結婚式の親族控え室に、低い笑い声が響いた。
「ちょっとこれだけ?笑えるんですけど。ボケて中身入れ忘れたんじゃないの?」
声の主は新郎の母、篠原のり子。その隣では純白のドレスをまとった花嫁が口元を押さえて肩を震わせていた。新郎の知らないところで笑われているのは、一通の祝儀袋だった。
それを包んできたのは白髪の老人。くたびれた紺のスーツに、どこにでもいそうな田舎の年寄りにしか見えなかった。老人はその場にいなかったが、彼の一言が結婚式の運命を変えた。
「篠原不動産への融資、全額引き上げさせてもらう」
数時間後、花嫁は青ざめたまま立ち尽くし、パールのネックレスの母親は膝から崩れ落ちることになる。あの薄い祝儀袋にこそ、誰も知らない大切な想いが込められていた。
全ては、二年前の小さな出会いから始まった。
結婚式を翌日に控えた朝、長野の山里の空は青く晴れ渡っていた。霧島義雄、七十二歳。その日も夜明け前に目を覚ました。井戸で顔を洗い、古い急須に湯を注ぐ。渋い茶の香りが小さな台所に広がった。湯呑みを手に縁側に腰を下ろす。正面の仏壇には、柔らかく微笑む妻・ふみ子の写真。その隣には、娘夫婦が寄り添う一枚があった。
「ふみ子、明日は優斗の結婚式だ。静かだったな。あの小さかった優斗が嫁さんをもらう。あっという間だった」
二十三年前のあの夜を、義雄は今も忘れられない。病院の冷たい廊下、白く眩しい蛍光灯。娘と娘婿が同じ日に旅立った。膝の上では五歳の優斗が泣き疲れて眠っていた。小さな体の確かな温もり。この子の親の分まで、わしとふみ子で。あの夜の誓いだけを頼りに、二人で優斗を育てた。ふみ子が先立ってからは、一人で背中を見せてきた。
湯呑みに口をつけた時、ふと二年前の春の電話を思い出す。
「じいちゃん、聞いてくれる?俺、出世したんだ。年収千二百万だよ。二十八歳で」
「そうか。良かったな」
「もう、じいちゃんって全然驚かないよね」
義雄は手にした湯呑みを握りながら、心の中だけで呟いた。千二百万か。わしが二十八の頃は、まあこれからだな。口には出さない。金をひけらかす生き方は、義雄の好みではなかった。優斗は知らない――祖父が何者なのかを。義雄はそれでいいと思っていた。肩書きに引き寄せられてくる人間ばかり見てきた人生だ。孫にだけは、ただのじいちゃんとでいたかった。
義雄は立ち上がり、押入れから一着の紺のスーツを取り出した。袖のボタンがすり減った古いスーツ。これでいいよな、ふみこ。生前のふみ子が言っていた。優斗の結婚式には、このスーツを着て行って欲しいと。随分年期が入ってしまったが、この服もお前との思い出だ。袖を撫でて丁寧に鞄へ畳み入れる。その隣に、桐の小箱から取り出した一通の祝儀袋をそっと納めた。
「ふみこ、お前の言いつけ通りにするからな」
祝儀袋の裏には、懐かしい筆跡があった。義雄はそれを指でなぞり、目を細めた。
夕方、玄関先に車の音が響いた。引き戸を開けると、優斗が立っていた。
「じいちゃん、迎えに来たよ。今夜は式場の近くのホテルに泊まってもらうから」
「ああ、すまんな。ついに明日だな。おめでとう」
「うん。ありがとう」
夕暮れの田園を、車は東京へ向かった。収穫を終えた棚田が茜色に染まっている。ハンドルを握る優斗がぽつりと言った。
「あの顔合わせ、ごめんな。結局できないままで」
「気にするな。お前たちの結婚だ。晴れ姿を見られるだけで十分だ」
「ありがとう、じいちゃん」
優斗は前を向いたまま唇を結んだ。顔合わせを断るような家。結局わしは、相手のご両親の顔も仕事も、何ひとつ知らされないままだな。窓の外の茜色を眺めながら、義雄は胸ポケットに手を当てた。そこには二枚の写真。若き日のふみこと並んだ一枚と、娘夫婦の結婚式の日の一枚だった。お前たち、優斗が幸せになるなら、それでいいよな。
時は二年前に遡る。
都内のシェアダイニングバー。同僚の同期に誘われた合コンの席に、優斗はいた。その向かいで、篠原舞はグラスを傾けながら品定めするように男たちを眺めていた。大手商社、同期最速の出世コースと噂。都内勤務。優斗の自己紹介を聞いた瞬間、舞の目が光った。ご両親なし。身寄りは田舎のおじいちゃんだけ。面倒な親戚付き合いほぼゼロ。完璧じゃん。
「そうだったんですね。おじい様、素敵な方なんでしょうね。優斗さん、すごく優しい目をしてるもの」
それは計算され尽くした第一手だった。だが、優斗にはただの優しい言葉に聞こえた。
交際が始まって三ヶ月後、舞は優斗を初めて実家の夕食に招いた。篠原家のダイニングは賑やかだった。優斗さん、ほらほら遠慮しないで。前から聞いてるよ、仕事を頑張ってるんだってね。もう、そんなに一度に言われたら、優斗さんも困ってるってば。食卓に笑い声が重なる。湯気の立つ料理、注がれるグラス、飛び交う家族の団欒。優斗は箸を持ったまま、ほんの一瞬だけ動けなくなった。
あったかいな。母さんと父さんがいたら、うちもこんな感じだったのかな。五歳で止まったままの家族の団欒が、目の前にあった。この人と結婚したら、俺にも家族ができるんだ。
その夜、舞を駅まで送り出した後の篠原家のリビング。玄関の鍵が閉まった瞬間、親子の顔から温かい家族の仮面が剥がれ落ちた。
「で、どうなの?あの子の家、資産はないの?」
「長野の農家のおじいちゃんがいるだけ。まあ、本人は同期最速の出世株だし、合格でしょ」
「ね。やだ、田舎臭い。有能だの顔合わせだの、合わせる必要ないわね。格が釣り合わないもの」
「だよね。じゃあ顔合わせの話は適当に流しとく。優斗の前ではいつも通り仲良し家族でよろしくね」
「ええ、分かってるわよ。あの子、家族の団欒に弱いものね。ちょろいったら」
二人は顔を見合わせて、声を立てずに笑った。この夜の会話を、優斗は知らない。優斗の前で、篠原家はいつでも完璧だった。のり子はもう一人の母のように振る舞い、父の正人は気さくな父親を務め、舞は理想の婚約者であり続けた。ただ、優斗の心には小さな棘が二つだけ刺さっていた。祖父の話をすると舞がそっと話題を変えること。そして、顔合わせの話が理由もなく流され続けること。
「じいちゃんと舞の家、あんまり会わないのかな?」
「いや、きっとご家族の方針ってやつだ。あんなに温かい家族なんだから」
五歳で家族を失った優斗にとって、あの食卓は疑うにはあまりに眩しすぎた。
そして、結婚式当日。
東京都内の式場は、白とゴールドで統一された華やかな空間だった。シャンデリアの光、生花の甘い香り、行き交うドレスの裾。そのロビーに、義雄は静かに立っていた。くたびれた紺のスーツ、丁寧に磨かれた、つま先の白くなった革靴。背筋だけは、不思議なほどまっすぐに伸びていた。
受付前の親族の出迎えに、舞が現れた。純白のドレスに完璧なメイク。誰の目にも美しい花嫁だった。
「おじい様、初めまして。舞です。優斗さんからいつもお話を伺っていました。遠いところを本当にありがとうございます」
「こちらこそ。優斗がお世話になっております」
義雄は祝儀袋を取り出し、両手で差し出した。
「心ばかりですが」
「ああ、ご丁寧にありがとうございます」
舞は笑顔で受け取り、近くの受付係り、舞の学生時代の友人に預けた。祝儀袋は他の参列者のものと共に、新郎側の親族控え室へ運ばれていく。義雄が会場の奥へ歩いていく。その背中が見えなくなった瞬間、受付の舞の顔から優しい笑顔が剥がれ落ちた。
「ねえ、見た?あの格好。田舎行ったら」
「本当よね。式場の格ってものがあるじゃない」
「あと数時間の辛抱だし」
二人は顔を見合わせ、あざ笑った。
式前、新郎側の親族控え室。受付を任された舞の友人が、預かった祝儀袋の束を運んできた。貴重品として一時的に預かる。それ自体はよくある流れだった。袋の数を確かめていたのり子の手が、一通の袋で止まった。
「え、ちょっと、これ何?」
のり子が袋をつまみ上げ、指先で厚みを確かめる。
「やだ、薄い。新郎のおじい様のよ、これ。ボケて中身入れ忘れたんじゃないの?」
「え、気になる。お母さん、開けてみてよ」
「失礼しちゃうわよね、なんてね」
のり子は悪びれもせず水引を外し、袋の中を改めた。預かり物を勝手に開く。その不法を、この親子は不法とも思っていなかった。中身を見た瞬間、控え室に高い声が響いた。
「え、ちょっと、これだけ?笑えるんですけど。やだわ。孫の結婚式によ、この金額で親代わりの顔ができると思ってるのかしら」
「普通、祖父母ってもっと包まない?うちじゃ考えられない」
「価格って大事だわ、本当」
のり子は中身を雑に戻すと、袋を束の一番下へ無造作に押し込んだ。その袋の裏に、小さく記された古い手書きの文字。それに気づいたものは、この控室には一人もいなかった。
「優斗君もね、親もいない。田舎の年寄りに育てられた子だもの。育ちが育ちだから、仕方ないのかしらね」
再び笑い声が上がった。舞はスマートフォンを取り出し、母に画面を見せた。ロビーで義雄を出迎えた際、立ち去る背中をこっそり撮った一枚だった。
「見てよ、これ。式場に全然合ってないのねえ。お母さん、式が終わったらさ、おじいちゃんとはなるべく合わせないようにするから。老後の面倒とか絶対嫌だもん」
「あら、いいんじゃない?どうせ長野でしょ。ほっといておけば縁なんて切れるわよ」
「だよね。あ、そうだ。これネタになるじゃん」
舞の指がSNSのアプリを開いた。今日は自分の結婚式。フォロワーへの花嫁実況は、朝の支度から欠かしていなかった。
「今日は私の結婚式なんだけど、新郎側のおじい様が田舎の農家の人で、ご祝儀が笑えるくらい少なくて超衝撃。ママと爆笑しちゃった。感覚って大事って、本当それ。私、苦労するのかな?」
祖父の後ろ姿の写真を添えて投稿。のり子は笑った。
「やった。もうあげたの?」
「面白いからいいけど。みんな笑ってくれるよ、こんなの」
花嫁は、悪意のかけらもない顔で笑っていた。その控え室の隅で、受付の舞の友人だけが笑えずに目を伏せていた。彼女の手元には、預かった時の記憶が残っている。あの白髪の老人が、両手で深く頭を下げて差し出した祝儀袋。何も言えなかった。だが、この控え室の光景を見てしまったことが、後に確かな意味を持つことになる。
この時、優斗は何ひとつ知らない。控え室の扉の外では、今日も完璧な温かい篠原家だけが優斗に向けられていた。
披露宴が始まった。乾杯のグラスが重なり、料理が運ばれ、会場はざわめきと笑いに包まれていく。義雄の席は、高砂に近い新郎側の親族テーブルだった。親族と呼べる人間がほとんどいない優斗のため、そのテーブルには義雄お一人の男が座っていた。
「よしおさん、お元気そうで何よりです」
白髪混じりの紳士が、義雄に酌をした。村田総一、六十八歳。優斗にとっては子供の頃から知っている、親戚同然のおじさんだった。親戚のいない霧島家に、盆暮れには必ず顔を見せ、優斗の入学祝いも就職祝いも欠かさなかった。優斗自身が招待状を送った、大切な人だった。名簿の記載は「村田総一、新郎祖父・友人」。ただ、優斗の認識は、食品関係の会社にお務めのじいちゃんの古い友人、その程度だった。だが、その正体は、霧島グループ現会長。義雄が表舞台から身を引いた後、二千億の企業グループを託された男だった。
二人が出会った頃、会社はまだ小さな食品加工工場だった。資金も人脈もない。あったのは義雄の目利きと、村田の行動力だけ。それから四十年、グループは全国に広がった。それでも義雄は、田舎の古い農家に住み続けた。豪邸も別荘も断った。金は手段だ。目的にしてはいけない。それが義雄の生き方だった。
「そういえば、よしおさん、覚えてますか?何年か前のあの不動産会社の件」
村田がグラスを傾けながら、ふと昔話を口にした。
「倒産寸前だった中堅どころに、あなたの一声で八十二億を注ぎ込んだ。役員はみんな反対した。担保も足りない、業界も違うって」
「ああ、あったな。よく覚えてるな」
「あの時あなたは言った。この恩を誠実に返してくるか、それとも忘れるか。それで会社の中身が分かると」
義雄は番茶を一口飲み、目を細めた。
「返済は滞りなく続いとるんだろう」
「ええ、まあ、それは」
村田から含みのある返答があったが、義雄は気にも止めなかった。
披露宴が中盤に差しかかった頃、新郎の父、篠原正人は穏やかに歓談していた。娘の晴れ姿、華やかな式、妻の機嫌もいい。何もかも順調のはずだった。ふと、正人の視線が新郎側の親族テーブルで止まった。白髪混じりの紳士。グラスを傾けるその横顔に見覚えがあった。
あの人を、どこかで。記憶をたどる。そして思い当たった瞬間、正人の背中に冷たいものが走った。
数年前、会社が倒産寸前まで追い込まれたあの冬。メインバンクに見放され、万策尽きた時、無名の投資会社が救済融資を申し出てきた。八十二億。会社はそれで生き延びた。深々と頭を下げる正人に、「縁を大事になさってください」とだけ言っていた、投資先の会長。村田。霧島グループの。
正人は席を立ち、グラスを手にさりげなく親族テーブルへ近づいた。
「し失礼ですが、霧島グループの村田会長では」
「これはこれは、篠原社長。ご無沙汰しております」
「いや、やはりな。なぜ、こちらの席に?」
「本日は会社の人間としてではなく、一個人として参りました。新郎のおじい様の古い友人として」
新郎のおじい様のご友人。正人の視線が村田の隣へ動いた。老人がゆっくりと顔を上げた。穏やかな目が、正人を捉える。
「優斗の祖父の霧島と申します。娘さんとのご縁、ありがとうございます」
霧島。正人の頭の中で何かが繋がりかけて止まった。霧島グループの会長が友人と呼ぶ、霧島という姓の老人。まさか、いや、まさか。
「こ、こちらこそ、娘がお世話に」
上ずった声で頭を下げ、その場を離れた。だが席には戻れなかった。急激な吐き気に襲われ、正人は化粧室へ駆け込んだ。個室の鍵を閉め、壁に手をつく。心臓が耳の奥で鳴っていた。まさか、まさか、まさか。あの方が、うちを救ってくださったあの投資会社の。正人は半狂乱で顔を拭い、おぼつかない足取りで化粧室を出た。
その背中を見送った村田が、義雄の耳元で静かに囁いた。
「よしおさん、今の方、篠原不動産の社長です。例の八十二億の。まさか、ここでお会いするとは」
義雄の湯呑みが口元でわずかに止まった。
「ほう。新郎の家があの会社だったか。縁とは不思議なもんだな。わしが繋いだ縁だったか」
驚きも喜びも声には乗らなかった。義雄は湯呑みを傾け、ぬるくなった番茶をゆっくりと飲み干した。ふみ子、この縁が本物かどうか、今日という日が教えてくれるだろう。
一方、その頃、のり子は招待客のテーブルを回りながら、上手く気取られない程度の声で挨拶を続けていた。
「新郎側はね、ちょっと田舎の農家の方で。ほら、あちらの優斗君も親がいないでしょ。うちの舞が苦労しなければいいんだけど」
声を潜めたつもりの悪口が、高砂に近い親族テーブルまでかすかに届いていた。義雄の表情がわずかに曇ったが、何も言わず感情を押し込めた。高砂の優斗には、その声は届いていない。新郎の目に映る義母は、今日も招待客に愛想よく頭を下げて回る、自慢のお母さんのままだった。誰も気づかないまま、事態は静かに動き始めていた。
披露宴は後半に入っていた。のり子は上機嫌で、新郎側のテーブルへもご挨拶に回り始めた。その足が、義雄の席の前で止まる。
「あら、お父様。お料理、お口に合ってますかしら?フレンチなんて、慣れていらっしゃらないでしょう。お野菜を作る側から食べる側になったご感想はいかが?」
周囲の客には和やかな冗談に聞こえる。言われた側にだけ、深く刺さる。のり子が長年磨き上げてきた毒の話法だった。
「どれにしても、まあ、そのスーツ、随分年期が入ってらっしゃるのね。長野ではそれが正装なのかしら。こちらの式場、一応格式があるものですから」
義雄は静かに頭を下げた。声を荒げることも、顔色を変えることもない。その泰然とした姿が、のり子には言い返せない田舎者にしか見えなかった。隣の席で、村田が湯呑みを静かに置いた。テーブルの下で村田の拳が硬く握られる。だが、義雄が目だけで制した。いいと。
そして、スピーチの時間が来た。のり子は事前に司会者へ圧力をかけていた。新郎祖父の話は短く切り上げさせてと。
「それでは、新郎のおじい様よりお言葉を頂戴いたします。お時間の都合上、誠に恐れ入りますが、お手短にお願いいたします」
会場がわずかにざわついた。祖父のスピーチに「手短に」と注文をつける式など、聞いたことがない。そして義雄が席を立った、その瞬間だった。新郎側の親族席から、ぷっと吹き出す音がした。
「ちょっと、あれが新郎のおじい様?嘘でしょ?聞いてた通りだな。本物の農家って感じだ」
「あのスーツ、いつの時代よ。それ、舐めてるじゃない」
くすくすとささやきと笑いが、波のように新郎側の席を伝っていく。新郎側はちょっとねえ。のり子が披露宴の間中、様々なテーブルに撒いて歩いた前評判が、見事に当たっていた。
「ね、言った通りでしょ。ああ、おかしい。どんなありがたいお話が聞けるのかしらね」
高砂では、舞がナプキンを口元に当て、笑いを噛み殺していた。まさか、舞が笑った?いや、違う。きっと別のことで。優斗はテーブルの下で拳を握りしめた。式の最中の新郎にできることなど、何もなかった。
義雄はマイクの前で足を止めた。忍び笑いの残る会場を、ゆっくりと端から端まで見渡し、やがて視線が高砂の優斗で止まった。
「優斗、ふみ子も、静香も、太志も、今日のお前を見ている。幸せになりなさい」
深く、深く一礼をし、老人はそれ以上何も語らなかった。会場から音が消えた。笑い声が、ささやきが、グラスの音までもが、ぴたりと止んだ。亡き妻、亡き娘夫婦。三人の名前の重さを、たった一分に込めて、老人は静かに席へ戻っていく。年配の招待客が、そっとハンカチを目元に当てた。先ほど吹き出した親族の女は、バツが悪そうにグラスへ手を伸ばし、視線を泳がせた。
その時だった。化粧室から出てきた青い顔の正人が、のり子の元へ歩み寄った。
「のり子、舞、いいか、よく聞きなさい。あちらのおじい様に、これ以上の無礼は一切許さん。陰口も、笑うのも、今すぐやめろ」
「は?何よあなた?急に顔色も悪いし、変よ」
「いいから頼む。理由は後で話す。今日はもう、何もするな。何もだ」
「お父さんてば、大げさ」
その瞬間、正人の胸ポケットでスマートフォンが震えた。画面に浮かんだのは、メインバンクの急遽の担当役員の名前。嫌な予感が、正人の背筋を駆け上がる。運命の歯車は、もう回り始めていた。
霧島グループ本社、広報リスク管理室。そこでは名誉会長・霧島義雄に関わる情報が二十四時間監視されていた。数年前、義雄の隠し撮り写真が出回りかけた事件以来の体制だった。モニターの前のオペレーターが声を上げた。
「緊急。名誉会長と思われる人物の写真付き投稿、拡散中。投稿者のアカウント名義、篠原舞」
報告は顧問弁護士へ、そして式場の村田へと最短経路で駆け上がった。披露宴会場、村田のスマートフォンが震えた。廊下の柱の影で通話を終えた村田の顔から、和やかさが消えていた。村田は席へ戻ると、義雄の耳元に静かに告げた。
「よしおさん、SNSです。花嫁が、花嫁本人が、式前にあなたの写真を投稿していた。『ご祝儀が笑えるくらい少なくて超衝撃。価格って大事』などと。もう、グループ上に広まっています」
義雄は正面を向いたまま、番茶を一口飲んだ。投稿の文面が、静かに胸へ落ちていく。優斗が選んだ花嫁が、あの袋を笑ったのか。ふみ子が残したあの袋を、世間に晒されていた。義雄はゆっくりと目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、今日一日の光景だった。密やかな声で刺してきた嫌み。立っただけで笑われたあのスピーチ。そして、八十二億で繋いだあの縁。縁は良い方向へ巡るものだ。しかし、その結果がこれか。
ふみ子、すまんな。お前の袋を笑わせてしまった。
義雄は目を開けた。そして、静かに告げた。
「村田、篠原不動産への融資、全額引き上げてくれ」
静かな声だった。だが、村田にはその一言の重さが骨の髄まで伝わった。
「承知しました。規約に基づき、正式に進めます」
村田は席を立ち、廊下で電話を入れた。
「私だ。篠原不動産の件。契約に定めた信頼関係喪失事由の発生を確認した。顧問弁護士と協議の上、明朝一番で手続きに入れ。名誉会長のご決断だ」
その少し後、義雄の席に、一人の若い女性がおずおずと近づいてきた。受付を務めていた、舞の友人だった。
「あの、霧島様。これをお返しします」
両手で差し出されたのは、あの祝儀袋だった。
「控室で、新郎のお母様が皆さんの前で、この袋を勝手に開けて笑ったんです。中身が少ないって。優斗さんのことも、『親もいない、田舎の年寄りに育てられた子だ』って。私、その場で何も言えなくて、ごめんなさい。本当にごめんなさい」
震えながら頭を下げる友人に、義雄は静かに言った。
「あなたが謝ることじゃない。よく話してくださった。あなたのような友人を持てたことだけは、舞さんの幸運でしたな」
友人は涙を拭い、深く一礼して下がっていった。
その頃、会場の隅で、正人は震える指でメインバンクからのメッセージを開いていた。
「篠原社長、妙な話を耳にしました。霧島グループ筋が、御社との取引を見直すとか」
霧島グループが取引の見直し。なぜ、なぜ今日のこの瞬間に。化粧室で振り払ったはずの「まさか」が、最悪の形で確信に変わっていく。
「のり子、舞。お前たち、今日、何かしたか?」
「え、私は何も?」
「あ、私、ちょっとだけおじいちゃんのこと、SNSでネタにしたかも」
「見せなさい」
差し出されたSNSの画面には、義雄の後ろ姿。「ご祝儀が笑えるくらい少なくて超衝撃。価格って大事」とコメントがあった。正人の目の前が暗くなった。
「舞、お前は、お前は何てことを」
「な、何よ。ただのSNSじゃない。事実だし」
「いいか。あちらのおじい様は、霧島様だ。霧島グループの名誉会長。うちが潰れかけた時、八十二億で救ってくださったのは、霧島グループなんだぞ。それがもし、あのお方の力だったとしたら、舞、のり子、お前たちはこの家の命の恩人を、世界中に晒して笑ったんだ」
「は?」
のり子の顔から、笑みが消えた。震える手でスマートフォンを取り出し、検索する。霧島グループ、全国展開の食品・農業コングロマリット、総資産二千億。創業者は一切の情報は出てこない。しかし、娘の投稿画面には、見る見る拡散の数字が増えていった。
「嘘」
ガシャン。のり子の手からシャンパングラスが滑り落ちた。舞はスマートフォンを握ったまま、凍りついていた。振り返った参列者たちのざわめきの向こうで、白髪の老人が湯呑みを置き、静かに立ち上がった。会場が静まり返り、全員の視線は、ゆっくりと歩く一人の老人に注がれていた。くたびれた紺のスーツ、磨かれた革靴の足音だけが会場に響く。義雄は出口ではなく、高砂へ向かっていた。
「優斗、少し話がしたい」
「は、はい。じいちゃん」
その時、のり子がドレスの裾を乱しながら駆け寄り、義雄の前で深く頭を垂れた。
「き、霧島様、本日は大変なご無礼を。どうか、どうかお許しください」
義雄はのり子を静かに見下ろした。
「あなたは今日、控室で預かった祝儀袋を勝手に開けて、笑われたそうですね。それと、こう仰ったそうだ。『優斗は親もいない、田舎の年寄りに育てられた子だ』と」
「あ、そ、それは」
「この子の母親は、私の娘です。結婚して、幸せな家庭を築こうとしていた。だが、優斗が五歳の時、事故で亡くなった。娘も、その日に。育てたのは、私と妻です。娘と娘婿の分まで、二人で。それを、あなたは笑った」
「わ、私は、本当に何も知らなくて。知らなかった」
義雄は静かに繰り返した。
「顔合わせを断り、預かった祝儀袋を勝手に開いて中身を笑い、親族の前で孫の育ちを辱め、年寄りのスピーチに『お手短に』と注文をつけた。相手が何者か知っていれば、なさらなかったのでしょう。つまり、あなたは相手次第で振る舞いを変える方だ。数年前、潰れかけたある会社を、私は八十二億で救いました。篠原不動産、あなたのご主人の会社です。縁を信じて繋いだつもりでした。ですが――人を金額で測る家に、繋ぐ縁はもうありません」
その瞬間、会場がどよめいた。八十二億。潰れかけた篠原不動産を救った。じいちゃんが、八十二億。そんな話、初めて知った。少額の電話で「そうか」としか言わなかった祖父。豪邸も建てず、古い農家で土を耕してきた祖父。その本当の姿が、今初めて見えた。
その時、優斗のポケットでスマートフォンが震えた。同僚からのメッセージだった。
「優斗、大丈夫か?これ、お前の式のことじゃないのか?」
添えられたリンクの先にあったのは、見慣れた舞のアカウントだった。優斗の視界が白く揺れた。
「あ、何だこれ?まさか、舞。これ、お前が」
その時、舞がふらりと進み出た。
「ゆ、優斗さん、違うの!私は、お母さんとは」
優斗は舞に向き直った。そして、静かに言った。
「舞、この投稿、お前のアカウントだよな。今すぐ消してくれ」
「え、な、なんで?」
「なんでって、だって、こんな単なる冗談でしょ?」
「冗談?」
その瞬間、会場の空気が凍った。舞自身が、口を滑らせたという顔をした。だが、出た言葉は戻らない。優斗はゆっくりと息を吐いた。
「ありがとう。やっと、本当のお前が見れた。ずっと、小さな引っかかりはあったんだ。じいちゃんの話をすると、お前がすっと話題を変えること。顔合わせが、いつの間にか流れ続けたこと。でも、信じることにした。お前の家族のあの食卓があんまり温かくて、俺は家族が欲しかったから」
「優斗さん」
「でもな、舞。俺は、じいちゃんを笑った人と一緒には生きられない」
「え」
優斗は義雄の隣に立った。舞は純白のドレスのまま、青ざめて立ち尽くした。義雄は最後にのり子へ静かに告げた。
「恩を仇で返すような方々に、優斗を預けることはできません。失礼します」
深く丁寧に頭を下げ、そのまま振り向かなかった。祖父と孫が、肩を並べて歩いていく。
「う、嘘よね。優斗さん。優斗さん!」
続いて義雄の背中に向かって、のり子がすがった。
「ま、待ってください。どうか、どうかお許しを」
その声も虚しく、二人の背中は最後まで振り向くことはなかった。
式の翌朝、篠原正人のスマートフォンは朝から鳴りやまなかった。
「ええ、いえ、その件はまだ何も。もしもし。おお、待ってくれ」
「申し訳ありません。篠原さん。うちも霧島グループさんと取引がありますので、お察しください」
通話は一方的に切れた。取引先、銀行、業界仲間。番号は違っても内容はどれも同じだった。午前九時、霧島グループ顧問弁護士事務所から内容証明が届いた。
「融資契約に定める信頼関係喪失事由の発生に伴い、期限の利益喪失情報に基づき、融資残高八十二億三千万円について、所定の手続きの上、全額の返済を請求いたします」
契約書に確かにあった条項だった。救済の際、唯一付けられた条件。「当社グループとの信頼関係を著しく損なう行為があった場合」。娘の投稿が、そして妻の振る舞いが、まさにそれだった。正人はその足で、各方面の金融機関をかけ回った。
「頼む。三十年の付き合いじゃないか」
「篠原社長、お気持ちは十分に分かりますが。霧島グループさんが手を引かれた案件となりますと、うちの身一つでは。どうか、そこを」
深々と下げられた頭が、全ての答えだった。霧島グループが手を引いた会社。その一言で、街中の扉が閉ざされた。商社にも業界にも、噂が流れていた。篠原不動産は潰れかけたところを霧島に救われたらしい。その恩人を、社長の娘が結婚式で世間に晒し、妻が笑い物にしたそうだ。恩を仇で返した一家。信用とは金で買えないものだと、正人は六十歳にして思い知った。
三週間後、篠原不動産は主力のビル開発事業から撤退した。取締役の席で、正人は静かに立ち上がった。
「この度の件、全ての責任は私にあります。本日付けで辞任いたします」
役員たちは、誰一人顔を上げなかった。引き止める声もなかった。その夜、篠原家のリビング。
「あなた、これからどうなるの?会社は?家は?ねえ、何か言ってよ。黙ってないで」
「何を言えと言うんだ。お前たちが笑ったのは、ご祝儀じゃない。この家を生かしてくださった方の、真心だ。もう、何もかも遅い」
正人は妻を見なかった。のり子は、言い返す言葉を持っていなかった。炎上の中心にいたのは、舞だった。投稿は削除した。だが、遅かった。スクリーンショットは、「自分の結婚式で新郎の祖父を侮辱した花嫁」として、拡散され続けた。アカウントを消しても、式場と日付から実家が特定された。のり子もまた、無関係ではいられなかった。投稿にあった「ママと爆笑しちゃった」の一文に加え、控え室での「ご祝儀が少ない」という一部始終を合わせた書き込みで、親子は並んで晒されることになった。ある夜、のり子は荷物をまとめながら、ふと手を止めた。行き先は、何十年も帰っていなかった田舎の実家だった。
「帰る場所があそこしかないなんてね。私、ずっと逃げてきたんだ。田舎から、貧乏から、昔の自分から。価格、金額、肩書き。それで人を測り続けたのは、測られることが何より怖かったからだ」
笑ってきたはずの田舎に、のり子は帰っていく。
二ヶ月後、篠原夫妻は離婚届を提出した。そして舞は。父は辞任し、両親は離婚した。帰る実家は失われ、「篠原不動産の娘」という看板が消えた途端、周りにいた友人たちも潮が引くように消えた。ある夜、舞は思い立って、あの友人に電話をかけた。
「もしもし。久しぶり。あの、今度、ご飯でも」
「ごめん、舞。最近ちょっと忙しくて。また誘うね」
ぷつりと切れた。その日が、二度と来ないことぐらい、舞にも分かった。最後に連絡をくれたのは、あの受付係りの友人だった。
「舞、霧島のおじい様に、ちゃんと謝った方がいいよ。あなたのために言ってる」
舞は既読のまま、返信しなかった。できなかった。小さなアパートの夜、舞はスマートフォンで優斗のSNSを眺めていた。更新は止まったままだった。
あの食卓も、笑い声も、全部私が演出だと思ってたものを、あの人は本気で信じてたんだ。条件で選んだのは私の方だったのに。本物の家族を持ってたのは、あの人の方だった。今の舞に、団欒を演出してくれる家族はもういない。舞は画面を閉じ、求人サイトを開いた。明日のアルバイトを探す。いつもの夜が始まる。
結婚式から数日後、優斗は義雄の家で食卓を囲んでいた。
「じいちゃん、ごめん。本当は、少しだけ引っかかってたんだ。なのに、考えないようにしてた。家族ってものが欲しくて」
「優斗、五つで親をなくした子が、温かい家庭に焦がれて、何が悪い?最後は自分の目で見て、自分の意思で選んだ。じいちゃんには、それで十分だ」
優斗の喉が詰まった。
「じいちゃんがあんな大きな会社の人だったなんて、俺、何も知らなかった」
「黙っててすまなかったな。肩書きに寄ってくる人間を、山ほど見てきた。お前にだけは、ただのじいちゃんでいたかったんだ」
そして義雄は、胸の内ポケットから、あの祝儀袋を取り出した。
「あの時、これを笑われたらしい。これは、わしとふみ子が結婚した日、二人の財布と貯金箱にあった全部と同じ額だ。ふみ子が決めたんだ。『お金はいくらでも出せるけど、それじゃああの子のためにならない』とな。裏を見てみろ」
優斗は袋を受け取り、裏返した。柔らかな筆跡がそこにあった。
「二人の始まりの分だけ。あとは自分たちの手で築きなさい。ふみ子」
「ばあちゃん」
涙が袋の上に落ちた。あの親子が「少ない」と笑ったもの。それは金額ではなく、祖父母の人生の原点と、生前に行った祖母の最後の祝福だった。
「お金なら、いくらでも包めた。しかしな、これはわしとふみ子が一番幸せだった時の気持ちがこもっておる。金額しか見えん人間には、一生分からん価値だ。お前には、分かるな」
「うん。うん」
青空の下、義雄は泣きじゃくる孫の肩に、長年土を耕してきた節くれだった手をそっと置いた。
それから三ヶ月。山の稜線に雪が積もり、長野の田んぼは白く覆われていた。義雄は縁側で湯気の立つ番茶を口にしていた。仏壇にあるふみ子の写真に、優しく語りかけた。
「ふみ子、優斗がまた来るそうだ。職場に、いい人がいるらしい」
家の前に、聞き慣れた車の音が止まった。
「じいちゃん、ただいま。やっぱりこっちは寒いね」
「そうか。お前が来ると、あったかくなるがな」
「俺、暖房器具みたいじゃん」
屈託のない笑い声に、義雄の口元も緩んだ。二人は縁側に並び、白い田んぼを眺めた。心地よい沈黙が流れる。
「あのさ、じいちゃん、一つだけ聞いてもいい?あの日、最初から分かってたの?あの人たちのこと」
義雄は少し考えるように空を見上げた。
「さあな。恩はな、恩を与えてくれた人間の前以外の場所で、本物かどうかが分かる。それが今回、証明された。それだけだ。だがな、良かったと思っておる」
「え?」
「お前は自分で気づいて、自分で見て、選んだんだからな。それでいい」
「じいちゃん、俺、もっとじいちゃんみたいになれるよ。頑張るよ」
「ああ。お前なら、できる」
優斗の胸が熱くなる。縁側に冬の風が吹き込み、番茶の湯気がふわりと揺れた。
それから二年後。優斗は職場で出会った女性と結婚した。派手な式ではなかった。田舎の古い神社で、親しい人たちだけに見守られた、温かな式だった。村田も、じいちゃんの古い友人として最前列の祖父の隣に座っていた。義雄はあの日と同じ紺のスーツを着ていた。胸ポケットには、いつもの二枚の写真。式の後、新郎の神主が義雄の前に進み出て、深々と頭を下げた。
「おじい様。優斗さんから、ご祝儀のお話を伺いました。私たちも、そこから始めさせていただきます。あとは、自分たちの手で築きますから」
義雄は目を見開いた。そして、皺だらけの目元をそっと緩めた。ふみ子、聞いたか?胸ポケットにそっと手を当てる。社殿に柔らかな冬の日差しが差し込んだ。式を終えた優斗が寄り添ってくる。
「じいちゃん、ありがとう」
穏やかで充ち足りた顔だった。きっと、ふみ子も見たかった顔だろう。
「幸せになれよ」
冬晴れの空が、どこまでも青く広がっていた。
