食事会の個室の扉が開いた瞬間、俺は笑顔のまま固まった。婚約者の明里と、先に来ているはずの兄が、腕を組んで立っていた。「私、高さんと結婚することにしました」。明里は悪びれもなくそう言い放った。三年前にプロポーズし、式場も新居も準備してきた。なのに彼女は「だってあなたは次男でしょ。社長の資質がある長男のほうがいい」と俺を見下して笑った。兄は横で薄ら笑いを浮かべている。だが、この場の全員が知らない…

食事会の個室の扉が開いた瞬間、俺は笑顔のまま固まった。婚約者の明里と、先に来ているはずの兄が、腕を組んで立っていた。「私、高さんと結婚することにしました」。明里は悪びれもなくそう言い放った。三年前にプロポーズし、式場も新居も準備してきた。なのに彼女は「だってあなたは次男でしょ。社長の資質がある長男のほうがいい」と俺を見下して笑った。兄は横で薄ら笑いを浮かべている。だが、この場の全員が知らない...

両親との食事会の日、俺は笑顔で店に入った。婚約者の明里もすぐに来るはずだった。しかし、時間になっても彼女は現れない。一緒に来るはずの兄もだ。しばらくして、個室の扉が開いた。そこに立っていたのは、兄と明里だった。二人は並んで立ち、明里は兄の腕にぴったりとくっついている。

「私、高さんと結婚することにしました。」

明里は悪びれる様子もなく、笑顔でそう言い放った。俺は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。三年前にプロポーズをし、結婚式の準備だって進めていた。新しいマンションにも引っ越した。すべては明里との未来のためだったのに。

「だってあなたは次男でしょ。会社を継ぐ社長の資質がある長男のほうがいいなって思ったんです。」

そう言って明里は俺を見下すように笑った。俺の名前は中澤荒野。普通の会社員として働いている。しかし、この場にいる全員が知らなかった真実を、明里はまだ知らない。俺は低い声で言った。

「そうか。分かったよ。でも、残念なのはあんたたちの方だよ。」

俺の言葉に続いて、父が不気味な笑みを浮かべて口を開いた。

「明里さん、惜しいことをしたね。会社を継ぐのは荒野だよ。結婚発表と一緒に発表しようと思っていたんだ。」

俺は父の会社を継ぐことになっていた。それは、大学生の頃から決まっていたことだ。明里も兄も、その言葉に驚いて固まっていた。明里はあらゆる手を使って俺を貶めようとしたが、すべては無駄だった。彼女が選んだ道は、最初から間違っていたのだ。

俺は昔から一つのことにしか集中できないタイプだった。仕事も、恋愛も、すべてを同時にうまくこなすことができずにいる。大学を卒業してから十年以上、会社員として働いてきた。最初は周りの人に助けてもらってばかりだったが、今では後輩もできて、上司にも頼りにされている。仕事にはやりがいを感じていて、毎日一生懸命取り組んでいた。

プライベートも充実していると思っていた。三年前、三年間付き合った恋人にプロポーズをした。彼女の名前は明里。俺の三つ下の三十歳だった。彼女は取引先の受付で働いていて、綺麗でいつも優しい笑顔を向けてくれる人だった。彼女に会うと、自然と元気をもらえるような気がしていた。

特にそれ以上の関係にはならないと思っていた。誰もが惹かれるような容姿をしていて、いつも誰かに声をかけられているような人だったからだ。そんな女性が、まさか自分のことを誘ってくれるなんて考えてもいなかった。最初に食事に誘われた時、俺は正直驚いてしまった。それでも嬉しくて、二回目、三回目と会ううちに、俺たちは少しずつ距離を縮めていった。

初めての食事の時、彼女が照れ臭そうにしながら言った。

「ずっと荒野さんのことが気になっていたんです。いつも素敵な挨拶をしてくれるから。」

そう言われて、俺まで恥ずかしくなってしまった。でも、そんな風に思ってくれていると知って、本当に嬉しかった。それから少し経った頃、俺たちは交際を始めた。俺は三十歳で、彼女は二十七歳。周りでは結婚する者も増えてきたが、俺はまだ結婚する気にはなれなかった。もっと仕事を頑張りたかったからだ。

ちょうどその頃、責任のある仕事も任されるようになり、プロジェクトのリーダーなどに選ばれていた。俺は不器用で、一つのことに集中すると他のことを考えられなくなってしまう。結婚となると、考えることも増え、環境も大きく変わる。そんな中で仕事と家庭を両立させる自信がなかった。そのことを、付き合ってすぐに明里に伝えた。

「もしも君が今すぐにでも結婚したいのなら、時間を無駄にしてしまうことになると思う。」

しかし明里は笑顔で言ってくれた。

「大丈夫。あなたの仕事が落ち着くまでは、結婚は待つから。」

俺はそんな明里に心から感謝し、今まで以上に仕事に励んだ。明里は本当に素敵な彼女だった。仕事のことを一番に考えてくれて、俺が忙しい時にはご飯を作ってくれたり、家事を手伝ってくれたりした。どんなに忙しくても体調を崩さずに頑張れたのは、明里のおかげだと思っている。それに明里は聞き上手で、何でも話すことができた。会社の悩みや愚痴、嬉しかったことなど、いつもニコニコと笑顔で聞いてくれた。

そして、明里には今まで人に言えなかったことも話すことができた。それは俺の家族の話だった。実は俺を産んだ両親はすでに亡くなっていた。今の両親が俺を養子として迎えてくれたのだ。養子になったのは俺が中学生の頃だった。突然両親を亡くし、そんな事実をなかなか受け入れられず、最初は反抗的な態度も取っていた。しかし両親はどんな時でも優しく俺に接してくれた。

今の家の養子になったことで、兄弟もできた。二つ上の兄だ。兄も俺が養子になったことをすぐに受け入れてくれて、いつも優しく接してくれた。今の家に馴染めるようになったのも、兄のおかげだと思っている。しかし、こんな話をすると、みんな俺を可愛そうだと決めつけ、腫れ物に触るように接してくるようになる。だから俺はあまりこの話をしたくなかった。それでも明里は違った。こんな話をしても「そうなんだ」と聞き入れてくれて、無駄な詮索はしてこない。そして、実の両親のことも現家族のことも、どっちも素敵だと言ってくれたのだ。

俺はそんな彼女の言葉に救われ、今まで以上に家族に感謝できるようになった。俺にとって明里は、本当に大切な存在となっていった。

明里と交際を始めて三年が経つ頃、俺は彼女にプロポーズをした。大きなプロジェクトも終わり、仕事が一段落したタイミングだった。

「結婚してください。」

「本当に嬉しい。ありがとう。」

明里はそう言って、俺のプロポーズを受けてくれた。それから俺たちはすぐに結婚の準備に取りかかった。式場を見に行き、明里が好きなところを選んでもらった。ドレスもたくさん試着して、明里は本当に嬉しそうだった。結婚式前に引っ越しを済ませようと話し合い、新しいマンションへ引っ越した。今までもお互いに家を行き来することはあったが、やはり一緒に住むとなると気持ちの持ちようが違う。毎日明里に会えて、その日にあったことを話せる時間がとても幸せに感じた。

そして、俺は両親に明里を合わせる前に、兄と三人で食事することにした。兄には色々とお世話になったし、一番に報告したいと思ったからだ。約束の日、俺たちは兄の待つレストランへ向かった。兄は俺たちの結婚を祝福してくれて、「今日はご馳走する」と言ってくれた。兄とは久しぶりに会うため、話も弾み、俺たちは笑顔で楽しんだ。

しかし、そんな中で俺には気になることがあった。明里の兄に対する態度だ。

「高さんって、本当に素敵ですね。」

明里はやけに兄にベタベタと触りながら褒めていた。嫉妬しているわけではないが、あまりにも馴れ馴れしくしているその姿に不審感を抱いてしまった。

「高さんはどこの大学に行ってたんですか?」

明里はそんな風に兄に色々な質問をしていた。俺たちの結婚の報告の場だというのに、明里は兄に質問攻めで、俺は居心地の悪さを感じてしまった。兄と仲良くしてくれることはもちろん嬉しい。しかし、少し度が過ぎているのではと、嫌な気持ちになってしまう。それでも、そんな気持ちを態度に出せば場の雰囲気も悪くなるだろう。そう考えて、なるべく冷静を装いその場を乗り切った。

それから家に帰る時、今日のことを話そうかとも思ったが、心の狭い男だと思われたくなくて、何も言えずにいた。

そんな中、急に明里の仕事が忙しくなった。残業が増え、帰ってくる時間が遅くなったのだ。受付をしている明里は、今まで残業で遅くなったことはなかった。「退職した人がいて、色々とやることが増えた」と言う。しかし、今まで残業なんてなかったのに、急にそんなに仕事が増えることがあるのだろうか。結婚式も控えているのに大丈夫なのかと、俺は彼女の体が心配になった。しかし、明里はいつも以上に元気で楽しそうにしていた。

最近は残業以外にも、「会社の人と飲みに行く」と言って出かけることも増えた。きっと仲のいい同僚でも見つかったのだろう。俺はそう思い、心よく送り出していた。俺も仕事が忙しかったが、なるべく時間を作り、一人で結婚式の準備を進めた。今までたくさん明里に世話になったのだから、できることはやろうと考えたからだ。

「今日も残業で遅くなる。」

それからも明里の忙しさは変わらなかった。むしろだんだんと家にいる時間が少なくなってきている。あまりにも遅い時間に帰ってくる日が続き、俺は心配になった。

「明里、大丈夫か? 結婚式も近いし、もう少し残業減らせないのか?」

俺はなるべく言葉を選んで明里に優しく問いかけた。すると明里は、鋭い目つきで俺を睨みつけながら口を開いた。

「え、何それ? 文句?」

明里はぶっきらぼうにそう言ってきた。

「いや、文句じゃないよ。ただ俺は明里のことが心配で。」

俺は慌てて否定し、ただ心配だということを伝えた。しかし明里は鋭い目つきのままだった。

「何それ? 自分だって今まで散々好きなだけ仕事してたでしょ?」

明里は大きなため息をつきながら、嫌味のようにそう言ってきた。明里のこんな顔を見たり、こんな声を聞いたりするのは初めてだった。それに、これまで明里にこんな風に文句を言われたこともなかった。初めて明里の本心を聞いたような気がした。確かに俺は仕事ばかりしてきた。明里に寂しい思いをさせたこともあったことだろう。そう考えると、それ以上何も言うことができなくなった。

その日から俺たちはギクシャクしてしまい、会話が少なくなってしまう。俺もどんな風に接したらいいのか分からなくなっていた。しかし結婚式はもうすぐだった。「きっと結婚式が近づけば、また元に戻るだろう」と考えた。

それから少し経ち、この日は俺の両親と一緒に食事をする日だった。明里が忙しく、なかなか結婚の報告もできずに来てしまい、結婚式ギリギリになってしまったのだ。「用事がある」と言う明里と、俺たちは別々に約束の場所へ向かった。店に着くと、明里はまだ到着していないようで、俺一人だけだった。しばらくして両親がやってくる。この日は兄も呼んでいたのだが、兄の姿もまだなかった。

二人ともどうしたのだろうかと、両親と話しながら到着を待っていた。少し経った頃、俺たちのいる個室に近づいてくる足音が聞こえてきた。どちらが到着したのだろうと、俺は個室の扉が開くのを見る。すると、扉が開き立っていたのは、兄と明里だった。どうやら偶然ばったり会ったわけではなさそうだ。明里は兄にくっついて、二人で並んで立っている。俺はなんて声をかけていいか分からず、黙り込んでしまう。

そんな俺の気を利かせたのか、父が二人に言葉をかけた。

「二人とも一緒だったのか。」

父の言葉に兄は笑顔で答えた。

「ああ、待ち合わせしてきたんだ。」

俺たちは、そんな兄の言葉の意味が理解できず、三人同時に兄を見た。そして、ずっと何も言わなかった明里が口を開いた。

「私、高さんと結婚することにしました。」

明里は悪びれる様子もなく、嬉しそうに笑顔で俺たちに向かってそう言ってきた。初めて兄を紹介した日に連絡先を交換し、関係を持ち始めたそうだ。最近家にいないことが増えたのも、仕事ではなく兄と会っていただけだった。俺はずっと嘘を吐かれていたのだ。父も母も、事態を飲み込めずに固まっている。

「そんなこと急に言われても、どういうことかきちんと説明してくれ。」

俺は笑顔の明里に苛立ちを覚えたが、怒りを抑えながら冷静にそう聞いた。

「だってあなたは次男でしょ。」

明里は俺を見下すように笑いながらそう言ってきた。

「だということが、なぜ関係あるんだ。」

父が問いかける。

「やっぱり結婚するなら、社長の資質がある長男の高さんがいいなって思ったんです。」

どうしてそんなことが、スラスラと両親の前で言えるのか。俺は明里に呆れてしまう。父もそんな明里に腹を立てているようだった。

「俺は高志に会社を継がせるなんて言ってないぞ。君のただの妄想じゃないか。」

父は強い口調でそう言ったが、明里には全然響いていない。

「だって次男の荒野は駄目でしょ。資質の長男を差し置いて、社長にするなんてありえません。馬鹿にしないでくださいよ。」

明里は楽しそうに笑っている。

「この三年間は何だったんだ? ずっと俺のことを支えてくれてたじゃないか。」

俺は怒りを抑えながら明里へ問いかけた。

「え、そんなの金のために決まってるじゃない。あなたの実家が有名企業だからよ。」

明里はその言葉を皮切りに、次々と俺の悪口を言い始めた。

「最初からあなたが誰の息子か知ってて近づいたの。まあ、養子だって聞いた時はむかついたけど、家族であることには変わりないしいいかって。」

俺が明里に心を開いて家族の話をしていた時、明里はそんなことを考えていたのかと思うと悲しくなった。

「でも高さんに会って、やっぱりあなたじゃダメだって分かったわ。」

明里の話を横で聞きながら、兄は薄ら笑いを浮かべている。

「残念だったな、荒野。養子のくせにいい気になって、ずっとうざかったんだよ。俺がお前の恋人を奪ってやったんだ。まあ、明里が俺を選んだんだけどな。」

兄はそう言って、ケラケラと笑いながら俺を馬鹿にした。俺はそんな二人に低い声で語りかけた。

「そうか。分かったよ。でも残念なのは、あんたたちの方だよ。」

俺の言葉に続くように、父も口を開いた。

「明里さん、惜しいことをしたね。」

父は不気味な笑みを浮かべ、明里に笑いかけた。明里は父の言葉の意味が理解できないようで、困った表情をしている。

「会社を継ぐのは荒野だよ。結婚発表と一緒に発表しようと思っていたんだ。」

実は俺は、父の会社を継ぐことになっていたのだ。思いも寄らない父の言葉に、明里も兄も驚いて固まっている。

「結婚する前に気持ちが聞けてよかったよ。」

父と俺の言葉を聞いても、明里は信じられないのか「キャーキャー」と騒ぎ出した。

「そんなのありえないわ。実の長男を社長にしないなんて。」

しかし父は冷静に答えた。

「お前は何も聞いていなかったのか。俺は高志に会社を継がせるつもりはない。高志の社員としての勤務態度は最悪だ。」

父の言葉に、兄は顔を青くして黙り込んでしまった。明里はそんな兄に「どういうことだ」と問い詰めた。すると兄は、社長の息子だからと言って仕事をせず、気に入らない社員に嫌がらせをしたりしていたことが発覚した。たまに仕事をしても問題を起こし、他の社員たちも迷惑していたのだ。ついにそのことが父のところまで届き、今は兄の処分を考えている最中だった。

きっと、兄は俺に強い劣等感を抱いていた。俺を見返すために明里を奪いたかったのだろう。それさえできればいいと、明里には都合の悪いことは話していなかったようだ。明里は兄の真実を聞き、目を泳がせて動揺していた。

『でも、荒野は今夜、違う会社で働いているじゃない。』

明里の言う通り、俺は父の会社で働いているわけではない。

「荒野は自分の力で就職活動をして入社したんだ。会社で勉強したいって聞かないから、行かせただけだよ。次期社長になることは、大学生の頃から決まってたんだ。」

それでも明里は、俺が社長になるという事実を認めたくないのだろう。

「でも、突然荒野を社長にするなんて、役員も認めないでしょう。」

そんな明里の言葉に、父は笑いながら答えた。

「そんな役員は一人もいないよ。元々うちの会社は、荒野の実の父親が作った会社だからな。」

新たに聞かされた真実に、明里は目を見開いて驚き、何も言えなくなってしまったようだ。実は父の言う通り、この会社は俺の実の父が作った会社だった。実の父と今の父は、大学時代からの親友だった。実の父が起業する時も二人で協力し、互いに一番信頼する相手だったのだ。実の父は亡くなる寸前の病室で会社を今の父に託した。そのこともあり、俺を養子に迎えてくれて、学生の頃から会社のことを教えてもらっていた。

兄は元々会社のことなんか全く知らず、今社員になっているのも、ニートになってはいけないと父が優しさで入社させただけだった。二人は自分たちが選んだ道が間違っていたことに、ようやく気づいたようで、何も言わずにその場に膝から崩れ落ちてしまった。俺と両親はそんな二人を横目に、店を後にした。

それから、俺は婚約を破棄して、兄と明里に慰謝料を請求した。明里は俺から兄に乗り換えて社長夫人になると、馬鹿正直に周りに自慢しており、会社で孤立してしまったようだ。そして居づらくなり、自分から退職した。兄は正式に父の会社を解雇された。父は兄について社内調査をしており、兄の問題行動が次々と出てきたのだ。父は俺の件も含めて大激怒し、「縁を切る」と言って家から追い出してしまった。

二人はしばらく付き合っていたようだが、結局別れたようだ。金のために兄を選んだ明里と、俺を見返すために明里を奪った兄が長続きするはずもなかった。職場も家も失った二人は、俺に慰謝料を払ったためお金もない。今はどこか働けるところを必死に探しているようだ。

そして俺は、正式に社長になった。社員たちはみんな俺を温かく迎えてくれた。父は会長として近くで俺を支えてくれている。今までの会社で学んだことを生かしながら、毎日業務に励んでいる。二人の父が必死に守ってきた会社を、今度は俺が守ろうと思う。

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