はい。あと、取引条件の見直しも決まりました。継続取引契約の信頼関係の崩壊が、銀行の融資リスク評価に直結したようです」
建吉は静かに封筒を元に戻した。「私の役目は終わりました。ですが、ユニコーン・コアは吉三郎さんが遺した東亜テクノスの心臓です。まだ自分が健康なうちに」と、建吉はポケットから手帳を一度だけ取り出し、そっと撫でた。
「江島さん、島村さんに電話してもいいですか」
「はい、もちろん。宮本さんと島村さんは二十年以上のお付き合いだと伺っています。六ヶ月の予告期間の間に、桂さんがどこまで復旧できるか。島村さんも宮本さんからの電話ならお受けになるでしょう」
建吉はしばらく窓の外を見つめていた。六月の梅雨の合間の日差しが、窓の高い位置から差し込み、作業服を照らしていた。
障害発生から二ヶ月ほどの間に、東亜テクノスは再びニュースに登場するようになった。ただし、その名前はいつも小さな文字で産業新聞の片隅に載るだけだった。「下請法違反の疑いで東亜テクノスに予備調査が入る」「二次下請への圧力の疑いで単独調査」「国税庁が東亜テクノスの法人税申告に課税所得の過少と納税義務不十分を指摘」「メインバンクが交代を表明、資産の全面見直し」「東亜テクノスの主要顧客が損害賠償請求の内容を争う調査を実施」。そうした知らせが各拠点から机の上に積み上げられていった。
そんな中のある午後、建吉は社宅で電話を受けた。「宮本さん、本日の臨時取締役会で、社長の解任と赤嶺和永の代表取締役解任が決議されました。ファンドが動いたということですね。はい、監査役会の中間報告で、規程改訂の手続きの瑕疵と出席記録に基づき、お二人の責任が明確になりました。私も本社監査部から出席を求められ、擬似出席の監査報告書に署名しました。お二人は待合室で並んで座っていましたが、手が震えるほど緊張していました。最後まで視線を交わすことはありませんでした。和津社長が署名している間、赤嶺さんはこう言いました。“人事部には自分の判断だと報告しておいた”。赤嶺さんは何も答えず、ひび割れたタブレットの画面に青白い顔を映したままだったそうです」
その夜、ファンド本部が株式対価の公表を届け出た。会社法第百四十七条の保有要件を満たす従業員持株会と取引先持株会が、原告としてお二人の責任追及を準備しているらしい。特措法第三十五条の利益相当額については、別途一括精算の方向で動いているとのこと。建吉は電話を切り、しばらく窓の外を見つめていた。梅雨の合間の日差しが、社宅のベランダの手すりを白く照らしていた。「もう私が何かをする必要はない。信頼を失った者たちは、自分の重みで崩れていくだけだ」。吉三郎も似たような場面で同じように言っていた。建吉は茶碗の最後の一口を飲み干し、ゆっくりと立ち上がってベランダの植木鉢に水をやった。
十二月の初め、障害発生から半年後、建吉は経済面の最終段落で東亜テクノスが東京地裁に民事再生手続き開始の申し立てを行ったことを知った。スポンサー型の再生では、主力事業である電子部品事業が会社分割により同業他社に譲渡される。九つの関係会社が生産手続きを開始し、その名前は事実上消滅することになる。数日後、建吉は業界誌のフォローアップ記事で、赤嶺和永が既に家族と別居し、関西の実家に移ったことを読んだ。江島は電話で、社長だった和津が業界団体の役員を辞任し、同業他社からの最終的な就職オファーはもう来ていないと伝えた。「都内の家は、若い人が借金を整理して処分しました。宮本さんへの移送も先日完了したと聞いています」「ありがとうございました」「いいえ、私の仕事です。それと、もう一つ。桂さんが、スポンサー先の新会社の品質保証部に保全技術者として異動しました。ユニコーン・コアの障害発生時の復旧対応と、移管されたシステムの内部例外処理の現場担当を任されるそうです」
「それは良かった。私はただ伝えただけです。あれは彼の能力です。桂さん自身が道を切り開いたんです」
建吉は電話の受話器を耳に当てたまま、しばらく黙っていた。電話を切り、湯のみを置いて窓の外の冬景色を眺めた。「私の四十一年は、これでようやく終わった」。長い間忘れていた静かな微笑みが、建吉の唇にほんの少し戻っていた。胸ポケットから手帳を取り出し、両手で包むように胸の前に抱えた。「吉三郎さん、新年になったらまたご挨拶に伺います」
民事再生からさらに半年後の翌年六月、建吉は地元商工会議所の小さな会議室で、向かいに座った桂が手帳を開いているのを静かに見つめていた。会議室には、桂のほかに、地元工業高校の校長、職業訓練校の理事長、商工会議所代表、取引銀行の支店長、江島、そして彼女が連れてきた中小企業庁の担当者が並んでいた。桂はゆっくりと手帳の最初のページを読み上げた。
「人は技術を作り、技術は人を作る」
会議室は静かになった。これは東亜テクノス創業者、吉三郎社長が生前掲げていた社訓だ。「そして本日、設立準備委員会を発足させます。これを一般財団法人『東亜技術財団』の設立の精神といたします。吉三郎さん、あの日あなたが手渡してくれたこの一冊は、今や町工場の若者たちのための仕組みへと姿を変えました。故人の妻も、これを引き継ぐと頷いてくださいました。宮本さん、本日は改めてお越しいただきありがとうございます」
地元商工会議所から一億五千万円、地元商工会連合会の基金と取引先からの出資を合わせて財団の基本財産を形成する。中小企業庁との連携も協議中で、地元工業高校と職業訓練校との間で技術承継教育プログラムの協定が来年度から本格稼働する予定だ。「毎年、就職を希望する卒業生が数十人。小さな職人の暗黙知をすばやく紙に落として受け取る機会を得られることは、本当にありがたいことです。中小企業庁の助成と合わせ、財団は年間二億円の運営費を拠出します。地元の取引先も全会一致で賛成してくださいました。中学卒業後、高校、職業訓練校を経て現場で四十年働いてきた宮本さんのような職人の経験は、官民両方の形で具体化されつつあります。この仕組みが町工場の若者の手に届くことは、本当に幸せなことです」
「経験は神様に預けてからでないと、次に渡せないと教わりました。人は技術を作り、技術は人を作る」
建吉は桂の声に静かにうなずいた。「私はこの言葉を四十年生きてきた。この言葉は、一枚の紙から、町の若者の手の中にある仕組みへ、ようやく受け継がれていく」。会議室の窓の外では、梅雨の合間の日差しが桂の手元の手帳の上で揺れていた。一年半の苦難を経ても、手帳の色は建吉の手にあった頃の朝と何も変わっていなかった。
財団設立から三年目の春、建吉と桂は都内の小さな霊園を訪れていた。桂はその朝、工業高校から新しく預かった若い見習いを連れてきていた。墓石の前で、桂は手帳を両手で持ちながら、立ち昇る細い煙をしばらく眺めていた。心の片隅で、春風が墓地の桜の枝を静かに揺らしていた。桂はゆっくりと手帳を墓石の前に置いた。
「吉三郎さん、ようやくこの言葉を次の人にきちんと渡すことができました」
桂が両手を合わせると、桜の花びらが一枚、突然ひらりと舞い落ちて、墓石の縁に止まった。
「はい」
「ねえ、財団の見習いたちに何か伝えてくれない?」
桂は若い見習いに顔を向け、深呼吸をした。
「君は職場でこんなことを言う人に出会うかもしれない。“窓際で愛想を振りまいていれば定年だ、それで終わりだ”と。タイトルや数字で人を測ろうとする人間は、これまでにも必ずいた。もしその言葉を真に受けて、同じ目で人を測るようになったら、いつか君も同じ目で測られるようになる。人は技術を作り、その技術が次の世代の人を作る。君も、その輪の中に入ってほしい」
「はい、覚えておきます」
建吉は桂の背中越しに、その声を静かに聞いていた。
その夜、建吉は社宅に戻ると、玄関で作業を脱ぎ、妻の位牌の前に湯のみをそっと置いた。「清さん、終わりました。みんな約束どおり片付けました」。位牌はいつもと同じ優しい表情で建吉を見つめていた。建吉は湯のみを最後の一口まで飲み干した。窓の外では、春風がベランダのドアを静かに揺らしていた。
